Fate/DebiRion.   作:遥野みしん

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49.水族館へ

 夜になる。閉館した水族館を外から覗き込むと、すでに館内は消灯し、漂うような薄青色の光を放つ水槽だけが床に水の波紋を描いていた。

 

 入口のガラス扉が開いていたので、椎名唯華は堂々と入っていった。

 

「おやあ?」

 

 声を掛けられ、椎名はびくりと身を固める。

 

「すみませんお客様、当館はすでに閉館いたしましたので、また後日お越しください」

 

 受付の職員なのだろう。しかし、それにしては落ち着きのない声音だった。ゆるく巻かれたチェックのリボンは垂れ下がっていたし、ぎらぎらと輝く緑の瞳は無遠慮に椎名を見定めている。長く伸ばした赤い髪が暗い館内に溶け込んでいて、不思議なことにその末端は水の中にあるかのようにゆらゆらと揺れ動いて見えた。

 

「あの、人に会いに来たんですけど……」

 

 椎名の言葉を聞いて、その職員は喜色満面、あまりに明るい笑顔を見せる。

 

「それは素敵ですね! ふーん、そっか……。うん、たぶんあなたを待ってたんだろうね」

 

 職員は一人で納得したように頷くと、ゲートを開けて椎名を館内に導き入れた。

 

「あなたのお友達はずっと待ってるよ。どうぞ、ごゆっくり……」

 

 職員は深く頭を下げ、もう上げることは無かった。椎名が振り返っても、身じろぎせず、ただ館内の暗い闇と一体化してそこに在り続けた。

 

 

 受付を通り過ぎると一面の大水槽が椎名を出迎えた。椎名は水槽を見上げたが、水面は見えず、どこまでも淡い水の色が広がっているだけだった。また、下の方を覗き込んでも水槽の底は見えず、ぞっとするほど深い青が椎名の足元から続いている。

 その深い青の底から呻き声をあげながら、巨大魚の影はゆっくりと浮上して、椎名の前を通り過ぎた。 

 

 ああやってぐるぐる回っているのだろうか。ずっと、いつまでも……。

 

 椎名は水の層に霞んでいく影を見上げながら、胸の奥で冷たいものが広がっていくのを感じていた。

 

 しーな……! はよ来い!

 

「はいはい、今行くって」

 

 急に馴れ馴れしくなった自分を呼ぶ声に適当に返事をして、椎名は閉館後の水族館を歩いた。

 

 

 あの受付にいた職員をのぞけば館内で人と出会うことはなかった。椎名の通り過ぎたあとを海獣の声が館内に寂しく響き、水を掻いた泡音が柔らかに空間上に溶け込んでいく。

 上が開けた水槽を下から覗き込んでみると、水面は暗く、どうして水槽がこんなにも光を発しているのかわからなかった。

 

 ウミガメを通り過ぎ、クマノミなどの隠れるサンゴ礁の水槽を通り過ぎると、ちょうど水族館中央の大水槽に差し掛かる。

 

 大水槽には斜幕が引かれ、青い光が遮られて辺りは薄暗くなっていた。椎名は斜幕に手をかけながらゆっくりと水槽を回り込む。

 

 いた……!

 

 水槽の裏側には斜幕が引かれていなかった。薄青の光を放つ水槽の前には、学校の制服の上にパンダのフードのついたパーカーを羽織る少女、笹木咲が立っていた。

 

「あ、椎名……」

 

 笹木は椎名に気づくと、体の向きを変えて椎名を待った。

 

「……笹木」

 

 椎名は笹木の前まで来ると、水槽のアクリルにもたれかかり、首だけ振り返って水槽の中を見た。

 

 透明なクラゲたちの揺蕩う水槽の奥には巨大な樹が生えている。水槽の底を突き破って生え、水面から夜空に枝を広げているらしいその樹は、奇妙な柔らかい光を纏い、樹の光はふわりふわりと漂うクラゲたちの触手に伝播して広がっていた。

 

「ああ、これな」

 

