屋上で一人、椎名唯華は街を見下ろしていた。
ここ数日、聖杯戦争に動きはない。といっても、椎名の中で聖杯への関心は薄くなっている。この世界には、私の世界には何かが足りない。何か、あったはずのものが欠けている。そんな感覚に一日中囚われ続け、存在しない声を聞く。
しいなー! こっちこっち……!
声のする方を見ると、声は街の中心にある駅の方から聞こえてくる。
椎名は視線を駅から滑らせる。街の並びとは無関係に、駅の方から巨大な赤い鳥居が学校まで続いている。鳥居は学校の校舎ほどの高さがあり、あんなふうに立っていたら邪魔だろうに、誰も気に留めやしない。この鳥居もここ数日の椎名の悩みの種だった。椎名の行く先々に駅から鳥居の列が伸びてくるのだ。椎名を駅に誘っているかのように。
「やめろって」
椎名は聞こえてくる声に背を向けるように屋上の柵にもたれかかる。と、いつの間にそこにいたのか、アーチャーが椎名を見つめていた。アーチャーは一歩一歩椎名の方に近づいて来る。その瞳は責めるような厳しさを称えていた。
「なんやねん。おどかすなよ」
「椎名くん」
「はぁ?」
椎名くん? なにその呼び方。いつもは貴様だのお前だの言ってくるのに、いよいよあたしがおかしくなったんかな? アーチャーは責めるようなまなざしとは裏腹に、ゆっくりと言い聞かせるような口調で言ってきた。
「時間がない。私はそれを伝えにここに来た。といっても、これは君の提案だ。最終的には君の好きにするといい」
それだけ言って姿が揺らいでいくアーチャーに椎名は慌てて尋ねた。
「ちょ、もっとはっきり言えって! あたしはどうすればいいんだよ!」
アーチャーはふっと鼻で笑い、椎名を、いや、椎名の背後を指差して言い残す。
そこまで愚図な君ではなかろう?
「くっそ! あいつ……かっこつけやがって……今度会ったら令呪で切腹させたる……」
ぶつぶつと文句を言いながら階段を降りていく椎名。
椎名は舌打ちする。前と同じように下の階を浸しながら水が迫っていた。椎名は止まるのも煩わしいと意を決して水の中に足を踏み入れ、階段を降りていく。水は冷たくもないし重さもない。わずかな抵抗感と浮遊感。椎名が頭まで潜っても、呼吸はむしろ以前よりも楽だった。
「面倒くさい」
階段の踊り場の窓が目に入った。椎名は窓へと身を滑り込ませ、飛び降りる。だが、椎名の体は落ちることはなく、水の抵抗の中でゆっくりと降りていく。椎名は水を掻き、鳥居の方へと向かった。
地面に足を付け、椎名は鳥居を見上げた。なんてことはない、でかいだけの普通の鳥居だ。鳥居の中央に結ばれた金色の鈴は水の中でくすんではいたが、水面から射しこんでくる陽の光に反射してチカチカ瞬いていた。
椎名は鳥居へと足を踏み出した。
椎名が鳥居をくぐるたびに世界はめまぐるしく変化した。大正時代や明治時代を思わせる建物に人の装い、移ろいゆく季節に早回しで繰り返される時代の騒めき。朝と夜を繰り返しながら、世界から色が剥落していく。
駅に着いたころには、鳥居も駅舎も何もかも、白と黒のモノトーンと化していた。
人が、いない……。
無人の駅に足音を響かせ、椎名はホームに出る。奇妙だった。電車がそこにいて扉が開いているというのに、何の音もしない。音が無くなったというより、時間が止まってしまったかのよう。椎名が電車に乗り込むと、それを待っていたかのように扉は締まり、電車は走り出した。
電車の中は無人だった。椎名は長い席の真ん中に座り、こつんと窓に頭をもたせ掛けた。
電車はモノトーンの街を抜けるとすぐにトンネルへ。このトンネルが長く、また、普通だったらトンネルの中で反響する音も全く聞こえてこないので、椎名は何度か自分の耳の方を疑って、指を突っ込んでみたり耳を引っ張ってみたりした。
そのトンネルを抜けると、世界に色が戻ってきた。
椎名はパチパチと瞬きする。
大きな窓から車内に差し込む夕日、後方へ流れ去る田園風景は金色に輝いていた。音もいつの間にか聞こえるようになっており、薄っぺらい電車の走行音が鳴り響いていた。
上半分の開いた窓から冷ややかな風が入り込み、椎名の髪を吹きさらしていく。
夕日に染まる車内で、椎名は何度も幻を見た。俯く椎名の視界には向かいに座っていた女の子の足が映り込んでいたのだが、女の子は突然立ち上がると、ふらつく足取りでどこかへ行ってしまうのだ。誰かはわからなかった。だが、女の子が出て行くたびに、椎名は罪悪感を覚えるのだ。
「はあ、やめろや」
椎名が不快感もあらわに言うと、幻は見えなくなった。やがて電車は甲高い音を立てて止まる。椎名は立ち上がると、電車から降りた。
夕陽に照らされた立て看板には、掠れた字で「きさらぎ」と書いてあった。
「綺麗になっちゃってまあ――」
椎名は呆れてため息をつく。駅の向こうに水族館が見えていた。