天から降りてきた暴風の渦は教会の壁を剥がし、建物をあっという間に解体していく。その中心で、夕陽リリの髪は静かに揺れていた。夕陽リリの頭上には黄金に艶めく聖杯があった。夕陽リリは恐る恐る、聖杯へ手を伸ばす。
カチ、と軽く夕陽リリの爪にあたり、聖杯は呆気なく夕陽リリの手に収まった。覚悟をしていた重さよりもずいぶんと軽い、だというのに、このわざとらしく厚みを持たせた小さな杯が、本当に人の願いを叶えられる代物であることがわかってしまう。
「これで、ほんとうに……?」
夕陽リリは聖杯を目の前まで持ってくると、目を見開き、疑い半分、希望半分の眼差しで、しかし、差し迫った時間に圧されるようにして願いを告げようとした。
「お、おね……」
「待て」
夕陽リリの首筋に刀が突きつけられる。それは斬られたら終わりなのではなく、触れたら終わりの刀であり、それが意味するところは……。
「勝手なことをするな。それをこちらに渡してください」
他意がないことを伝えるためにあえて軽い調子で振り返った夕陽リリが見たものは、険しい目つきをした剣持刀也だった。
「はいはい。わかりましたよ」
降参、とばかりに肩をすくめてみせ、聖杯を渡そうとする夕陽リリだったが、剣持が言う。
「投げて渡せ」
夕陽リリはため息をついて聖杯を宙へ放った。放られた聖杯は放物線を描いて剣持の方へ落下していき、そして、剣持の振るった刀に触れて虚空の内へと消えていった。
あのとき自分は何を願おうとしたのだろうか。もしもあのとき、止められなかったら……。
大理石の薄暗い廊下は天井が高く、長い裾を引きずって歩く夕陽リリの些細な足音も空間上に響いて聞こえてくる。
裾と袖口に膨らみを持たせた軽やかなドレスに頭から被ったベールは夕陽リリの視界に薄くかかる。足元でちかちかと揺れる青と金のささやかな光は、衣装全体で交錯する金の縁取り装飾と雨のような淡いブルーの紋章だった。
夕陽の意識を引き戻したのは耳に装着した通信機器から聞こえた声だった。
「ちゅっちゅ~、お疲れ様お疲れ様。どうだった? みんな元気?」
夕陽は立ち止ると、一拍置いて返答した。
「家長……他に誰かいなかったのか? 私に信者の相手なんか無理だろ」
「えへぇ⁉ い、いなかったんだよぅ、じゃない、そんなことないよぅ……リリちゃん意外と面倒見良いし、用意した服もちゃんと着てくれたじゃんー」
「それはそれ、これはこれ。私はこれで懲りた。次からは暇してるヴァンパイアにでも声かけなさいって」
「そ、そんな~」
泣き言を言う家長むぎもいつものことだった。本当に泣いてるわけじゃない、家長は教団をまとめる幹部の一人なのだ。そこまでやわじゃない。
「それで、アポイントメントはどうなりましたか?」
急に他人行儀な言葉になった夕陽に反応して、家長は言った。
「あ、お庭で待ってるよって。そう言ってた!」
「そっか。ありがとな」
「ううん、こちらこそだよ。今回は本当に助かったんだから。またお願いするから、気が変わったら信者さんのお話も聞いてあげてよ」
「いやだね」
「うふふー。じゃあまたね~」
「ああ」
通話は切れる。再び足を進めようとした夕陽リリだったが、ふいに妙に高い男の声がかかる。
「やあ君かい? 聞こえちゃったんだけどねえ、ヴァンパイアを呼んだかい?」
夕陽は萎えたように肩を落とし、あえて、頭上を見ないまま歩き出した。
「おや、失礼だね君ぃ。人が話しかけてるんだから立ち止ってこっちを見てくれてもいいんじゃないかい?」
「いやですよ。見上げんのだるいから」
「うわっ、何て言い草だい。そんな子に育てた覚えはないよ、ったく」
「私もあなたに育てられた覚えがないんですけど?」
夕陽の頭上からは声とともに、恐らくわざとだろう、夕陽リリと歩調をぴったり合わせた硬質な足音が聞こえてくる。仕方なく夕陽が頭上を見上げると、天井から逆さまに立っている大柄の男と目が合う。
