Fate/DebiRion.   作:遥野みしん

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115.最終階層

 吹き抜ける風に目を細めたのち、葛葉はゆっくりと目を開く。そこは夜だった。ふんわりと甘い匂いを含んだ風が起伏のある草原をそよがせていく。隣に立っている叶は何かに目を奪われているかのように葛葉とは反対を向いていた。葛葉もまた振り返る。

 

「うぉ⁉」

 

 葛葉は思わず後ずさった。葛葉の背後、草原の上に巨大な月が浮かんでいた。そして、月の真下には一軒の家が建っている。

 

 叶が家の方に歩き出したので葛葉も歩き出す。次第に大きくなっていく月と、月光を浴びる家の姿が明瞭になっていく。

 

 と、葛葉は立ち止った。葛葉の足元で草がパキっと音を立てて割れたのだ。葛葉はその硬い草を拾い上げたが、すぐに砂糖菓子で出来た草だと知って地面に放った。

 

 葛葉は顔を上げ、その家と対峙する。

 

 ケーキ生地の白い壁も、コテコテに飾り付けられたハートやダイヤ型のクッキーに、銀のビーズのような砂糖菓子も、全ては月明りの青白い光に包まれていた。

 屋根の上ではもこもことグラデーションをつくる水色と薄桃色のクリームの輪郭は柔らかく、色目の違うチョコクッキーの煙突には、細いクリームで描かれた模様の上に、雪のようなシュガーパウダーがまぶされキラキラと輝いていた。

 透明なキャンディの窓は歪み硝子のようで、うっすらと中に人がいるということしかわからない。

 

 葛葉は口許を引き攣らせながら笑ってしまう。

 

「クライマックスって、そういうことかよ」

「うん。中でやってる」

 

 叶は少し嫌そうにしながらもチョコレートで出来た扉を開く。

 

 赤と白の縞々キャンディのシャンデリアが部屋の中央に吊られていた。そこで燃えるろうそくの炎が、壁も床も天井も、見渡す限り敷き詰められたつるつるしたキャンディブロックの表面で、溶けそうなくらいに爛爛と揺らめいていた。家の奥には火の粉を噴き出す窯が燃えており、その手前で、ジェリービーンズの檻に囚われたましろがいた。

 

「お前……!」

 

 葛葉がましろに気づいて駆け寄ろうとするが、足に何かが当たり葛葉は振り返る。

 

 葛葉が蹴ったのは女の子の細い脚だった。貧しい衣服を汚した女の子が、膝立ちになってぺろぺろとキャンディの壁に舌を這わせていた。

 膝上で破れたスカートからのぞく汚れた素足は、葛葉に蹴飛ばされてあざになっていた。

 

「わ、わりぃ……」

 

 葛葉が詫びると、女の子はぼんやりとした光のない瞳を葛葉に向けたが、すぐにまたキャンディを舐め始める。

 

「なんなんだよ、これ……」

 

 叶はましろを指差して言う。

 

「彼に聞こう」

 

 葛葉は頷き、慎重に家の中に踏み入った。窯で炎が燃える音と、硝子を踏むような澄んだ固い足音が家の中に響く。葛葉は壁を舐め続ける女の子をちらちらと見ながらも家の奥へと足を進め、やがてましろの檻の前で足を止めた。叶も諦めたように家の中に踏み入る。チョコレートの扉は閉ざされた。

 

「おい……こっちを見ろ」

 

 葛葉が呼び掛けると、壁にもたれて項垂れていたましろの顔が上がる。ましろの目には力がなく、その焦点も葛葉には合っていないようだった。

 

「ああ、君たち……そうか。もうそんな時間か」

 

 何やら一人で納得したようなましろに葛葉が尋ねた。

 

「説明しろ。なんでお前が囚われてる? これ全部、お前がやったことじゃねえのかよ」

 

 ましろは苦笑し、ぼーっとしたように中空を見つめた後で、ようやく質問に答えた。

 

「はは、僕が? 違うよ。初めっからこの世界に僕の居場所なんてない。あの子がやったんだ、全部」

 

 ましろは家の入り口付近で壁を舐めている女の子を指差し、また苦笑した。

 

