緑仙は雨に濡れる体を引きずりながら、足早に住宅街を進んでいく。
「緑仙……」
「わかってる」
緑仙は目を走らせるが、住宅街には人がいなかった。迷った末に公園に入り、並木道を前にしてさらに躊躇するが、緑仙は辺りを見回すと、それしかない、というように足を踏み入れた。
たいして大きい公園でもなかった。だというのに、緑仙には並木道がずっと続いているように感じられた。朦朧とする意識の中で木々は繰り返し雨に打たれて泣いている。
冷えた体から逃れるように、緑仙の頭は楽しかった日々のことばかりを考えそうになるが、それがあのトンネルのときと似ているのに気づいて、舌打ちし、歯を食いしばる。
緑仙は足を止めた。緑仙の行く手を塞ぐように男が仁王立ちしていたのだ。
男は恰幅があり、緑のラインの入った黒いスーツを纏っていて、黒いシルクハットからは先端を緑色に染めた髪が垂れていた。
「チャイちゃん……」
緑仙は立ち止り、呟くように名前を呼ぶ。その男、花畑チャイカはポケットに入れていた手をゆっくりと抜く。
「よぉ緑。椎名とドンパチやったみてえだな」
「それが何?」
「同じレジスタンスなのに私だけハブるなんてひどいじゃないか」
そして、チャイカは鋭い笑みを浮かべて言った。
「私も入れてよ」
緑仙は苦い顔を浮かべて一歩後ずさったが、次には表情を固めて一歩前に踏み出し、少し胡散臭いと自分でも思いながら笑みを浮かべる。
「やだなあ、こっちはサーヴァントもろとも満身創痍だよ? 準備してくれたみたいで悪いんだけど、僕はもう家に帰るよ」
緑仙は敵意が無いように両手を広げ、用などないと言わんばかりにチャイカの横を通り過ぎようとする素振りを見せた。チャイカは横目で追うが、それもよかろう、と目を閉じる。緑仙はそこを狙った。
緑仙はすれ違いざま、体を反転させる勢いを利用して回転蹴りを見舞う。チャイカからしてみれば突然目の前から緑仙の足が飛んでくる形となる。避けられないだろう、と緑仙はタカをくくっていた。
蹴りは、空を切った。花畑チャイカは後ろに倒れ込むようにしてブリッジの態勢になり、蹴りを回避したのだ。
「ちっ、またか!」
蹴りを空振りした緑仙は驚きつつも、ブリッジからそのまま一回転して起き上がり、態勢を整えるチャイカを追撃する。
連続して放たれる突きに蹴り。チャイカは後退しつつもしっかりガードしてさばいていく。埒が明かないと強い突きを放つために緑仙が腰を落とした瞬間、チャイカの目が輝いた。後退していたチャイカが思い切り地面を蹴って前に出る。
「なっ!」
腰を浮かして慌ててその場から後退しようとする緑仙だったが、チャイカの方が早い。チャイカは勢いそのまま緑仙の横を抜け、大きく伸ばした二の腕で緑仙の細い喉を狙う。緑仙は反応し、チャイカの腕と自分の喉との間に両腕を差し込んでガードするが、チャイカの太い腕の前では関係なかった。
「うぉらああああああ‼」
花畑チャイカのラリアットが決まる。緑仙の細い体は吹っ飛ばされ、木に叩きつけられた。血を吐き、呼吸を荒くする緑仙は、近づいて来る花畑チャイカを虚ろな目で見つめることしかできなかった。
緑仙の横に音もなく、アサシン・李書文が現れるが、その身はすでに緑仙と変わらずボロボロだ。それを見て足を止めたチャイカの横にもまた、今まさにどこかからこの場へ帰ってきたとでもいうように、黒い外套を纏ったライダー、アレキサンダーが空から降ってくる。
「どうだ?」
尋ねたチャイカにアレキサンダーは笑って答えた。
「うん、怪我はしているみたいだけど、命に別状は無かったよ。気持ちよく寝てた」
なんなら、濡れないように傘が置いてあったしね……。これを聞いて花畑チャイカは手を叩いて大笑いした。
「はっ! 殺されるか、あるいは半殺しにでもされてるかと思えば気持ちよく寝てるときたか! 緑、テメエやっぱり甘いなあ……! そんなんだから……そんなんだから……、いや、まてよ? そんな風に考える必要も……」
自身を見下ろした状態であれこれ考えだしたチャイカに、緑仙は問いかける。
「何を、言っているの……?」
「ああ、そういえばお前、いつの間にか居なくなっていたが、抜けるとは別に言ってなかったよなあ?」
「……は?」
「つまりだ、お前が椎名を殺さず必要以上に傷つけなかったのは、私たちが仲間だったから……ってことだろ?」
「……いや、ちが」
「黙れ! みなまで言うんじゃない!」
チャイカに手で制され、先ほどまで虚ろだった緑仙の瞳はまた違った意味で虚ろになる。
「そうだ、そう考えた方が幸せじゃないか。なあ緑仙、仲間は当然殺さない。そうだろう?」
緑仙は雨の冷たさを意識して体の熱を取りつつ、呼吸を整える。それでも、チャイカが何を言ってるのかわからなかった。
僕が仲間……? いったい何の冗談を?
