暗闇で磔にされた肢体。ましろの金の瞳は笑って一点を、夕陽リリを見つめていた。その笑いもじき固まっていく。
戦闘の喧噪や不快なほど滑らかな詩の朗誦も、全ては不安定な電灯のノイズに塗りこめられていく。夕陽リリが目を開けたときにはいつも通り、世界は一つなぎの黄色い部屋の中に収められていた。
周囲に誰もいないのを確認し、夕陽は移動を開始する。
どこにも到達することのないこの空間を、夕陽の淡々とした歩みは目的地があるかのように進んでいく。夕陽は矢印の書かれた壁をちらと見上げると、迷うことなく矢印とは反対方向へ曲がった。
怪物の声も、仲間の声も聞こえない、夕陽のカーペットを踏む籠った足音と、呼吸の音が小さく鳴るだけだった。
夕陽は足を止める。入り組んだ通路を何度も曲がったその中心には、何もない。四方を壁に覆われた方形の部屋があるだけだ。夕陽リリは臆さずに部屋の中央へ。そこで、夕陽の踏み出した足は床を踏まずにすり抜けた。
夕陽の身体が浮遊感に囚われるのと同時に、夕陽の視界いっぱいに黄色い世界は縦に引き延ばされて、引き延ばされて色を失った切れ目から、白く小綺麗な壁が次々に取って代わっていった。
聞こえてくるのはクラシックのワルツだった。優雅な宮廷をイメージさせる曲調だったが、ノイズが酷く、音飛びしていてどこか落ち着かない。
そうして世界は再び展開する。落下、ではない。初めからその場所に立っていたかのように夕陽はそこにいた。
テナントの入っていないショッピングモールのようだった。がらんどうの空間を白色灯が照らしているが、明らかに数が足りておらず薄暗い。それもところどころ明滅して一瞬暗くなりさえする。
夕陽は奥に見えるエレベーターへと足を向けながら、天井付近のスピーカーを見て首を傾げた。
考えまいとしていたが、かかっているワルツはどこかで聞いたことのあるものだった。それがいつ、どこで聞いたのか思い出せない。あるいは、この世界線のものではない可能性すらもある。艶やかで明るい。ノイズ。ハエのさえずり。音が飛ぶ。プールに飛び込む音? 人間の低いささやきみたいな……。
夕陽はエレベーターのボタンを押した。
チン……と音を立てて開く扉から光が漏れだし、夕陽の背後にすらりとした影が伸びた。やはり業務用に少し広い、小綺麗なだけのエレベーターに見える。
夕陽はエレベーターの操作盤の前に立つと、四階を押した。扉はゆっくりと閉まっていき、床に広がっていった光も消えていく。すらりとした影もまた……夕陽は慌てて影を確認しようとするが、エレベーターの扉は閉ざされた。覗き窓のない真っ白な壁が夕陽の視界いっぱいに広がった。
夕陽は後ずさり、階数表示のランプを見上げ、また一歩後ろに下がって背後の壁に背中をもたせ掛ける。あの音楽はもう聞こえない。重い箱がゆっくり降りていく制御音は、エレベーターの変わり映えしない風景の中に溶け込んでいった。
四階に着き、扉が開く。ガラスに覆われた天井から月明かりが差し込み、プールと白いタイルの床を照らしていた。プールは今の今まで誰かが泳いでいたかのように水面が揺らぎ、タイルには水滴が光っていた。
エレベーターの扉が閉じる。今度は二階のボタンを押す。
二階は暗くて奥が見えなかったが、美術館のように見えた。壁に掛けられた額縁が幾つか、エレベーターの光を返していた。
六階のボタンを押すと、扉はゆっくりと閉ざされた。エレベーターは無機質に夕陽の身体ごとゆっくりと引き上げる。
