やってしまった。自分が信じられない。心配して来てくれた二人にあんな酷いことを……。
鷹宮リオンは机に突っ伏し頭を抱えたまま、上目遣いで画面を睨んだ。
あのコメント……。鷹宮はコメントを遡って例のコメントを探そうとしたが、その手を止めてがっくしと肩を落とす。
違う。コメントはただのきっかけだ。でも……。でも、あのコメントが目に入ったときの安心感、それについてはあんまり考えたくなかった。自分の胸の奥がざわざわとしてすごく不安になってくる。そうだ、今はやめよう。あとでちゃんと考えよう……。
ひとまずは強引に気持ちの整理を付けようとしていた鷹宮だったが、鷹宮の心情を無視するかのように大量のメッセージ通知が鳴り、次には通話の音が鳴り響いた。
鷹宮は舌打ちをなんとか堪えると、無言で通話を受けた。
「あー、もしも~し、繋がってますかぁ~?」
通話口から聞こえてきたのは鼻をつくような甘ったるい萌え声だった。鷹宮は今度こそ舌打ちした。すると相手はうっきうきで囃し立て始めた。
「うわっ、舌打ち聞こえた~。舌打ちいけないんだ~! 配信者っていうのはぁ、みんなを元気にしてなんぼなんだから、笑ってないと、めっ! なんだよぉ~」
「……誰だよお前。名を名乗りな」
「え、私ぃ? 私の名前ぇ? んふふぅ~そんなに知りたい~?」
「切るわ」
「あっ、ちょっと待って! 言う言う! 言うから切らないで!」
少し慌てた様子の通話相手に多少は怒りも収まり、鷹宮は相手の言葉を待つ。通話相手は言った。
「私ぃ、でびっちっていうんだよ~」
「でびっちぃ?」
「うんうん。でびっち。かわいいでしょ~? ここの視聴者さんたちも覚えていってくださいにぇ~」
そうしてでびっちは鷹宮を無視し、鷹宮リオンの視聴者たちに愛想を振りまき始めた。
なんだこいつは……。鷹宮が呆れていると、でびっちは話の矛先を再び鷹宮に向けて言う。
「いや、それにしてもさぁ、でびっちずーっと見てたんだけどさぁ、気づいちゃったことがあるんだよねえ……」
そこででびっちは含み笑いを溢しながらも、それまでとは一転して、大きな声で言った。
「オマエって、ほーーーんとっ、バカだねえ!」
―――
「なっ、なっ、なぁ……! なんですかあなた! 初対面ですよね⁉」
「え、でもでもこれってぇ、凸待ちですよねぇ~?」
「それがなんですか」
「凸待ちっていうのは、要するにぃ、喧嘩凸ってことでしょぉ~?」
「違いますけど⁉」
「あっそー、つまり何の覚悟もなく凸待ちなんてやっちゃったんだ~。配信初心者さんなのかなぁ? えっ、かわいそ~」
鷹宮は怒りを抑え、なんとか言葉でもって会話を続けようとする。
「この凸待ちはですね、私がファンと交流したいと思って始めたもので……」
「えっ、ファン~? 来たの~? ファン」
「ぐぬぬ……⁉ そ、それは……」
「来てないよね~、ファン! ぷぷ~、ウケるんですけど~! ファンなんてくるわけないじゃん! だいたいここの視聴者ってっさぁ、たぶんだけどぉ、面白ければ何だっていいって人たちでしょ~? 別に面白ければぁ、リオンちゃん? である必要なんかないし、面白ければぁ、リオンちゃん? なんかどうなってもいいって人たちなんだから! ほら、コメント見てみなよ~」
鷹宮はコメントをちらりと見て、すぐに目を逸らした。でびっちの言うとおりだった。
「あ、でびっちのチャンネルも登録お願いしまーす……って言うと、ほら、でびっちの登録者数もちょっとずつ増えてきた。みんなありがとね~」
「わかんない……なんでそんなことするの? 帰ってよ、もう……」