「たぶん、剣持刀也の虚空を取り込むまで順調だったんだろうね。形はちょっと違ったけど、ここまでは僕がアリスちゃんに話した作戦通りだった。でも、計算外のことが起こったんだ。そこにいる叶さんならわかるでしょ? 虚空の奥には、化け物が閉じ込められていた……」

 

 ろうそくの炎に照らされる叶の表情は一貫して読み取れない。しいて言えば、これから起こることをすでに知っているようだった。

 

「あの化け物と接触したその一瞬で、アリスちゃんの力は根こそぎ持っていかれた。アリスちゃんも最後の抵抗で化け物を童話の敗北役に押し込みはしたけど……」

 

 ましろはセリフを中断し、黙り込む。急に静かになったましろに質問しようと葛葉が口を開きかけるが、ましろに黙るように促されて口をつぐんだ。

 

「くそっ、早すぎる! お前ら、僕を助けろ!」

 

 ましろは豹変し、グミの檻を掴んで葛葉に訴えかける。

 

「ああ? んなこと言ったって……」

 

 まだ事態を理解できてない葛葉は困惑しながらも、ましろの態度から事態を察したのだろう。檻を観察し、そもそも鍵も開け口も存在していないとわかると懐からハンドガンを取り出した。

 

「離れてろよ……!」

 

 葛葉は檻を構成するグミに向けて発砲する。

 が、グミは弾の直撃を受けても、その表面の色合いに傷一つ付かなかった。

 

「は? 強すぎだろ……!」

 

 葛葉は次に伸ばした爪で切り裂こうとするが、やはりびくともしない。硬いわけではないのだが、破壊だけは徹底的に拒む妙な抵抗感を葛葉はその手から感じていた。

 

「くっ、このっ!」

 

 葛葉が両手で檻を拡げようとしても、やはり力を加えようという意思自体が拒まれている感じがして、すぐに無駄だとわからされてしまう。

 

「物理的な力じゃ無理だ!」

 

 ましろの言葉を受けて、葛葉は叶を見た。叶は首を横に振った。

 

「無理だよ、僕なんかじゃ。サーヴァントの力でもないと……」

 

 一同の目があの女の子に向かった。が、すぐに各々の視線は女の子から外された。

 

「なあ叶。あの童話通りならこいつは食われて死ぬ。そうなったら、俺たちはどうなる?」

 

 葛葉は緊張感をたたえて聞くが、叶はあっさりとした口調で答えた。

 

「うん、死ぬね」

 

 半ば予想はついていたのだろう、それでも葛葉は困惑を隠せず、ましろは気に入らなそうにそっぽを向いた。

 

「童話の王になった魔女は彼とのパスを通じてサーヴァントの結界を内側から喰らい尽くすよ。その過程で僕らも喰われて死ぬ。でも、魔女はそれでは満足しない。魔女は上の世界に……つまり、僕らの世界に上がっていって、それで、僕らの世界は――」

「はい、滅亡しまーす」

 

 叶の言葉に差し込まれた弾むような女の声。叶が振り向き、ため息をついて壁の方によけると、家の出入り口には魔女のような恰好をした女が立っていた。

 

 開く音こそしなかったというのに、扉は立て付けの悪い音を立てながらゆっくり閉ざされる。女は左右に垂らした三つ編みを軽く揺らし、家の中へと進み入る。

 すらりとした黒いゴシックドレスの上に文様の薄い光を放つ緑のベストを纏い、肩から羽織った黒のケープからは少し衣服の膨らみを持たせた腕を覗かせる。頭には緑色のカチューシャが、前髪にはヘアピンを付け、その瞳は、あまりに淀んだ赤色をしていた。

 

「なっ⁉ あんた、なんでここに……!」

 

 葛葉が後ずさり、檻に背中を押し付ける。ましろもまた冷や汗を流し、檻の中にいるにもかかわらずなるべく女から距離を取ろうとしていた。

 

「委員長、なのか……?」

 

 独り言のように葛葉の洩らした声を拾い、女は家の中心、キャンディのシャンデリアの真下で足を止めた。

 