「一応聞く。緑……お前、俺たちの仲間か?」
「……ちがっ」
緑仙が答えを言いかけたとき、チャイカは緑のもたれていた木に向かって拳を叩きつける。木は折れこそしなかったものの、チャイカの拳は煙を立てて木の中に埋まっていた。チャイカはミシミシと音を立てて拳を引き抜くと、手首を鳴らしながら言った。
「んー、すまん。よく聞こえなかったわ。もう一度聞くが、緑、お前、俺たちの仲間か?」
「チャイカ、なんでこんなことを……?」
「そりゃあお前、ちゃんと確認しなきゃなんねーだろ? 仲間は殺せない」
チャイカのあんまりな物言いに、緑は回復のための呼吸も忘れ、不規則に腹を上下させて苦しい笑みを浮かべた。
「脅すなんて、酷いやり口だ」
「おう、俺もお前を殺したくはねえからなぁ、これくらいはするさ」
邪悪な笑みを浮かべて手を差し伸べた花畑チャイカを、緑仙は絶望的な表情で見上げていた。
この手を取ったら、どうなる……? またあの楽しい時間をやりなおせる……一瞬思い浮かんだいつまでも変わらない過去を、緑仙は目を瞑って切り捨てた。
そんなわけがないだろう……椎名にもどの面下げて……いや、いや、おかしいじゃないか。なんで僕は仲間に戻る前提で考えてるんだ? 無理に決まってる。一族の悲願も一応、ある。だいたい、ここでチャイカたちと合流したら僕がここまでやってきた意味もなくなる。それに、僕自身にだって願いが……。
そこで、緑仙の頭の中は真っ白になった。意識の空白を雨音が曝していくのをどうにもできず、緑仙はただ呆然と目を泳がせる。
僕の願い……何だ? 僕は一体何のために……。雨音と共に次々とこれまでの記憶が脳内で巻き戻されていく。
椎名、ごめん。笹木、ごめん……。召喚……両親の用意してくれた触媒が胡散臭くって使わなかった。すると、元々召喚に応じてこっちに向かってきていたものに何かが横入りしてくる感覚があった。
わざわざ僕のために! このイレギュラーがとてもうれしかった。李書文……。傍らに立つサーヴァントを見上げると、書文はちょうど胸の前に組んでいた手を力なく下ろしたところだった。
緑仙にはわかった。今、僕は諦められた……。哀しいけれど、悔しさは感じない。仕方ない、とだけ思う。むしろ、李書文は何度も僕に促してくれた。そこにいるよりもこちらに来い、と。言い訳ばかりして、動こうとしなかったのは僕の方だ。僕は、本当に馬鹿だったんだ……。
こんな僕に願いなんて……。そこで思い浮かんだのは、どういうわけか高校に転入した日に行った自己紹介だった。
気怠い朝に頭がまとまらないまま、ぼんやりと黒板の前に突っ立って、確か、僕はこう言った。
「えーと、一緒にゲームできるような友だちができればいいな、なんて思います」
雨が降っていたから、気が緩んでいたのかもしれない。チャイカの手を取ろうと伸ばしかけていた手に気づいて、緑仙は涙を流した。そして、その涙を誤魔化すように緑仙はほほ笑み、チャイカに告げる。
「無理だ……ごめん、チャイカ」
伸ばしていていた手は緑仙の意思の支えを失って落ちていく。しかし、その手は花畑チャイカによって握られた。
「え……」
自分の手が誰かと繋がっていることが信じられなかった。白い手袋を嵌めているが、自分よりも体温の高い大きな手。それが自分の手を力強く包み込んでいる。痛いほどに、力強く。
「すまねえ、思い出したわ。そういやお前ってそういう奴だったなぁ」
