「はあー、危ねー」
息も絶え絶えに鈴木勝が首元の汗を拭う。廊下の曲がり角まで走った二人は追っ手を撒いたことを確認すると、文化祭で賑わう廊下を再びだらだら歩き出した。
「いやー、鷹宮さんとりりむさん、諦めたと見せかけて俺たちの女装メイドを狙ってたなんてなぁ。卯月の素早い判断が無ければきっと今頃は……」
なにやら恐ろしい想像をしてしまったのだろう、鈴木勝はぶるぶるっと全身を震わせた。
「保健室ばっか行ってるからちょっと心配してたけど、リオン様もちゃんと変な友達とつるんでるみたいで、まあ、よかったよ」
安心したように言うコウを見て、勝はわけがわからないと言った顔をしたが、そのあとすぐに耳の通信機器に手を当てて、
「あ、え……嫌だよ!」
と何やら慌てた様子。コウが見つめると、勝は弁解した。
「いやな、
「……霞?」
勝は最初、コウが何に引っ掛かったのかわからないという顔をしたが、すぐに気づいて気まずそうな顔で謝った。
「あ、わりいわりい……。そういえば言ってなかったもんな。霞っていうのは俺のパートナーの高性能AIの名前なんだ」
「そ、そうか……」
と一応受け入れたらしいコウに勝は苦笑する。
「それにしても霞ぃ、俺やコウはともかく、霞はメイド服なんてどうやって……」
そこで急に押し黙った勝をコウは心配そうに見つめるが、勝は深呼吸すると、少し気分を落とした顔で首を横に振った。
「なんでもねえ。それより次の目的地は美術室、美術室のエルドリッチ・クイーン! この機会にきっちり敵情視察といこうぜ」
勝の意図がわからず、コウはただ、気分を上げようと強く前に進む勝を後ろから見守ることしかできなかった。
中庭では特設ステージが設けられ、ステージの周りには人だかりが出来ていた。ステージ上にはあの魔界ノコウを保健室送りにした女がアイドルのような衣装を纏い、歌いながら踊っていた。
「げっ」
コウは中庭のステージを見てサッと目を逸らす。そんなコウを勝は不思議そうに見つめたが、コウは何も言いたくなかった。
二人が中庭を通り過ぎて薄暗い廊下を歩いていくと、まるで隔離されているかのように、校舎の端に配置された美術室があった。この一角は既に文化祭の賑わいからは遠いが、どういうわけかこの美術室だけはそれなりに盛況なようで、コウと勝が見ているさなかにも美術室に走っていく生徒の姿があった。
少し空いている扉から冷房の効いた空気が流れてくる。勝は扉の隙間に手を引っ掛けて開いた。
ガラガラと扉を開く音が異様に大きく響いてしまう、それほどに美術室は静かだった。そこではぎゅうぎゅう詰めになるほど人がたくさんいるというのに、みんな一言も発さずに絵を見つめていた。コウと勝は圧倒され、沈黙したまま美術室に入って扉を閉める。
美術室は床以外の全てが絵で埋め尽くされていた。
どの絵も同じ、黒くて丸っこい不思議な生き物(コウにだけはそれがでびでび・でびるだとわかったが)が描かれていたが、絵は、描かれたものの物質的なその表面では終わらない。どの絵も向こう側に別の世界を覗かせている。
その世界を追いかけようとして見つめても見つめても、どこかで行き止まりに当たって期待が挫かれることは無い。絵は、絵が内包する別の世界へとどこまでも導いてくれる。
その安心感に酔いながら、また、耳元でささやくカワイイ生き物のざらついた声に逐一脳を犯されながら、コウと勝は美術室の絵に囲まれて幸せに立ち尽くしていた。
勝の耳の通信機から怒声が鳴り響き、勝は我に返って口の端から零れた涎を拭った。隣を見ると、コウも涎を垂らしながら天井の絵に見入っていた。
「卯月! 卯月コウ、起きろ!」