「委員長に、見えますか?」

 

 そう言って女はおどけたように首を少し傾け、葛葉の瞳を覗き込む。トロンと据わった瞳の中で悪意が渦を巻いている。女はふふっ、と笑って続けた。

 

「わたくしはやりますよ。今からましろさんを窯に叩き込んで、こんがりと焼いて、骨までを喰らい、この世界を喰らい、この世界の外側の世界も全てを喰らい尽くす……なぜなら、わたくしは魔女だから」

 

 女は堂々と魔女として名乗りを上げる。名乗りを上げながらもその目は葛葉の表情を窺い反応を楽しんでいる。葛葉は信じられないと突っかかった。

 

「はっ、菓子喰い過ぎて頭に蟻でも湧いたってか? ……あんたほどの人が何言ってんだ⁉ だいたい、仮にも魔女だっていうなら、家に入ってきたガキ倒して満足しとけって」

「はい。最初はそのつもりでしたよ。でも、考えてみると少し怖くなっちゃって。家に入ってきたヘンゼルとグレーテルを喰らって魔女は幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし……で、その後は? 物語が完結したら物語の登場人物はどうなってしまうんですか? 葛葉さん、あなたにわかりますか? 完結する物語の登場人物であるわたくしの気持ちが。きっと、最後に待っているのはあの虚空のような虚無だけ。わたくしも、この家のお菓子も、すべては等しく塵も残さず消えていく。わたくしはそんなのには耐えられない! わたくしはわたくしの物語の外側へ逃れ続けて、わたくしの物語を閉じさせない。わたくしは勝者にも敗者にもなりはしない! わたくしは物語を紡ぎ続けて、永遠に生き続けるんです!」

 

 シャンデリアの炎が揺れ、真下に立つ魔女の影がさざ波立つ。その場の誰もが口を開けなくなっているのを見て、魔女は再び含むように笑うと、懐から小ぶりの杖を取り出した。

 沈んだ金属の三日月と重たげな赤い石の兎耳を組み合わせた杖の先端を、ふりふりと葛葉に見せびらかすように振ったあと、魔女はひょいとましろの方に定めた。

 

 びくりと身を震わせたましろの体がふわりと浮き上がる。ジェリービーンズの檻と一緒に。

 

「では取り掛かってしまいましょうか。止められるもんなら止めてみてくださいねー」

 

 魔女のその言葉と同時に浮遊するましろの檻はゆっくりと窯の方へ向けて動き出した。

 

「待って! 待て待て待て待て、待てって! いやだ、かなかな、かなかなぁ!」

 

 ましろは檻に体を押し付けながら叶に助けを求めるが、叶は相手にしていないようにすました顔をしていた。

 

「さっきも言った通りです。サーヴァントもなしに委員長を相手に出来るわけがない。無茶ですよ」

 

 叶を見てましろの見開かれた目が疑うように細められる。その唇の端が吊り上がり、ましろの顔に追い詰められた笑みが浮かび上がる。

 

「そっか、あくまでもシラを切る気なんだ。へえー……ねえ、かなかな。僕が死ぬのを見るの、何回目なわけ?」

 

 叶の目が驚きと共にましろの方に向く。ましろは叶の目が自分に向いたのに少し満足したように笑って言う。

 

「いいよね、叶さんは。世界がどんなになっても自分一人逃げ続けて、生き延びて。楽しかった? 楽しいわけないよね? 僕らが死ぬところを見るのが楽しいわけないよねぇ⁉」

 

 そこでましろは檻の傍らに立つ葛葉に身を寄せる。叶の動揺を見て取ったましろはにやりと笑って言う。

 

「かなかな一人で、またどこかに行っちゃうんでしょ? こんなゴミみたいな世界に、僕らを置いていくなよ……!」

 

 怒りを滲ませたましろの笑みを窯の炎が照らし出す。叶は全身が固まったように身じろぎ一つできずにましろを見つめていた。

 

 黙って睨み合う両者の間に葛葉が割り込むように立った。葛葉はうんざりするように叶に声をかけようとするが、叶のショックが大きいことを悟ると魔女の方に向けて言う。

 

