教会の鐘が鳴った。ベッドに寝転がっている少年は虚ろな目を高い窓へ向けるが、その瞳には青空以外映らなかった。外からは低い鐘の音に混じって少年と同じ年頃の子供たちの声が聞こえてくる。
きっと、少年は窓から子供たちを見たかったのだと思う。少年の手が震えながらゆっくりと持ち上がる。だが、手は半ばまで持ち上がったところで力をなくして落下する。その手は柔らかな手に受け止められ、包み込まれた。
少年の目がゆっくりと動き、傍らに座っていたシスターに向いた。シスターは両手で包んだ小さな手を見下ろす。呪いに蝕まれて血肉を奪われ、変色している手を。
シスターは少年の視線に気づいて顔を上げた。
少年は枯れそうな声を細い管から絞り出す。
「もう、だめかも」
シスターは冷静になろうとするかのように一度目を瞑ると、にっこりと笑って見せる。
「何馬鹿なこと言ってるんですか~、もう。心が後ろ向きだと体にまで悪い影響が出てしまいますよ。ほら、呼吸も楽そうですし、治療が効いているのでは?」
「違う」
少年は感情のない言葉で切って捨てる。
「俺は負けた。生きるのが辛くて諦めた。闘うのを止めて病魔に体を明け渡したら、すぐにあちこちの感覚がなくなって、その部分が死んでいった。その代わり、息だけは楽になった。これからもっと楽になって、楽になっていって、あとはもう、楽になるだけなんだ……」
シスターの顔の上で不自然に固まっていた笑いが消え去った。それを見て少年は笑った。
「疲れてるね」
「あなたほどではありません」
「ううん、シスターさんの方が、疲れてる」
シスターは黙って少年の言葉を待つ。少年は乾いた唇を開き、そこから少しづつ言葉を零していく。
「強くなりたかった。強くなって、生きることの理不尽に苦しむ、俺と同じ子どもたちを、助けてやれるような……そんな、正義の味方に憧れてた……」
でも、と少年は少し湿った声で言う。
「俺は諦めた。弱かったんだ。結局、俺は弱かった……苦しんで生きて死ぬ、ただの一人の、かわいそうな……子供に過ぎなかったんだ」
少年の顔がくしゃりと歪み、もはや大きく開くことの出来ない口から切れ切れの息が漏れ出るが、涙はもう枯れていた。
少年はそこで呼吸を整えて、シスターを見る。シスターは少年の目に言い知れぬ恐怖を覚え、一歩後ずさった。
「シスター・クレア。あなたは強い。俺よりも、時計塔の連中なんかよりもずっとずっと」
「やめてください」
「嘘じゃないよ。視えるようにされたからわかるんだ。俺や他の子どもたちで好き勝手してた魔術師は強大だった。でも、あんなクソヤローよりもあなたは強いんだ」
シスターは目を伏せ、一歩後ずさった分を恥ずかしく思い、取り消すように一歩前に出て元の位置に戻る。そんなシスターを見て、少年は言った。
「あのとき、あなたに助けてもらえて、本当に良かった」
握っていた少年の手を置いて、シスター・クレアは部屋を出た。
部屋の外で壁にもたれ待っていた叶が声をかけた。
「終わりましたか」
「はい」
クレアは頷く。そして叶の方を見もせずに尋ねた。
「ましろさんですが、彼一人で大丈夫でしょうか」
「ええ、全滅だってありえなくはないでしょうね。僕の知る限り最凶の魔術師ですよ、彼は」
「あらぁ、けれどそれだと困りませんか? お友達の葛葉さんがやられてしまうのでは?」
叶は控えめな笑みを浮かべ壁から背を離し、クレアの前に立つ。二人は睨む合うように互いの目を見合う。叶は言った。
「シスター・クレア。それはあなたが心配すべきことではない」
「そうですか。それは失礼しました」
クレアは顔に浮かびかけていた笑みを落とすかのように目を伏せると、叶の横を通り過ぎて、廊下の向こうへ歩き去った。
〇パーティー会場
先ほどのような丸テーブルは縁に寄せられ、代わりに大きな横長の食卓が会場のど真ん中に鎮座している。会場にいる仮面をかぶった生き物たちのほとんどは食卓の周りを取り巻くように立ち話をし、食卓にはたった三人だけが座っていた。
右には古臭い帽子を被った痩せ男、左には二足歩行の人型の兎、そして真ん中に座る三人目は……。
鷹宮はカメラ片手にその人物に近づいていくと、肩を叩いて尋ねた。
「えっと、なにしてんの?」
ばっとふり返った人物はパーティー用の口髭サングラスをかけていた椎名唯華だった。
「なにって、見てわからん? お茶会」
椎名はまるでワイングラスでも持つかのようにティーカップを手に持ってグッとカップをあおると、ごくごくと喉を鳴らして豪快に紅茶を飲んだ。
「ぷはーっ。いいお点前!」
椎名が音を立ててカップを置くと、隣に座っていた男と兎が拍手する。
「汚点だ汚点だ!」
「汚点前一万キロメートル!」
その様を見てでびるは表情を失くし
「あー、中々のお点前でございますね……」
意味の分からないことを言って去ろうとしたが、これは鷹宮が足を掴んで引き留めた。