六階は病院の廊下だった。カツ、カツ、カツ……と遠くから聞こえていた足音が突然止まったかと思ったら、歩調を早めてこちらに近づいてくるのがわかった。夕陽は肩を跳ね上げて二階のボタンを叩き、閉まるボタンを連打し、ついには後ろの壁に倒れ込むように衝突しながら迫りくる敵に銃を向けた。
一瞬、汚れた白衣と女性の足が見えた気がしたが、エレベーターの扉は何事もなく閉まって夕陽を二階へと運び始める。夕陽は気が抜けたように頭上の明かりを見上げるが、やがて息を整えて立ち上がる。銃は抜いたままで、操作盤の前に立って扉が開く時を待った。
再び二階。一見先ほどと変わらない閉館後の美術館のようだったが、夕陽は異変に気付いた。暗闇にもかかわらず、夕陽の視界には壁にかかった絵画がはっきりと見えていたのだ。
どの絵も題材は童話のヘンゼルとグレーテルであり、そこではお菓子の家でヘンゼルが魔女に食べられるシーンが様々なバリエーションで描かれていた。
生々しく焼け焦げた死体に魔女がもしゃもしゃ食らいついているものもあれば、ヘンゼルの開かれた胸郭からお菓子がこぼれだすようなメルヘンチックなものもある。夕陽は自分でも知らず知らず身を乗り出し、絵画の一枚一枚を見ようとしていた.
だが、
「来るな」
と声が聞こえた。それは奥の方にかかっていた絵画の一枚で、お菓子の家の床に膝をつき、虚ろな瞳でこちらを見ている神父の絵だった。
神父を取り囲む床も壁も天井も、ガラスのように艶々と揺らめき、血を滲ませたように真っ赤に染まっていた。家の中でただ一人、膝をついた神父、叶は夕陽リリをはっきりと見据えて言った。
「こちらには来ないでくださいね。後生ですから」
夕陽は息をのみ、絵の中にいる叶を見つめていた。
やがてエレベーターの扉が閉まると、夕陽は強張った体を確かめるように瞬きして首を動かし、十階のボタンを押した。夕陽はぺたんとその場に座り込む。頭をわしゃわしゃとかき、ため息をつく。もうすぐ終わるはずだった。もうすぐ……。
十階に着いても夕陽はすぐに閉まるボタンを押してフロアには目を向けない、いや、見ないようにしていた。静かな波が砂浜に砕け、引いていく。そんな音がフロアからは聞こえていた。
五階のボタンを押す。段取りはほとんど終わっている。次の階が成功かどうか見極めるためのポイントとなっていた。降下が終わり、開かれていく扉を緊張の眼差しで見つめる夕陽リリ。
果たして、五階のフロアには黒い針金を束ねたような影、エンティティが立っていた。
「な、ちがっ……!」
言い切る前に夕陽は自らの手で口を覆った。エンティティは夕陽を襲いもせず、エレベーターに乗り込んで夕陽の背後に陣取った。
扉が閉まる。夕陽は震える指で一階を押した。夕陽の体に下向きの圧がかかる。エレベーターは上昇を始めていた。
夕陽は背後の存在感に冷や汗を滲ませながら、操作盤に体を密着させるようにして立ち尽くす。やがて背後から声がかかった。
「君ねぇ、自分が何をやってるかわかってるの?」
ましろの声だった。だが、夕陽は振り向かない。
「バックルームから逃れたってこの方法じゃあんまし変わんないじゃん……って、本当にそこまで行きたいわけじゃないっていうのはわかってるんだけど。ふぅん」
足音が背後から近づく。息が髪を揺らすほどまで近づいて、ましろは言った。
「僕を誘い出すために揺らぎを作ったんだね。それにしても酷いやり方だよ。こんな強引な中立地帯の作り方……僕より怖いものに目をつけられてもおかしくない」
ましろは次の言葉を続けず、少しの間口をつぐんだ。全身を虫が這いずるような感触が駆け巡るのに夕陽は歯を食いしばって耐え続ける。ましろは何かに納得したらしい。少し明るい声音で言う。