「委員長、悪いけど俺はまだ受け入れられねえよ? なあ、考え直してくんねえかな? 俺、あんたのことけっこう買ってたんだけど」

 

 これに魔女は軽やかな笑みをたたえて答える。

 

「過去はどうあれ、今のわたくしは魔女。委員長ではない、魔女としての振る舞いをそこにいる彼女に押し付けられたんです。なら、委員長の本心がどうであれ、魔女としてどれだけ自分勝手になっても仕方ないってもんですよ」

「てめえ、ざけんな! やっぱ都合のいい言い訳じゃねえか!」

「はい、そりゃあもう都合のいい言い訳です……それで、何か問題でも?」

 

 ぎろりと葛葉を見つめる魔女の瞳が赤く光る。魔女の遊び心で停止していたましろの檻が窯の炎へゆっくりと進んでいく。

 

「くそ、聞けって!」

 

 葛葉は一瞬ためらいながらも魔女に発砲するが、弾丸は魔女の体から逸れてキャンディで出来た壁に当たり、たちまち白い砂糖となって砕けていく。

 

 ましろはもはや何も言わず、黙って叶を見つめるのみだった。

 

 葛葉は無駄だと知りつつ檻を引っ張りながら叫んだ。

 

「この、クソサーヴァント! こっちを見ろ! 役目を果たせよ! てめえのマスターだろうが!」

 

 声は届かず、チョコレートの扉の横で少女はキャンディの壁を舐め続ける。

 

 埒が明かず檻を引っ張るのを諦めた葛葉は、身を翻して少女の元へ駆け寄る。葛葉は少女の肩に手を掛けて振り向かせ、再び声を上げた。

 

「あれを見ろ! お前の兄ちゃんかマスターか、もう、どっちかは知らねえけど、どっちだろうが助けろっつってんだよ!」

 

 少女は葛葉を見つめた後、そっと笑って葛葉に何かを差し出した。

 

 開かれた少女の手にはパンをちぎった欠片があった。

 

「ははっ……何が言いたいんだよ、それ」

 

 葛葉は力が抜けたような笑みを溢し、少女の前にうなだれる。少女はそのほほ笑みのままいつまでもパンの欠片を差し出し続ける。

 

「葛葉」

 

 頭上からかけられた声に葛葉が顔を上げた。

 

 こちらを見下ろす叶の顔は影になりつつも、葛葉の諦めを肯定する慈愛に満ちていた。

 

「んだよもう。叶ぇ……お前、これも初めてじゃないんだな」

「まあね」

「打つ手なしってか」

「ごめん」

 

 葛葉は再び項垂れる。が、そこで葛葉は肩を震わせ、笑い声を漏らし始めた。

 

「葛葉?」

 

 心配する叶の声も笑うように、葛葉は声をあげて笑い、立ち上がると、すっと笑みを引っ込めて叶に言った。

 

「嘘だな」

「……いや」

「俺を見ろ」

 

 葛葉は叶の後頭部を掴むようにして引き寄せると、目を見開いて至近距離から叶の瞳を覗き込む。

 

 魅了か……⁉ 警戒し、対策術式を組み立てようとした叶だったが、怒りの滲んでいた葛葉の表情がふっと緩んだ。

 

「わがまま言うけど、俺はもっとお前を信じたい」

 

 わけもわからない様子の叶に対して、葛葉は背後に親指を突き立てて言った。

 

「それ、俺のじゃないんだわ」

 

 そうして葛葉は鋭く伸ばした両手の爪を構え、苦しい笑みを浮かべて魔女の方に向かって行った。

 

 置いていかれた叶は先ほどの葛葉のように項垂れ、そこに差し出された小さな手のひらとパンの欠片を見る。

 

 少女の表情は柔らかく、彫像のように固まってさえいなければ自然な笑みに見えただろう。叶が恐る恐るパンの欠片を受け取ると、少女は何事も無かったかのように壁を舐め始めた。

 

 パンの欠片はかびが生えているうえに、少し土が付着して色が変わっていた。しばしの間、叶はそのパンを見つめたが、背後では葛葉は魔女に弄ばれており、ましろは葛葉をからかう材料として焦らすように窯へと追い立てられていた。

