海向こうの月が校舎上空の三人の影を照らし出す。ティーカップに口を着けた美兎は、ズズズ……と紅茶を啜ると、ゴク、ゴク、ゴク……と喉を鳴らし、最後にはぷはぁ~と満足そうな息を溢した。
「いや~、人が苦労してるのを見ながら飲む紅茶はうまいですね~」
「うん? ああ、そうね」
「うん……」
同意を求めたが、返ってくる言葉は素っ気なく、美兎は首を傾げる。
「お、お二人とも~? どうされたんですか~?」
美兎と同じテーブルを囲む二人は静かに紅茶を飲みながら下で行われている戦いを見守っていた。やがて銀髪の少女、
「はぁ~あ。いいなぁ。楽しそうやなあ」
「うん、うん」
ショートヘアの少女、
「はい? えーっと、それはつまり……?」
二人の言っていることがいまいち理解できないと美兎は目を瞬かせる。楓はちらと凛の方を見てその意思を確認すると、言った。
「みとちゃん……ウチらも戦いたかったわぁ」
「え、ええ⁉ そんな、だってアレ、殺し合いなんですよ? 楓ちゃんはまぁ……今思い返すと確かにそういうとこもあったような気がするけど、凛先輩まで⁉」
二人はやる気を漲らせた眼差しで席を立つ。
「ええやん。やろうや、殺し合い」
「そうだよ、こんな楽しそうなイベント、参加しない方が損損。さあ、三人で敵を滅ぼしちゃおう」
そうして、樋口楓はおびただしい量の釘の刺さったバッドを、静凛は攻撃的な魔術装飾でコテコテの巨大な杖を取り出した。これに月ノ美兎は慌てた。
「ちょちょ、ちょっと! だめだめだめっ! ステイ、ステイ! これはあくまでも試練であって、滅ぼすとかそういのじゃないから。あ、あの、座ってくださいよ~。二人ともそんな物騒なこと言うキャラじゃなかったですかぁ……なかったですよね?」
あっれぇ? おっかしいなぁ、私、あんなもの作ったかなあ?
と美兎は二人の持つ釘バットと杖を見て少し身を縮こませながらも、何とか二人を宥め、再び席に座らせる。
「ねえねえ。それにしてもあれさ、いったい何なの?」
凛が指差す先では、人を上下でつなぎ続け、校舎を取り巻くほどの長さになった怪物が鷹宮リオンとでびでび・でびるに襲い掛かっている。美兎は答えたくなさそうにしながらも、二人の視線を流すことができず、目を逸らしながら答えた。
「あー、あれですか。あれはですね、無限……の出来損ないです」
二人の表情が好奇心で輝くのを見て、美兎はしまったと思うが、もう遅かった。
「無限⁉ 無限ってみとちゃんやんな? え、どういうこと? あれはみとちゃんの分身ってこと?」
「え、いやいや、アレが私の分身だなんてそんな。よく見てよ、アレが私に見える?」
「ん? うーん……」
美兎と楓は二人して下の怪物を凝視する。
「似てる、か……ちょびっとだけ」
「ひ、ひどいよぉ~」
泣き真似で茶化そうとする美兎だったが、ずっと何かを考えていたらしい、凛が顔を上げて言った。
「ひょっとしてだけど……自分で作った?」
「ぎぎぎぎくぅっ⁉ ち、ちがいますけど! どうしてそう思いました⁉ いや、これは別にそういうわけじゃないけど」
「確定やん、それ」
呆れた様子の楓も目に入らず、目許を赤くして凛の答えを美兎は待つ。凛は言った。
「だってさ、あの見た目、さっき鷹宮さんの説明してくれた博士の実験にそっくりだよね。人を繋げて人工的に無限を作り出す、だっけ? 博士は成功して、それで美兎さんは失敗して……えーと」
気まずくなり、凛は言い淀む。続きを楓が引き継いだ。
「で、アレが生まれたってわけか。ふーん。じゃ、つまりみとちゃん……やった?」