逆さまに垂れたマント、黒と赤を基調にしたジャケットは貴族のようだ。その男は白髪に紫の肌といった相貌を持つ異人、その口元からは鋭い牙を覗かせる……ヴァンパイア、ギルザレン三世だった。
「で、なんの話をしていたのかな?」
ギルザレンが赤い目を光らせて笑う。見た目に反した少し高い声はコウモリの鳴き声のように天井の辺りで反響する。
「ザレンさん、教団は人手不足です。少しは働いたらどうですか?」
「はっ、働くだってぇ⁉ い、いやぁ~、勘違いされると困るなぁ、君。これはヴァンパイアのような幹部が働かないことで、君みたいな働き過ぎな幹部や信者たちを休んだっていいんだと勇気づけるための、そう、役割なんだよ。この役割はヴァンパイアにしか果たせないんだ。たまには夕陽くんも休みを取りなよ。一緒にお茶しようじゃないか!」
「こっちにまで仕事が回ってきて休めないんですけど」
「あ、うぅん……」
しゅん、としながらヴァンパイアは目を逸らす。
「ま、まあヴァンパイアシークレット枠だし、教団の最終兵器的なアレだからね。むやみにこの姿を人目にさらすなと厳しく、厳し~く言われてるんだよ」
「はいはい、と」
夕陽リリは歩き出すが、ヴァンパイアはその場から動かず夕陽リリを見送るように見つめていた。それにクスリと笑い、夕陽は振り返って言う。
「私は今から中庭です。ザレンさんも後で来てくださいよ。今後の話とか、色々打ち合わせしたいこともありますし」
「打ち合わせ⁉ ヴァンパイアとかい? いいよいいよ! このヴァンパイアが夕陽くんの力になろうじゃないか!」
「ええ、期待してますよ」
そう言って、上機嫌なギルザレンをその場に残し、夕陽リリは中庭へ向かった。
―――
薄暗い回廊に金木犀の香りをした風が吹き込んでくる。夕陽リリは先ほどまでのうんざりした気分も忘れ、中庭へと足を向けた。陽射しの下に体をさらし、一瞬目を瞑るが、目蓋の上が温かいのに気付いてゆっくりと目を開ける。
両端に金色の花びらを散らした石畳が陽を照り返していた。石畳は中庭の中央まで続き、そこにはお茶ができるようにとテーブルと椅子が設えられている。既に席に着いている彼の姿を認め、夕陽リリは少しほっとした。
「お待たせしてしまいましたか?」
呼び掛けて、夕陽リリは向かいの椅子を引いて腰掛ける。庭の木々を見つめていた彼は、透明感のある緑の深い瞳をそっと夕陽リリの方へ向けた。
「ああ、リリおねえちゃん。大丈夫、そんなに待ってないよ」
「それはよかった」
そう言いつつも、夕陽リリはまじまじと彼を見てしまう。
彼が笑って頭を傾けると、ふんわりとした金色の髪もまた傾いて肩に掛かり、フリルの付いたブラウスの胸元で、垂れたちょうちょ結びの赤い紐が小さく揺れた。下には切れ込みの入った赤いチェックのショートパンツを履いているのもあって一見女性にも見まごう彼、鈴谷アキは男の子だった。
「リリおねえちゃん」
アキの少し掠れながらも、こちらに柔らかく触れに来るような声が呼び掛ける。夕陽はハッとして笑ってごまかした。
「すいません、少しぼーっとしてたみたいで」
「そうなんだ。全然働いてない僕が言うのもなんだけど、少し働き過ぎじゃない?」
先ほどの吸血鬼の言葉が頭によぎり、夕陽は思わず苦笑して言った。
「さっきどこかの誰かさんにもおんなじこと言われましたよ」
きょとんとするアキを見て、夕陽は言う。
「いえ、私のことは良いですって別に。それより鈴谷アキさんのことです」
「アキくんでいいよ」
「……アキさん」
「そ、わかった」
アキはプイとそっぽを向くと、紅茶の入ったティーカップを手に取って口をつける。
「アキさん……?」
夕陽リリが呼び掛けてもアキは返事をせず、ティーカップに口を付けたままでわざとらしく庭の花に横目をやる。
