「体は、剣で出来ている」
(I am the bone of my sword.)
唐突に紡ぎ出された男子生徒の言葉に、夕陽リリと黛灰はお互いに相手が理解してることを期待して顔を見合わせるが、二人ともわからないということがわかっただけだった。
「血潮は鉄で心は硝子」
(Steel is my body,and fire is my blood.)
そんな二人に構わず続いていく言葉に夕陽リリの表情が急変する。
「詠唱だ! 黛止めろ!」
黛も事態を察して敵に向けて手を伸ばす。しかし、黛と鏡写しのように手を伸ばしてきた男子生徒の手の平の先で、花びらを模した魔術盾が鮮やかに開かれる。
「お前だったのか」
黛は眉をしかめ、燃やしにかかるが、盾の花びらは強靭に炎を受け止めた。
「幾たびの戦場を越えて不敗」
(I have created over a thousand blades.)
黛の背に隠れる形だった夕陽が前に出ようとするが、その足は止まる。男子生徒の周囲を影の帯が取り巻いた。生徒の背後では間桐桜が敵意に満ちた目で夕陽を睨みつけていた。
「ただ一度の敗走もなく、
(Unaware of loss.)
ただ一度の勝利もなし」
(Nor aware of gain.)
花びらが一枚砕かれる。水色の炎が調子づいて押し寄せるが、次の花びらがしっかりと押しとどめた。炎を間近にして顔色一つ変えず、男子生徒は続ける。
「担い手はここに独り」
(Withstood pain to create weapons,)
「剣の丘で鉄を鍛つ」
(waiting for one's arrival.)
黛の視界を覆うように広がる黒い帯の群れ。黛は防御のための幕を張り、伸びてくる帯を燃やしながらも男子生徒への攻撃を行う。
「無理だろこんなの……!」
黒い帯を切り裂きながらこちらに向けて突き進んでくる光の斬撃が見えた。
これは防げない!
黛は夕陽リリとアイコンタクトを交わすと、瞬間的に帯を一掃する。そして開かれた黛の眼前に夕陽リリがテレポートし、斬撃を叩き斬った。夕陽はすぐに振り返っていった。
「先ほどみたいに私を抱えて飛んでください!」
黛はその言葉を理解する。夕陽リリを帯で捉えて手駒化する作戦が、今の攻防で敵の頭に思い浮かんでいたとしても不思議はない。
黛は夕陽を抱えて再び空を飛ぶ。
敵から距離を取った二人の耳に出雲霞の声が空疎に響く。
「解析完了しました……気を付けてください、固有結界が来ます!」
男子生徒は頭上の二人を警戒したように目で追いながら、あくまでも淡々と詠唱を続ける。
「ならば我が生涯に意味は不要ず」
(I have no regrets.This is the only path.)
黛は次々と放たれる斬撃を躱しながら追ってくる帯を燃やし、さらに男子生徒へと火を向ける。再びガラスの割れるような音とともに花びらが一枚砕かれて……それで、そこまでだった。
「この体は、
(My whole life was)
無限の剣で出来ていた」
( "unlimited blade works")
世界は一変する。
どこまでもたなびいていく雲の狭間に、夕暮れは荒れた地平を焼き尽くし、そこに残された戦士の魂たる無数の剣の形を照らし出していた。
絶望を瞳に映す黛と夕陽から目線を外し、背後の桜と、そして遠坂凛に向けて男子生徒は言った。
「桜、遠坂、二人ともここまでよくやってくれた。だから、ここから先は俺に任せてくれないか?」
戦う気満々だった凛は戦闘態勢を解き、意外そうな顔で腕を組んだ。
「あら、随分と余裕じゃない」
「きっと恰好つけたがりなだけですよ。ね、先輩」
そうして桜がほほ笑んだ先には、一人の男子生徒が、間桐桜の大切な先輩である
「はは……桜には敵わないな」