「うん。決まり。僕はもうプレイヤーを降りよう。後のことは好きにするといい……ね、手を出して」
夕陽は困惑する。手はその場で軽く揺れはしたが、上がることはなかった。そんな夕陽を笑って、再びましろが促した。
「これは大丈夫。胸の前に手を」
夕陽は恐る恐る手を持ち上げて、胸の前まで持ってくる。少し汗ばんだ手のひらは自分のものじゃないみたいだった。
夕陽の肩、肘、手首をなぞるように、ゆっくりと腕が伸びてくる。虫が這いずり、食われてぼろぼろになった細い腕だった。腕は夕陽の手のひらまで伸びてくると、そっと小さな何かを置いた。
「欲しかったのはそれでしょ」
夕陽は声をあげそうになるが、何とか堪える。しかし、こんなにあっさりと貰えるとは思っていなかった。ましろは独り言のような呟きを漏らし始める。
「いいんだ。頑張ってはみたけど、アリスちゃんのことをわかってあげられなかった。アリスちゃんは正体を偽ってて言動も嘘ばっかり。今もどうしたいのかさっぱり。向こうは向こうできっと僕のことが怖かったんだろうね。お互いにお互いが何を考えてるのかわからないままで、疑心暗鬼で腹の底を探り合ってたら、先にやられちゃった」
いや、わからない。夕陽にはましろの言葉が何一つ理解できない。今夕陽にくれた物があれば解脱できるのに。儀式での脅迫を予定していた夕陽は自分の心に出来た空白に戸惑っていた。
「なぜ、って思ってるんでしょ。そうだねえ」
ましろはゆっくりと間を置いて、言った。
「勘、かなあ。予言をしようか。残念だけど、どれだけ繰り返そうと世界は思い通りにはなってくれないよ。でもそれは悲観することじゃない。負け続けて、バッドエンドを繰り返して、それでも諦めずに前に進み続けた先で……ある意味、面白おかしい未来が待ってるかも」
答えになってない。夕陽は俯くが、出来ることもない。目標は達成されている。喜べばいいのに、この気持ちは何なのだろう。
「あ、気づかれたね。持ってかれちゃいそうだ……じゃ、僕の出番だ。乗り気じゃないけどね」
どいてね、という言葉になぜか従ってしまい、エレベーターの操作盤を明け渡す夕陽リリ。夕陽の隣に現れたましろは焦点の合ってない目で操作盤を見上げると、一番上の非常呼び出しボタンを押し込んだ。
ベルを打ち鳴らすサイレンがエレベーター内に鳴り響き、照明が落ちて非常用の赤い光に変化する。やがてサイレンが止まると、スピーカーから抑揚のない少女の声が聞こえた。
「……はい」
ましろはにやりと笑って言った。
「グレーテル、僕はここだよ」
通話は切れた。赤い光の中で、ましろはじっと立ち続ける、そして、夕陽の視線に気づくと、夕陽の方へと歩み寄ってきた。夕陽はましろが近づいた分後ろに下がった。
「もう少し後ろにいた方がいいよ。いや、エレベーターの後ろ。そっちね」
恐怖し、訝しみながらも夕陽はましろの指示に従いエレベーター後方へと移動する。ましろはほほ笑んで言った。
「ついに一言も喋ってくれなかったね。まあ、前回が前回だし、当然か」
ましろは感慨深そうに視線を上へ向けた。それで、何か伝え忘れていたことを思い出したらしい、夕陽の方に向き直って口を開きかける。その時だった。
大きな黒い腕がエレベーターの扉を突き破り、ましろの体を握り込んでその手の中に納めた。腕は再びエレベーターの扉へと消えていく。後に残された夕陽は、今の今までましろが立っていた場所を呆然として見つめ、我に返るとエレベーターの扉に開いた大穴から外をのぞいた。
そこは夜の草原だった。風に揺れる草原にはまだ新しい血が点々とどこかに向かって続いていた。
