その家は住宅街のなかに建つきわめて平凡な一軒家だった。バックパックを背負ったでびるは渡された地図と何度も照らし合わせ、ここだ……と足を止める。
でびるは玄関の扉を前にしてうん? と首を傾げた。インターホンが無かったのだ。やむなしとドアをノックするが……。
「?」
でびるは確かに何度も扉を叩いている。だが、音は全くならなかった。表面は堅そうなのに、固くない。けれど柔らかいわけでもない。叩いた瞬間にその衝撃だけが消え失せているようだった。
「すいませーん! ……あの、誰かいませんかー? ごめんくださぁーい!」
呼び掛けて、しばらく待っても反応はない。でびるは嘆息すると辺りを見回し、人がいないことを確認すると、扉をすり抜けて中へと入った。
「でび様! いらっしゃい!」
「うわぁ!」
扉をすり抜けた先で鈴原の見開かれた目と対面し、でびるは玄関に落下してころころと転がった。
「す、すいませんでび様、今開けようとしたんですが……」
鈴原に抱き上げられたでびるはもはや、諦めの境地にあった。
「もういいよ。それより外も暑かったしアイスくれ!」
「はい! ではリビングにお連れしますね!」
鈴原はでびるが飛んでいるのを見て、どこで買ったか小さなおもちゃみたいなスリッパをしまい、先導して廊下を歩いた。
廊下にはいくつも扉があった。
そのうちの一つ、角の部屋の前で鈴原は立ち止ると、でびるに振り返って言った。
「一応、ここが私の部屋です」
「お、おう」
その部屋には木で出来たピンク色のプレートに白い雲みたいなフォントで「LULU」と書いてあった。
だが、それよりもでびるが目を離せないのはその隣の部屋。
扉に大量の御札が張られ、札に混じって存在する藁人形には黒く錆びた釘が打ち付けられている。さらに、その釘には壁や天井に張られた札を巻き込みながら鎖が厳重に巻き付けてあった。
「私の部屋はあとで案内しますね」
「……いやお前、それより隣の」
「ここを曲がればリビングですからついてきてください」
「はい」
鈴原が扉を開くと、意外にもそこには普通のリビングがあった。木を基調として無駄なものが置かれていない、開放的な空間だった。
でびるの目に止まったのは窓だった。液晶にも見えて近寄ってみるが、やはり何かが投影されているわけでもなく、また電子機器にも見えない、本当に普通の窓だった。そこに映し出された宇宙はこの部屋を静寂で満たしてはいたが。
でびるは恐る恐る鍵を開けて窓を開けようとした。だが、その手はガシッと背後から鈴原に掴まれてしまう。
「でび様、アイスはそこにはありませんよ」
「いやでも、ちょっと窓がどうなってるか気になって」
「開けないでください」
「じゃ、じゃあこの窓どうなってるのか教えてよ!」
「窓を開けないでください」
「はい」
鈴原は許すように笑って頷くと、でびるを部屋の中央の背の低いテーブルに案内し、ピンクのかわいらしい座布団に座らせた。
「はい、でび様。崇拝の証です。どうぞお召し上がりください」
鈴原はキッチンから持ってきたワッフルコーンのアイスをでびるに渡す。でびるは厳めしい顔つきでそれを受け取ると、冷静に包装を解いてアイスのぐるぐるの見た目やバニラの匂いを吟味する。そしてついに、ぺろりと舌をアイスに這わせた。
「う、うめえ!」
次の瞬間、でびるは鋭い歯を剥き出しにしてアイスにがぶがぶと齧りつき、あっという間に平らげてしまった。
「美術部! これすげーおいしい! 今まで食べてきたアイスの中でも断トツだよ!」
「それはそれは喜んでもらえて何より……! 実はこの日のために色んな種類のアイスを買っておいたんです」
「美術部……お前、天才なのか?」
「えっへん! では、もっと持ってきますね~!」
「おお! 頼む!」
それからでびるは満足するまでアイスを食べ、お腹が膨れるとやがて眠りについたのだった。
鈴原は眠りについたでびるを見下ろすと立ち上がった。明かりの点いていないリビングは薄暗く、窓外の宇宙にはちかちか星の光が瞬いているものの、それも宇宙の闇の中にどんどん遠のいていっているようだった。
鈴原はリビングから出て行く。パタパタと家の中でささやかな足音がして、戻ってきた鈴原の手にはスケッチブックと筆入れがあった。
部屋は暗いまま、鈴原はでびるの前にしゃがみ込むと、さらさらとでびるの寝ている姿をスケッチブックに描いていく。たまに、スケッチブックの絵とでびるの姿を見比べ、うーん? と目を見開いて首を傾げ、スケッチブックの絵を修正する、という作業を繰り返す。