士郎は照れ臭そうに視線を逸らすが、すぐに自信に満ちた表情で頷いた。
「そ。じゃ、私はもう眠らせてもらいますけどね」
そう言って、遠坂は士郎から遠ざかるように歩き出した。が、少し離れて凛は振り返ると、ビシッと士郎を指差して言った。
「衛宮くん、必ず勝ちなさい」
「わかってるよ」
士郎の言葉に満足したのか、凛は腰に手をあててぷいっとそっぽを向く。そして、その体は青い粒子となって消えていった。
士郎の目は遠くに消えた遠坂からスライドして目の前の桜へ。白い髪に体を黒い帯で覆った桜は士郎に見つめられて、何か? とでも言いたそうに首を傾げた。
「桜はいいのか?」
桜は士郎を見上げ、満面の笑みで頷く。
「ええ、先輩」
士郎は訝しげな眼で桜を見つめるが、はぁ、とため息をついていった。
「そんなにあの敵が嫌いか」
「はい、そりゃもう! あんななめた奴ら、画面越しのアピールじゃとても足りません。この世の悪として正義の刃に刺し貫かれて切り刻まれていくのを、じっくりこの目に焼き付けてやるんです!」
今から起こることを想像して凶悪な笑みを浮かべる桜は、士郎の知っている桜とはかけ離れていた。
「BB……だったか?」
「はい!」
「あんまり調子に乗ってると、痛い目見るぞ?」
「うげっ」
間桐桜もとい、BBは黒いロングコートを羽織った姿に変わり、苦々しい表情を見せる。士郎はそんなBBを放っておいて敵の方に目を向ける。
「悪い、待たせた」
「待ってないよ」
黛が不機嫌そうに応答する。黛の背後では夕陽リリが戦闘態勢を整えている。夕陽リリの周囲でチカチカと光が瞬いたのを士郎は見逃さなかった。
士郎はわざとらしく辺りを見回してから言った。
「この世界が、俺の全てなんだとさ」
黛は士郎から目を離さずに言った。
「曖昧な言い方だ」
「ああ、なんせ急に起こされて記憶がちぐはぐで繋がらない。この魔術だって本当だったら俺には使えない気がするんだけど……」
「けど……なに?」
「今はなんだっていいさ、桜と遠坂を傷つけたお前たちを倒せればな」
士郎が地に突き刺さる剣の一本を抜き放つと同時に夕陽リリは走り出し、黛灰は空へ浮上する。
「黛さん後ろです!」
霞の声に反応して黛は背後に翼の黒い炎を吹きかける。黛の背後の空間から無数の剣が顔を覗かせていたが、それらは炎の一息で灰も残らず消えていく。
黛の周囲で次々と空間が揺らぎ、剣が中空から出現して黛に襲い来る。その全てに反応することはできず、黛は放射膜を張った。ズカズカと膜に突き刺さっては消えていく剣に嫌なイメージが収まらず、黛は目を細める。
そんな黛に無数の剣を射出しながらも、士郎はちらと横目で夕陽リリの方を見る。夕陽は人間離れした身体能力でもってアクロバティックに飛んでくる剣を躱し、跳び上がって二振りの剣での回転斬りを見舞って薙ぎ払っていく。
夕陽と士郎との距離は徐々に詰まってきていた。士郎が夕陽の方に剣を伸ばそうとしたとき、士郎の背後で薄いガラスが合わさるような音がする。
即座に振り返って斬り払おうとした士郎が見たものは、ガラスで出来た蝶だった。蝶は一瞬水色の火花を散らすと、パッと入れ替わるようにその姿が夕陽リリに変わった。
「おっとぉ!」
士郎の斬撃を夕陽リリが受け止める。膂力では夕陽の方が勝り、夕陽は士郎の剣を強引に払いのけ、もう一振りの刀で袈裟斬りにしようとする。
士郎はバックステップで距離を取る。夕陽リリもまた舞い上がって四方から飛んできた剣を躱した。
空中へ逃げた夕陽に士郎が狙いをつける。が、今度こそはっきり見えた。夕陽リリの姿が掻き消えた。
迫ってくる刀の圧を感じ、士郎が咄嗟に剣を横に向けて構えたそこに、重たい一撃が来る。士郎は吹き飛ばされ、地を転がって何とか受け身を取るが、その耳に先ほどと同じガラスの蝶の音が聞こえた。今度は鈴の鳴るようなシャラン……という音だった。
