最初に動いたのは言峰だった。肘で老人の顎を下からかち上げようとしたが、これは僅かに身を反らしただけで躱された。
続いて肘を引く動作からねじ込むようにみぞおちを狙った突きを放つ。老人はそれを上からそっと触れ、払い落とす。
「!」
いや、払い落とすなどと生易しいものではなかった。腕を取られた言峰の体は強かに地面に叩きつけられた。
「まずは一本」
言峰を見下ろし、老人は腕を後ろに組んで言った。
言峰は起き上がりざまに距離を取り、困惑する心を静めて構える。老人に動きはない。動きはないが、先ほどの緑仙と自分との間にあった力量よりもさらにかけ離れた力の差を感じていた。
老人はいつでも自分を殺すことが出来るだろう。だが、調査団の一員である自分を殺せば大問題になる。それを叶神父が許すはずがない。恐らく拷問か契約、あるいは記憶の改竄などで自分の手綱を握りたいはずだ。で、あるならば……。
「学ばせていただくとしよう!」
大きく踏み込もうとした言峰の出足を、いつの間にかそこにいた老人はひょいと足を上げて挫いた。それだけで言峰の前の足はバランスを崩し、前へ出ようとしていた体全体のエネルギーが行き場を失い、あわや転倒という勢いで言峰は膝と手を地面に着く。
起き上がりざま焦点を再び老人に合わせようとしたとき、顔のすぐ目の前まで迫っていた老人の大きな手のひらが言峰の視界を覆った。
「二本目」
と笑って老人は言峰の胸を足で軽く蹴る。言峰は吹っ飛ばされ、受け身を取りながら体の勢いを殺していく。
「くっ!」
素早く起き上がって拳を腰に構えた言峰だったが、前方に老人はいなかった。背後から、言峰の両肩に手が置かれた。
「いつまでも同じ場所にはいないぞ?」
振り返りざまに肘をぶつけようとした言峰だったが、老人の方が早かった。老人は言峰の肩を掴むと、そのまま後ろに引き倒した。受け身も取れずに地面に転がされ、苦悶の声を上げた言峰の顔に向けて、老人が足を振り上げていた。
言峰の額から冷や汗が滴っていった。言峰の顔のすぐ横の地面を老人の足は踏み砕いていた。震脚にも劣らぬ大きな音が言峰の耳に響く。
「三本目だ」
老人は静かに笑う。何事も無かったかのようにすたすたと歩いて距離を取った老人を憎々しげに睨み、言峰はゆっくりと起き上がった。
「そう怒るな。どれ、いい加減わしの正体もお披露目しようじゃないか」
そう言って老人は深く腰を沈める。言峰もまた、その構えに違和感を抱きながらも、迎撃するために腰を深く落とす。
「一撃だ。お前は一撃で何もかもを知るだろう。そして何もかも、わからなくなる……」
言峰の視界で、老人の体が一瞬ぶれたように見えた。言峰は地面を蹴り、素早く後退する。
「足りんな」
と老人は言峰のすぐ目の前まで踏み込んで言った。
「距離が全然足りていない。この期に及んで様子見などとは烏滸がましい、安全圏までもっと全力で逃げなければ……死んでしまうぞ!」
「まさかそんな、もしや、貴方は……!」
それはもはや拳の届く距離だった。老人の拳がまっすぐに、予定調和ですらあるかのように言峰の胸に向かって進んでくる……。
激しい金属音が鳴った。言峰の体に触れたのは拳ではなかった。
白い髪……?
疑問に思う間もなく、言峰は先ほどとは比較にならないほど遠くまで、それこそ教会の扉を破って外まで吹っ飛ばされた。
「痛たたー……あ、大丈夫ですか、言峰神父?」
呆然とする言峰の前で、白い髪の少女が起き上がり、言峰に手を差し伸べた。言峰はその手を取って起き上がる。
「貴方は、ヘルエスタの……大丈夫なのか?」
「ええ」
少女、リゼ・ヘルエスタはその手に握られた宝石のように青く輝く大剣を掲げた。
「そうか、それが噂に聞く……」
「ええ、ヘルエスタセイバー。代々ヘルエスタ家に受け継がれる聖剣です。まあ、かの御仁がその気で打ち込んでいたらどうなるかわかったもんじゃないですけどね」
リゼは謙遜するように笑うが、剣にはひび一つ入っていない。精緻な工匠と精密に流れる多量の魔力に言峰は目を奪われた。
「これはいけない。早くここから離脱しなくては」
言峰はリゼを連れて森の中へ素早く逃げ込んだ。あのサーヴァントが追えばすぐに捕まるだろうが、どうやらその気はないようだ。言峰は視界の縁で、老人が腕を後ろに組んで、サングラス越しにこちらを傍観しているのを見た。
〇
「ねえ、逃してよかったのー?」
寝転がって天井を見つめながら、緑仙は叶に聞く。叶は笑顔で頷いた。
「はい。あの方向に逃げたのなら心配はいりません。緑仙さん、今日はありがとうございます。あの神父が何度も転がされたのを見れて僕はとても嬉しいです」
「僕は何度も転がされたんだけどなあ……」
緑仙は頭を掻いた。
「お主が弱いのが悪い。格上だとはわかっていたのだ。当然覚悟もしていよう」
「っはぁー、これだから正論爺さんは困るよね」
「戯言はそれくらいでよいな? では、帰るとしよう」
老人は砕かれた方の緑仙の腕を掴むと、宙に放るようにして背におぶる。
「痛でぇえええ!」
緑仙があげた悲鳴を涼しげに聞き流し、老人は教会を去った。