突然楓に鋭い眼光を向けられ、美兎はひっ、と声を漏らした。
「やってないやってない。え、なんのこと? やったって何?」
「だから、さっきのリオンちゃんの説明だとな、博士の実験って人がようけ死んでるように聞こえたんやけどなぁ……とぼけるつもり?」
「あ、ああ、なるほど。そういう訳ですか。もちろんやってないです。やってません!」
美兎は事態を把握し、ようやく落ち着きを取り戻すことができた。
「いいですか? 確かに、今の私なら協会にサポートしてもらえば無限作り出せるんちゃうかなぁ~? とか思いついて実験はしました。でも、私は誰一人殺してませんし、命を使ってもいません。実験材料は私をコピーして作った肉人形さんたち。私はただ、魂のない肉人形さんたちを数値だけ揃えて繋げてホイしただけです。誰も死んでません。クリーンです……あ、なんてったって、清楚委員長ですからね!」
ノリで作った清楚委員のことを思い出し、清楚を強調して片目をパチンと瞑る、そんな美兎を二人は間の抜けたように見つめた後、言う。
「ふーん、自分が大量に繋がってく姿を傍から見てたわけや、みとちゃんは……清楚ねえ」
「あははっ、清楚で草なんだけどー」
「あ、今清楚を馬鹿にしましたぁ? 粛清対象ですよ? (#^ω^)ピキピキ」
美兎が眼を血走らせるが、二人は顔を見合わせ一笑に付すだけだった。美兎は付き合ってもらえずぷくりと頬を膨らませるも、やがて怒りを萎ませて穏やかな笑みをこぼす。三人で笑い合う中、凛が突然切り替えたよう真顔になって言った。
「それでさ、無限の出来損ないっていうのはどういうことなの? 実験は失敗? どうしてああなっちゃったの?」
実は話を逸らそうとしていて、殆どそれが上手くいっていると思っていた美兎は、ぎくりと身を強張らせた。冷や汗を浮かべながら笑おうとするも、もう凛も楓も笑ってはくれなかった。美兎は諦めて言う。
「まず、無限を生みだすという意味では、実験は失敗です。血まみれで連なる肉人形さんたちには無限は宿っていませんでした。ただ、それ以外の物は……」
「それって魂ってやつ?」
凛が笑みを浮かべて尋ねた。美兎は頷く。
「ええ。無から生まれたのか、私が誤って自分の魂の欠片でも混ぜてしまったのか。とにかく、群体でありながら一つの個である彼女には自我が生じてしまったみたいでして……。その自我は、実験体として自分を生み出した世界に、そして私に、憎しみを抱いてました」
美兎はうつむき、少し暗い表情で視線をさ迷わせたあと、二人を見て言った。
「この憎しみが彼女のエネルギー源なんです」
二人は沈んだ表情で、校舎で行われてる戦いを見守った。ふと、楓が言った。
「そっか、恨んでるんや。今も憎しみで戦ってるんやな……」
校舎の壁を無数の手足が這っていく。よく見ると手や足の中には出血したものや、欠けたり千切れたりしているものがあり、中には焼かれたのか、体ごと黒焦げになって地面を擦ってる部位もあった。しかし彼女は止まらない。逃げ回りながら魔術を放ち、鎌を振り回す鷹宮リオンとでびでび・でびるにしつこく喰らいついていく。
「ねえ、あれって名前があったりするの?」
凛が尋ねた。
「あー、一応? 私から生まれたので、私の名字にちなんで謎ノと呼んでましたかね」
「ふーん、そっか」
凛は頬杖をついてカップを口元へと運ぶ。下に目をやり、落ち着いて観戦する構えを見せた状態で美兎に聞いた。
「で、その謎ノはどうやって倒せばいいの? 鷹宮さんたち、随分と苦戦してるみたいだけど」
美兎はカップを傾けて紅茶を飲み、こたえた。
「さあ……?」
