突然に広がった夜空、周囲の田園風景に頭がついていかないながらも緑仙は駆け出した。視線の先では線路にか細い足音を響かせ、笹木咲はふらふらと歩いている。
「笹木! ねえ、笹木!」
呼び掛けても反応すらしてくれない。こんなのは絶対におかしかった。強引にでも止めるべきなのだが、手を伸ばして笹木の背に触れようとした瞬間、緑仙の手は固まった。
緑仙は立ち止って自分の手のひらを見つめ、冷や汗を浮かべる。
笹木に触れようとしたとき、指先にかすめたこれは、魔力だった……。確かに、魔力ではある。でも魔術じゃない。どう表現したらいいのかわからない。なんというか、これは……。
憑かれてる?
顔を上げると、笹木の背はすでに遠くにあった。星は無数にあるが、月は出ておらず、少し離れただけで白いパーカーを羽織う笹木は暗い人影と化してしまう。
「あれ?」
そこで緑仙は気づく。田園がどこまでも広がっているような田舎だから、こんなにも星がよく見えるのだろうと思っていた。
しかし、これは変だ。星座が一つも見当たらない。無数の塵のように夜空を舞っている星々の配置には意味など見出せず、どれ一つとして緑仙の知っている星ではなかった。
ハッ、と緑仙は息をのんだ。星の一つがまるで人間の目蓋のように瞬きをして、緑仙を見下ろしたからだった。
緑仙が空を見回すと、緑仙の視界にとらえられた星々は次々と瞬きをして、人間味のない瞳を緑仙に向けていく。
(なんだよ、なんなんだよここは……!)
緑仙は笹木を追いかけるが、今の笹木にはとにかく触れたくなかった。笹木の後ろを歩きながら、消極的に呼び掛けることしかできない。
だが、そんな緑仙も強引に止めようかいよいよ考えなくてはならなくなる。薄暗い山の影が線路の向こうに見えてきた頃、祭囃子が聞こえてきたのだ。
夜空中に響く乾いた祭囃子は胸の奥で痛みをもって響いてくる。音が胸骨や心臓に染み入って体の内側がどんどん溶けてしまっているかのようだった。
すぐそばまで来ても暗い影が覆っている山に、その山よりもさらに暗いトンネルが二人を待ち構えていた。祭囃子は二人をあおっているかのように大音声で鳴り響いていた。
やばい。このトンネルはやばい……やばいのに。
笹木は止まってはくれなった。緑仙も、結局は笹木を追いかけてトンネルの中へ入っていった。
どうしてか、ここに来てから色んなことを思い出す。緑仙は笹木の背を追いかけながら、そんなことを考えている場合ではないことを知りながら、考えてしまう。
かつては自分もレジスタンスの中心人物として慕われていた。
チャイカとは違って高尚な目的などなかったが、それでもあの集まりがなんとなく居心地のいい場所だった。なんとなくそこにいて、なんとなく毎日が楽しかった。
椎名も似たようなものだったと思うが、自分には何か、こんな風に毎日を楽しむことに奇妙な罪悪感があった。それが椎名と自分の差だったのだろう。
自分とみんなの関係とは何だったのか。自分は彼らにとって一体何だったのか。答えなど得られないと知っていても、堂々巡りに陥ってしまう。
そんなことばかり考えているから、きっと、こうして距離が開いてしまった……。
やがてトンネルを抜けると、そこは小高い山の上のようだった。山の麓には奇妙な光を放つ町が広がっていて、その町からは無数の明かりが行列を作り、揺れながらこちらの山へ続いているのが見えた。
聞こえてくる祭囃子。あの町からも聞こえてくるが、緑仙たちの前方からも確かに聞こえてきた。緑仙は目を凝らす。魔力で身体能力を強化し、目に神経を集中させる……。
見えた!
提灯だろうか、幾つもの明かりが高さもバラバラに浮かんでいた。
(マズい、マズいマズいマズい……!)
緑仙は笹木に追いつこうと歩調を早める。星々は緑仙の思考を見透かすようにせせら笑う。うざい。うるさい。みんな落ちてしまえばいいのに……。
そんな折、緑仙の思考を断ち切るかのように笹木は言った。
「うん、早くあそぼ」
緑仙は思わず笹木の手を取った。
「笹木、今、なんて……?」
笹木は掴まれた手を不思議そうに見つめながら答えた。
「え? 早く遊ぼうって。この声、うちらと遊びたいみたい。寂しそうやし早く行ってあげたいなって」
緑仙は耳を澄ます。いや……いや、声など聞こえない。聞こえるのはけたたましい祭囃子だけだ。
「笹木、声なんか聞こえないよ」
「うん?」
「聞こえないって!」
「ああ、そう。じゃ、やっぱうちが行ってあげんとね」
そう言って笹木は何事も無かったように前へ歩き出そうとする。緑仙は慌てて掴んでいる手を引っ張って笹木を振り向かせた。そして、思わず後ずさった。
笹木の緑仙を見つめる酷く煩わしそうな目。今まで緑仙は人にそんな目で見られたことが無かった。というより、そんな目で見られることを恐れるように生きてきた……。緑仙は笹木を救いたいという思いよりも、その気まずい間を誤魔化すために言葉を紡いだ。
「たぶんなんだけど、その声は聞いちゃいけないものだ」
笹木は何も言わなかった。緑仙は冷静な声音で続けた。
「その声は罠だよ。大丈夫だから、僕と一緒に帰ろう。こういうの、椎名が詳しいと思うから、きっと何とかなるよ」
そこで笹木はキッと緑仙を睨みつけた。
「椎名ぁ……? うるさい……知らん……邪魔すんな……!」
「そんな、僕は笹木のことを――」
「あのさ」
笹木が緑仙の言葉に割り込んで言う。
「お前、うちの何?」
緑仙は答えられなかった。愕然とした表情のまま、その口元は何かを言いたそうに小さく開いては閉じてを繰り返す。無意識だろう、緑仙の手は笹木の手から滑り落ちた。
「ふん、やっぱりな……」
軽く笑い、顔を伏せて笹木は歩き出す。
笹木を迎えるのは大きな山車だった。山車の周りには提灯や楽器が浮かんでいるが、提灯はその持ち主の姿を決して照らし出すことは無く、ただ影だけがずらりと地面の上に居並んでいた。
そして、山車を取り囲む大音声に、太鼓の音や笛の音、祭りを楽しむ人々の声などが、遠い記憶のように緑仙の頭の中で鳴き狂っていた。
笹木が彼らの前に来ると、山車の正面に掛けられていた
笹木は目を輝かせ、両手を広げて走り出す。簾の中にいる人物を抱きしめたかったのかもしれない。だが、緑仙の目では簾の奥の間には誰もいない、あるとすれば赤い紐で結ばれた小さな黒い箱だけだった。
緑仙は瞬きした。それを見間違いだと思って何度も目を凝らす。人の形をした影が、山車の屋根の上で足を組んで座っていた。影は不安定に明滅を繰り返しながら、にっこりと笑った……ように緑仙には見えた。
そして、ふっと視線を落とした緑仙の目に飛び込んできたのは、ひとりでにするすると黒い箱を結ぶ赤い紐が解かれていく光景だった。
箱が開かれる……!
次の瞬間、幾本もの生白い手が笹木を迎えようと箱から這い出して来る。それに気づいた緑仙は
「あ……」
と笹木の背に手を伸ばしたが、笹木の姿は白い手の渦の中に掻き消えた。