 と笹木が説明する。

 

「うちのランサーがやってくれたの。ましろの受け売りやけど、うちらは死の世界の向こう側まで流されて、ずっとこっちに戻ってこれないはずだった。それをこの樹が世界に繋ぎとめてくれたんやって。うちの声が椎名に届いたのも、椎名がうちを辿ってここに来れたのも、全部これのお陰」

 

 笹木の樹を見る顔には切ない感情が表れていたが、そこには少しだけ誇らしさも見て取れ、椎名は安心した。

 

「そうか……やっぱ笹木、死んだんやな」

「うん、まあ」

 

 少し恥ずかしそうに俯く笹木。しかし次にはそのしんみりした空気を振り払うように顔を上げ、大きな息を吐く。

 

「あーあ、にしても、圧勝やと思ったんやけどな……」

 

 椎名は軽く笑って失敗したらしい友だちに尋ねた。

 

「なんで逆転されたん?」

「わからん。遊びたい、寂しい、って声が聞こえて。うちが遊んでやらんと、って声のする方へ歩いてったらいつの間にか死んじゃってた」

「そう、か……」

「でもさ、今考えるとうちが誰かと遊びたくて、寂しくて、つい声の誘いに乗っちゃったところもあるんだよね……。たぶんそこを相手がわかってて、上手く突かれたのかなって」

 うちもわかってなかったのにな、と笹木は笑った。

「それは……!」

 

 椎名は何かを言いたそうにした後、悔しそうな顔で頷き、諦めたように言った。

 

「そっか……相手も上手かったんや。しゃーないって、切り替えてこう」

「切り替える、か」

 

 笹木がほほ笑んで水槽を見つめる。その眼差しの意味を椎名はわかっていた。

 

 二人はお互いに口を閉ざした。

 

 笹木は、静かに水槽を見守っている。椎名は笹木と同じように水槽を見てはいたが、内心では焦っていた。

 

 この水族館に来てからどれくらいの時間が経った? 

 床や天井に揺蕩う水の波紋は変化し続けていて、それでいてずっと変わらないように見える。水槽の生き物が時間を教えてくれることは無い。この沈黙を続けてもいい。いや、続けたいと椎名は思っていた。けれど、アーチャーは言っていた。時間がない。もう、時間が無いのだ。

 

 椎名はゆっくりと笹木の方を見た。たった今、思いついたこと。たった今決めてしまったことを笹木に告げるために。

 

「笹木」

 

 笹木は椎名の方を見る。すでに別れを覚悟した瞳。

 

 お前が覚悟するための時間だったんか……! 

 

 椎名の胸に虚しさが込み上げてくるが、今はそんなことどうでもよかった。言わなきゃいけないことがあった。椎名は息を吸い、告げる。

 

「笹木、あたしと一緒に来い」

「へ?」

 

 笹木の間の抜けた声に椎名は少し元気づき、そして、水槽を指差して言った。

 

「たぶんやけど、あの木とテスラの発明が合わされば少しの間は現世に留まってられる」

「えぇ⁉ ちょ、何言ってんの⁉」

 

 慌てふためく笹木だったが、椎名は冗談でも何でもないという風に平然としていた。

 

「いや、え⁉ いやいや……っていうか、少しの間うちが現世に留まれるとして、それでどうなるって――」

「あたしが聖杯で笹木の体を用意したるわ」

 

 一瞬の静寂ののち、笹木が叫んだ。

 

「はぁあああ!!?」

 

 椎名はニッと笑う。

 

「どうだぁ、感激したか?」

「いや、っていうか椎名の願いは?」

「あたしの願い……確か大金やな。これからはあたしのぶんも笹木が一生稼いでくれ」

「たしかって、願い忘れてたの? いや、うちが稼ぐの⁉」

「当たり前やんそんなの。道理が通らんって」

 

 笹木はむむ……と顎に手を当てて少し考える素振りを見せるが、すぐに猛烈な勢いで首を横に振った。

 

