110.▷プレイヤー3 白の時間
白い、温かな海に揺蕩う意識は、いつか懐かしい声を聞いた。その声をどこで聞いたか思い出せない。声は海の中を柔らかに伝っていって、意識の輪郭をなぞるようにして探り当ててくれたんだ。そうやって、僕は目覚めた。
「なんだ、起きるのか」
冷ややかな風が僕の肌に触れた。弱弱しく目蓋を開ける。涙で目が潤んでよく見えなかったけれど、僕の顔を覗き込む男の顔を見たとき、僕はなぜだかほっとした。
「ここは?」
とかすれた声で聞く。僕は死体の転がる荒れ果てた大地の上で寝かされていた。服は着ていなかったけれど、恐らく男のものだろう、仕立てのいい黒と金の上着が掛けられていた。男はかぶりを振って言う。
「今一気に説明してもわかんねーよ」
「そうなんだ」
僕が上体を起こしたのを見て、男はもう大丈夫だな、と立ち上がった。
男は踵を返し、どこかへ歩こうとするが、「そういえば」と呟いて、男はこちらを見て言った。
「お前、名前はなんて言うんだ」
男は止まったまま僕の答えを待った。僕は口を開き、声にならない呼吸を何度かしてから、ようやく名前を口にすることができた。
「かなえ」
間を置いて、男は頷く。
「叶、叶ね。いい名前だな」
男は僕の名前を繰り返し、ほほ笑むように言った。僕がじっと見つめていると、男は少し鼻で笑って言った。
「俺は……そうだな、幾つか名前はあるけど、お前なら葛葉でいいよ」
そうして、男は歩いていく。僕は周囲を見渡すと、葛葉以外何も頼りになる者がないと知って立ち上がり、葛葉を追いかけた。
僕は葛葉の後ろ姿を見ながら考えていた。僕が目を開けたとき、どうして葛葉は泣いていたのだろう、と。
「委員長が、負けた……?」
叶は思わず声に出してしまい、横目で葛葉の方を見た。葛葉はソファに腰掛けて壁に設えられたテレビでゲームをやっていた。叶は冷静になると、スマホの持ち手を変えて相手の言葉を遮って言った。
「いえ、負けたと考えるべきでしょう。委員長の魔力を隠す方法などあるとは思えません……例の虚空をのぞいて」
叶はやりとりが終盤に入ったのを感じると、ゆっくり葛葉の方へ足を進める。
「はい、はい。ええ、調査の結果次第では。はい……行くことになるでしょうね」
そうして、叶は通話を切ると、どかっと葛葉の隣に腰掛けた。
葛葉がやっていたのは対戦型の格闘ゲームだった。葛葉はゲームをしながら聞く。
「お前、どっか行くの?」
「うん。まだわからないけどたぶん? あ、葛葉も一緒だよ?」
「ふーん、そか」
「うん」
叶はガラステーブルの上に盛られた菓子を一つつまむ。ゲームの方を見ると、先ほどまで葛葉が勝っていたというのに、逆転され始めていた。
「これから大変になるな」
葛葉が言う。
「うん、今まで委員長に押さえつけられてた奴ら、一斉に元気になり出すよ」
「はっ、そりゃうぜえわ」
そうして葛葉は勝負に負けてコントローラーをテーブルの上に投げ出し、自身も体を深くソファの上に預けて伸びをする。
「んぁー、おーけー。また戦いの日々に逆戻りってわけね」
「いや、まだわからないけどね」
「おい、ほんとかよ」
「まだ考えられる手はあるから……あ、でも戦うのは変わんないや」
「……そうか」
葛葉は笑い、頭の後ろで腕を組むと、そのまま静かな寝息を立て始めた。叶はそっと葛葉の投げ出したコントローラーを手に取り、手元でカチャカチャ言わせながら対戦相手を一方的に叩きのめしていく。