「あの……」
と帽子を被った痩せ男の服の裾をアリスが引く。
「あなた、ひょっとして帽子屋さん?」
アリスはキラキラした目で尋ねる。男はうーんと悩み、悩んだ末にこう答えた。
「私が誰かは思い出せないな。帽子屋と言われれば帽子屋な気もする。でもそれは今の私を何も解決してくれないからね……」
「そんな……」
アリスは落ち込むが、気を取り直して兎の方に呼び掛けた。
「あなたは、あなたは三月兎さんよね?」
兎は答える。
「知らないなそんなの! だいたい、僕って兎なのかい? 三月⁉ 生まれる前から三月かい⁉」
どんよりとした空気がアリスたちの周囲を覆った。それを敏感に察知した痩せ男はアリスを元気づけるようにその肩をぽんと叩いた。
「私が誰かなんて、本当は悩む必要が無いんだよ。大事なのはお茶会すること。だって、お茶会している間は私たちはみなお茶会する者でいられるのだから」
「そうだそうだーお茶会だー!」
椎名が笑顔で拳を振り上げる。
「シィ、ナ? さん……?」
違和感に気づいて鷹宮は呼び掛けようとするが、自分が口に出そうとした名前に強烈な違和感を覚え、鷹宮は躊躇する。椎名は首を傾けた。
「リ……リ……なんやっけ。名前出てこん。あれ? いや、それよりも、今あたしのことなんて呼んだぁ?」
これはもう、明らかにおかしい。鷹宮は椎名の瞳を凝視し魔術の痕跡を見つけようとするも、上手く見つからない。いつも通りの眠たげな瞳にしか見えなかった。それとも……。
「私もおかしくなってる……?」
魔術の影響が相手に見られないのは、見る側である私が既に魔術の影響下に置かれているから……? っていうか、私って誰だっけ。目の前のこいつは……?
「あの……えっと、サーヴァントはどうしちゃったの?」
「あ、それならわかるよぉ~。あいつは付き合ってられんって言って出て行った。部屋で寝てるわ、たぶん」
ほら、冷静に質問だってできるのに、どうして自分の名前は……。鷹宮は頭を押さえてなんとか考えようとするも、思考がまとまらない。こんなの、絶対おかしいのに。
「大丈夫……?」
ふと見るとアリスが心配そうに顔を覗き込んでいた。
「うん、大丈夫。心配しなくていいから」
気丈に微笑んで見せる鷹宮に、アリスは素直にほほ笑みを返す。だが、鷹宮は見てしまう。アリスの肩越しに、ハートの女王の薄暗いハートの瞳が少しだけ歪んだ。
今、笑った……?
疑心に囚われた鷹宮を置いて、お茶会はどんどん進行していく。
「さあ、隣の席へずれよう!」
痩せ男の合図で拍手が巻き起こり、お茶会の三人は隣の席へずれる。が、
「いや、これお前の飲みかけじゃねえか!」
椎名が鼠の浸かったカップを見てテーブルに拳を叩きつけた。兎は我がままな子供をたしなめる様にして言う。
「元僕の席に座るのだから、そうなるに決まっているでしょ。まあ嫌な席があるのは仕方がない。そんなときには席をズレればいいんです」
兎はカップを一口すすると隣の席に移った。
「いやだから飲むなって。あてぃしが飲む前に飲むな!」
怒りのあまり立ち上がった椎名に痩せ男が優しく言って聞かせた。
「では仕方ない。逆向きに席をずらしましょうか。それで解決するはずです」
痩せ男は啜っていたカップを皿の上に置くと、隣の席にズレた。
「さあどうぞ、こちらへ」
「てめえ、いかれてんのか?」
「いえいえ、お茶会とはお茶を飲むもの。お茶を飲まなければ席をずらす意味だってないでしょう」
まったく……と呆れたように肩をすくめた痩せ男を、椎名は口髭サングラス越しに強く睨みつける。
「いいですか。元私の席の貴方は紛れもなく新しい私なのです。自分のお茶を飲んでおかしいことなど何もない! ね、そうでしょう?」
呆気にとられたように痩せ男の顔を見つめる椎名を置いて、痩せ男は紅茶の並々注がれたティーカップを手に持った。
「さあ、では皆さんもご一緒に。お茶を飲みマs——」
「うっせえはげ! 席変われよ! あてぃしが先頭に座るんだぁ!」
椎名が痩せ男に掴みかかる。紅茶が零れ、取り巻いていた人々はどよめき、兎は無視してお茶を飲もうとして椎名に殴られる。喧噪はどんどん広がりつつあった。
「もう行こうぜ」
混乱する鷹宮にでびるが声をかけた。でびるはわかる。私のサーヴァント。私の悪魔。
「うん」
と鷹宮は頷く。
「ほら、アリスちゃんも」
鷹宮の言葉はアリスに届いていなかった。アリスはお茶会を前にして、悲壮な顔で立ち尽くしていた。ハートの女王に手を引っ張られるまで鷹宮の視線に気づかなかったほどだ。
「あら、ごめんなさい。ぼーっとしてたみたい」
「うん、あの、でびちゃんとここはもういいんじゃないかって話してて」
「ああ、そう……そうね。確かにここはもういいわ。時間的にも次を最後にしましょう。そうよ、きっと次は楽しくなるわ!」
アリスの浮かべた痛々しい笑みに鷹宮は「うん」とだけ言った。