ワンテンポ置いて、違和感を覚えた二人はじっと美兎を見つめた。少し食いつき気味に楓が言った。
「さあ? 今さあ言うた? みとちゃん謎ノ倒したんと違うの?」
「いえ、倒せてないですね」
「じゃあ、どうやって倒せばいいかは……」
「ほんと、私が教えてほしいくらいですよ。刻んでも焼いても揚げても駄目。体を一瞬で消滅させても憎しみが消えてくれないんです。体を殺された怒りでさらに憎しみを募らせて復活してくるんですよねぇ。内面に干渉する系の魔術師たちに協力してもらったときは憎しみが伝染して大変なことになりましたっけ……あ、そういえば剣持さんの虚空なら楽勝かもしれないですね。これが終わったらシェルターの外に投げ捨てちゃいましょうか」
アハハーと笑う美兎に二人はドン引きしながらも言った。
「なんやかんや言ってみとちゃんが一番ヤバい」
「だねー」
「え、なんでですか⁉」
〇
鷹宮リオンは校舎の屋上に降り立った。遅れて落ちてくるでびでび・でびるを咄嗟に受け止めようと両手を出すが、でびるは鷹宮の両手には体重をかけず、ふわりと浮かび上がる。二人は頭上を見上げた。
校舎は謎ノに支配されていた。伸び続ける長大な体は窓を突き破って教室や廊下を縫って進み、その体はさらに、二人を追いかけて夜空をも這いまわる。無数に連なった謎ノは校舎の上空に巨大な渦を巻き、その影はカチカチと音を立てながら蠢いていた。
その渦の先端が、ゆっくりと二人のいる屋上に向けて下りてくる。
鷹宮は地面を踏みつけ、屋上に仕掛けた術式を起動させると、でびるに向けて手を差し出した。
「でびお願い」
「わかってるってば」
鷹宮の差し出した手のひらには宝石があった。悪魔はその手の上に、自らの手を重ねた。
重なった手のひらの間で宝石が赤く、青く明滅する。宝石はその内部から柔らかな光を零し、やがては宝石という形も光の中に溶け出して二人を包んでいく。
自分たちを包むドーム型の結界が完成したのを認めると、二人は迫ってくる敵を見上げていたずらっ子のようにくすくす笑った。
「しっしっしっ……愚かだねえ」
「くっくっくっ……そのまま、そのまま……来いっ!」
二人を包む結界の外側、屋上の床の上に真赤な魔法陣が四つ浮かび上がった。そこに上から青い魔法陣が重なると、赤い魔法陣は次々と増殖してその範囲を広げていき、ついには屋上は魔法陣で埋め尽くされた。
巨大なムカデのように連なる謎ノの体は校舎をぐるぐると囲う、その頭が、魔法陣で赤く発光する屋上に向けて突っ込んでくる。
「これでも喰らいな」
鷹宮が鎌を振り上げた。
豪炎が、数多の魔法陣から上に、下に、一斉に噴出する。炎は青い魔法陣を通過してでたらめに増殖し、空を、そして校舎を炎の海に呑み込んだ。凄まじい音が鳴り響き、二人の足場は砕かれ、校舎は崩壊していく。
校舎に体を張り巡らせていた謎ノはその体を燃やしながらコンクリートブロックを躱そうと空中を駆け巡るが、体の一部はブロックの直撃で潰れていった。だが、それでも生きていた謎ノたちは死んだ部位を千切り、また新しい体を吐き出して体を繋げ、空中の鷹宮とでびるに向けて炎の海を駆け上がってくる。
一方二人の頭上の謎ノも炎の直撃を受けた部位は吹き飛んでいったが、息のある部位から次々と新しい体が吐き出されていく。
「でび……これ、効いてる?」
目の前の惨状に鷹宮は思わず笑ってしまうが、その声は少しだけ震えていた。
二人を包む球形の結解は謎ノに巻き付かれ、ミシミシと締め付けられていた。上を見ても下を見ても、炎に体を焦がす謎ノの四肢が這いまわっている。あの無機質な仮面の瞳が四方八方から二人を見つめていた。