 

 叶は、パンの欠片を噛まずに飲み込んだ。

 その瞬間、叶はプールへ落ちる。

 

 光は水面の向こうに白く揺蕩い、いつからも、いつまでも、水に沈む叶の視界にただ在り続けようとする。

 

 その揺蕩いを中断するように、水面は突然大きく揺れて、遅れて音が水を通して伝わってくる。

 

 叶の眼前には少女がいた。少女は口から小さな泡を零し、何かを口にする。聞こえない。また聞こえない。笑い声のような、泣き声のような、言葉になる前の音はいつだって霧散し、水の泡となって消えていく。

 

 が、少女が軽く笑うと世界から音が無くなった。あれだけざわついていた水の泡ももう聞こえない。少女は水の中にあって、はっきり叶に言葉を伝えてきた。

 

「あの人に伝えて。私の名前はナーサリー・ライム。かつての子供部屋で生まれた読み物たちの総称、あるいはその守護者だった者の名よ」

 

 途端に泡が耳元で弾け、世界に音が戻ってくる。

 

 激しい金属音が打ち鳴らされる。背後で葛葉の爪を魔女が杖で受け止めていた。葛葉が必死な表情を浮かべているのに対して魔女は蔑むような笑みを浮かべている。

 

 叶の足元には、膝立ちになって壁に舌を這わせる少女がいる。

 

 違う、僕じゃない……!

 

 叶は思い出し、ましろの方を見た。

 

 既に檻のほとんどは窯の炎にくべられており、宙に浮かぶ檻の隅にましろは突っ立ち運命の時を待っていた。そんなましろの横顔へ、叶は叩き付けるように呼び掛けた。

 

「ましろさん、呼び掛けてください! 彼女の名前はアリスでもグレーテルでもない! 彼女の本当の真名はナーサリー・ライム! ナーサリー・ライムです!」

 

 ましろの目がハッと生き返り、叶の方を向く。

 

「おっとぉ?」

 

 魔女もまた葛葉を相手にしながらも面白そうに事態の推移を見守るようだった。

 

 ましろは檻を掴み、手の甲をかざす。手の甲に残っていた一画の令呪が光を放った。

 

「令呪をもって命じる! ナーサリー・ライム、僕の言葉を聞いて!」

 

 言葉が届いたのだろうか、一心不乱に壁を舐めていた少女が動きを止めた。その小さな背中に、ましろは縋るような声音で呼び掛けた。

 

「僕はまだ、君たちを憶えてる……」

 

 少女はゆっくりとふり返った。そこに浮かぶのは笑みと、そして涙だった。

 

「ありがとう」

 

 少女がそう言うと、その手元に御伽噺の表紙の本が現れる。

 

 少女は本を開き、ページの上に手を置いた。すると、本から放たれた温かな光が少女の全身を包み込む。光は家の中を眩く照らした後ですぐに消えていく。だが、光が消えた後に屈んでいたのは貧しい村娘の身なりのあの少女ではなく、ゴシックドレスに身を包む白髪の少女だった。

 

 少女は浮遊する本を手に取ると、本を閉じて胸に抱き、立ち上がった。 

 

 少女が手をかざしただけでジェリービーンズの檻は弾け飛び、ましろは解放されて床に投げ出された。少女はそれを認めると、一歩進み出て魔女を睨みつけた。

 

「おやおや、おはようございます。お目覚めはいかがですか~?」

 

 馬鹿にするように絡んでくる魔女に対して少女は怒りに顔をゆがめる。

 

「最悪よ、最悪! よくもやってくれたわね……!」

「いやいやぁ、この期に及んで何を言ってるんだか……魔女に愛されお菓子を頬張るグレーテル、すごく幸せそうでしたよ?」

「それは……だって……」

 

 少女は肩を震わせてうつむく。が、自分の震えに気づくと歯噛みして顔をあげ、再び魔女へと向き直った。

 

「認めましょう。私には、貴方に利用されるような弱さがあった。きっと置いていかれるのが寂しかったんだと思う。でも、私の、ナーサリー・ライムの本当の願いはいつだって……誰かの為の物語になることだから」