「ア、アキくん……」
夕陽がためらいがちに呼ぶと、上機嫌な笑みを浮かべてカップから口を離し、アキが顔を向けてきた。
「なぁに?」
「あ、えと、その……」
少し、この流れからは言い出しづらかったが、夕陽は表情が重くなるのを感じながらも言う。
「伝えていたことは、考えてくれましたか?」
アキがティーカップをソーサーに置く。陶器が軽く触れあう音がし、アキが少し視線を落とす。
「うん」
ゆっくりとカップから離れるアキの線の細い指。
「考えたよ。考えたけど、僕にはどうもね」
「まあ、わかりますよ」
夕陽リリもまた視線を落とす。二人の視線がアキのカップの中に注がれる。アキは指先で軽くカップを揺らし、紅茶に小さな波を立てて言う。
「リリお姉ちゃんの用意してくれた避難先にも人はいるんでしょ? 全員殺されちゃうよ」
「っ! そんな、ことは……」
ないとは言えなかった。言葉に詰まった夕陽を見てアキもまた悟ったように言った。
「いいよ。覚悟はしてた」
夕陽リリはテーブルの下で拳を握り込んで震わせた。
「……剣持先輩に、四六時中付いて守ってもらえば、あるいは」
「本人は言えばそうしてくれるだろうけど、でもね、リリお姉ちゃん」
アキは少し哀しそうな目で笑う。伏し目がちに、夕陽リリを見つめて。
「僕にもプライドがあるんだ。ちっぽけなプライドなんだけどね」
夕陽がテーブルの下で固く握っていた拳はゆっくりと解かれていく。二人が目を合わせないまま中庭の時間が過ぎていく。
「リリお姉ちゃんの言ってることは信じるよ。刀也お兄ちゃんは強いけれど、あれで不安定なところがあるから」
「そう、ですね」
「うん」
甘かった……。人を駒のように動かして、やり直せるからやってみればいいとろくに考えずに突っ走っていたのかもしれない。ゲーム感覚で? 馬鹿なのか? 考えるほど自分が嫌になってくる。
俯いて黙り込んでいた夕陽リリだったが、アキが見つめているのに気付いて慌てて顔を上げた。とにかく、一度計画を見つめ直さなければならなかった。
「アキくん、その……今回は」
夕陽が言いかけたところで、爆発音が空気を揺らし、遠くで巨大な火柱が噴きあがったのが見えた。夕陽の耳に装着した通信機器から切迫した声が聞こえてくる。
「リリちゃん⁉ 結界が破られた! もう入ってる、中庭に向かってる!」
「なつ、家長⁉ 向かってるって、誰が」
「わからない、そっちにはギルザレン三世を向かわせてるから! お願いだから早くそこを離れて!」
通信はそこで途切れた。夕陽リリはすかさずテレポート先の指定にかかるが、目の前に座るアキに気づいてハッとした。
テレポートは夕陽リリ一人しかできないのだ。
「ここに来るんだ……」
アキは落ち着いた様子でカップに口をつける。
「飲んでる場合じゃない、早くここから離れないと!」
夕陽リリがアキの元に駆け寄ろうとしたとき、どこかから女の怒声が聞こえてきた。
「くそぼけ剣持出てこいやー‼」
夕陽リリは一瞬身を強張らせるが、席についたままのアキに身を寄せて周囲を警戒する。
「なんだ、今の声」
鈴谷アキが頭上を見上げて呟いた。
「刀也お兄ちゃんをあんな風に呼ぶのなんて、一人しかいない」
夕陽リリもまた頭上を見上げ、慌ててアキの体ごと地面に身を投げ出した。
中庭に女が降り立った。同時に今までお茶をしていたテーブルに切れ目が入り、真っ二つになる。
「
夕陽が目を震わせてその名を呼ぶ。
樋口楓と呼ばれた女は二つに分たれたテーブルを背にして立ち上がると、振り返って二人の方を見た。
中庭にさらさらとした銀色の髪は舞う。すらりとした袴のような黒のロングスカートに丈の短い上衣を纏う和装の軍人……彼女は軍帽のつばを抑えて深くかぶり直すと、片手に握った刀を背負い、軽く頭を傾けた。
アキを背にし、じりじりと後退していた夕陽リリだったが、さらにもう一人、いや二人、樋口楓の背後に降り立つ。