「……効いてはいるよ、でも」
「ははっ、そりゃこっちの方が早いよねぇ」
鷹宮が半笑いで見上げた先で、結界にひびが入った。
「じゃ、次行きますかぁ」
鷹宮はそう言うと、気だるげに頭上を指差す。遅れて、悪魔が同じ場所を指差した。
二人の頭上に黒い魔法陣が浮かび上がり、そこに青い魔法陣が重なった瞬間、魔法陣は結界の内側を埋め尽くした。
パキ、パキ、と音がして、結界にほんの小さな穴が空いた。鷹宮の目は落ちていく破片を追うが、すぐに頭上に視線を戻して言う。
「準備おっけー?」
「いや、早くしてよ! ぼくもう持たないって!」
思ったより慌てていたでびるにくすりと笑い、鷹宮は術式を起動させる。
破壊寸前だった結界は内側からの攻撃によって木っ端みじんとなった。結界の内側から外側に向けて、全方位に圧縮された闇の魔力が解き放たれた。
身体のあちこちに大穴を開けた謎ノたちがぱらぱらと炎に焼けながら落ちていく。離れたところには謎ノの群体がひしめいていたが、二人の周囲には空間ができた。
「上?」
と鷹宮が指をぴんと立てて尋ねた。
「下っ!」
悪魔が言って、二人の体は落下する。
校舎の瓦礫の上を這っていた謎ノが鎌首をもたげ、落下する二人を狙って這い上がってくる。鷹宮は魔法陣を起動しながら尋ねた。
「でびっ、余裕ありそう⁉」
「ごめん、あんまない!」
でびるの言葉とほぼ同時に鷹宮の体は振り回されたような無茶苦茶な軌道のカーブを描く。
「ちょっとなに⁉」
鷹宮は思わず振り返った。見ると鷹宮が警戒していた後方だけでなく、前方からも謎ノが迫っていた。二人の攻撃によって千切れ、分裂した謎ノの体は、それぞれが自分の体を生み出し、二人に向かって伸びてくる。あちこちから迫る謎ノを躱すのにでびるは必死だった。
「くっ!」
苦い顔で術式を起動する鷹宮。翳した手のひらの魔法陣から幾つもの光が放たれ、光はそれぞれが生きているかのように謎ノたちを追尾し撃墜していく。
だが、それはほんの少しの足止めにしかならない。光弾に焼かれた謎ノたちは、今度はその口から二人、時には三人の謎ノを吐き出してムカデの列の頭を増やしていく。
二人は次第に包囲網が狭まってきているのを自覚しながらも、そこからは逃げ切ることはできず、焦り始めていた。でびるに操作された鷹宮の体は流れるように謎ノたちの隙間をかい潜る。鷹宮は光弾を撒き、さらに炎の魔術を自身の周囲に渦のように流し、迫ってくる謎ノたちを撃墜する。
このままではまずいと二人にはわかっていたが、言葉を交わし合う余裕はもはやなかった。壁を作って閉じ込めようとした謎ノたちの、その小さな隙間に向けて二人は飛び込んだ。
謎ノたちは鷹宮の魔術に焼き払われ、落ちていく。だが、そこを通ることがわかっていたかためか、伏兵がいた。鷹宮の魔術を掻い潜って、何体かの謎ノが腕を伸ばしてきた。
「このぉっ!」
鷹宮は空中で流れる体を強引に回転させ、大ぶりな鎌を片手で振るった。謎ノの両腕が、首が、スパスパと切れて落ちていく。だが、鷹宮が体勢を崩したところへ次に控えていた謎ノたちの列が一斉に突っ込んできた。鷹宮は空中で一回転してもう一度鎌を振るおうとするが、鎌は振るうには至らず、その柄を何本もの腕に押さえつけられた。
「ぐぅうう……!」
「小娘!」
でびるが鷹宮の背中を力いっぱい押すが、謎ノたちの勢いは止められなかった。二人の体は空中で謎ノたちに押し込まれ、そのまま校舎のコンクリート片に叩きつけられた。