夕陽は深く息を吐き、その場に座り込んだ。夕陽の手の中には薄い光を帯びた卵があった。
〇
夕陽リリは固い金属の扉の前に立ち止まると、上着のポケットに両手を突っ込んだまま、服の背中部分から伸ばした金属製の触手で認証パネルに数字を入力する。間を置かずに扉はスライドして夕陽を中へと招き入れた。
一本道の廊下が続いていた。フードを被った夕陽は歩きながらも建物を注意深く観察する。黒く艶めく床のタイルに柔らかな印象を持たせるクリーム色の壁や天井、点々と備え付けられた扉の横には緑のランプか赤いランプかが点っている。
夕陽は一番奥の扉の前に立つ。再び認証パネルに触手を伸ばすが……。
「はあ?」
夕陽の触手はパネルの表面をこつこつと叩くが何も反応しない。触手の温度機調節能が切れていたかと夕陽は触手をぴとっと頬にくっつけるが、ちゃんと人肌程度に温かかった。指紋も問題ないとすれば……夕陽は目を細めてパネルに顔を近づけると、舌打ちした。
「っはぁー、静脈認証かよ」
まるでそれがたいそうな手間であるかのように夕陽はポケットから重々しく片手を出し、手のひらを拡げてパネルに触れた。
ピッ、と軽い音が鳴って扉は軽快にスライドする。扉は一枚ではなかった。多重の壁を隔てながら何枚もの扉が次々とスライドしていき奥へと続いていく。夕陽は再びポケットに手を突っ込んで長いトンネルめいた通路に足を踏み入れた。
その部屋に入ると空気が少し肌寒く、乾燥したものに変わる。床のタイルやクリーム色の壁は変わらない。だが、その部屋では今までの基地の設備が全て旧式に見えるほどの最新機器がふんだんに使用されていた。
部屋の中央には大型のコンピューターや測定機などが円形に設置され、円の中心には立体的な都市マップが青い光の粒子で投射されている。粒子は微細に揺れながら、変わりゆく都市模様をリアルタイムに反映しているようだった。
都市マップの上にはモニターが幾つか設置されており、画面上にはタイトな白いワンピースに黒いネクタイを結んだSFチックな女の子、
「黛? 夕陽リリさんが来てます」
名前を呼ばれ、フードを被った
「ああ、今日の現場の責任者様だね。どーも。最終調整がもうすぐ終わるところだよ」
夕陽は近くの開いている席に座ると、フードを脱いで言う。
「そんなんじゃないですよ。っていうかこんな辺境な場所でここまで厳重にしますかね」
「敵だらけだからね。特にひどいのはオタクのとこだけど」
「え……あー、虚空教?」
「うん。家長さんだっけ? 現実世界と電脳空間の両方から付け狙ってきてちょっと面倒だったかな。何とか懐柔できないの?」
「えーっとぉ、ちょーっと時間が足りない、かも……そ、それよりも頼んでいたものとかって……」
「はぁ、いいけど別に。それ」
黛が指差したのは、ちょうど夕陽が肘を置いていた機械の上に置かれたタブレット端末だった。夕陽が端末を起動したのを見計らって黛が言う。
「霞、忙しいとこわるいんだけど、映してあげれる?」
「うんわかった」
端末の画面が切り替わり、そこに出雲霞の顔が映し出される。霞は夕陽に向けてニコッと笑って消え、代わりに一つのファイルが画面上に現れた。ファイルに勝手にパスワードが入力されていき、開かれる。
そこには樋口楓と静凛の顔写真と共に、これまでの経歴が記されていた。
幼少の頃に同じ施設で育てられていた二人の人生はある出来事を境に一変する。封印指定の魔術師、ヨーゼフ博士が実験のため二人の親友である月ノ美兎をさらったのだ。
親友をさらわれた二人の判断は早かった。二人は施設を運営するのが協会所属の魔術師であることを突き止めると、取引を持ち掛けた。