 

 言葉につっかえる少女に、意外にも魔女は優しい声音で促した。

 

「だから?」

「だから……」

 

 少女は落ち着き、強い覚悟を宿した瞳を魔女に向けて言い放つ。

 

「ごめんなさい、貴方の物語を閉ざすわ」

 

 少女の肩にマスターであるましろの手がそっと手を置かれた。そして、二人の両隣には葛葉と叶が並び立った。

 

「残念ですよ、ほんとうに。可愛くて従順で……いい子だと思ってたのにな」

 

 魔女は嘆くような表情で言うと、杖を指先でくるくると回しながら上に翳した。

 

「でも、本編はここからなんですよね」

 

 魔女の掲げる杖の先端が淡い輝きを放つ。それと連動して頭上の屋根が四方にゆっくりと切り開かれ、室内に月光が降り注いだ。

 切り開かれた屋根はそのまま四方の壁を巻き込みながら倒れていき、お菓子の家だった壁は安っぽいセットのようにバタンと草原に展かれていった。

 

 そこから世界は変化する。 

 

 倒れたキャンディブロックの内壁は次々と草原を侵食し、地の果てまで広がっていく。

 

「マジか……」

 

 圧倒され、葛葉は苦笑する。

 

 広い草原だったなだらかな地形は、今や見渡す限り一面に青白い月光に包まれたキャンディブロックへと変わっていた。

 

 その中心、巨大な月の真下に立つ魔女は、不敵な笑みを浮かべながら杖を大きく、大きく回す。

 

 地面が揺れる、夜空が揺れる。

 

 夜の果てに咆哮が響く。続けて二つ、鳴りやまない。それはあらゆる方向から聞こえ、どんどんと大きくなっていく。やがて見えた、青白く光を放つ地平線を覆う黒い影の群れ、針金を束ねたような巨人や影で出来た触手で地を這う獣たちの大群が。

 

 魔女は軽やかに言い放った。

 

「喰らい尽くせ、エンティティ」

 

 葛葉が悲壮な覚悟をその目に宿して爪を構えるが、葛葉を止めるようにましろが手で制した。ましろが目で少女に合図する。

 

 少女は自らが持つ本を見下ろし、大事そうに指で表紙の文字をなぞり、唱え始めた。

 

「繰り返すページのさざなみ、押し返す草のしおり……これが、貴方のための物語になることを願って」

 

 少女は魔女を見据え、そっと呟くように呼ぶ。

 

誰かの為の物語(ナーサリー・ライム)

 

 少女が本を放る。何回転かした本は少女の頭上の高さを越えて落下する、そうかと思えば、本はキャンディブロックの地面の中に溶け込むようにして消えていった。

 

 鳴り響く鐘の音が一瞬押し寄せてくる怪物たちの咆哮を消し去った。続いて笛の音に、軍靴の揃えられた足音が地面を揺らす。

 

 葛葉は勢いよく、叶はゆっくりと頭上を仰いだ。幾つもの鐘の音が夜空を覆う。星々がチカチカ瞬きながら大きくなっていく。

 

 星と見紛うばかりに夜空を照らし出す彼らは、背中に羽根を生やした天使たちだった。

 

「おいおい、メルヘン過ぎだろ」

 

 葛葉が突っ込むように言うが、叶が肩を落として言う。

 

「今更でしょ、もう」

 

 夜空を飛び交う天使たちが次々と怪物たちに矢を射かけていく。そして、地の底から行進してきたブリキの兵隊たちがずらりと整列し、大砲の導火線に一斉に火をつけた。

 轟音と共に夜の果てが炎に包まれる。

 接近してきた敵陣を見て取ると、兵士たちは号令に従って剣を抜き、突撃していく。

 

 なんだ、これ……こんなの、知らない。

 

 叶は夢を見ているようだった。天地から息もつがずに現れる御伽噺の登場人物たちはみな、恐れを抱えながらも敵に立ち向かっていく。こんなルートがあるなんて思いもしなかった。

 