しばらくたって、スケッチブックから顔を上げた鈴原の顔には満足そうな表情が浮かんでいた。
鈴原は立ち上がると、今度は部屋の隅に置いてあった姿見を引っ張り出し、部屋の中央へ持ってくると、姿見の前に椅子を置いてそこに座った。
パチ、パチ、と瞬きし、首を軽く横に倒す。そして頷くと、テーブルの上に置いてあった携帯を手に取り、今度は目を瞑って首を横に倒し、それを何枚か(自分の姿と姿見に映った自分の姿)写真にとる。撮った写真を確認すると、うんうん頷き、そのままスケッチブックに書きとり始める……。
でびるが起き上がると、ちょうど鈴原がリビングを出て行こうとしているところだった。
「あ、美術部! どこ行くの?」
鈴原は振り返ると、にこやかに笑っていった。
「お先にシャワーを浴びてきます。眠気が覚めたらでび様もどうぞ~」
カチャ、とドアの金具が合い、鈴原はパタパタと廊下へ出て行った。
しばらくして、家の中が静かになった。でびるが耳を澄ませると、わずかにシャワーの水音が聞こえてくる。でびるはふーっと息を吐くと、振り返り、まるでそこにカメラがあるかのように、視聴者に語り掛けるかのように言った。
「さーてさて、やっぱり人に駄目って言われたことは気になっちゃうんだよねぇ~」
だって僕、悪魔だし。そこまで言うと、悪魔は悪い顔でニシシッと笑った。
まず、確かめるものは窓だった。
悪魔は改めて窓を見てみるものの、やはりいくら見たってよくわからない。普通に、窓の向こうに宇宙があるように見える。恐らく、裏側から投射していているのだろう。でびるは納得し、しかし警戒は解かずに窓をそっと、ほんの少しだけ開け、隙間から向こう側を覗き込む。
どこまでも奥行きのない空間に無数の光が瞬いている……その様にでびるはあんぐりと口を開けたままで固まった。でびるの目の前をいくつか巨大な小天体が流れていっても、でびるは何も反応することが出来なかった。
コメント欄が視界に入るとでびるは我に返った。コメント欄と少し審議した末に、でびるはゴミ箱を漁って先ほど食べたアイスの外れ棒を手に取ると、窓の外へと突き出す。
窓の、ちょうど内と外の境目の辺りで薄い膜が張ってあるような、柔らかな抵抗を感じたが、でびるがアイスの外れ棒を無理やりグイグイ押し込むと、棒は吸い込まれるみたいに膜の外側へと押し出される。でびるがパッと手を放すと、アイスの外れ棒は落ちもせず、闇の奥へとゆっくり遠ざかっていった。
でびるは無言で窓を閉めた。
「つ、次はあのヤバそうな部屋だ!」
無理やりテンションを上げて言ったでびるだったが、その目は焦点が定まらず、額には冷や汗が滲んでいた。
コメントに指摘されてちゃんとリビングの明かりを消したでびるは廊下に出る。廊下の薄暗がりの奥に、あの扉は禍々しい邪気を発していた。でびるはそそくさと扉に近づいていくと、扉の、その表面を覆っている鎖に手を近づける。
バチッ! と
「いったぁ……」
でびるは涙目になりながら焼かれた手を自身の魔力で癒し、それが終わると挑戦的な瞳で扉を睨みつける。
「なるほどねえ……」
でびるは扉の鎖や釘、扉以外の札に、先ほどのように反応が起こらない近さまで手を近づけたり、顔を近づけてよく見たりして、しばらくは何かを確かめるように右往左往していたが、やがて満足したように頷き、「ふっ、僕の手に掛かれば……!」と自信満々に呟いた。
でびるの体が半透明化し、扉の方へと吸い寄せられていく。その体が鎖や釘、札に触れてもジリジリとした細かな反応が出るだけで、でびるには痒い程度だった。でびるは玄関の扉をすり抜けた様に、封印されていた扉を抜けた。
小さな部屋だった。古い埃の匂い。奥の小窓からは夕陽が射しこみ、左右に並ぶ本棚に影を作っている。そして、部屋の中央には……中央の空間には穴が空いていた。
でびるは近づいてよく見た。人が入っていけそうな穴だった。ぽっかりと空いた穴は覗き込んでも果てが見渡せず、暗くてドロドロとした何かがどこまでも蠢いて見えた。その穴から感じる空気を、匂いを、でびるは知っている。懐かしいと思う……。
いつの間にかでびるの体は穴の方へと引き寄せられていた。
たしかにこの世界は楽しいけれど、それって本当に必要なのかな? 人と話したり、遊んだり、楽しいけれど……でも、初めから全部、無いなら無いでもよくね? 面倒くさいじゃん……こうしてもう、このまま元の通りに、楽になっちゃえばいいんじゃね……?