勝が肩を揺らしてやると、コウの目に光が戻る。コウは辺りを見回し、全てを理解したようだった。
「そうか、これが勝の言っていた、エルドリッチ・クイーンってやつの……」
「わからない、でも卯月、感じるか?」
「感じるって、何を?」
「絵から妙な力の波動を感じる……!」
言われて、コウは絵を凝視した。凝視していると再びあのでびでび・でびるの囁きが聞こえてくるが、今回はわかっていたので無視することができた。無視すると声の主は拗ねてどこかへと行ってしまった。
「これは、魔力……?」
コウは目を瞬かせる。全ての絵から邪悪な魔力が放たれている。この美術室には邪悪な魔力が充満していた。
「霞、解析を頼む!」
勝の耳の通信機がチカリと光る。結果はすぐに勝にもたらされた。
「コウ、まずいぞ。力の波動の正体は精神汚染だ!」
「精神汚染⁉」
コウもまた耳を疑った。この邪悪な魔力の及ぼす精神汚染はきっと凄まじいものに違いない。それこそ、廃人になってしまうような……。コウは緊張感を持って尋ねた。
「勝、精神汚染って、具体的な内容はわかるか?」
「ああ、待て、今聞くからよ。……この絵に描かれている悪魔に好意の感情を抱いてしまう? コウ、聞いたか⁉ 悪魔に好意を抱くなんて、ああ、なんて恐ろしい真似を……コウ?」
「ん?」
「急に気の抜けた顔になったけど、どうした?」
「いや、別に。もう行こうぜ」
「え、ここの人たちは」
「いや、避難とか別にいらねえって。文化祭が終わったらみんな勝手に帰るわ」
「そ、そうなのか? そうならまあ、いいんだが……」
「おう行こうぜ。午前中あんま遊べなかったし、最後にもう一か所か二か所くらい回りたい」
「わかった。コウがそう言うなら」
二人は美術室を後にした。
―――――――
「そういえば……」
唐突に鈴木勝が呟く。
「さっきの話だと、ちょうどここで会ったんだって?」
鈴木勝が足を止めたのは、階段の踊り場だった。コウは頷いた。
「ああ、確かそうだ。ちょうど向こうから降りてきて、すれ違いざまに笑ったんだよ」
ふーん、と勝はさして興味も無さげに頷く。
「卯月」
と勝が呼ぶので、コウは近くまで寄る。
「放課後に校舎をさ迷う霊だっけ? よくわかんねーんだけどさ、特徴を聞くに一人だけぴったり当てはまる奴を知ってるんだよね」
「えっ、本当か?」
「さあ」
そう言って勝はぷいとそっぽを向く。
「なんだよ、そこまで行ったら教えてくれよ~。いいだろ勝~」
抱き着こうとするコウの手を煩わしそうに払いのけ、勝は勿体ぶって言う。
「あのなあ、部外者には教えられないんだよ。コウとは友だちだけど、仲間ではないからなあ~。仲間だったら教えてやってもいいんだけどなあ~」
そう言いつつも、ちらちらとコウの顔をうかがう勝。コウはしばし考える。このまま学校生活が何事もなく終わってしまえば、俺たちは負ける。でもこのイベントをやっていたら恋愛などできないかもしれない。どっちだ……。
コウはコメントも視界に入れながら、しかし実際には考えるまでもないことに気づいていた。コウは諦めて決断する。これはきっと、こんな駄目な自分を変えるためのイベントだ……。
コウはやれやれとお手上げするかのように、わざとらしく両手を上げて見せた。
「わかった、わかったよ。なあ勝、俺もお前たちの作戦に加えてくれないか?」
鈴木勝はその言葉を待っていたというように目を輝かせ、ロングコートをマントのように翻すと、事前に準備していたかのようにセリフを吐き出す。
「ふっ、随分と待たせてくれた。それでは我らが同胞、卯月コウよ」
そうして勝はお辞儀をして見せると、顔だけ絶妙な角度であげて、怪しい瞳でコウを見つめてキメのセリフに入る。
「我々のアジトへ案内しよう……」