硬質な音と共に、鷹宮の鎌が落ちる。そして、頭から血を流した鷹宮もまた、地面へ落下する。でびるの魔術障壁は柔らかに二人を受け止めようとはしたが、それも万全の物にはならなかった。でびるは朦朧とした意識で落ちていく鷹宮を追いかけ、そして、そこで倒れ伏す鷹宮の背中にそっと落ちていった。
―――
「いやー、終わった終わった!」
月ノ美兎は手についたクッキーのカスを払い落とすと、カップに残る紅茶を名残惜しく啜り、立ち上がった。
「ようやく外に出れる、長かったぁ……!」
両手を上げて気持ちよさそうに伸びをすると、遥か下方で倒れ伏す二人を見下ろし、目を細めて笑った。
「じゃ、約束通り卵は頂きましょうかねぇ」
そうして月ノ美兎が席を離れようとしたとき、月ノ美兎の目の前を黒い蝶が横切った。
「え……」
月ノ美兎はその場に立ち尽くし、崩壊した校舎へ下りていく黒い蝶を見送った。
謎ノたちの這いまわっているその中心では、鷹宮リオンとでびでび・でびるの二人が倒れていた。
ひしめき合っている謎ノたちの中から、二人の前にゆっくりと這い寄ってくる謎ノの繋がった体。その先頭にいた一体が分離し、這い出してきた。這いまわっていた周りの謎ノたちが動きを止め、見守る。数多の仮面に見守られながら、謎ノは四本の足で少し這っていくと、腕を深く曲げて勢いをつけ、一気に二本の足で立ち上がった。
気を失っている二人を見下ろし、謎ノは首を傾げると、鷹宮リオンの首の後ろに足を当てがって軽く踏みつけ、その足を振り上げた。そして、その細い首を踏み砕こうと足を振り下ろそうとした、その時だった。
黒い蝶が鷹宮の首にとまった。その羽根はレースの装飾のように薄く、気品があり、夜空のように静かな色合いをしていた。謎ノの足は振り下ろされなかった。
蝶は羽根を瞬かせ、謎ノの足をすり抜けるようにして上昇する。謎ノは足を下ろすと、一歩後ろに下がって、そっと人差し指を出した。
蝶はひらひらと不安定な軌道で飛んでいくと、謎ノの出した人差し指に止まり、バランスをとるようにしてかすかに羽根を開いては閉じてをくり返す。それをよく見ようとしてか、謎ノは蝶の止まった人差し指を顔へと近づける。
蝶はなんの気もないように飛び立った。そして、ひらひらと羽根を瞬かせながら、まっすぐに、謎ノの首を通過していった。
謎ノは焦ったように首に手をやると、振り向き、そこに遠ざかっていく蝶を見つけてほっとしたように手を下ろす。しかし、次には異変を感じ、再び首元に手をやった。その首元には黒い蝶の文様が刻まれていた。
謎ノは首を掻きむしり始め、地面の上に倒れ、バタバタともがき始めた。周囲の謎ノたちは黙ってそれを見つめていたが、やがてムカデのように体を連ねた謎ノが地を這い、地面でもがく謎ノをうかがうように近づいていく。と、ムカデの先頭の謎ノは地面に這わせていた手を止めると、手を返して手のひらを見た。手のひらの上にはムカデが這っていた。
謎ノはムカデをじっと見つめ、首をゆっくりと傾けた。傾けた首は、傾き、傾き続け、そのまま捩じ切れてごとりと地面を転がった。
長髪の黒髪が地面の上で乱れ、無表情の目許にかかる。
頭部を失った首の断面から血のように零れた大量のムカデは地面に撒き散らされた後、方々に這いまわる。それを見た謎ノたちは自分たちが繋がっていることも忘れ、各々がそれぞれの方向へ逃げようとして乱雑に手足を動かした。結果、繋がった巨体はどこへも逃れられず、地面の上をのたうちまわるだけだった。
しかしすぐ、その体列は不自然に固まり、次には無数の、ばらばらの、小さな者たちの悲鳴が、幾重も重なって鳴り響いた。