脳内でぺらぺらと語り掛けてくるもう一人の自分の声を聞く事すら煩わしく、でびるは目を閉じ、意識も閉ざそうとした……まさにその時、ガツン、ガツン! バキ、バキ! とでびるを呼び起こすように破壊的な喧噪が部屋の中を満たしていった。
「な、何だぁ⁉ 誰が僕の邪魔を……」
「でび様~!」
やべっ! 咄嗟にでびるの口から出た言葉はそれだった。でびるはその一瞬で全てを悟り、振り返ると、破壊された扉の隙間から大きな瞳がこちらを覗き込んでいた。
「よいしょ」
そう言って鈴原は扉を片手で破り捨て、部屋の中に入ってくる。鈴原のピンクのパジャマ姿と濡れて艶の出た髪は新鮮だったが、今のでびるには恐怖が勝った。
「でび様……どうしてこんなところに入ってしまわれたんですか?」
「え⁉ いやそれはその、ちょっと……なんていうか、呼ばれた気がして」
でびるは少し恥ずかしそうにしながら穴の方をちらっと見る。
「そうですか……でび様も、なんですね」
鈴原は納得したかのように部屋の中をぐるりと見渡した。その視線は部屋の中心に開いた穴ではなく、左右の棚に注がれている。でびるはその段になって初めて棚に目をやった。棚にはゲームのソフトが隙間なくずらりと並んでいた。箱の色や背表紙の高さなどが揃えられており、整頓されてはいたが、全て、埃を被っていた。
「私、ゲームが好きなんです。でも、受験もありますから、去年から控えているんです」
「受験? ああ、大学って奴?」
「はい! 美大の方に行きたいなって……!」
でびるは思わず、ほう、と感心してしまった。怖いのに優しくてよくわからないやつだと思っていたが、人並みに努力して夢を追っていたのだ。
「そっか。じゃあ、春から美大生なんだな」
「え⁉ いや、まだ合格できるかはわからない、ですけど……」
しりすぼみに小さくなっていく声に、でびるはやはりそうなんだと確信する。でびるは初めて鈴原るるを普通の人間として見ることが出来た。
「ねえねえ、その夢、僕が叶えて上げようか?」
にやりと笑う悪魔に鈴原は首を傾けて
「え、そんなことしたら私がずっとゲームを我慢してきた意味は……?」
「あー、それはまあ、確かに?」
鈴原はほほ笑んで言う。
「願いが叶うならまた別の機会に、別の願いを叶えて頂きたいです!」
「うん。お前は僕を崇拝してくれる大事な契約者だからな。僕は契約者のお願いを何でも叶えてやれる立派な悪魔なんだ。忘れるなよ」
鈴原は勢いよく頷いた。
「はい!」
でびるがシャワーを浴び終えてパジャマに着替え、リビングに戻ると、テーブルの上にはお菓子やジュースが準備されてあった。
「美大生、これは……?」
口の端から垂れてきた涎を拭ってでびるは尋ねる。
「でび様! 今夜はパジャマパーティーです……!」
「おお! って、パジャマパーティー?」
「夜、美味しいものを食べながらたくさんお話するんですよ。映画なんかもたくさん揃っています」
「映画か! それはいいな。何か恐ろしい映画はあるか?」
「もちろん! スプラッターなホラーもここに……!」
「よし! ではパジャマパーティーの開幕だ!」
二人はコップにジュースを注ぎ合うと、乾杯し、それから二人は映画を見ながらお菓子をつまみ、おしゃべりを楽しんだ……。
〇
薄暗い部屋ではカチ、カチ、とマウスのクリック音だけが鳴っていた。卓上の照明に顔を照らされた鷹宮リオンは前髪をかき上げてほほ笑む。
鷹宮はいつか後悔することになる。相手が自分のことを知りたがってくれていることに舞い上がったりなんかせずに、相手が本当に求めているのは何だったのか、自分がしてやれることはなんだったのか、もっと考えてやればよかったのに、と。