「封印指定との取引を口外しない代わりに私たちに魔術を教えて」
それから二人は魔術師に利用される形で協会から汚れ仕事を請け負いつつもヨーゼフ博士の行方を追い続けることになる。
二人が十六歳になったころ、魔術世界で事件が起こった。月ノ美兎が表世界に現れたのだ。
二人は月ノ美兎が生きていたことに喜びながらも会いに行くことができなかった。汚れた身を清算する必要があった。
輝かしい道を行く月ノ美兎にいつか合流することを夢に見ながら、二人は暗い道を突き進んだ。
しかしその努力もむなしく、月ノ美兎は再び姿を消す。
二人の日常は……いや、当たり前だった日常を取り戻すための日々は、まだ終わっていなかったのだ。
端末から顔を上げ、夕陽は背もたれに深く背中を預け、天井を見つめて言う。
「まあ、そうだよなぁ」
天井から控えめに降り注ぐ柔らかい光すら今は眩しく、夕陽は腕で目許を覆った。
「そりゃぁ、敵も色々あるよなぁ」
「あるだろうね」
夕陽は腕の隙間から黛の方を見る。
「黛、これ見た?」
黛はコンピューターにキーを打ち込みながら言う。
「当然。その経歴を漁ってきたの俺だよ? そんな厳重に隠されてたわけじゃないけど、あちこち散らばってて大変だったんだから」
「そうですか」
夕陽が重い表情をしていたからだろうか。黛は作業の手を止めて夕陽の方を見て言った。
「俺はさ、今から俺たちがやることがその二人にとってもいいことだって認識してるんだけど。違うの?」
夕陽はこの男から気を使われたことが信じられず、一瞬真顔になるも、笑みを浮かべて言う。
「いえ、その認識で合ってますよ」
黛も軽く息を吐いて返した。
「じゃあ、よかったんじゃない?」
モニターから二人の方をちらちらと見比べていたらしい、出雲霞が少し言いにくそうに言う。
「ところで、なんだけどさ……二人ともその服、お揃いだったりするの?」
は?
夕陽は自分の服装を見下ろした。機能性重視でポケットのたくさん取りつけられた黒い地のテックウェアに、袖や首元には夕陽のお気に入りの水色が差してある。次に黛灰の方を見た。黛は黒い生地に水色のラインの入ったパーカーだった。
「「全然違う(よ)!」」
二人は同時に言った。
「あ、違うのね」
「そうですよ。よく見てください。黛さんの服にはこれが足りてないんですよ、これが」
そう言って夕陽は金属触手をフリフリと見せつける。
「ね、こっちの方が断然かっこいいでしょう?」
「安直だね。小学生みたい」
「あ?」
「もう、やーめーなって! わかったから。違うのはわかったから。そんなつもりで言ったんじゃないのにー」
霞の声が割って入り、二人は休戦するようにぷいと視線を逸らす。黛が言った。
「卵を置きなよ。マップ中央の装置の上」
「あいよ」
夕陽は何食わぬ顔で投射されている都市の上にずけずけと土足で上がっていく。
「それにしても、今回はかなり上手くやったよね」
腰までを都市の青い光に沈めた夕陽を遠くに見つめながら、黛が言う。
「製作中のゲームデータのハッキングっていったって、社長が公認しちゃってるし、ほとんど横流しに近いよ、これは」
「そーだよ! こんな方法で委員長さんを救出しようとするなんて思いつかないよふつー。人生何週目って感じ」
狙って言ったわけではないのだろうが、霞の言葉に内心冷や汗をかきながらも夕陽はマップの中央まで進み、そこにある校舎を見下ろした。
「ここでいいんですか?」
「いいよそこで。元のゲームがギャルゲーだからね。学校あっての世界なんだよ」