 ……ひょっとすると、浮かれていたのかもしれない。勝てる……まさか、本当に? 叶の口許は自然と笑みを浮かべていた。が、そんな叶を見て魔女は悪戯っぽく笑う。

 

 魔女が杖を一振りすると、そこから現れた黒い怪物の波が兵隊たちを押し流していった。

 

 夢から覚めたように叶が周囲を見渡すと、サーヴァント、ナーサリー・ライムが息も絶え絶えに地面に屈み込み、それをましろが支えていた。

 ましろも酷い有様で、恐らくわざと魔力を暴走させているのだろう。あちこちの血管が裂けて黒い血を滲ませていた。

 

「叶」

 

 呼び掛けに応え、叶は隣に立つ葛葉の方を見る。

 

「やっぱりお前はすげーよ。お前の言うとおりだった。確かにこの世界には明日なんか来ないのかも」

 

 突然意見を翻した葛葉の真意がわからず、重い表情で葛葉を見つめる叶だったが、葛葉はそれを茶化すように笑い、ナーサリー・ライムへと合図する。すぐに葛葉の手元に武器が二つ現れる。

 

「悪ぃけど、俺はお前に言いたいよ。ひょっとしたら呪いになっちまうのかもしんねえけど、でも、これだけは言わせてくれ」

 

 右手の剣を肩にかけ、左手のファンシーな小銃を魔女へと突き付け葛葉は言う。

 

「諦めないでくれ。俺を……で、お前をな」

 

 叶が何かを言い返す前に、小銃が連続で光を放ち、魔女の足元からカラフルな爆発が次々と巻き起こった。

 

「オッケー、全弾外した」

 

 煙が晴れてそこに立つ魔女を見たとき、葛葉は強がるように笑い、羽根を広げて飛びあがった。

 

 童話の人物たちと怪物たち(エンティティ)、空を飛び回る葛葉をどこか遠くに眺めながらも、叶の中に沸々と湧き上がる感情があった。

 

 叶が振り返ると、ちょうどましろと目が合った。ましろは意外そうにしながらも笑みを浮かべ、叶を指差す。

 

 両手にのしかかる重みから、叶は手元を見下ろした。先ほどの葛葉が受け取っていたのと同系統のファンシーなスナイパーライフルだった。

 激しい戦場の中にありながらも、ライフルの動作確認や弾丸の確認を黙々と済ませ、叶はライフルを片膝を立てて構える。

 

 スコープ越しに見る委員長は斜に構えた薄暗い笑みを浮かべていた。

 

 まだ浮かれているのかもしれない。心の片隅でぼんやりと思いながら叶は引き金を引く。当然のように杖で張られた防壁によって防がれる。反撃が来る。魔女の杖から生み出された浮遊する目と口は、電流のような光を撒き散らして笑顔の表情を作り出す。大量の笑顔が、叶を嘲笑いながら向かってくる。

 

 しかし、攻撃は全て叶の前に進み出たトランプ兵たちに防がれた。

 燃えて膝をつくトランプの肩越しに再び魔女の姿が眼に入る。が、叶にとっては他人事のようだった。

 

 浮かれてる……いや、葛葉のセリフに浮かされてるのかも。

 

 叶は自分の中で葛葉のセリフを反復し、また笑ってしまう。ずいぶんと見てきたつもりだったのに、今さらになって葛葉という人間が自分の中で繋がるなんて……。

 

 叶は宙を舞う葛葉を見上げた。一瞬だが目が合う。

 

 諦めない。何度繰り返したっていい。わからないけど、今は葛葉の言う、そういう叶を演じてみたかった。

 

 そうだ……僕も、本当は葛葉の隣に立ちたかった。

 

 葛葉が斬り込んでいくのに合わせ、叶はもう一度引き金を引く。

 

―――

 

 月下の荒野は沈黙する。チェス盤のように広がるキャンディブロックの荒野には、黒い海と化した怪物たちの死体の中に塗れて、童話の主人公や悪役たちが死んでいた。

 

 丘の上で叶はそれらを見下ろしながらも足を進め、やがて立ち止まる。

 

 叶の視線の先には、魔女が両膝をついて月を見上げていた。

 