鷹宮のお願いに、でびっちはチャンスとばかりに上機嫌で言った。
「え、帰って? それお願いしてるの⁉ あ、じゃリオンちゃんの負けね~。みんなぁ~負けた人の登録なんて外しちゃっていいからね~。こんなバカな小娘よりも大人な魅力たっぷりなぁ、でびっちのチャンネルを登録してね~」
その言葉に鷹宮は愕然とし、次第に恐怖する。やめて、やめてよ……。
まさかとは思ったが、恐る恐る登録者数を確認してみると、今まさに、登録者数がものすごい勢いで減っていくところだった。
「なんで……? なんでなんでなんで……意味わかんない。なんでこうなるの……」
「ふふふっ♪ ばかばか。オマエ、ほんっとうのばかなんだ♪ だからさ、あの二人の言うとおりあそこで止めとけばよかったのにー。あそこで配信が終わってたら、今みたいにこんなにいいこなでびっちとぉ、お話しする必要なんてなかったのににぇー。ほんとう、バカって面白いんだぁ」
頭を抱えて泣き出す鷹宮をでびっちはけらけらと嘲笑う。でびっちは調子に乗って鷹宮を罵倒し続けるが、鷹宮は言葉を返すことができなかった。でびっちは呆れて言った。
「ねえねえ、会話のキャッチボールもできないの~? 本当に配信者さん? 向いてないんじゃないの~? でびっちここにいてもつまんないんだけどぉ。はぁーあ、もう帰っちゃおっかなあ~。ここにいるみんなー、このあとでびっちのチャンネルで、もっと過激なことやりま~す。こんな雑魚小娘なんかよりも強くて儚くて、ちょっぴりセクシーなでびっちの頑張る姿を見に来てねー。じゃ、おつでび~っち……」
「待て」
閉めの挨拶をして通話から去ろうとするでびっちを鷹宮の低い声が呼び止めた。
「ん~? なぁにぃ? でびっちこの後大事な予定があるんだけどなぁ」
煩わしそうに言うでびっちだったが、鷹宮が何を言ってくるか好奇心もあったのだろう、でびっちは続けて言った。
「でもでもぉ、でびっち優しいからまだいてあげる。言いたいことがあるなら今のうちに言ったらぁ~?」
「……声ブス」
「………………あ、あぇ~? なんか、よく聞こえなかったっていうか……聞き間違いかなぁ。もう一回言ってみてくれる?」
促され、今度はもっと怒りを込めて、鷹宮は叫んだ。
「声ブスって言ってんだよ! 声ブス声ブス!」
そして、今度は鷹宮がでびっちを嘲笑った。ショックで何も言えなくなったでびっちを置いて、鷹宮の復讐は続く。
「みんな聞いて! このでびっちって奴声作ってる! え、まさかこんな作り声に騙される奴なんているぅ? いねーよなぁ!」
「だっ……おまっ、ぶっ殺すぞっ!」
「うわ地声だ! やっぱり声作ってた! 作られた萌え声だ!」
「こ、このクソガキ……ち、ちがいますぅ~。みんな聞いて! でびっちは声作ってなんかないよぉ~?」
「でびっちはぁ~、声作ってなんかないよォ~とかほざいててウケるー」
「ぐぅ……み、みんなぁ~ここの人性格悪くないですかぁ~? なんかこの人、でびっちの生まれ持ったカワイイ声をすっごい馬鹿にしてくるんですけどぉ~」
「え、じゃあ私も今日からんっ、んんっ」
鷹宮はわざとらしく咳払いをすると、でびっちよりも数段誇張された猫なで声を出して言う。
「……こんなにカワイイ声をぉ、生まれ持っちゃおっかにゃぁ……どーぅ? みんなぁ。ぽわぽわぽわぁっ」
「う、うぅ……ううぅ……スン……スン……」
「うわっ、泣き真似とか……あっ、じゃあ勝負は私の勝ちってことでいいってことぉ~?」
「うう……なんでそんな、酷いこと言うのぉ……」
「はぁ?」