こんな毎日が続けばいいのにな。そんなことを考えながら。
夢を見てるみたいだった。今の自分がどこから来ているのかわからないまま時間が進み、その時間すらも時々曖昧になる。曖昧な時間の上を歩く僕は、間違いなく曖昧な存在だった。
「……てますか、聞こえてますか? 叶さん?」
声に揺り起こされるようにして意識がはっきりしてくると、そこは見慣れた教会だった。
「おいおい、作戦会議中にずいぶんと余裕じゃねーか。お前らしくもない」
教壇に座っている葛葉がこちらをからかってくる。叶はぼーっとしたまま答えて言う。
「そう? 僕ってこんなもんだと思うけどなー」
叶は木でできた長机の背もたれにもたれかかる。叶は手の甲を顔の前にかざし、令呪の消えた跡をぼんやり見つめた。
ここまでの聖杯戦争の過程は散々だった。叶の召喚したセイバーはハッキリ言って叶とは反りが合わなかった。さんざん嫌われた挙句、セイバーは叶の命令を実行するのに躊躇し、その隙を突かれた。最後はなんとかライダーと刺し違えたものの、セイバーをあそこで失ったのは余りに大きかった。
それに、消えゆくセイバーの恨みのこもった眼差しは白昼夢のように叶の意識に繰り返し浮上した。
中央の通路に立っていたシスター・クレアが言った。
「まあまあ。お昼過ぎなんですから眠くなるのは仕方ないですって。いったん休憩にして、中庭でお茶にするっていうのはどうですか?」
二人は同時に拍子抜けしたようにクレアを見たが、顔を見合わせ、同時に立ち上がった。 クレアに連れられるようにして二人は歩く中、叶は言った。
「あれ、葛葉日光大丈夫だっけ?」
「お前、わかってて言ってるだろ……」
葛葉が呆れたように笑った。
葛葉は笑っていた。顔色が悪く、その目は眠気に抗うように細められ、その口からは血が流れていた。
「ああ、叶……無事でよかった」
叶に覆いかぶさっていた葛葉は目を瞑り、その体を叶に預けるようにして力尽きた。
叶は葛葉の肩越しに冷たい目をした黄金の髪の少女を見る。
キャスター陣営、このタイミングで……。
この高校の生徒なのだろう、制服を着た少女はツインテールに纏まった淡い金色の髪をたなびかせ、長髪の白い衣装のサーヴァント・キャスターとともに空中に浮いていた。そして、その下には少女の部下の生徒であろう、たくさんの男女が武器を構えて立っている。
葛葉の体から生えていた結晶は粉々に砕けると、破片と化してキャスターの手のひらに戻っていった。
「ふむ。サポート役を潰すつもりでしたが、これはこれで大収穫ですね」
キャスターが冷静に言う。キャスターの視線の先ではバーサーカーが現界を保てずに消えていくところだった。
「……そうですね」
傍らの少女は興味も無さそうだった。聖杯戦争の勝者はこの時点で決まっていた。やがて少女の手の中に聖杯が現れても、少女の態度は変わらない。少女は聖杯の底を感情も見せずに見下ろしていた。
そこで少女は突然斜め上を見た。叶は少女の首元の黒い蝶を象ったチョーカーのようなものに目を奪われる。
次の瞬間、キャスターが反応して透明な防壁を貼る。下にいる生徒たちの頭上にも同じように貼られたその防壁に、青い光弾が雨のように降り注いだ。
少女とキャスターは平然として目の前で炸裂する光弾を見つめていたが、それに対して生徒たちは酷い有様で、背を向ける者や地面に倒れこむ者が多く、場は混乱に包まれていた。
