冬木大橋の欄干の上に男が一人降り立った。その際に浮いて胸元から出てきた十字架を胸に収めると、男は月のない夜空を見上げた。
「ふむ、私が最後のようだ。この街の魔力は少し濃すぎる。凶暴な女たちだ、恐らくマスターを食い荒らしにかかるだろうが……これは上手くいかないかもしれぬな」
男はにやりと笑うと、橋から飛び降りた。
〇
街は夜に賑わいを見せる。太陽の光とは違う、暗闇によくなじんだ街の光は葛葉にとっても心地よかった。それはきっと普通の人間たちにとっても同じなのだろう。街行く人間たちは大声で笑い合ったり、集団でショッピングを楽しんだりしていた。そうした元気そうな人間たちを、葛葉はつい目で追ってしまうのだった。
「いや、今回は血を吸うわけじゃねえんだけど……」
「けど、なんだ? 貴様が覚悟を持って引き受けたことだろう?」
葛葉の影が蠢き、葛葉の耳元で囁くように声が語り掛ける。
「それはそうだけど……なんつーか嫌な予感っていうの? この魔力もさっきから隠す気ねえじゃん。誘ってるよな、これ」
「当然、そうであろうな。用心するがいい」
「はあ……じゃ、いい加減行きますか」
葛葉の視線の先には帽子を被った赤髪の女性が歩いている。女性は観光客なのか、高いビルや道行く人々に目移りしながら道路を行ったり来たりしていた。その様は忙しない人の流れの中であからさまに浮いている。
葛葉はまっすぐにその女性の元へ進んでいくと、耳元で「ちょっと来い」と囁き、手を引いて路地裏へと入った。無抵抗な女性に違和感を覚えながらも、女性を壁に押しやると、手を壁について逃げ道を塞ぐ。
「よお、なんでここに連れてこられたかはわかるよな?」
低い声で言って、葛葉は相手の顔をよく見るために帽子をとる。
帽子を取った女の顔が赤らんでいた。
「どうしてって、その、ナンパ……ですよね?」
葛葉は無言で壁につけていた手を離した。なるべく距離を取ろうと後ずさったが、狭い路地裏だったので壁に勢いよく衝突する。それを痛がる間もなく葛葉は人通りのある方に向けて早歩きを開始した。
「ちょっとぉ! ちょっと待ってください! LINEも電話番号も住所もディスコードIDも聞き忘れてますよ⁉」
「やめろ、俺に触るな……! LINEも電話番号も住所もディスコードIDも聞き忘れてねえ! 何なら今家の用事を思い出したって。頼む帰らせてくれ!」
葛葉の懇願虚しく、葛葉の細身の体は女性の腕一本にずるずると引きずられて路地裏の奥へと引き戻される。女性は葛葉を開放すると、手を胸の前に組んで瞳を輝かせて言った。
「さあ、これで落ち着いて話が出来ますね。まず何の話から始めましょう」
「いや、話は……」
「まずはやっぱり、今後の二人の将来について……ですかね?」
「……」
「でもやめて! 私にはもう愛しの彼がいるの! そんなに欲しがられても、アンジュはアナタの物には……あれ?」
その女、アンジュが辺りを見回しても、路地裏にはアンジュ一人しかいなかった。
葛葉は吸血鬼の翼を使って空へと逃げ出していた。
「くそっ、あいつやべえって! 全然人の話聞かねーし。あーもう、叶になんて報告すればいいんだぁ……! 兄さん? 兄さんいる? どっか行っちまったのか?」
「素敵な翼ですね」
背後から聞こえたその声に戦慄しながら振り返ると、先ほどの女性が何もない空中を足の踏み場にして葛葉のすぐ後ろに迫っていた。
「うわぁぁぁ‼」
葛葉は悲鳴を上げながらペースを上げるが、女性は涼しい顔でついて来る。
女性は決めポーズなのか片手を顔の前に掲げていった。
「さあ自己紹介からいきましょう? 私はヘルエスタ史上最高の天才美少女錬金術師こと、アンジュ・カトリーナ。それで……あなたのお名前は?」
「い、言いたくねえ!」
「待って! 言わなくてもいいわ。目を見ればわかるもの。……葛葉さん、ですね? そんなに私の血が吸いたいのでしたら、構いませんよ? 永遠を生きる孤高の二人……あると思います!」
「ねえよ!」
葛葉は息を切らしてビルの屋上に降り立った。アンジュもまるで浮遊しているかのように音もなく降り立つ。
「っつーかあんた、彼氏いるって言ってなかったか? なんでそんなにぐいぐい来れんだよ⁉」
「禁断の愛とは蜜の味がするもの……わかりますよね?」
「わかりたくねえ!」
葛葉は頭をかきむしると、深呼吸して自分を落ち着かせる。
「あんた、魔術協会だか聖堂教会だかの送り込んできた刺客ってことでいいんだな?」
「ええ、その通り。私は魔術協会側なんですけど、直轄ではないので。まあ、割と吸血鬼に理解があるほうでは……ありますよ?」
「その情報いらねえよ。ったく、もうなんか全部面倒くさいわ」
葛葉が髪をかき上げて目を瞑る。そして、開かれた葛葉の目は赤く光っていた。
「俺に従え!」
葛葉の言葉と共に、アンジュの瞳が赤く染まっていく。アンジュは立ったまま全身を震わせるが、瞳だけは葛葉の赤い瞳と繋がっているかのように一点を見つめ続けている。やがて、力が抜けた様にアンジュの首がかくんと垂れ下がった。
「はい、貴方に従います」
再び首をもたげてぼそぼそ発されたアンジュの声には力がなく、まるで自分の意思ではないようだった。
「よし、こっちに来い。叶に引き渡す前に俺も聞きたいことがある」
アンジュはよろよろと頼りない足取りで葛葉の方に近づいていく。
「そこで止まれ」
葛葉はスマホのメモを見ながら興味なさげに言ったが、そこでアンジュの足がもつれた。アンジュは受け身も取らずに地面に倒れていく。
「おい、大丈夫か!」
地面に衝突する間際、アンジュの体は滑り込んだ葛葉の両腕に受け止められた。アンジュは赤い瞳で葛葉を見つめて言った。
「もちろん、大丈夫。私はアナタのアンジュですよ、永遠にね……」
一瞬だが、アンジュの赤い瞳に幾何学的な魔術式が浮かび上がる。葛葉はアンジュを支えていた手をパッと放した。
「ぐはぁっ!」
結果、アンジュは地面に頭をぶつけた。アンジュはしばらくは後頭部を押さえてごろごろと転がっていたが、やがて起き上がり涙目で言った。
「そういうのが好みなの⁉ いいわ……上等よ。アナタの全てを私にぶつけて!」
両手を広げたアンジュから葛葉は思わず視線を逸らす。慈愛に満ちた瞳で鼻を啜るアンジュの姿が痛々しかったからだ。
「こんな茶番、俺には向いてねえのによ」
葛葉は困ったようにそっぽを向き、上着の内ポケットに手を突っ込んだ。そして、
「初めから、こうすりゃよかったわ」
葛葉は一転して、冷めた表情でアンジュに銃口を向けた。