ずっと違和感があった。
自分は何のために生きてるのか。自分はいったい何なのか。記憶の中の自分と今の自分がいつも繋がらない。そういえば、ネットの世界では色々な国と繋がっているけど、現実の、俺の体のあるこの世界では?
屋上から見下ろす街はいつも灰色で、その灰色の街は空から降り注ぐ虹のようなベールで柔らかく覆われている。街の外に何があるかはわからない。
あの虹の外側には何があるのだろう。ずっと考えてはいるけど、たぶん、考えない方がいいことなのかもしれない。俺以外にはこの光景が見えていないらしい。
昔、仮説は立てた。でもそれきりだ。最後に考えたのは確か、こんな仮説だった。
この世界は、誰かに、何らかの目的で作られた小さな一つの街。俺を含む人々もまた、同じ目的で作られている。そして、街の外、あの虹の向こうには……何もない。存在していない。単純に、作る必要が無くて作られていないのだ。
―――
鷹宮さん……
名前を呼ばれ、鷹宮リオンは目を覚ました。
「待ってたんだ。来てくれてよかった」
ベッドの脇に座っていた黛灰が無表情のまま言った。黛が何かを手渡そうとしているようだったので、鷹宮は眠い目をこすりながら体を起こす。
「はいこれ。この高校の保健室には、唇を腫らして運ばれてきた生徒にバニラアイスを振舞う風習があるらしい」
「はあ、どうも」
アイスを受け取っておずおずと自分の唇に触れる鷹宮。たらこのように腫れ上がった唇を指でぷにっと押し込むと、鷹宮は真顔になって、アイスを唇に押し付けた。その瞬間、集まっていた血が散っていき、重たかった唇が軽くなっていくのが分かった。それを見ていた黛も驚いたように言う。
「へえ、唇の腫れが魔法みたいに引いてくね。それってやっぱり、この世界がゲームだから?」
「ごほっごほっ! いえ、前回のアレは違くて……!」
ふーん……と冷めた表情で頷き、黛は窓の方を向いて、少し上向きにどこか遠くの方を見た。
「……あの」
鷹宮が呼び掛けようとすると、黛は振り返り、いたって自然に会話を再開した。
「でもさ、俺自身、この世界がゲームだったらいいなって思うこともあるんだ。鷹宮さんは自分の世界がゲームだったらって考えたことはない? そういうのって面白いと思わない?」
「え⁉ う、うーん、あんまり考えたことなかったけど、確かに考えてみると面白いのかも?」
「でしょ。で、さ。この世界がゲームだったとしたら、それはどんなゲームだと思う? 鷹宮さん、今どんなゲームをやっているの?」
無表情で身を乗り出してくる黛に、鷹宮は思わず顔を背けた。そこでコメントが目に入る。
〇嘘はたぶんバレる。この手のキャラでルート入って好感度稼ぎたいならあえて本当のことを話すのもアリ ——社築
〇だってさー ——本間ひまわり
〇らしい ——悪魔
〇そのようですな ——麻婆神父
鷹宮リオンはほっとした。ここをどうやって、どんな嘘で切り抜けようか考える必要がなくなったからだ。たぶんここが分岐点。けれど、普通に楽しく話をしてもいいんじゃないの? と鷹宮は気を楽にして、話し出す。
「そうですねぇ、この世界がゲームだとしたら……恋愛シミュレーションゲーム……とかだったりして?」
ガタン、と音がした。黛は立ち上がっており、僅かに目を震わせながら聞いてくる。
「え……それってつまり……ギャルゲ?」
「そうです」
鷹宮はほほ笑み、黛は青白い顔をさらに青冷めさせる。鷹宮はさらに追撃した。
「しかもただのギャルゲじゃなくて、対戦型のギャルゲなのです!」
「へ、へー……ギャルゲに敵プレイヤーがいるんだ、新しいね……」
黛は笑いを返そうとしたようだったが上手くいかずに頬を引き攣らせ、それどころか足に力が入らなくなったようによろめく形で椅子に座り込んだ。
「あー、大丈夫?」
鷹宮が心配して声をかけるも、黛はそれを手で制した。
「ちょっと待ってほしい。ちょっとだけ、落ち着かせて」
黛は片手を鷹宮に向けたまま、もう片手で頭を抱えて苦しげな表情を浮かべている。その口はぼそぼそと何かを呟き続けている。聞き耳を立ててみると、俺は○○、俺は○○、と自分に何かを言い聞かせているようだが……。やがて、黛は吹っ切れたように顔を上げた。
「もういいよ、待たせてごめん」
「なに、どうしたの、黛さん」
「俺は受け入れたんだ。自分がギャルゲーの攻略キャラであることに」
「あ、そう……」
「だけど俺はまだ諦めていない。このパソコンと俺のハッカーとしての腕、及び観察眼によって、他の攻略キャラの好感度を仮想的に数値化し、主人公に伝える……そうすることで、友だちポジションのモブになることができる……!」
「全然受け入れてなくて草 じゃなくて、この世界がゲームって話は別に、ちょっと口走っちゃっただけっていうか……」