金髪の少女は敵よりもむしろ味方の混乱が癪に障ったようで、一瞬表情を歪めたが、すぐに威勢のいい明るい声音で号令をかけた。
「反撃! すぐに撃ち返すのです!」
少女の声で生徒たちは陣形を乱しながらも意識を敵に集中し、みんな各々の得意魔術を滅茶苦茶に撃ちまくる。
それらはみな中空で消え失せた。
空中に透明な階段でもあるかのように男が上空から降りてくる。紫がかった髪に黄緑色の目、手には日本刀が握られている。
剣持刀也……? 叶はその男のことを知ってはいたが、しかし、なぜその男がここにいるのかはさっぱりわからず、混乱は深まるばかりだった。
現れた男、剣持刀也はキャスターとそのマスターを見下ろし言った。
「リリさん、雑魚はお任せしますよ」
そのとき、大勢の生徒たちの中心に青い光を放つ機械の球が投げ込まれた。コツン、と地面にぶつかって転がるそれは、一人の生徒の足にぶつかって止まる。
「あ……え……?」
生徒の戸惑うような声が聞こえたのも束の間、青い爆発が起こり、生徒たちはまとめて吹っ飛んでいった。
「はい、終わりましたよ」
と爆風の晴れた中心で胡坐をかいて座り、手を振るピンク髪の女性。女性はいつの間にそこにいたのだろう、少なくとも叶の目には見えなかった。
「相変わらず仕事が早い。ですがサーヴァントは流石に危険ですから僕に任せてください。リリさんは……まあ、そこらで遊んでていいですよ」
おいテキトーだな! と軽いノリで突っ込む女性は気だるそうに立ち上がると、校舎の方に向かって歩き出した。
キャスターとともに空中に浮かぶ少女は、校舎へ向かうピンク髪の女性を見て目を見開き、首元に手をやった。
「おや、そうなされるんですか?」
キャスターが笑いかけるように言うと、少女は首にかけていた手を下ろした。
少女は剣持の方へ手を伸ばす。それに連動してキャスターが力を用い、赤や青や黄色、緑、白、黒、その他さまざまな色の光を帯びた宝石がゆっくりと周囲に浮き上がった。宝石は一斉に剣持へと射出された。
なんだこれは……何なんだあいつら。なんで虚空教がここに? キャスター陣営はなんであれと渡り合える? あの女はなんだ……魔術は使っていないようだが……。わからない、わからない、わからない、頭がパンクしそうだ。
叶は自分の腕の中で動かない葛葉を見下ろした。
そうだ、認めなくてはいけない。僕は聖杯戦争を舐めていた……。
爆風が起こり、叶は葛葉とともに吹き飛ばされる。地面を惨めに転がり、這いつくばった先で、叶は猫の鳴き声を聞いた。
ゴト、と足元に何か落ちた気配がして、叶は目を下へ向けた。足元には携帯が落ちていた。
「おい、どうした?」
ソファでゲームをしていた葛葉が叶を振り返って言った。叶は咄嗟に笑みを作ってなんでもないと誤魔化すと、携帯を拾い、落ち着いて話を続けようとした。
「すみません、携帯を落としてしまって……」
そこで、猫の鳴き声が聞こえた。
「は?」
葛葉の座っているソファの方から声は聞こえてきた。見ると葛葉の横で、黒い猫が二足で立ってソファの背もたれから顔を覗かせていた。
「あの、葛葉? その猫は……?」
「ん?」
と葛葉は傍らの猫を見下ろす。
「何言ってんだお前? お前が拾って来たんだろ? 名前は確か……」
ロトっつったっけ?