先頭の首のない謎ノの指先が震え出す。その震えは後ろの謎ノたちにも伝わっていった。一度だけ、謎ノたちの繋がった体は大きく波打つ。謎ノの露出した手足の皮膚の下で何かが蠢いていた。
先頭の謎ノの指先から、その形は崩れていった。謎ノの体を構成していた肉や、血や、骨が、次々とムカデと化して落ちていく。その変化は連なった謎ノたちにも及び、その長大な体は不自然な震えを帯びながら、どんどんムカデの集合へと変わって崩壊していった。空からは雨のようにムカデが降ってくる。先ほどまで空を覆うほど増殖していた謎ノたちの体は落下し、落下しながらムカデへと分解されて空に広がっていく。
ムカデたちは助けを求めてか、唯一人の形を保っていた、首に蝶の文様を付けられたあの謎ノの元へ集ったが、謎ノの体に入れないと知ると、狂ったようにそこらを這いまわり、小さくも甲高い悲鳴をあげて回った。
そんな折、広くなった夜空の下で、ローファーの足音が近づいてくる。
月ノ美兎はムカデたちを構わず踏み潰しながら、ムカデたちの中心へと歩みを進めていった。
ムカデたちの中心には鷹宮リオンとでびでび・でびる。そしてその傍らに座り込んだ謎ノの姿があった。月ノ美兎は謎ノの前で足を止めると、一度深く息を吸い、目を瞑る。目を開けると、謎ノを見下ろして言った。
「まさかあなたともあろう者が。一瞬にしても、蝶に見惚れて憎しみを忘れましたね」
謎ノは震えながら顔を上げ、そこに月ノ美兎を認めると、男とも女ともつかない、合成された機械音声のような声を絞り出した。
「だまれ」
月ノ美兎は謎ノの態度に呆れながらも、まあ今更か……と笑って流す。月ノ美兎は蝶の消えた方向に目をやると、言った。
「綺麗なものはいつだって、どこにでもあったんですよ。あなたが見ようとしなかっただけで」
「……そうみたいだな」
会話が途切れ、口を閉ざした二人を緩やかな月の光が浸していく。辺りのムカデたちはその光を恐れるように、校舎の瓦礫の下へと逃げ隠れていった。やがて、月ノ美兎が言った。
「謎ノ、私を憎めばいいよ。死にたくないでしょ」
少し間を置いて、謎ノは答えた。
「だまれ。しね」
そして、ぷっとムカデを一匹口から飛ばした。飛ばされたムカデは月ノ美兎の足元で悶えながら体を硬直させ、丸くなって死んだ。見ると、謎ノの体もまた、歪に硬直して丸くなって死んでいた。
月ノ美兎はその結末をわかっていたかのように苦笑すると、再び歩き出す。謎ノを通り過ぎ、鷹宮リオンとでびでび・でびるの二人の元へ。
月ノ美兎は腰に手を当てると、前かがみになって二人の顔を覗き込んだ。
「はぁーあ、賭けはあなたたちの勝利です。一応聞きますけど、ここから出たいですか?」
鷹宮リオンがうっすらと目を開く。小さく開いた口から、言葉ともならない言葉が漏れ出る。
月ノ美兎は鷹宮の方をじっと見つめると、頷いて立ち上がり、軽やかな表情になって言う。
「ん。オッケー」
月ノ美兎は踵を返し、再び謎ノの元へ。謎ノの死体の傍らには紙コップと割り箸が置いてある。月ノ美兎はコップの上の割り箸を手に取り、パチンと割ると、その割れ方にうぇっ……と表情を崩すが、気を取り直して片手に割り箸を、もう片方の手に紙コップを持ち、謎ノの顔を覗き込むようにして屈みこんだ。
謎ノの仮面の口の中からムカデが数匹ふよふよと出てきたところだった。ムカデたちは迷子になってしまったようにためらいがちに謎ノの口の中から出てきたようだったが、月ノ美兎の大きな瞳が覗き込んでいるのに気付くと慌てて口の中に戻ろうとした。だが、月ノ美兎は無情にも二匹のムカデをまとめて箸でつまみ上げ、紙コップの中へと放り込む。