「でびっちはぁ、ただ、ちょびっと遊んでもらいたかっただけなのに……ちょっとじゃれついただけで、そこまで言うなんてぇ、酷いよぉ、うぅ、うわぁあぁあぁあん……!」
とうとう泣き出してしまったでびっち。最初は嘘泣きだと馬鹿にしていた鷹宮だったが、次第に本当に泣いているように聞こえてしまい、困惑し始める。でびっちは泣きながら言った。
「もう、もう帰る……ここの人たちも、リオンちゃんも、荒らしちゃって、ごめんなさいいぃい……たぶん、この後の配信は頑張ってするから……うっ、うぅう……よかったら、リオンちゃんの枠が終わったら見に来てください……スン」
何だこれは。なんとなく、本当は泣いてない気がする……でも、何か虐めてるみたいな空気感が出始めていて鷹宮にはそれが息苦しかった。
このいじめの様な空気感はコメント欄にも伝わっていて、視聴者たちはでびっちを応援し、鷹宮を責め始めていた。
これはまずいかも……コメント欄を横目に鷹宮は思案する。でびっちはもう帰ろうとしているが、引き止めるべきだろうか。このまま返したら、とんでもないことになってしまう気がする。
そうこうしている間にも、でびっちは最後に挨拶して通話から消えようとしていた。
「本当に、ごめんなさいでした……じゃ、じゃあ、おつでびっち。うう、ううっ……くすっ」
「え」
通話からでびっちがいなくなり、無音の中に鷹宮は取り残される。
アイツ、最後笑わなかった……? いや、泣き声かもしれないし、本当のところはわからない。
けれど、この空気感……いったいどうしろっていうの……。
コメント欄ではでびっちをいじめた鷹宮に対して、視聴者たちの怒りが燃え上がっていた。
鷹宮は立ち上がると、後ずさり、胸を抑えて呼吸を荒くする。追い詰められながら、困惑しながら、頭の一部では考え続けていた。
どうしてみんな今まで見ててくれていたの? 元々自分のことが憎かったんじゃないの?
そう考えたくなるくらい、みんな好き放題言っていた。単に悪者を成敗するような攻撃のコメントだけではない、親が子どもを諭すように、でびっちに謝るよう促すコメントにも鷹宮は傷ついていた。
元々私が好きだったけど、私が嫌な奴だったのを知ってショックを受けたとか……?
いや、いや、今はそんなこと考えてる場合じゃない。どうするか決めて、それで、とにかく、何か言わないと……。
鷹宮は立った状態でマイクに口許を近づけて言う。
「違うの……」
何が違うっていうの……? 自分の口をついて出た言葉に鷹宮自身が困惑した。
「違うんです……」
だから何が? 嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ……。鷹宮の口は鷹宮の意志に反して言った。
「わ、私は悪くなんかない……!」
ああ、マズい。止めないと……。
「だってそうでしょ⁉ あのでびっちって奴が最初に仕掛けてきたんじゃない! 悪いのは全部アイツ! 私の視聴者も、登録者も、アイツのせいで減ったのに! どうして私が、ここまで言われなきゃなんないのっ……!」
鷹宮は、自分が声を張り上げていたことにたった今気づいたかのように口をそっと閉ざした。大きく動いてそのまま固まっていた表情もゆっくりと虚無に戻っていく。鷹宮の目からは涙が零れていた。
鷹宮は椅子に座る。コメント欄を見ると、案の定、大荒れしていた。火に油を注いだだけだった。
項垂れる鷹宮の耳に通話の呼び出し音が鳴り響く。鷹宮は身じろぎもせずに呼び出し音をしばらく聞き流していた。しかし、ピッ、とあっけない音が鳴った。
え?