あれから、何度も聖杯戦争を繰り返した。初めは勝手がわからなかったが、ルールがわかればそれはもはやゲームに過ぎない。ただ、このゲームは余りに複雑で難易度が高かった。
聖杯戦争の終盤、虚空教は絶対に絡んでくる。どうにもならない。どうやったって奴らは倒せない。聖杯はたいてい奴らに破壊されてしまう。
それだけでない。マスターの鷹宮リオンも脅威だった。彼女は自身では魔術を使わないが、格好のタイミングで現れて全てを搔き乱す。
相棒のサーヴァント、キャスターは万能ともいえる性能で、あらゆる局面に柔軟に対応してくる。虚空教を倒すまではいかなくとも、鷹宮リオンが聖杯を持ち逃げしてしまうこともしばしばだった。
鷹宮リオンはこちらの交渉には全く応じず、制御も不可能……。
叶が教会の長椅子に寝転び、天井を見つめていると、上から覗き込んできた猫の顔が叶の視界を遮った。叶は起き上がり、振り返って猫を見つめた。
「お前は、どうして僕のことを助けてくれるの……?」
問いかけてみるが、猫は何も答えずじっと叶を見つめるだけだった。
叶はふと疑問に思う。ロトには時間を跳躍する力がある。だが、本当にそれだけなのだろうか。実は正解の未来を知っていて、そこに導こうとしているのではないか……? その正解の未来とは、例えばロトか、ロトの本来の飼い主に都合のいい未来……。
あるいはそれとも、もっとシンプルで、優しい行動原理で動いていてくれたら……それはたとえば……。
叶は自嘲するように笑って問いかける。
「お前まさか、僕を幸せにしようなんてそんなこと、考えてないだろうな?」
猫はニャアと鳴いた。そして叶を無視するようにその場に丸くなったので、叶はくすりと笑う。
とにかく問題は虚空教と鷹宮リオンだ。これらを同時に排除するためには……。
普通は無理だ。そんなことはあり得ない。一度そう断じたあとで、叶はそれを否定する。
いや、ありえないなんてことない。そうだ、考え続けないと……。
しばらく経って、叶は立ち上がった。叶の顔には怪しい笑みが浮かんでいた。
なんだ、一人いるじゃんか……。
この日、教会の空気は淀んでいた。シスター・クレアが粛々と壇上の清掃を行うさなか、教会の長椅子には、男とも女ともつかぬ人物が尊大に足を組んで座っていた。彼は叶を見上げて言った。
「つまりは僕にマスターの座を奪ってもらいたいわけだね」
清掃に徹していたクレアの体が制止する。叶はそれをちらとだけ見て、ましろに言った。
「奪うなんてとんでもない。あの少女よりもましろさんの方が聖杯戦争にふさわしいという、それだけですよ」
「ふーん」
とその人物、ましろは前髪をいじりながら頷いた。
「で、僕は引きこもって力を蓄えて、最後に来るラスボスを倒すわけだ」
「はい、そういうことですね」
叶は笑みを浮かべ言う。ましろは手の甲に浮かぶ令呪をしげしげと眺めながら言った。
「うーん、僕と虚空教の奴らが共倒れになってくれればよしで、どっちかが勝っても消耗してるから何とか勝てるって思ってるんでしょ。まったく酷いなあ」
叶は笑みを崩さない。ましろは叶に令呪を見せつけるようにして言った。
「まあ、やるけどね」
ましろは立ち上がると、教会の出口へと向かう。
「期待して待っててよ。その期待ぶんの働きをしようじゃないか」
そう言い残し、ましろは教会から去った。
「叶さん、私はやはり……」
クレアが言いづらそうにしながら寄ってくる。叶にもクレアの言いたいことは十分に分かっていた。
「お気持ちはわかります。けれども以前言ったように、彼の力は必要なものだ。魔術師としての力量は鷹宮リオンよりも全てにおいて勝る。聖杯はマスターに彼を選ぶでしょう。これで鷹宮リオンは脱落です。となればあとは虚空教だけ。彼ならば何か、奴らの想像もしていなかったことを引き起こしてくれるはず。そんな確信があるんです。それで彼の言った通りの展開になってくれれば……」
―――
じき、ましろからキャスターを召喚したとの報告が届き、叶はほっと胸を撫で下ろす。これで鷹宮リオンは脱落だ。これで鷹宮リオンは……。
「ちょっと待ってよ、だって教会だよ⁉ ボク悪魔だよ⁉」
教会の外で妙な声が聞こえ、叶は思考を中断する。何だかわからないが、とても嫌な予感がした。叶は聖杯戦争に参加するマスターの一人だ。理由もなく教会にいては怪しまれるだろう。叶はクレアに合図し、教会の裏に身を隠す。ほどなくして教会の扉は開かれる。