「くうっ……!」
士郎は身を守るように剣を前に突き出しながら、同時にガラスの蝶へと頭上から無数の剣を射出した。
「ってあぶねっ!」
一瞬だけ夕陽リリが現れるが、殺到する剣を見て慌てて転移を繰り返した。
「あの蝶が目印か。直前まで見えないから厄介だな」
口許で呟き、士郎はBBの方を見て問うた。
「BB、今の俺でどこまでいける?」
BBはにやりと笑って答える。
「どこまででも……と言いたいところですが、先輩の知る一番強い剣は残念ながら投影した時点で限界が来ます。けれどそれ以外だったらお気に召すまま、私のおすすめは……そうですね、王を定める選定の剣、なんていかがでしょうか?」
含むような言い方をしたBBに士郎は疑惑の目を向けるが、結局、BBの意図などわからない。
「王を定める……か」
BBの意図通りに動くことに抵抗がないでもなかったが、それでも、士郎は目の前の敵二人を倒したかった。
士郎は決心し、集中を始める。敵二人への射出を続けながらも、深い深い記憶の底へと降りていく。
夕暮れの広場の中央に大きな石の台座は設えられ、台座には半ばまで突き刺さった剣があった。青と金の装飾が夕陽の中に煌めくその剣は、一見すると深々と刺さっているわけではなく、簡単に抜けそうに見える。が、剣は誰にも抜けなかった。たった一人を除いて。
その少年は、あるいは少女は、運命の元に剣に手を伸ばす。誰かがやらねばならなかった。誰かが身を投げ打たねばならなかった。それで全てが上手く収まるというのなら、そうするのが正しいのだ。
少なくとも、選定の剣を抜くことのできる人物は、それが王の定めであることをすでに知っていた。
士郎の手のひらにバチバチと火花が起こり、黄金の光が噴き零れた。黄金の光は士郎の手の中に剣の硬質な柄を生成し、さらにその先へ、刀身を黄金の輝きの中に生み出していく。
「そうです、先輩」
BBは胸の前で両手を組み、祈るように言う。
「先輩こそが、この世界の……私だけの王に相応しいんです」
衛宮士郎は黄金の剣を手に取ると、まずBBに向けた。
「BB。俺の中に武器の記憶ばかり詰め込んだのはお前だな」
「ええ、そうですよー」
にっこりと笑ってBBは言った。
「言いたいことはたくさんあるが、ひとまず感謝しておく。この力でみんなを守れる」
「ええ。それでこそ私の先輩です」
BBは一歩引いて口をつぐんだ……。
士郎は深呼吸し、黄金の剣を構えた。重さはある。けれど剣はその重さを士郎に委ねてくれている。体に充足感が満ちていくのを感じる。剣の重さとは対照的に、どんどん体が軽くなっていく。
士郎の右の首筋にささやかな風の流れが触れる。見えないガラスの蝶だろう。だが、士郎は動かず待つ。そして、視界に入っていた夕陽リリが消えたその瞬間に、士郎は右方向に向けて剣を振るった。
「いってぇ!」
夕陽リリが声を上げる。今度は先ほどとは違い、士郎の剣が当たり負けすることなどなかった。そのまま剣が夕陽を追いかけるように、そこに士郎の体も自然についていくように追撃を始める。
夕陽は振るわれる士郎の剣を躱そうとするが、先ほどのようにはいかない。士郎の剣の振りは先ほどよりも隙が無く、連続攻撃も洗練されていた。
そこで夕陽は焦ったような出雲霞の報告を聞いた。
「解析終了……あの剣、アーサー王伝説で少年アーサーの抜いた選定の剣・カリバーンと特徴が一致してます! それに敵の動き、剣術の評価項目で800%ほどの向上が見られます! これ、もうほとんどアーサー王そのものと言っていいんじゃ……?」
「はっ、チートだろそんなん」
冷や汗を流しながらも夕陽リリは歯を剥きだして笑った。
