夕方の雲が校舎の窓の間をゆっくりと移動する。窓際に佇んでいた魔界ノりりむは眩しそうに目を細めた。教室ではすでに文化祭の飾りは片づけられ、窓の外から聞こえてくる生徒たちの声が遠くに感じられた。
りりむはコメントを見た。行くしかない……りりむの心情を置いてコメントの多くは突っ走っている。りりむを気遣うコメントを残してくれている人もいる。けれど……
「やるしかない。ううん、やってみたい」
自分の心情を確認するようにりりむが呟くと、コメントはさらに勢いを増した。そこで、教室の扉が勢いよく開かれる。
「りりむちゃん! りりむちゃん、大変だ!」
りりむ一人の教室に小さな背丈でずけずけと踏み込んできたのは卯月コウだった。
「あのさあのさ、すげえたくさんのことが分かったんだよ! あのさ、この世界ってゲームじゃん? それを勝とその相棒の高性能AIが所属する組織はわかってて、それでいて実は裏からこのゲームの世界を守ってて、じゃあ何から守ってるかって言うと、このゲームの世界を手に入れようとする色んな奴らからなんだよ! それで今はその中でもハッカーって奴がやばいらしくて、この学校にいるのは確かなんだけど、高性能AIがいくら探しても全く足取りがつかめないのに、逆にハッカーの側からはじわじわ組織の防衛プログラムが侵略されつつあるらしくて、それで……!」
興奮してまくしたてるコウにりりむはため息をつき、苦笑して遮った。
「あのさ、コウくん。いっこずつ話してくれないとわかんないから……」
それでコウは正気に戻ると、今まで興奮していたのが恥ずかしくなって頬をかき、咳払いをした。
「ところで、りりむちゃんは今何を?」
「ああ、それはね」
とりりむは窓の外を見る。
「待ってたんだよ」
「……何を?」
そこで、りりむは窓の外に何かを見つけた様に目を見開き、心を落ち着かせるように深呼吸して背筋を伸ばす。
「先生が帰るのを」
話についていけてないコウに、改めてりりむは言った。
「告白するの。今日」
りりむが見ている先を追ってコウは絶句した。
「大丈夫なのか? よくわかんねーけど、もっとじっくりいった方がいいんじゃ……」
「コウくんが知らないだけでそれなりに交流はあったんだよ。夏休み明けのテストでね、数学と物理で学年一位を取ったとき、先生、自分のことのように喜んでくれて……!」
りりむがその時の興奮を伝えようとするも、コウが突然真顔になったのでりりむも真顔になった。
コウは少し眉を寄せて、まるでりりむを心配しているようなそぶりでその顔をりりむの顔に近づけると、りりむの前髪を手で抑えて、りりむの小さな額を露にする。
「ちょぉ⁉ 何するつも、り……」
りりむの声が震えた。りりむの額とコウの額がこつんと合わさっていた。りりむは放心してすぐ目の前にあるコウの顔を意味も分からず見つめていた。コウはりりむの髪を抑えているのと同じように自分の前髪を抑えて、何かを感じ取ろうとするように両目を瞑っている。やがて、コウは目を開き、くっついていた額を離し、顔を元の距離まで遠ざける。
「んー、熱はないみたいだけど」
「……は?」
「いや、学年一位って。りりむちゃんが真面目な顔していうから、てっきり高熱かと」
りりむは一拍おいて、卯月コウが何を言っているのか理解した。
「な⁉ えぇ⁉ ちょ、この男失礼なんですけどぉ! おい、お前! やっていいことと悪いことがあるだろ!」
「あ、いや、ごめん。まさかそんな嫌がられるとは……その、ほんとごめん!」
頭を下げた卯月コウをりりむは信じられないという目で見下ろした。
「謝るな! ……謝るなぁ! 違うから、違わないけど違うっていうか……もう、とにかく謝んないで!」
「お、おう。ごめん……じゃねーや、わかった」
「いい? りりむは夏休みの間、毎日毎日学校に来て数学と物理を頑張ったの。りりむだけじゃない、グウェル先生もずっとりりむに付き合ってくれた。りりむがちょっとサボりたいなって思って家から出ようとしないときには、教えてないのにLINEとかXとかで延々と呼び出ししてきたし、挙句の果てに配信のコメント欄に現れて視聴者さんと学校に来るよう催促し続けてくれたの」
「いやそれ逆にどうやってんだよ……」
呆れたようなコウのツッコミを無視してりりむは言った。
「そんなりりむたちの、夏の熱い思い出は、コウくんにだって馬鹿にする権利なんてないんだよ……!」
感極まったりりむとは反対にコウは覚めた表情で言った。
「っていうかりりむちゃん、恋愛ゲームでいったい何してんだよ」
「あ、言ったな! 言っちゃいけないことを! コウくんだって恋愛ゲームの中で世界の真相を巡る戦いに巻き込まれてんじゃん! 恋愛要素どこだよーm9(^Д^)プギャーwww」
「……てめえは俺を怒らせた」
「自分勝手すぎる!」
会話が一段落し、二人はどちらからともなく落ち付いて窓の外を見た。先生はいつもくっついている金髪の生徒と駄弁りながら、ちょうど校門を出たところだった。
「今日も、メイド服かわいいって言ってくれたし……」
少し拗ねたような口調で言うと、りりむは踵を返し、窓に背を向けた。
「じゃ、行こうかな」
そうして、軽く目を伏せて歩き出す。
「骨は拾ってやるから、安心していってこい」
コウもまたその後ろに続いた。
―――
「せ、先生!」
夕焼けは褪せ、遠い空が紫色に変わっていく頃、ついにりりむは先生を呼び止めることが出来た。薄暗い路地でいい雰囲気とは言えなかったが、人目はなく、また家まで付いていってしまうことは避けたかったので、ここが最後のチャンスだと思ったのだ。
「えっ? ああ、りりむじゃん! どしたの、こんなところで」
「その、伝えたいことがあって……」
りりむのもじもじした態度を見た先生は、表面上はりりむの緊張を解くように笑い、聞いてきた。
「なになに~? ちょっとどうしちゃったの。先生に何でも言ってごらん」
りりむの言葉を待とうとする先生を前にして、りりむ体はさらに緊張で強張っていった。その背に、卯月コウが念をとばす。
怖がるな! だいじょうぶだから……いけ!
