緑仙は庭に出てもしばらくは練習する気になれず、手首を回しながらだらだらと歩いてみたり、突っ立てみたりして時間を潰していた。
思い出すのは言峰との戦いのことだった。悔しいとは思う。けれど実力の差に危機感は全く抱けなかった。負けるとわかっていた戦いだ……戦いですらなかったのかもしれない。
たぶん、自分は遊び感覚だった……だから負けた? そうなのか? いや、本気でやっても勝てやしない……勝てないはずだ。
考えているうち、緑仙の手は自然と動き出していた。言峰の拳が迫り、それを上から抑える……だけど、これは抑えられなかった。じゃあ、これは通じない……本当にそうだろうか。何も正面からぶつかるわけじゃない、まっすぐ来る力を上から逸らすだけなのだから、人間の拳一つ抑えられないはずがない。
確信から、緑仙は何度も動作を繰り返す。受けの動作、後退し、相手を引き込みながら向かってくる拳を上から抑える。
安全圏までもっと全力で逃げなければ……死んでしまうぞ!
脳内にギンギンと響く声。そうだ、決められた動作だからといって型通りに退がっているのもよくないのかもしれない。死ぬ気で、退がらないと。そして死ぬ気で抑える……!
ある瞬間、これだ、と思う。体は抵抗感もなく滑らかに動き、手足がそれぞれ収まるべき場所に収まる……それでいて力強さも出てる、気がする。
緑仙は構えを解き、その場に立ち尽くした。
考えざるを得なかった。これならあの突きにだって……。
「そんなに悔しかったか?」
縁側から声を掛けられ、振り返った。そこには白髪の老人、サーヴァントのアサシンが座っていた。
「はぁ? 悔しくないし。っていうかいつからいたの?」
「っは! 相変わらず可愛くない。なあに、人の鍛錬をこそこそ盗み見るような真似はせん。最初から最後まで、堂々とここで腰かけて見ていたとも」
こいつ、殴ってやろうか……? そう思う緑仙だったが、恐らくこの老人にだけは通用しないだろう。緑仙は握った拳を弱弱しく解いた。
「あのさ、言っておくけど、これは遊びみたいなもんだから」
「そうだろうなあ。先のお前の戦い方を見ればわかるよ。体も、心も、第一線で戦う武術家のものではない」
言われて、緑仙は自虐するように俯いて笑った。
「だが、遊びとはいえお前は拳法家の端くれだ。これまでの人生、たくさんの物を背負ってきたのだろうが、お前はその荷物の中から拳法を捨て去らなかった」
「別に何も、背負ってなんか」
「ふん、そうか。まあ、たくさんの物を背負っている気でいるよりかは、そちらの方がいいのかもな」
アサシンは自分で言って納得した素振りで縁側を去ろうとする。それを、
「あのさ」
と緑仙は呼び止めた。
「それで、どうなの?」
「どう、とは?」
ぴんと来ていない様子のアサシンを見て、緑仙は気まずそうに顔を逸らして言った。
「僕の……拳法の型だよ」
「なるほど。わしはようやくお前という人間を理解できた気がするぞ」
朗らかな顔でアサシンは言い、縁側から中庭に降り立った。
「なんだよ」
緑仙は無言ですたすたと歩いてくるアサシンを訝しみ、嫌な予感からすぐに動ける態勢を取る。緑仙の予感は正しかった。
アサシンはこれ見よがしに膝を高く上げると、腰を落とすのに合わせ、上げた足を地面に叩きつける。轟音が鳴り響いた。
地面がぐらぐらと揺れているように感じたが、アサシンから目を離さなかった緑仙は違うと思った。アサシンの気迫に呑まれかけているのだ。
アサシンは腰を落としたままで、さらに緑仙の視線の下に潜り込むように鋭く踏み込み、拳を突き出した。
これに緑仙はギリギリで反応して弾かれたように後退、距離は開きはしないが、今まで練習していたせいだろう、無意識に出た手がアサシンの突き出してきた拳に触れた。
アサシンは拳を突き出した状態で止まる。その唇の端が僅かに上がっていた。
「うむ、悪くないぞ」
「え?」
緑仙は遅れて状況を認識する。アサシンの胴からまっすぐに伸びている拳は自分の体を外れて脇へ逸れていた。いや、そこに触れている自分の手が、逸らした?