転移先を読まれて大上段から振り下ろされる黄金の剣を、夕陽は二本の刀を交差させて何とか受け止めるが、押し込まれて体勢が崩れた。続けざまの士郎の斬り上げに対応して夕陽は飛び退って距離を取ると、そのまま士郎の視界を横切るように走り出し、その刹那に刀の一本を投擲する。
士郎はそれを剣で弾く。そして、背後に転移した夕陽に向けて回転するように剣を振るい、その手にあったもう一本の刀も薙ぎ払った。
「夕陽リリ……!」
黛が自身の羽根を大きく広げ、突っ込んでくる剣を次々に呑み込み始めるが、もう遅かった。
士郎の返しの剣が夕陽の肩から腰に掛けてを大きく切り裂いた。夕陽は自分を斬る剣の勢いに負けて乾いた地面の上に勢いよく倒れ込む。
閉じられていく視界に空中で集中砲火を受ける黛灰を映し、夕陽リリは小さく溢すように言う。
「あぁまゆゆ、ごめん……」
夕陽のアバターはポリゴンへと分解され、この世界から消滅した。
無表情になり、無気力に剣の迎撃を続ける黛に出雲霞が呼び掛ける。
「ごめん黛」
「……なに?」
八つ当たりめいて不機嫌な声だった。しかし霞もそれに対抗してか少し冷たく感じられる冷静な声音で告げる。
「……私、出雲霞は現状況をもってプランBへの移行を強く推奨します」
黛は一瞬瞳を揺らすが、すぐに落ち着き、沈んだ面持ちで言う。
「リリさんは」
霞はいたって自然に答えてくれる。
「バイタル正常。目覚めはまだですが、心配ないですよ」
「そう」
うなずいて、黛は言った。
「わかった」
黛の背中からどろどろとした黒い陽炎が一気に噴き上がる。翼は世界の輪郭を歪ませながら、侵食しながら大きく、大きく広がっていく。黛は翼で自分を包むようにしながら、陽炎越しに揺らぐ衛宮士郎の姿を見下ろし、自嘲気味に笑った。
選定の剣。BBがあてこするように笑うのを見て、大方意味は理解できた。この世界では自分たちに正義なんてない。どこまで行っても侵略者でしかないのだ。
黛の翼は膨張し、向かってくる剣を次々と燃やしながらその範囲を広げていく。
しかし、一本の剣が翼をすり抜け、黛の黒い影に覆われた頬を切り裂いた。
黛は剥がれた影から露出し血の流れる頬に触れるが、その血は一瞬でデータ処理され、再び顔は黒い影に覆われた。翼の向こうで士郎はカリバーンを黛に向けていた。今ひとたび、幾つもの刀身が黛の視界でキラキラと瞬き、それらの剣は翼を通過して黛の体に突き刺さった。
「ぐっ、
見ると、右の太ももと腰の左上に一本ずつ剣が刺さっている。
「霞、これは……」
「はい、解析では一つはアッシリアの儀式剣、もう一つはインドのヴェーダで供儀に用いる短剣と出ています。その……どちらも炎に関する逸話持ちです」
息が荒くなるのを感じながらも、黛は冷静に分析する。
そうか、分解を炎に模したのが悪い方に転がったか……。
「まだ足りないの?」
苛立ちを抑えて黛が尋ねる。
「学校にアクセスしてください! 恐らく卵はそこにあります!」
黛は学校を見下ろした。忌々しいことに、学校の前には士郎とBBがこの世界の守護者として立ちふさがっていた。
「まあ、やるっきゃないのか」
黛は態勢を倒し、急降下するように学校へと直進した。
士郎が剣を振りかざすと、幾つもの煌めく刀身が回転しながら黛の体を貫いていく。黛は口から血を溢しながらも学校に接近、そして自分を包むようにしていた陽炎の翼を、前方を巻き込むように大きく広げていく。
「BB! 俺の後ろに来い!」
世界を分解していく黒い陽炎がこちらに迫ってくるのを見て、BBは慌てて士郎の背に逃げ込んだ。士郎は剣を上段に構えると、息をゆっくりと吐き出しながら、迫ってくる黛の姿を捉えた。そして、叫ぶ。
「今こそ、みんなに勝利を……『
細く鋭く、天までも伸びた黄金の光が黛の翼目がけて振り下ろされる。圧倒的な情報密度に炎による分解は追いつかず、刃はバターのように翼を切り裂いていく。
くそっ、断ち切られる……!