一人は筋骨隆々の大男だった。肌面積の少ないトランクスだけを身に着けたその体はボディビルダーのように仕上がっており、顔にはガスマスクを装着していた。
そして、男が地面に手をついて四つん這いになったその背に腰掛けたのは、青みがかった紫髪の女だった。こちらはネクタイを締めたシャツの上にワンピースのような洋装の軍服を纏い、黒いマントを羽織っている。やはり、頭の上には乗っけたように傾いた軍帽を被っている。
夕陽はもはやどうにでもなれとばかりに呟く。
「と、
その女、静凛が足を組むと腰のベルトの金属チェーンがチャラ、と鳴る。凛は漆黒の乗馬鞭を取り出すと、その先端の方形を手のひらに納め、黄色い瞳を輝かせて言った。
「アキく~ん、迎えに来たよ」
その一言を聞いた瞬間、夕陽リリは銃を取りだして引き金を引いた。
青白い光弾が凛に向けて突き進む。凛は一瞬興味深そうな目を夕陽に向けるが、すぐにどうでも良さそうに目を逸らした。
果たして、光弾は女を背に乗せる大男の巨大な手のひらに握りつぶされた。男の開いた手には出血はおろか、火傷の跡すらついていない。
「嘘だろ……」
夕陽リリは唖然として銃を握る手をゆっくりと下ろす。一方、凛は笑って言う。
「ムダムダ~。この子はブートキャンプ七年生だからね。その程度の攻撃じゃかすり傷もつけられないよ」
続けて凛は嘆くようにいった。
「それに引き換え、ここの人たちは全然だめだよね。こっちにも虚空教のスパイが何人か潜り込んでたみたいだけど、筋肉がまったく育ってないんだもん。ブートキャンプ一日目でみんな心が折れちゃった。いい? 筋肉っていうのは……」
凛はそこからいかに筋肉を鍛えることが大切かを語ろうとするが、それを遮るように電話が鳴り響いた。
「んー?」
不機嫌そうに凛は懐から取り出した電話に出る。
「あーそんな感じ。うん、おけおけ……あ、首尾はどう? うん。うん。あ、それはねえ……」
そこで凛は夕陽リリの方を見てにやりと笑った。
「もっちろん。全部燃やしちゃって。汚物は消毒だぁー♪ って感じで。うん、はいはーい、じゃーねー」
凛が電話を切ると同時に、教団の建物内で爆発が連続して起こり、次々と火の手が上がる。陽の差していた中庭にも物の焼ける匂いが充満し、降り注ぐ火の粉が木々に引火してあちこち燃え始めた。
「そっか、剣持おらんねんや。どっちにしても凛の言う通りプラン2やったなぁ」
少し萎えたように言って楓が刀の切っ先を鈴谷アキに向けた。今にも戦闘が始まりそうな緊張感の中、夕陽リリがストップをかけるように言う。
「待て、お前ら、何の目的でここまで……」
「うん?」
と楓が凛と顔を見合わせる。
「どうぞお好きに?」
と凛は言った。
楓はいったん落ち着くように足を揃えて立つと、気だるそうに言った。
「あー、うちらは執行者として剣持刀也と鈴谷アキの二名を捕縛・あるいは始末するためにここに来た……みたいな感じやっけ?」
そして、自信無さげにもう一度後ろを振り返る。
「うん、合ってる。でも違うよね?」
静凛は頷きながらも楓に笑いかけた。
「ああ、そうや……」
楓は目を瞑って深く頷くと、再び夕陽とアキの方に目を向けた。
「剣持もおらんし、言っても仕方ないんやけどなぁ。でも言わずにはおれんわ」
楓がこちらに向ける刃先から凄まじい殺気が放たれ、夕陽は思わず身がすくみそうになる。楓は瞳孔を開き、感情を押し殺したような声で言う。
「みとちゃんをかえせ」
その言葉の意味を知らないものなどここにはいなかった。夕陽リリは言葉の圧に押されながらも空笑いしてしまう。
「はは、そういうこと……」
なんだよ、もっと早くに聞いとけばよかった。
夕陽は目の前の二人に同情し、その上で厄介なものを背負い込んできた剣持刀也を恨まずにはいられなかった。