鷹宮は思わず画面を凝視した。確かに通話が繋がっていた。
ちょっと……何もしてないのに。鷹宮はすぐに通話を切ろうとするが、終了ボタンを押しても通話は切れなかった。鷹宮は茫然と画面を見つめて嘆く。もう、なにがなんだかわからない……。
イヤホンから声のようなものが聞こえてきた。音が小さかったが、男女で会話をしているらしい。音量が少しずつ大きくなっていき、男女の会話がはっきりと聞こえるようになっていく。
「いちから~。早くこっち来てよ~」
「ミケ、あまり急かすな。急がなくても、このマスク・ド・いちからはお前のものだよ」
「でも、我慢できなぁい、早くぎゅってしてぇ~。そのマスクもさぁ、私にだけは素顔見せてよぉ」
「それは無理だ。殺すぞ」
「じゃあ被ったままでもいいから早くぅ~」
……え、あれ? これ、私? 声が甘ったるすぎて全然気づかなかった。さっきでびっちをからかうために出した猫撫で声とは違い、こちらは妙に艶めかしさが強調されていて、先ほどとは別方向の恥ずかしさがあった。
……一体なに、これ? ミケ? 相手のこの、いちからとかいう妙にイケボな男、誰? っていうかこれ、このままいくと……。
鷹宮は通話相手をミュートにしようとするが、自分の声しかミュートの対象に選べなかった。当然のように通話を切るボタンも反応しない。
「これ、どうすればいいの? ねぇこれどうすればいいの……⁉」
鷹宮が混乱に陥っている間にも、二人の会話は次のステージへと突入していた。
「んふふー、いちからっ、おいで~」
「よぅし、今行くぞ! とぅ!」
いちからが飛び込んだのだろう。ベッドの軋む音がした……ベッド……ベッド⁉ 鷹宮の額から冷や汗が流れる。
「うわぁ、いちからキター! え、すごぉーい、筋肉すごーい!」
「ははっ、農業……じゃない、トレーニングで鍛えられてるからな。さあ、こちらへおいで、子猫ちゃん。この胸の中へ、さあ」
「行く行く~。ん~! いちからのここが一番温かくて落ち着くんだよね~」
「ああ、俺もお前に抱きしめられると……そう、心がぽかぽかするんだ。お前が俺の一番、お前こそ優勝だ! マイリトルハニー……」
何だこの地獄は。キツ過ぎるにもほどがある。やばい、気持ち悪い。吐き気がする……。コメント欄は……炎上してる。彼氏バレ、源氏名バレ……なんだこれ、全然意味わかんない。ついていけない。
「違うの、これ、私じゃなくて……」
声を上げはしたものの、もう無理だとわかってしまい、声は消え入ってしまう。この音声は鷹宮には止められない。これ以上続くと人としての尊厳まで奪われてしまう。視聴者たちはきっと、それが見たいのだろう。それを見て、鷹宮を喜々として責め立てる……そうだ、そうに違いない。鷹宮は項垂れ、力なく椅子に腰かけた。
もう、切ろう……。もう続けられない。それでもう……二度と配信なんかしない。
鷹宮リオンは配信を切った。
―――
配信を切るとバカげた音声は止まった。部屋が静寂に満たされても、鷹宮の気持ちは少しも軽くならなかった。重い憂鬱が鷹宮の背にのしかかり、その背は椅子の上で小さく丸まっている。
「なんで?」
なんでこうなったの? 私が何かした?