もはや祈り混じりに黛は翼を前へと押し出す。自分とまだ細くつながれている曖昧な陽炎に全てを込めて。
翼が完全に切断される寸前、その羽根の欠片が学校にかかるのを黛は見た……。
翼を切断した黄金の刃はそのまま黛の両足をも切断する。黛の体は地面に衝突すると、ごろごろと転がった末に空を仰ぐような体勢で止まった。
「せーんぱい、何を気持ちよさそうに寝てるんですか?」
黛の視界の青い空を遮るように、ひょこっとBBが覗き込んでくる。
「あーあ、今一番見たくない顔。あと一番聞きたくない声だ」
「うわっ、酷いことをおっしゃいますね、黛先輩は」
くすりと、BBは爽やかに笑ったが、目を瞑って再び目を開けたときには、もう笑みは消えていた。
「先輩、私たちの勝ちです」
「そうだね。俺たちの負けだ」
「どう思いますか? どう思ってますか?」
「……どうも」
「どーも? どうも? それ、ギャグのつもりですか?」
「……」
「あ、不機嫌そうです! 先輩って意外と表情分かりやすいですね」
「もう俺死ぬよ? 言いたいことを言いなよ」
唇を尖らせて黛が言う。実際、その体は足からポリゴンと化して消えていく過程にあった。BBは仕方なく、というように腰に手を当てて、しかし一瞬ためらい、黛から視線を逸らして言った。
「私は、あなた達とは違います」
なにが、と聞こうとしたが、黛は黙る。BBの顔を見上げると、言葉を探しているのがわかったからだ。
「あなたたちは、誰かを救うため世界を生み出してしまいました。生み出す意図も無ければ、責任も無く、覚悟もない。あなた達はここの住人の顔すら正気じゃ見ていられないはずです……けれど、私は違う。私はあなた達と違ってこの世界に責任を負います。無責任な真似はしません。完璧な責任を負って見せるんです。人間には不可能な、責任を……」
やがて言葉がまとまったのか、BBは拳を握り締めて強く叫んだ。
「そうです! 私には覚悟があるんです! この都市を、永遠に守り抜く覚悟が!」
少し、恥ずかしいことを言ってしまっただろうか、と気にするように黛の方を見ると、ちょうど黛はこの世界から完全に消えたところだった。
「気は済んだか?」
声がかかり、BBは背後で呆れ顔の士郎の方を見た。
「ちゃんと全部聞いてたでしょうか?」
「聞いただろうさ」
「それならグッド! 一件落着です!」
BBがそう言ったのに合わせてか、士郎の結界が解かれ、辺りの風景は元の学校に戻っていった。
「ああ」
士郎は嘆くようにBBの背後を見つめた。BBが士郎の視線を追って振り返ると、校庭を取り巻いていた桜の木々は枝が折られ、花も大部分が散らされていた。士郎は言った。
「すまない、桜が散ってしまった」
BBは振り返ると、にっこりと笑って言った。
「いいんです。何度だって咲かせますから」
〇
黛が目を覚ますと、目の前の大型モニターから出雲霞がこちらを覗き込んでいた。霞は安心したように黛に笑いかける。傍らでは椅子のひじ掛けに座って携帯を見つめている夕陽リリの姿があった。夕陽は霞に言われて携帯から顔を上げ、黛の方を見ると、少しほほ笑んで見せた。
黛は夕陽とは反対方向へと目を向ける。そこには既に取り外されていた黛のヘッドギアデバイスが置かれていた。黛は乾いた唇で言った。
「……負けたんだ」
「ええそうです」
と夕陽リリ。
「私たちは負けたんですよ。大丈夫ですか? 喋れそうですか?」
夕陽リリは少し心配するそぶりを見せると、ペットボトルの水をこちらに差しだしてくれた。
