Fate/DebiRion.   作:遥野みしん

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40.チェシャ猫の間

 その部屋では暖炉に薪が焚かれていた。

 

 ソファが二つテーブルを挟んで並んでおり、テーブルにはプレイ途中のチェスがほったらかしにされている。暖炉のマントルピースの上には鏡が掛けられていて、鏡の横に白黒の縞の猫が体を横たえていた。

 

「絶対、この部屋が怪しいんやけどな……」

 

 部屋に入った笹木はそこらを見回しながらソファに座った。

 

「なんかわかる? ランサー」

 

 笹木は向かいのソファに座ったランサーに問いかける。ランサーはゆっくりと暖炉の方を向き、その上の猫を見て、言った。

 

「あの猫……ローマか?」

「あ、もういいっす。聞いたウチが馬鹿でした」

 

 笹木は項垂れてテーブルの上のチェスに目を落とす。白が優勢だ。

 

「ポーン……じゃなくてクイーンか」

 

 笹木は相手の盤面に深く食い込んだ白のポーン、もとい、クイーンを持つと、黒のクイーンを弾き、そのマスに白のクイーンを置く。

 

「チェックメイト」

 

 と言ってはみたものの、何も起こりはしない。笹木はため息をついて投げ出すようにソファに深く腰掛けた。

 

「猫ちゃ~ん、お前の飼い主、一体どこにおるの……?」

 

 本気で聞いたわけではないだろうが、笹木は猫に問いかけた。猫はあくびをして寝返りを打っただけだった。笹木は黙り込み、言葉を、変化や切っ掛けを探すが、何も見つからない。

 この部屋、温かいな……と笹木は思う。パチパチと焚かれる薪は時間の感覚を鈍らせ、夜の窓は暗い鏡となって明るい室内を映し出していた。

 

 ふと、笹木は顔を上げて猫の方を見た。猫がおもむろに立ち上がって歩き出し、鏡の前で立ち止まったのだ。そして何事も無かったかのように鏡を通り過ぎる。要は鏡を挟んで反対側に移動しただけだった。だが、笹木は鏡を見て目を見開く。

 

 鏡には猫の両目と口、髭だけがこびり付いたように残っていた。よく見ると口は人間の赤い唇で、太い白い歯が生えそろっている。その口が大きく開き、声を発する――!

 

「あは、あは、あはははははははははは!」

 

 笹木は思わず立ち上がった。見ると、ランサーが笹木を見上げていた。

 

「魅せられていたか? それもよかろう」

 

 ランサーの言葉に唾をのみ、猫の方に目をやった。猫は確かに移動していたが、しかし……。笹木はソファを離れ、鏡の方にゆっくりと移動する。

 

「罠かもしれぬ。気を付けよ」

 

 わかっている。ランサーの言葉を肝に銘じ、笹木は鏡をじっと見つめた。鏡は銀のフレームで、その上部には王冠を被りマントを羽織る王の横顔を象った装飾が為されていた。重たく、冷たい銀の色のせいで、王の顔は冷酷に見える……。

 笹木は何の異変も見つからないことに目を細め、鏡の表面にそっと触れようとした……そのときだった。指が鏡の中に沈み込んだ。

 

「うわっ!」

 

 笹木は驚いて指を引っこ抜く。鏡には波紋が立ち、そのつややかな表面が揺れている。だが、その揺らぎの中心に笹木は見た。いや、目が合ったと、そう感じただけだったが。

 

「見つけたやよぉ……!」

 

 瞳をキラキラさせて笹木は鏡に手を伸ばす。そこで、ランサーが声を上げた。

 

「待て、笹木よ」

 

 鏡へ伸ばした手が止まる。その刹那、鏡の前を素早く剣が振り抜かれた。

 

「は?」

 

 と目をぱちぱちさせる笹木。本能的に引っ込めた手を見ると、手はまだそこにくっついたままだった。そのまま顔を上げて鏡を見ると、鏡の上部、横を向いていたはずの王の顔が正面を向いていた。そして、ぐにゃりと王の顔が、鏡のフレーム全体が歪みだし、渦を巻きながらゆっくりと鏡から外れ、その輪郭を大きくしながら笹木の方へと近づいてくる。

 

「ちょっと待ってくれ、そんなん嘘や……」

 

 笹木は後ずさり、尻もちをつく。それを見下ろして、銀の王はニタニタと笑いながら剣を振り下ろそうとした。笹木は目を瞑る。

 いくら待っても痛みは来なかった。笹木が目を開けると、銀の王は剣を振り上げた姿勢で何やら悶えているように全身を震わせていた。

 

「あっ!」

 

 笹木は王の胸から血にまみれた腕が生えていることに気づく。王はカタカタと剣を震わせながら自分の背後にいる人物に向けて攻撃をしかけようとするが、その瞬間に腕は王の胴体を横に引き裂いた。

 笹木は息をのむ。王の剣は王の手から離れ、床に音を立てて落ち、すぐに溶けて銀色の液体になってしまった。そして、次には王の体がそうなっていった。

 笹木は唇を震わせて、銀色と赤色で汚れた床を見下ろしていた。

 

 笹木は顔を上げる。汚れた床を挟んでそこに立つ人物は汚れを踏みつけて笹木の前に立った。チャイナ服を纏い、サングラスをかけた老人、アサシンだった。

 

「ふむ、咄嗟にやってしまったが、不要だったかな?」

「いや、全然そんなことないっす。本当に助かったっす。ありがとうお爺ちゃん。っていうか、え? どこから現れたの?」

「ずっとお主の隣におったが」

「いや、いなかったじゃん。瞬間移動したって!」

 

 不正を疑う笹木にやれやれとアサシンは首を振った。

 

「よいか? 武術の理の基本は相手に合わせること。つまり、相手と一体になることなのだ。これを突き詰めれば空気と一体になることもできるというもの……」

「いや、無理やって……」

「そうか? そういえば、そちらの御仁はずっとワシに気づいておったようだが」

 

 振られたランサーは首を肩をすくめて

 

「いや、私は隠れていることに気づけなかった」

 

 謝罪したランサーにアサシンはサングラスの裏で目を瞬かせる。

 

「なるほど、嫌みではない、か。道理でマスターの危機にも動かないわけだ。ワシに譲ったのだな」

「うむ。貴殿は既にローマである。ローマを見紛うことなど、この(ローマ)にはあり得ぬこと」

「……ワシが、ローマ……?」

 

 複雑そうな顔で思い悩み始めたアサシンに、笹木はため息をついた。

 

「はいはい、ローマにマジカル八極拳ね。了解了解」

 

 笹木は話に区切りを付け、改めて鏡に向き直った。

 

「そんで、お爺ちゃんはうちらと来るの?」

 

 アサシンは首を横に振った。

 

「いや、すまないがワシはいかないでおくよ。まだ、やることがあるのでな……」

 

 アサシンが目で示した先で、黒い影が部屋に音もなく入ってきた。ドレスを着て頭に王冠を載せているような影は、水溜まりのような黒い影を地面に撒きながらこちらに進んでくる。その目は赤黒く、ハート形の光を放ってはいたものの、同時に光は血の涙のように影の顔を滴っていた。

 

「そっかぁ。残念やけど、しゃーない。またな、お爺ちゃん」

「おう、後ほど合流するとしよう」

 

 アサシンは袖をまくると影の方に歩みを進める。それを見て笹木もランサーと目配せし、鏡の中へと手を伸ばした。


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