鷹宮はしばし押し黙った後、両手で自分の顔を覆い、歯をきつく噛みしめた状態でくぐもった悲鳴を上げた。
そして、涙を流した目をキッと開いて立ち上がると、デスクの上のキーボードをモニターに投げつけ、空いたデスクの面に腕を叩きつける。
「ああああああああああっ‼」
奇声を上げて、腕を何度も叩きつけるが、声は次第に静かな泣き声となり、鷹宮は頭を抱え込んでデスクに突っ伏した。
「荒れてるね」
加工された低い声が鷹宮に呼び掛ける。鷹宮が顔を上げると、ひびの入ったモニターが淡い光を発していた。画面は先ほどの通話の相手が表示されたまま、まだ通話は切れていなかったのだ。
「お、お前ぇ……!」
鷹宮は涙を拭って相手のアイコンを睨みつけた。
「どーも。プレゼントは気に入ってくれた?」
「ふざけんな! 私はあんなことしてない……! いちからって奴も知らない……!」
「だろうね。あれは俺がテキトーに作った音声データだから。ちょっと悪ノリしすぎちゃったところはあったかもしれないね。謝るよ」
加工されていてもわかる、淡々とした声は全く悪びれていない。鷹宮は開いた口が塞がらず、その表情はゆっくりと怒りに歪められていく。
「ねえ、これどうしてくれるの……私、もう、これ……」
「へえ、配信やめちゃうの?」
鷹宮は舌打ちする。相手は呆れたとばかりにため息をついた。
「別に、やめるかどうかは鷹宮さんが決めることでしょ? 俺は関係ない」
「関係ないですって……!」
鷹宮は固く拳を握り締め、デスクを強く打った。
「オマエ、こんなことして許されると思ってんの……⁉ 絶対訴えてやるから! 覚えとけよ!」
脅すように、自分の方が立場が上であることをわからせようとして言ったのだが、相手はそれを鼻で笑った。
「ははっ、そんな負け犬みたいなこと言わなくたって。っていっても、訴える術なんて無いよ。この通話を切ったが最後、やり取りしてた俺の痕跡は完全に抹消される。録音しても無駄だし、アカウントも最初から存在してなかったのと同じ。配信に乗った音声だって、今の技術じゃ分析もままならないんじゃない? 今回は俺一人じゃない、最強のAIがついてるんだ。悪いけど、足跡一つ掴ませる気は無いよ」
相手の圧倒的な自信を前にして、為す術もないことを悟り、鷹宮は呆然とする。
「ああ、そうそう……」
鷹宮が黙っていると、相手は思い出したことがあったように話し出した。
「一応、鷹宮さんのファンの名誉のために言っておきたいんだけど、さっきの配信、ちゃんと鷹宮さんを応援してたファンは一定数いたし、良識のあるコメントもたくさんあった。まあ、俺がどんどんブロックしてったせいで最後の方は少なめだったんだけど……」
は……? こいつ、今なんて……。無言でコメントを遡り始めた鷹宮を察したか、相手は笑って言った。
「……数字狙いだったんでしょ、お疲れ様」
あのコメント……! 鷹宮は拳でデスクを叩きつけて叫んだ。
「お前ぇ‼ お前、お前、お前っ! お前のせいで、私は……私は……」
声を裏返しながら叫んで涙を流す鷹宮を前に、相手はさらに付け加えた。
「他にもコメントたくさん誘導させてもらったよ。だからさ、鷹宮さん、今回の事で自信を失わないでさ、これからも強く生きなよ」
まるで別れの挨拶のような雰囲気を感じ、鷹宮は慌てて声を上げた。
「待ってよ! 待て! 待ってって! ねえ、帰る前に教えて。何でこんなことするの? どうしてお前は……貴方は、私を嫌っているの? 私の、何が駄目だったの……?」
通話相手は少し黙った後で、深いため息をつき、言った。
「逆に聞くけど、今のあんたの何が駄目じゃないと思うわけ? あんた、いったい何がしたいの。ねえ、プレイヤーの鷹宮さん」
通話は切れた。鷹宮はうつむき、立ち尽くす。