「嫌だ! うちは働かない、働かないぞ!」

「じゃあ誰が働くねん、ったく。まあ、テスラが世界システムを作るらしいから、金の方は何とでもなるわ、たぶん」

 

 安心させるようにほほ笑む椎名を見て、笹木はまだ信じられないというように軽く俯き、空の笑い声を漏らした。

 

「あはははは……、まさか椎名がこんなこと言ってくれるとは。さくゆいはあったんやな」

「あるよ」

 

 椎名は茶化しもせずに断言する。

 

「さくゆいはある」

 

 呆然とする笹木に椎名は手を差し出した。

 

「笹木、一緒に行こう。あの木を回収して、ここを抜け出そう」

 

 笹木は瞳を潤ませ、椎名の手を取ろうと手を出しかけるが、固く目を瞑ってその手を下ろした。

 

「駄目だ……。椎名ごめん。うちはここで終わり」

「……どうしてなん?」

「さっきも言ったけど、この樹はうちらを世界に結び付けてる。うちがこの樹を持ちだしたら、ましろがあまりに可哀想なことになる……」

「……ええやん、別に」

「いやクズかて。今はそういうのええから」

 

 椎名は納得できないまま頷くしかなかった。笹木の表情はすでにやりきれなさを飲み込んいた。

 

「……そっか」

「うん」

「なんともならんか」

「……うん」

 

 笹木は小さく頷く。そのとき、水族館が振動し、水槽の中で光が明滅した。

 

「もう、限界みたいやね」

 

 小さく呟き、笹木は椎名の隣で水槽にもたれかかった。

 

「何が……」

 

 周囲を見回す椎名に笹木は告げる。

 

「ここはな、椎名。うちが見てる夢の世界。生きてる間、一番の友達とは一緒に行けなかった、水族館の夢」

「……すまんかった」

「もういいって」

 

 笹木は茶化すように笑う。笹木の椎名を見る目がどんどん柔らかくなっていく、そのことに椎名は危機感と焦りを抱いていた。

 

「そんでな、この夢を見てる間はうちは決して深くは眠れへんの。ここまで我慢してたけど、本体はもう夢を見ることもできないくらい眠いみたい」

「本体……この夢を見てる笹木がどこかにおるん?」

「あそこ」

 

 案の定、というべきか。笹木は水槽の奥の樹を指し示す。

 

「お前と駄弁るこんな夢がずっと続くのも面白いんやろうけどな……」

「いいよ。この夢をずっと見てればええやん! 頑張れよ!」

 

 無茶を言い出す椎名に笹木は思わず苦笑する。

 

「そうだ。そうだった。こんな楽しい夢をずっと見ていたかったから、聖杯が欲しかった」

 

 笹木の目から涙の雫が伝った。

 

「椎名、どうして楽しい瞬間って長続きせんのかな。心地のいい関係はどうしてすぐ壊れちゃうのかな。どうして何も思い通りにならないのかな……」

 

 椎名も笹木の言いたいことが分かり、思わず泣きだした。二人は誰もいない水族館でわんわん声を上げて泣いた。

 

「椎名、お願いがある」

 

 涙声のまま笹木が言う。

 

 椎名も涙を拭って笹木を見つめ、言葉を待った。笹木は鼻をすすり、大きく息を吐く。

 

「緑仙に酷いこと言っちゃった……ごめんって、うちが謝ってたって伝えておいてほしい」

「……わかった。他にはない? もう大丈夫?」

「うん……。もっと話したかったけど、最後に椎名の顔が見れただけでもよかった」

 

 そうして、笹木は椎名を軽く抱き寄せると、耳元で言った。

 

「さくゆいはある。頼むぞ椎名。お前だけは生きててくれ」

 

 椎名の体に触れていた笹木の体の重さが無くなった。

 ふわりと浮き上がった笹木の体は水槽へ引かれていく。その背中が、パンダのフードが水槽の表面に触れた瞬間、キリキリと硬質な音を立てながら水槽の表面のアクリルが歪み、笹木の体は水槽の向こう側へ沈んでいった。