「よしっ」
満足げに言って、月ノ美兎は再び二人の元へ戻った。
「鷹宮さん鷹宮さん」
妙にうれしそうな月ノ美兎の声に揺り動かされ、鷹宮は再びうっすらと目を見開く。
「これ、要ります?」
鷹宮が見たものは、箸につままれたムカデが抵抗してもがく様だった。鷹宮の死にそうだった表情が、僅かにだが、苦痛や不快感を訴えるかけるかのように歪んだ。鷹宮は力のない、掠れた声でなんとか伝えようと声を振り絞った。
「いらな――」
「はい、あーん」
情け容赦なく、箸は鷹宮の口許へ運ばれていった。
おぇえええええええええっ‼
魔法のように元気になって地面を転げ回る鷹宮を背景にして、月ノ美兎はでびるの顔の前にもムカデをぶら下げた。
「でびちゃんも食べましょうよ~」
でびるは鷹宮の悲惨な姿を見て恐怖を顔に浮かべ、ろくに動かない体で逃げようとして何とか地面を這うが、その努力は月ノ美兎の小ジャンプの一歩で埋められた。
「いやだよ……! やめっ」
「はい、あーん」
―――
ごろごろと地面を転がる二人に背を向け、月ノ美兎は満足げに腕を組んだ。
「いいですか。普通、世界卵はその内側に世界を宿してるんです。ですけど、その卵の場合は勝手が違うというか、糧となった世界が少々特殊でして……。そうですねぇ、たぶんですけどその世界は、世界の外側に出るという願いを宿命づけられた世界だったんじゃないですか? 今から卵が生み出すのは、そんな世界の抱いていた、切実にして不可能なはずの願いなんでしょうね。まあ、心配なさらずとも大丈夫ですよ。今まで通り、卵がお二人を導いてくれるでしょうから……ってあれぇ⁉」
美兎が二人を見返すと、もう、そこに二人はいなくなっていた。
美兎は急に一人ぼっちにされておろおろと辺りを見渡し、さんざん右往左往したあと、諦めて立ち尽くした。
そういえば……と美兎は顔を上げる。
卵の糧として生み出された世界は……私のためだけにプログラミングされた世界というのは……いったいどんな世界だったんだろう。
世界の外側へと逃れようだなんて。普通だったら悲劇に終わるそのシナリオは、あまりに痛ましくて、目を背けたくなる……でも、ほんの少しだけ、胸の内を焦がす切実な何かに共感してしまうのだ。
夜に波が打ち寄せる。美兎が振り返ると、そこには崩壊した校舎の残骸が散らばっていた。
美兎はぺたんとその場に座り込むと、膝を抱え込んで体育座りになった。
しばらく波音に耳を傾けていたかと思いきや、美兎は深く肩を落とし、しんみりしたように両膝に頭をのせた。
「卵、すなおに貰っとけばよかったなぁ」
美兎の独り言は続く。
「でもなぁ、あの二人の願いも面白いと思っちゃったんだよなぁ……うーん……はぁ、考えれば考えるほど全部剣持が悪い……いや、向こうにも事情があるのはわかるけど……」
そして美兎は顔を上げて言う。
「あの顎、ここに落ちてこないかな」
へえ、落ちてきたらどうするの?
そんな声とともに美兎の肩に手が置かれた。
そりゃあ、いてこましたるに決まっとる!
そして、反対側の肩にも。
思わず振り向いた美兎を、凛と楓は穏やかな、明るい表情で受け入れた。二人は美兎の両隣に腰を下ろして座り込んだ。
「二人とも……」
美兎は言葉を探したが、上手い言葉が見つからず、結局は率直な言葉で伝えることになる。
「ありがとね」
二人は答えず、まっすぐに前方を見据えて座っていた。
並んで座る三人は何をするでもなく、背中に月の光を浴びていた。
美兎は目の前に広がる校舎の残骸を見て言った。
「後片付け、しないとな」