プレイヤー……懐かしい単語だった。どーも……どーもね……そっか。
鷹宮は上を向くが、眼の端から涙は零れていく。鷹宮は指で涙をぬぐいながら、ぼそっと呟いた。
「もう少しだけ、話したかったな……」
自分でもわからず、後悔と悲しみが湧いて、鷹宮は咽び泣いた。怒りではない。ただ、アイツにもう二度と会えないということを今、強く実感させられた。鷹宮はあの通話相手の言葉の意味を理解した。アイツともう二度と会えないのは、私のせいだった。なのに私は今、いったい……
「ほんと、なにしてるんだろう、私……」
鷹宮はそっと胸に手を当てる。そこから生気のない暗い色をした卵が現れた。かつては暗い部屋が光でいっぱいになるほどの明るい虹色の卵だった。最初は何が生まれるのかと期待しながら日々を過ごしていたが……きっと、少し忙しくして、かまってあげられないうちに死んでしまったのだろう。
鷹宮はあの世界で初めて卵を見たとき、その美しさに恋い焦がれた。自分に委ねられたときには全てを捨てて卵を自分の物にしたいと思った。でも、同時にそれが自分の運命とは関わりのないものだということも理解していたし、苦渋の決断で相手に返すことができたのだ。鷹宮はその決断をずっと誇りに思っていた。こんな自分でも人に優しくできたのだと。
でも、本当のところは違った、と今では思うのだ。
アイツの優しさに付け込んだ……鷹宮は相手が自分に卵を渡すことを心のどこかでは期待していた。この卵を見ていると、そうとしか思えなかった。
「そうだ……私じゃない……」
鷹宮は卵を見下ろし、ぼそぼそと小さく口を動かす。
「私じゃなかったんだ……もっとふさわしい人がいる……」
それって、誰のこと?
鷹宮の見下ろしていた卵の上に、いつのまにか小さなムカデがちょこんと乗っていた。ムカデは上半身をもたげると、もう一度聞いた。
この卵にふさわしいの、だれ?
鷹宮は暗い表情のまま笑った。この声、月ノ美兎? 私、とうとう頭がおかしくなっちゃたのかな。鷹宮はもう一度笑い、そして思い出す。いつかの月ノ美兎の口ぶり。自分ではなく、卵が目的だった。というか、鷹宮が卵を持って虚空の中に落ちてくるのを知っているようだった。
「そっか……」
鷹宮は理解し、涙をぽろぽろと落としながら言った。
「それが私の役目だったかぁ……」
卵にふさわしいのは?
「卵にふさわしいのは、」
鷹宮は力のない声で言う。
「月ノ美兎」
卵の上のムカデがにやりと笑った気がした。
ぞわりと部屋中が騒めきたつ。これから何かが起こる……その予感だけを受け取り、鷹宮は自然と後ずさっていた。デスクの上に置いてある卵、死んでいるだけの、ただの卵のはずのそれが、強烈な存在感を発し始め、今、鷹宮には恐ろしくて仕方がなかった。
そして、無音のあとで、部屋中の影という影からムカデが這い出し、卵へと殺到する。
あ、と手を伸ばす間もなく、卵はムカデの渦に呑まれていく。
そんな……鷹宮が唾を飲んだ時、懐かしい声が聞こえてきた。
「学習しないね。これが最後だよ」
エンターキーの押される音が部屋に冷たく響く。その瞬間、卵に群がっていたムカデたちが吹き飛ばされ、その体をポリゴンに侵食されてあちこちで体を捩っていた。
だが、第二陣はすぐに迫ってくる。鷹宮は逡巡した後卵を手に取り胸に抱くと、体を反転させて部屋を飛び出した。
鷹宮は扉を勢いよく閉めると、背中を押し付けて扉を押さえにかかる。
静かに待ってみると、一匹だけ足元でキュゥキュゥ(話がちげーだろ! なぁおい! 私がふさわしいって確かに言ったよな? ねえちょっと、話聞いてる? 聞いてんのかって、このクソカスが……)鳴いてるのがいたので、鷹宮はそれを踏み潰し、それでやっと気を楽にした。
「ここは……」