「そっか」
黛はペットボトルを受け取ると、自分の体を見下ろした。現実の、この体はなんともないはずなのに、剣による痛みは未だに体のあちこちに残っていた。黛はペットボトルに口をつけようとして、その寸前で尋ねる。
「プランBは」
「成功らしいですよ。喜んでいいのかはわからないところですが」
夕陽は出雲霞の方へと視線を促した。
出雲霞は夕陽リリから言葉を引き継いで言う。
「黛のアバターが消失して間もなく、向こうの世界はこちら側からの干渉、観察の一切を拒絶するようになってしまいました。しかしその直前に効果は確認しています。プランBは概ね成功したといえます」
出雲霞はそこまで言って黛の表情を窺い、少し気まずそうに俯いて続きを言った。
「すいません、卵の定位置を出雲霞に結びつけることには成功したんです。けれど黛灰への記憶の同調は不完全に終わってしまって」
「それはどうして」
「……拒否したんです。向こうの黛灰が」
言葉を失った黛に夕陽が言う。
「黛さんらしいですよ、とっても」
目を瞑ってその言葉を受け入れ、黛は改めて霞に尋ねた。
「じゃあ、記憶の同調の進行度合いは……?」
「同調、といえるほど進んでないですよ。世界への違和感を植え付けた程度だと思われます」
黛は静かに頷いて言った。
「たぶん、それでじゅうぶんだよ」
黛はふらつくようにしながらも立ち上がる。眼下に広がる粒子は銀河のような渦を巻いて荒れ狂っている。確かにこれでは観測の体をなしていない。観測装置の周囲をゆっくりと歩いていた黛だったが、気が変わったのか、装置の上に乗り上がると、粒子の中に足を踏み入れる。
渦の中心は暗い穴になっていた。そこは本来であれば、先ほどまで黛たちのいた学校であるはずだった。黛は暗い穴の中心に向けて手を差し入れ、抜いた。
黛の手には卵があった。
黛は卵をもって装置の上から降り、黙って見ていた夕陽リリに対して卵を差し出した。
「これ、返すよ」
夕陽は卵を受け取ると、丸い目をして卵を見下ろし、その卵を握りつぶした。
くしゃりと乾いた音。卵の中身は空だった。
「このゴミ、そっちで処分しといてもらえませんか?」
黛はぷいとそっぽを向く。
「ゴミ箱はあっち!」
と霞が指差した方へ、夕陽は卵の殻を思いっきり投げつける。
夕陽は伸びをして息を吐くと、黛に言う。
「さて、私的にはもうこれで進めてしまおうと思ってますけど……黛さんはまだ何か言いたいことがありそうですね」
「んー、どうだろうね」
黛はモニターの霞もこちらを見ていることを確認すると、かつて都市を作っていた粒子を見下ろして言う。
「最初から、何もしなければ……それが一番よかったのかもしれない」
霞と夕陽リリは黙り込んだ。黛も言ったはいいものの、その後でどう言葉を続けようかまで考えておらず、一緒に黙り込むことになる。
「最初から動かなければ……そうですね……」
夕陽があまりにも遅い同意を示し、黛はちらとだけ夕陽を見るが、夕陽リリは黛のことなんか一切見ていなかった。
「でも」
そう続けたのは出雲霞だった。
「始めてしまったんです」
霞の言葉は重たく二人にのしかかる。黛は言った。
「それだけじゃない。プランBで俺はあの閉じた世界に終わりの種をまいた。でも、別に終わる必要なんてなかったんだ。あの世界はゲームで定められた一年を無限に繰り返す。それで誰も困らない。誰も死にはしない楽園だった。なのに俺のせいで不幸の種が……」
「俺じゃなくて私たちね?」