 魔女は叶を無視するように頭上に顔を向けていたが、叶が口を開こうとしたところでその瞳だけがぎろりと下へ、叶の方に向けられた。叶は少し同情的になって言う。

 

「推測ですけど、魔女の役目に押し込まれたときに無限との接続は切れていましたね。ストックしてた魔力だけで戦ってたんですか」

 

 叶は一度目を瞑ると、再び歩みを進めて魔女に接近し、呼び掛ける。

 

「魔女……いえ、委員長」

 

 そして、拳銃をその額に突き付ける。

 

「わたくしは魔女ですよ」

 

 あくまでもそう言って、魔女は穏やかに笑って見せる。だが、叶の表情は変わらない。そうした叶の態度を受け入れるように魔女は頷いた。

 

「叶さん、取引をしませんか?」

「……一応、聞いておきましょう」

 

 魔女は立ち上がろうと地べたに手をつくが、喉を引き攣らせて咳き込み、血を吐く。血に塗れたキャンディブロックをどんよりとした目で見つめ、結局座ったまま、淡々とした口調で言い放った。

 

「このあと、葛葉さんを生き返らせます」

 

 叶は少し呆れたように言う。

 

「はぁ……そんなことまで」

「そりゃもう、時間さえあれば何だってできますから。で、その後はあなたたちが自由にできる世界を一つ、差しあげますよ」

「その代わりに、見逃せと」

 

 魔女は何も言わずに微笑んだ。叶は今までの葛葉と歩き、話し、長い時間を過ごしてきた迷宮のことを思いながらも、首を振る。

 

「ごめん。葛葉はそういうの、嫌がるだろうから……」

 

 叶の答えを聞いた魔女は、意外にもさらりとした態度で笑った。

 

「うん。知ってた」

 

 そうして、伏し目がちに俯くと、ため息をつき、ぽつりと言った。

 

「あの子の言ってた通り、ここで終わっちゃうんだ。やなんだけどな、死ぬの」

「仕方ないですよ」

「仕方ない……?」

 

 そこで魔女の瞳がほんの少しの悪意でもってきらりと輝く。

 

「それ、わたくしが悪役だから?」

 

 違う、そう答えようとした叶だったが、冷静になってその言葉を呑み込んだ。

 本当にわからない人だと思う。ここまで来てまだ他人の反応を楽しもうとするだなんて。

 叶にとってはこの流れを望んでいたわけではなかったが、あえて、質問には答えない形で言いたかったことを言った。

 

「いい悪役だったと思いますよ。それこそ、一生忘れられないくらいに」

「はは、そっかぁ」

 

 魔女は笑い、再び月を見上げる。魔女は頭上を見上げた姿勢であからさまにがっくりと肩を落とした。そうして、今度まっすぐに叶を見つめるその瞳は、もう夜空を映し出したようなあの色に戻っていた。

 

 魔女は泣き出しそうなほどに目を潤ませながらも、今までで一番明るい表情で言った。

 

「不思議だなぁ……そんな言葉が慰めになるなんて、思いもしなかった」

 

 叶は言葉を返さず、二人は沈黙する。やがて、叶は耐えきれないというようにふふっと笑った。

 

「それで、時間稼ぎは終わりですか? もういいでしょう」

「バレてた⁉」

 

 魔女は悪戯がバレた子どものように慌てた様子で空へ浮上する。

 

「こんなところでくたばってたまるかってぇの! わたくしにはなぁ、まだやりたいことがたくさんっ……」

 

 魔女は焦りながらも砕けた月の兎の杖を持ち出すと、それを振るおうとし、そして、叶の放った銃弾に額を撃ち抜かれた。

 

 墜落した魔女の瞳が色を失っていくのを見て、叶は頭上を見上げた。

 

 月が崩壊し、夜空に穴が開いていく。ナーサリー・ライムも魔女も死に、この世界を支える者はいなくなった。ここはもう間もなく、虚空に満たされる。

 

 これでこの物語は終わるのだろう。僕の物語も、いずれは終わりを迎えることになる。でも、それまでは……。

 

 崩れ落ちていく月を見上げて、叶は口にする。

 

「戦い続けるよ、葛葉」

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