「鷹宮さん」
鷹宮の意識をぶつ切りにするように、黛は急に声のトーンを落として鷹宮の瞳をじっと見つめた。鷹宮は表情を硬くして黛の言葉を待ち、唾をぐっと飲んだ。けれど、黛は肩を落として言うのだった。
「わかってる」
「へ?」
黛はやれやれとばかりにだらりと垂れた袖を持ち上げ、肩をすくめる。そして、先ほど急に声のトーンを落としたのと同様に、急に鷹宮を安心させるような優しい声音で言った。
「わかってるよ。設定……設定だって。この世界がゲームだったらって話を考えてる。あんまり面白くないようだったら……一人で盛り上がっちゃって申し訳ないけど」
「別に、そういうわけじゃ……! 私ももっと黛さんとお話ししたいなって思ってたし……」
困ったように弁解する鷹宮だったが、顔を上げて黛の方を見てみると、その表情は何を考えているか読み取れない。
「話を戻すけど」
若干ふてくされ気味の黛が鷹宮の言葉を遮った。黛は回転椅子をくるりと回して鷹宮に背を向けた。
「そういえばこのゲームには敵プレイヤーがいるんだってね。ちなみにそれって魔界ノコウだったりするの?」
突然言い当てられ、鷹宮は思わず立ち上がった。
「え⁉ そうですけど、どうしてわかったの?」
「観察力? と、あとはー……」
黛はパソコンをじっと見つめるが、肩をすくめて鷹宮に向き直った。
「まあ、それはおいおい。それともう一つだけ、鷹宮さんに確認してもいいかな」
「なんですか」
鷹宮は何でも答える気満々で得意げに胸を張る。しかし、そこで廊下からカツ、カツ、カツ、と明るい足音が聞こえてきた。
「あーあ、邪魔者が来ちゃったよ」
黛は廊下への扉を忌まわしげに睨みつける。その扉が勢いよく開かれた。現れたのは養護教諭の健屋花那だった。
「あ、リオン様、ごきげんよう!」
挨拶された鷹宮は立ち上がって挨拶を返した。
「ええ、ごきげんよう」
黛は目を瞬かせる。二人はお互いに目を伏せ、スカートの端をつまみ上げてお辞儀をしたのだった。
「え、リオン、様……? っていうか、いつからそんなに仲良くなったの……」
これには健屋が答えた。
「ふふーん、色々あってね。それより黛さん、今健屋のこと、邪魔者って言った?」
「……言ってない」
すっと目を逸らした黛を見て、健屋はターゲットを切り替える。
「リオン様、この人、健屋が入ってくる前になんか言わなかった?」
「あー……言ってないです」
にっこりと笑って健屋は黛に向き直った。
「ほら、言ったって」
「いや、言ってないって言ってんじゃん。あれ、俺の耳がおかしいのかな。それともおかしいのは……」
「……」
「……」
しばし真顔で睨み合う二人だったが、くっ、と黛が先に顔を逸らした。
「廊下に立ってなさーい!」
「くそっ、なんで廊下まで聞こえてるんだ……」
頭をかきながらとぼとぼ廊下に出て行く黛。あ、素直に従うんだな……と鷹宮は黛を見送った。
「リオン様はベッドで寝てたみたいだけど……もう体は大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」
「あの野郎に何か変なこと吹き込まれてない? 大丈夫?」
「え、ええ。大丈夫です」
「そっか。でもよかったかも。黛さん、リオン様と話してるとき、ちょっと楽しそうだった。私がいくら話しかけてもどうでも良さそうに相槌うつだけだから……」
健屋先生は表情を曇らせて笑う。
「そうなんですか?」
「うん。まあ、私が言うことじゃないんだけど……」
そう前置きして健屋先生は言った。
「たまには黛さんとお話してあげて欲しいなって」
「……はい!」
鷹宮が頷くと、健屋は満足げに頷き、「あまり無理しないでね」と言ってほほ笑んだ。
保健室を出た鷹宮は壁にもたれて立つ黛と目が合った。
「大丈夫? 健屋先生に何か吹き込まれてない?」
少し不満げに言ったので、きっと全部聞こえていたのだろう。鷹宮は吹き出しそうにしながらも答えた。
「別にー。ぜんぜん何にも吹き込まれてないけど。じゃあ、黛さん、また」
そう言って歩き去ろうとした鷹宮だったが、後ろから呼び止められて足を止める。黛は片手を腰に当て、仏頂面で言った。
「黛でいいよ。同じ二年だからね」
これに鷹宮の表情はパッと明るくなった。その瞬間、これがゲームだということを忘れていた。これは希望だ。親友が謹慎になり、未来の閉ざされていた学校生活が一気に開けた……。この先なんとかやっていける、黛の一言でそう思うことが出来た。鷹宮は瞳をキラキラさせていった。
「じゃあ、私のことも鷹宮って呼んでよ!」
「……断る」
「なんで⁉」
鷹宮の学校生活は確かに明るく開けつつあった……。