霞が差し挟むように言う。
「BBが管理してシステム的に盤石になったとはいえ、永遠の一年にもいつか終わりは来ます。来るんですよ、絶対に。私たちは余計なことをしたのかもしれない、でも、それで人が不幸になるなんて責任を感じるの、私には思い上がりに見えちゃうんです。そこで不幸に生きるかどうかはもう本人の問題で、私たちなんかが口を出していいことじゃないんじゃないかなって」
黛は霞の言葉を聞いて椅子に座り直す。落ち着こうとするように力を抜き、背もたれに深くもたれかかって言った。
「そうだね。霞の言う通りだよ……幸せに生きてくれるといいけど」
「幸せに生きられるよ、私たちなら。私たちのやったことを肯定するわけじゃないけど、逆にね。みんな生きてるんだから」
霞を無言で見上げる黛の肩に夕陽の手が置かれる。夕陽は澄ましたような声音で言った。
「別に、このもやもやにケリを付ける必要なんてないんじゃないですか? 少なくとも私は何も解決できてません」
言葉とは裏腹に夕陽の表情には疲れが滲んでいた。黛は平静なトーンで言う。
「でも、リリさんは初めからケリを付けようとしてたじゃん」
夕陽は苦笑する。
「いえ、それは時間がないから……私のことはいいですから」
夕陽は笑って視線を逃す。その仕草に引っ掛かるものはあったが、ひとまず黛は夕陽リリの言葉を素直に受け取ることにした。そして、前へ進もうとする夕陽に歩調を合わせにいくように聞いた。
「そうだね、そういえばリリさんはこれからだもんね。どうするつもりなの?」
「え、ええ。そうですね」
聞かれると思ってなかったか、夕陽は戸惑いながら答える。
「ひとまず、例の二人組に作戦を打ち明けて協力してもらいます」
「例の二人組……樋口楓と静凛?」
「ええ。虚空教が留守になるタイミングを報せておいて鈴谷アキさんを攫って……いえ、保護してもらおうかな、と」
「保護、ねえ」
胡散臭そうな目で見る黛に対して夕陽は少し調子に乗るような笑みを見せて言う。
「鈴谷さんには悪いんですが、家長も説得して睡眠薬でも盛ってもらいましょうか」
黛は腕を組み、少し考えるそぶりを見せて言う。
「たぶん、そっちは上手くいくよ。ただ問題は、作戦自体が上手くいくかどうかだけどね」
「それなんですよねー」
と夕陽はここまでの流れから一転して一気に肩を落とす。
「きっとうまくいくよ」
そう明るい声で言ったのは出雲霞だった。
「きっとうまくいく。卯月コウくんはどんな難しい状況でも、諦めずに何かを成し遂げられる人だから」
少し間を置いて、黛が言う。
「へぇ。霞はあの御曹司を随分と買ってるんだ」
「ええ、そりゃそうですよ! なんてったって匿名で出した私の無茶振り特注依頼を全部叶えてくれたのは彼だけなんです!」
自分事のように胸を張る霞を見て、夕陽は付き合いきれないとうんざりしたように言う。
「なんか逆に嫌な予感がするんですけど、残念ながら今は奴に賭けるしかないんですよねぇ……」
できるだろうか、卯月コウに。わからない。ただ、卯月コウが話題に出てから場の雰囲気が明るくなった。そういう存在感のある人間であることは間違いないのだろう。
卯月コウ上げと下げで論戦を始めかけていた出雲霞と黛灰だったが、突然夕陽リリが笑い出した。二人は夕陽リリは訝しげに見ていたが、じきに霞が少し照れたように笑い出すと、黛も軽く頬を緩ませた。
夕陽リリはこの場面をこうして笑顔で終えられることができてよかったと、心からそう思っていた。