花畑チャイカはそう言ってあっさりと手を離す。
「あー、えーっと……」
と声を漏らしながら次のセリフを考えるように斜め上で視線を泳がせ、チャイカは気まずそうに言った。
「お前は、私たちの仲間だ。嫌だったら辞表でも書くんだな」
そして、チャイカは緑仙の背を向けて歩き去っていく。
まだ手に残る熱に戸惑っている緑仙は、何が何だかわからず、遠ざかっていくチャイカの背を見つめることしかできなかった。
やがて、傍らに立っていた李書文が言った。
「聖杯戦争は辞退することだ。回復が期待できない以上、もう戦えん」
「そう、だね……」
緑仙は頷いた。自分よりも書文のダメージが酷いのは明らかだ。それでも書文はまっすぐに立ち、自分は木にもたれかかって動けないでいる。この差は、一体何なんだろう……。
「ごめんな、李書文。願い、叶えてやれなくて」
「そんなものはいらん。他人に叶えてもらいたい願いなど特に無い。強いて言えば強者との戦いといったところだが、此度の聖杯戦争、期待していたものとは違っていたが、それでも満足のいく戦いは出来た。気にするな」
「そうか、それはよかったよ」
緑仙は安心したように頭を木にもたせかけ、上を向いた。木々の葉の隙間から雨がぽたぽたと伝い、緑仙の顔に落ちてくる。緑仙が視線を書文へ戻すと、書文は緑仙に手を差し出していた。
「立て緑仙、自分の足で歩け」
緑仙は露骨に嫌そうな表情を浮かべた。
「教会までおぶってよ。いいでしょ、お爺ちゃん」
「手は貸そう、自分の足で歩け」
書文のいつになく厳しい言葉に緑仙は空笑いして息を吐くと、その手を掴んだ。
「あっ、ととっ……」
立ち上がり、歩き出そうとしたところで足に力が入らずよろけた。それを庇うように書文が体を支えてやると、そのまま緑仙は書文の肩を借りて歩き出した。
「僕は、弱いな……」
俯きながら緑仙が零す。書文は緑仙の方を見もせずに言う。
「仲間がいるではないか」
「仲間……ね。そういえば、迷惑ばかりかけてた気がする」
「仲間とはそういうものだ。知らないところでお前も仲間を支えていたに違いあるまい。だいたい、強さが何だというのだ。自分がそうしたいと思ったときにそうできる強さ、お前はそれに憧れているようだが、したいようにしたところで運命がどうなるかはわからない。結局、後悔はするのだ」
そう言うと、唐突に顔を伏せ、書文は言った。
「すまなかった。あのとき、わしはお前を諦めた。こ奴は最後まで変われぬ。強くはなれぬ。もう一生不幸なままだろう、と」
自虐するように笑いだす書文、緑仙が肩の上に回した手で抱き寄せるように力を入れると、それもすぐに止まった。書文は続ける。
「わしの判断が誤っておった。このようなわしの強さなどよりも、お前をお前のままでいいと手を取ってくれる仲間がいること。お前はそれに気づくだけで良かったのだ……」
緑仙は最後までしっかりと聞いて、「うん……」と頷いた。しばらく二人は沈黙したまま歩き続けたが、やがて緑仙が軽い調子で言った。
「っていってもまあ、僕は強くなるけどね」
「……無理だな。わしにはわかる。緑仙よ、その道は諦めるがいい」
先ほどとは違った明らかな冗談を、緑仙は意外に思いつつも応戦する。
「じゃあ、試してみようか? 最後に一戦やろうよ、今なら僕でも勝てるかも」
これを書文は鼻で笑い飛ばした。
「ふん、調子に乗るなよ、クソガキめ」
肩を組み、よろけながら進む二人の背中は霧の中に消えていく……。