 水の色にくすんだ笹木の体は、クラゲたちの長い触手に導かれて、水槽の奥へ遠ざかっていく。

 

「待って! 戻って来い笹木!」

 

 椎名も笹木を追って水槽へ突っ込んだ。硬質な音が椎名の耳元で鳴り響き、椎名の神経を搔き乱す。無機質な硬い流砂が椎名の体にまとわりつくが、次には冷ややかな水が椎名の体を包み込んでいた。

 

 なんやこれ、普通の水じゃない……! 冷たい……痛い……苦しい……! 笹木、こんなとこに居ちゃだめだよお……。

 

 椎名は必死に手を伸ばす。届かない。笹木は振り返りもしない。だが、椎名は意識を朦朧とさせながら、自分でも何を言っているかわからず、水泡に塗れながら叫ぶ。

 

「頼む、一万円あげるから!」

 

 水の中でその声はただの泡にしかならなかったろう。だが、笹木は振り返った。振り返って、くすりと笑った。

 

「ばか椎名」

 

 椎名は声を聞く。椎名の伸ばした手は小さくて温かな手に導かれ、そのまま暗い水面へと引っぱられていく……。

 

―――――――

 

「咲ちゃん‼」

 

 叫んで起き上がった椎名が見たのは天上から吊るされた電球だった。椎名は呼吸を荒くしたまま辺りを見回した。

 

 テスラの工房……薄暗い光を放つ機械がたくさん置いてある。そこで椎名は違和感に気づき、頭に装着されていた機械を取り外した。

 

「目覚めたかね?」

 

 工房の扉が開き、カップを持ってきたアーチャーが入ってくる。アーチャーは椎名にカップを渡して椎名の向かいの椅子に腰掛けた。カップの中は温かいコーヒーだった。椎名はそれを飲まずにカップを両掌で包み込み、明かりの反射するコーヒーの表面をぼーっと見下ろしていた。機を見てアーチャーが話しかける。

 

「咲……聞き覚えのある名だ」

 

 椎名はちらとアーチャーを見て、湯気を息でそっと吹き払う。

 

「ああ、全部思い出した。ランサーのマスター、笹木咲と向こうで会って話をした」

「そうか! いや、すまない。実験は成功のようだが、あまり喜ぶ雰囲気ではないようだ」

 

 この時初めて椎名はアーチャーの方に目を向けた。椎名の腰かける薄いベッドには椎名の外したヘッドギア型の機械があり、その機械からは幾本もの線が伸びていて、その線はモニター付きの大型機械へと続いている。

 

 あのモニターでずっと椎名の状態を見ていてくれていたのだろう。それに、逃げそうになっていた私に忠告までしてくれた……。

 

「テスラ」

 

 名前で呼ばれ、不審に思いながら椎名の方を向いたアーチャーに、椎名が向けたのは涙混じりの笑みだった。

 

「本当に、ありがとう。テスラは間違いなく人類史上最高の天才だよ……!」

 

 一瞬言葉を失ったアーチャー、二コラ・テスラだったが、慌てて胸を張った。

 

「ふん、霊界との交信理論自体は生前に完成させていたのだ。サーヴァントとなった今なら容易いことだとも。だが……」

 

 そこでテスラは椎名の笑みに応えるかのように柔らかなほほ笑みを浮かべた。

 

「そんな実験が成功し、実証されることは無かっただろう。君のような霊能者でない限りは……」

「それってどういう……」

「ああ、感謝するのはこちらの方だ。おかしな話だが、未だに私の本当の理解者は人類史上君しかいない」

 

 テスラは胸の前に手を持って来て、頭を深く下げる。敬礼……椎名は苦笑すると、テスラの前に手を差し出した。

 

 テスラは戸惑いながら顔を上げる。椎名は軽やかに笑って言った。

 

「これくらいがいいよ、うちらの関係は」

 

 テスラも笑い、椎名の手を取った。

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