部屋から出た先は、シャンデリアの揺れる洋館の一室だった。雨に濡れたような木の匂いが充満し、壁には西洋の自然の描かれた風景画が懸けられていた。部屋の中央には円形の絨毯が敷かれ、暗緑色の六つの椅子が絨毯を囲うように置いてあった
鷹宮は立ち上がると、扉に錠を掛けて、歩き出す
間違いなかった。ここはあの日、鷹宮リオンの運命が大きく動いた場所。
鷹宮は絨毯の端をつまむと、そっと捲りあげる。ずたずたに破壊された召喚陣があった。あの日、鷹宮がでびるを召喚した……召喚陣はでびるが現れた余波でこうなってしまったのだ……。
生きてる? 血管をわずかな血が通ったかのような、小さな脈を鷹宮は感じていた。
これは聖杯戦争じゃない、もっと、私のためだけの……。
鷹宮は絨毯を引っ張り上げ、召喚陣を完全に露にする。
できる。でびると思しき悪魔の召喚詠唱には調べがついていた。一度も成功したことはなかったが、この召喚陣があればきっと……。
六つの椅子に見守られ、鷹宮は召喚陣の中央に立つと、鋭利に尖った鉱石を作成し、それを強く握り込む。
「
鷹宮の手の中から血がしたたり落ちる。召喚陣の魔力が大きく脈打ったのを感じ、鷹宮は緊張感の中で笑みをたたえた。
そうだ……私が本当に望んでたのはこれだ。
あの時みたいに、
人気の配信者に……。
違う、楽しくしたいだけ。
楽しかったあの頃に戻って、
人気の配信者に……。
違う、またアイツと一緒に遊びたいだけ。
文献によれば、悪魔との契約には代償が伴うという。それが何? と鷹宮は笑う。私にはもはや何も残っていない。アイツと一緒にまた楽しくやれればもうなんだっていい……! 魂だってくれてやるっ! それで、また、みんなが私たちのことを優しく受け入れてくれさえすれば……。
鷹宮が詠唱しようとしたとき、正面の椅子に黒い影が明滅した。
でび……! 鷹宮は確信し、呼び掛ける。
「ねえ、もう一度私のところに来てよ……!」
鷹宮は手のひらの鉱石をより強く握り込み、召喚陣に血を与えると、叫んだ。
「来たれ! 我が見し夢の――」
「うるさーーーーい‼」
鷹宮の詠唱を遮った悪魔の叫びに鷹宮はキョトンとした表情で首を傾げた。
「ばかばか! ばか小娘! お前、ほんっとーに馬鹿!」
「なっ! で、でびっちぃ⁉」
「はぁ? 僕をあんな萌声生主と一緒にするんじゃねーよ! 全然違う!」
「はぁぁぁ⁉ ほぼ一緒だろ!」
「うるさい! こんな茶番続けてるばか小娘のくせに! 僕がいないと何もできないくせに!」
「言い過ぎだろ! 私は、だって……色々頑張ったのに……」
急に気を落とし、うつむいてしまう鷹宮を見て悪魔は呆れたように言った。
「いいよ、もう。小娘、詳しい話はあとだ。今はこの茶番を終わらせよう」
「え、でも、終わらせるって、どうやって……」
「そんなの、こうするだけだよ!」
そう言って悪魔は腕を振るった。
なんだ? 今、でびはいったい何を……? 椅子の上のでびをまじまじと見ていた鷹宮だったが、突然世界が大きく傾いた。
「ちょっ、なに⁉」
鷹宮の体は妙な浮遊感に襲われ、ついにはその体は宙へ浮いた。見ると、鷹宮を囲むように六つの椅子も浮き上がり、家具や床に積まれていた本も宙に浮いていた。
やばいやばいやばい……!
重さのなくなったシャンデリアを中心にして、無数の影が部屋中を泳ぎまわる。鷹宮は嫌な予感をひしひしと感じていた。どうしてかはわからないが、わかってしまうのだ。
もう、落下が近いということを。
鷹宮の心臓は激しく鼓動する。確かに恐怖はしていたが、しかしそれだけではない、爽快感のようなものが湧いてくるのもまた感じていた。
甲高い音とともに、鷹宮の目の前で召喚陣の魔力の脈が断ち切られていく。
「「あ」」
鷹宮の声と、もう一人、月ノ美兎の声が重なると、世界は召喚陣の描かれている床から砕けていった。