混乱する緑仙をよそに、アサシンは呆気なく戦闘態勢を解く。
「その感覚を忘れるなよ」
そう言って、アサシンは縁側へと上がり、廊下を歩いていってしまった。
―――
緑仙がシャワーを浴びてリビングに出ると、そこに笹木とランサー、アサシンがテーブルを囲んで深刻そうな顔をしていた。
「なになに、どうしちゃったの、みんな?」
すると、笹木が興奮して顔を上げた。
「緑仙、信じてもらえんかもしれんけど、今な、喋る兎が来て、この手紙を届けてくれたの」
「喋る兎……?」
釈然としないながらも、緑仙も席について、テーブルに広げてあった二通の手紙に目をやった。手紙は緑仙と笹木宛で、自分宛の物も封は勝手に切られたらしい。恐らく勝手に封を切ったであろう相手に目をやると、笹木はほげぇーっと間の抜けた顔で緑仙を見ていたので、緑仙は憎むに憎めず、まあいいけど……と手紙の内容に目を通す。
「笹木は、どうするの?」
「うちは行くよ! この手紙を出したやつにはちょっと借りがあってさ。ぶっとばさなきゃ気が済まないんだ。ね、ランサー」
「道は全てローマに通ず」
ランサーは不敵に笑った。緑仙は悩ましげに考えて、
「あれですかね。いずれそいつとはどこかでぶつかるときが来るけど、今がその時と焦る必要はない、的な……?」
「え、緑仙わかるの~?」
「いや、テキトー言ってる可能性ある」
「その解釈でいいと思うが」
アサシンも肯定する。ランサーは満足したように胸を張っているので恐らく問題はないのだろうが……。キリがないので緑仙は話を戻すことにした。
「そういえば、鷹宮もなんか聖杯戦争参加してたと思うんだよね。このお誘いが罠だとしても、三人で組めばなんとかならないかな」
「え~、リオンちゃん参戦してんの⁉ 初耳なんですけど!」
「うん、あとあれ、さくゆいもあるじゃん」
思い出したかのように緑仙が言ってみるが、笹木は妙に渋い無表情で首を横に振る。
「さくゆいはないよ」
「え、あるじゃん」
「いや、さくゆいはない」
「なんでー。椎名と組めれば耳長ゴリラもついてくるからお得じゃん」
「あー、チャイちゃん……いやでも正直、さくゆいはない」
「そこをなんとか!」
「ないです」
「マジかー……」
緑仙は諦めて肩を落とした。
「しかしこの手紙によれば今のところ誰も脱落していないのだろう? こたびの聖杯戦争のマスターたちはみな、危機管理能力が高いか、あるいは臆病だということだ。それがこのような場に集まるか?」
アサシンが腕組みして言った。緑仙と笹木は唸る。
「うちは行きたいけどな。お城でパーティ、美味しいお料理」
「それなんだよなあ……」
「おぬしら、正気か?」
理解できないものを見る目で二人を見るアサシンに対し、ランサーはそれもローマと納得しているようだった。
「ましろだっけ? そのマスターは誰かと組んでるかな?」
緑仙の疑問に笹木は答えて
「さあ、組んでないと思うけどな。強いて言うなら……」
二人はましろの名前の横に署名された名前をじっと見つめた。「叶」と、その名前と印はこの手紙が罠でないことを証明するかのように記してあるが、二人の反応と言えば芳しくないようだった。
「だってかなかなだし……」
「かなかなだもん、絶対なんかやってるよ」
うーん……と二人して悩む中、アサシンにはもう二人の出す答えが見えていた。
「二人でゆっくり考えて決めるといい。わしは庭で暇を潰しているよ」
そう言ってアサシンは席を立った。一方、同じく答えが見えているランサーの方は、悩む二人を我が子のように愛おしげに見守っていた。