りりむは必死に自分を落ち着かせようとしたが、こんなひどい状態でもそれが無謀であることはハッキリしていた。コウの囁きが後ろから聞こえる……視界の端でコメントの応援が見える……路地は薄暗かったけれど、そこから見える狭い空は綺麗だった……。
りりむは目を回しながら叫んだ。
「わっ、私とっ、結婚してくだひゃい!」
りりむはぎゅっと目を瞑り、片手を差し出して頭を下げた。りりむは顔を真っ赤にしていた。
か、嚙んじゃった……恥ずかしいっ‼ 頬が熱く、もはや顔なんて上げたくなかった。きっとコメント欄もコウくんも自分をあざ笑っているに違いない……。先生はどんな顔をしてるんだろう、この宙づり状態、早く終わって欲しい……!
先生がりりむのすぐそばまで歩いてくる気配があり、りりむは胸が締め付けられる思いで顔を伏せる。先生はあくまでも淡々と言った。
「結婚、ねえ。あのさ……りりむくん。りりむくんは将来どうやって生計を立てていくつもりなの?」
「えっ⁉」
想定外の先生の返事にりりむは思わず顔を上げた。先生は穏やかな表情ではあったが、どうしてかその奥に厳しさをたたえている気がして、りりむは一歩後ずさった。
「いや、そんな怖がらなくていいって。ただ聞いてるだけだから、ね? りりむくんはこの先どうやって生きていくつもりなのかな?」
「いや、あの……その……」
りりむは目を泳がせながらも必死にコメント欄の文字列を追いかけたが、何もりりむの頭には入ってこなかった。
「何も、考えてません……」
先ほどとは違った意味で顔を赤くし俯くりりむを見て、先生はゆっくりと頷いた。
「まあ、どうせそんなことだろうと思ったけど。ねえりりむくん、考えてみてほしいんだけど、結婚って、一緒に生きていくってことよ? りりむくん、どうやって生きてくの? まだ何も決まってないのに、結婚だなんて言っちゃっていいわけ?」
「……はい、いえ」
たじたじとするりりむに先生は言う。
「今のりりむくんはさ、目先の思いに振り回されてるだけで、先生のことだってちゃんと考えられてないんじゃないかなー、全然」
そして、先生はぐっとりりむの顔に自分の顔を近づけていった。
「あのね、りりむくん。人間はね、愛だけじゃ生きてけないの」
りりむの瞳が涙で揺らいだのを見て、先生は寂しそうに顔を離した。少し言い過ぎたか、と後ろ髪を掻きながら、先生は言う。
「先生だってさあ、あんまり先生と生徒とか、そんな垣根なんか気にせず応えたいんだけどね。でも私と結婚したいって言うなら……この先ずっと、一緒に生きていきたいって言うなら、先のことだって考えてもらわないと困るかなあ。それがわからないならさ、やっぱり、りりむくんはまだ子供で、私とりりむくんの関係も、結局どこまで行ったって、先生と生徒でしかないと思うんだよね」
そして、先生は俯くりりむの肩を両手でポンと軽く叩く。
「だから私も先生としての答えが出ちゃったのかも。でも、そういうことまでしっかり考えられるようになって、まだ私のことが好きって言ってくれるならぁ……ま、考えてやってもいいかな!」
そこまで言って、先生は、ふう、そんな感じ? と爽やかに結ぶと、話は終わったとばかりに踵を返して路地の奥へと進んでいく。
眼をしょぼしょぼさせたりりむは思わず尋ねた。
「せ、先生……こんな路地裏、どこに行くんですか……?」
先生は振り返らずに言う。
「りりむくんには関係のないことでしょ」
「あ、先生……待って」
去ろうとする先生に縋るようにりりむがよろよろと追いかけた。その瞬間、先生は振り返ると大きな声で言う。
「ついてこないで!」
「ひっ……!」
怯えるりりむを見て、先生はすっと表情を落とす。そして、驚くほど冷たい笑みを浮かべて言った。
「りりむく~ん、これ以上先生に構うなら、そのかっわいい頬っぺたぶっちゃうぞ?」
先生が手のひらを開き、りりむの頬にあてがうと、りりむはぎゅっと目を瞑って顔を背けた。それを見て先生は力が抜けたように笑い、頬にあてがった手をりりむの小さな頭の上にそっとおいた。そうして、今度こそ先生は路地裏の奥へと去った。
「りりむちゃん、大丈夫か!」
コウが駆け寄り声をかけるが、りりむは何も反応しない。コウがりりむの肩に恐る恐る触れようとしたとき、りりむの目から涙が零れ落ちた。
「りりむちゃん……」
りりむはコウの手をそっと取ると、その場に崩れ落ち、声をあげて泣き始めた。
「うわぁーん……! サキュバスはぁ……愛だけで生きていけるんだもぉん……!」
「あはは……そうだなあ。そうなんだけど……うん、そうだよなあ」
コウにはりりむにかける言葉が見つからなかった。言葉が見つからないままりりむの言葉を肯定してやることしかできなかった。