「おお! この中にも入れる、すげぇ‼」
「恥ずかしいからやめろって」
教会に入ってきたのはありえない二人組だった。
叶はくたびれた様子で教会の座椅子に座っていた。
聖杯戦争は順調だった。もうすぐ例の最終局面が来る。ましろは柳洞寺跡に陣取ってから全く動きを見せず、またマスターたちの意識がましろへ向かないように聖杯戦争全体の展開も叶が裏から手引きしていた。
それにしても、アイツらはいったい何だったんだろう……。
サーヴァントの座に空きは無かったはず。なのに鷹宮リオンは悪魔でびでび・でびるをサーヴァントとして召喚し教会に現れた。かと思いきや教会を出た直後に他のマスターの急襲を受けて脱落した。
ほんとうに、わけがわからない……。
叶は体を丸くして頭を抱え込むが、すぐに頭を振って気持ちを切り替える。
いや、もう終わったことだ。今度の最終局面、上手くやれば葛葉のサーヴァントも僕のサーヴァントもほとんど無傷のまま温存できるだろう。虚空教かましろか、生き残ったどちらかと万全の状態で戦えばきっと勝てるはずだ。叶は覚悟を決めて立ち上がった。
○
水の音が意識の上を揺蕩っていく。時間の感覚に蓋をするように、いつまでも、いつまでも、水音はこの空間上を滑らかに反復する。叶は指先を動かそうとしてみるが、触れられるのはつるつるとして生温いタイルだけだった。うっすらと開かれた目の上に水面の白い光が揺れていた。
不意に、目の前の水面に波紋が立ち、小さなしぶきをあげて葛葉が水の中から現れる。葛葉は髪先から水を滴らせながら叶を上から覗き込み、不思議そうな顔をする。
「どうした叶? 元気なさそうじゃん」
「……元気もなくなるよ」
叶はうっすらと開いたままの目を葛葉に向けて言う。
「まあそう言うなって。下に抜けられそうな穴があったから行こうぜ」
「この下に?」
「ああ、30秒くらい? 息止めなきゃいけなさそうだけど」
叶は呆れたように葛葉を見つめ、プールサイドに寝そべった体で寝返りを打つようにしてプールに自分の体を落とした。
「あったかいね」
叶が水面から顔を出して言うと、葛葉は横目で叶を見て、
「だろ?」
と笑った。
思えば、あの時にはもうおかしかった。
剣持の前に現れたましろはまるで上から吊るされた操り人形のように不格好な動作で歩き、片肘を不自然に上げた状態で笑っていた。
「なんですか、あなたは……?」
剣持が呼び掛けてもましろは返事をしなかった。その目は黒く塗りつぶされたように光を反射せず、人間味の欠片も感じられない。
「ましろさん……?」
さすがにおかしいと叶は呼び掛けてみるが、やはりましろは返事をせず、ふらふらと上半身を揺らしている。そのとき雲の合間から月が現れ、一瞬ましろにまとわりついているものの影が浮かび上がる。
黒い針金を束ねたような怪物がましろの体を拘束していた。怪物は光の当たった一瞬だけその姿を現したが、すぐに光の中にも溶け込んで見えなくなってしまう。ましろはぎこちない動作で首を捩じり、叶の方を振り返った。ましろの真っ黒な目からは絵の具のような赤い涙が流れていた。
「ましろさん、その怪物はまさか、サーヴァント……なんですか?」
叶の呼び掛けには答えず、ましろは再び剣持の方を向いて、震える唇で詩を唱え始める。そして、少女の声がましろのあとに続いた。
ドアを開ければおかえりなさいと
(手まねきしてるあなたはだぁれ)
ママがわたしを迎えてくれる
(手まねきされてるわたしはだぁれ)
おいしいパンと温かいスープ
(わからないけどあなたの声は)
テーブルの上にはみんなある
(たいへんなつかしかったのです)
早く 早く 帰らなきゃ
(長く 長く 歩いていっても)
ママのえがおがつきないうちに
(あなたは手まねきし続けて)
こごえる体にむちうって
(わたしに声を聞かせてくれる)
みんなをつれて帰らなきゃ
(あなたの声は繰り返し)
「(わたしをわたしに呼び戻す」)
ましろのかすれた声を追いかけるように無邪気な少女の声が重なり、追い抜いた。空間は揺れに揺れ、夜空はカタンカタンと音を立てながら折りたたまれていく。
「ア゙ッ……」
ましろが抵抗するように呻いたが、次にはましろの首がカクンと折れる。
ましろの唇から、少女の声は告げた。
(「バックルーム」)