そういえばそうだった……。金髪の御曹司の顔を思い浮かべて舞い上がる気持ちを少し萎えさせながら、夕陽は青い光の校舎の下に卵を設置するための装置を見つけ、そこに卵を置いた。
「同期、始まります……!」
出雲霞の報告に夕陽は思わず振り返る。
「問答無用か、予想はしてたけど。リリさんは念の為離れて」
少し焦りの見える黛の言葉に従って夕陽は慎重に後退する。やがて、街を構成する青い光の粒子は学校を中心にしてゆっくりと渦を巻き始めた。
吸い込まれてる? 雷のような光があちこちで瞬き、ちかちかと小さな光が生まれては消えていく。その青い渦は夕陽には銀河のように見えていた。だとすれば、銀河の中心にあるのはブラックホールなのだろうか。
夕陽は首を振る。これはあくまでも仮想世界で起こっていることをわかりやすく視覚化しているだけで、実際に目の前で起こっているわけじゃない。夕陽は霞に聞いた。
「霞? これ、本当に上手くいってるのか……?」
「いえ、これは……これは……」
夕陽は霞の映っているモニターに目を向ける。霞は目の前にあるデータを読み込んでいるようで、その目は忙しなく揺れていた。
「いい、理解できた。俺から言うよ」
黛が立ち上がり、ホログラムの渦を見下ろして言った。
「この作戦は本来、AIと魔術で極限まで生命を模倣した一つの都市、そこからなる一つの世界を卵に捧げることで、卵の中身を後付けで作り出すものだった。だから段取りで言えば、都市の情報量は卵に吸われて減っていくはずなんだ。でも今、都市の情報量はどんどん増えていってる。それが意味するところは……」
複数の情報を一度に読み取っていた出雲の視点が一点に止まった。
「黛……この情報量、たましい、だよね……?」
黛が画面に食い入るように目を見張り、唇を引き結ぶ。
「都市の情報量増加中、住民の人格データが次々と情報量の高いものに書き換えられていってる!」
夕陽の目から見ても変化は一目瞭然だった。卵はただ吸い込んでいるわけじゃない。渦の中心へと到達した粒子はより強い光の粒子となって吐き出されていたのだ。
黛が声を震わせて言う。
「霞。レイヤーチェックで作ったアカウントの削除を、今すぐに」
霞はハッとして、すぐに操作を行うが、その手は力なく下ろされた。
「だめ……もう届かない」
二つのモニターを見比べ夕陽はやっと理解する。二つのモニターに映されているのは都市の様子だった。
一つ目のモニターでは、室内に設置された大型の装置のモニターに目を覚まさない出雲霞の姿が映されていた。デジタルノイズに乱れる霞の小さな体は、まるで培養槽に浮かべられている実験体のようだった。
もう一つのモニターでは、薄暗い部屋でコンピューターを前に机に突っ伏して眠る黛の姿があった。カーテンの隙間から日が差し込み、眠る安らかな表情をそっと照らしていた。
沈黙が場を支配する。卵による世界の再創造はつつがなく進行している。できることなど何もない。
ここでまず声を上げるのは自分であるべきだと夕陽は何とか二人に向けて声を出そうとするが、その声は突然鳴り出した妙な音楽に遮られた。
ガチャガチャとした前奏は艶やかで怪しいメロディに変化する。美しい、けれど悪意をもって聞くものを深い場所へ誘い込むようなこの音楽は、部屋中のスピーカーから奏でられていた。
「今度はなにが……」
後ずさる夕陽に応えるように霞が報告した。
「ハッキングです! 情報量が多すぎて、とてもじゃないけど防げない……!」
黛は、そして夕陽は、何かに引き込まれるようにゆっくりとモニターを見上げた。そこには画面いっぱいに派手なピンク色の文字で「BB Channel」と表示されていた。