「さあ、もう行こうぜ。ケーキかなんか、甘いもんでも買って帰ろう」
コウがりりむを支えて立たせてやると、二人は表通りの方へ歩き出す。路地は既に暗く、通りには街灯の明かりが灯っていた。
コウは顔を上げた。路地の向こうから制服を着た女が歩いてくる。制服はコウとりりむが通っている学校のものだった。
その女には見覚えがあった。金髪で、キラキラした雰囲気で、魔界ノコウを保健室送りにした、あの……。
女はスマホを片手にゆらゆらと体を揺らして歩くので、スマホの白い画面もまたゆらゆらと揺らめいていた。コウは女から敵意のような気配を感じて身構える。
女は、ゆっくりと顔を上げる。女の目は左右で色が違うオッドアイで、片方が黄色で片方が赤色だった。女は二人を見ると、オッドアイの両目をこの場に相応しくないほどキラキラと輝かせて、笑いを含んだ声で言う。
「えー! もう行っちゃうんですか? もうちょっとここでゆっくりしていけばいいじゃないですかぁ」
「なあ、そこをどいてくれないか?」
コウが取り合わずに言うと、女は表情を曇らせる。
「うわっ、つまんない! 全然相手にしてくれないじゃないですか。卯月コウくんって意外とケチだったんだぁ」
「……いいからどいてくれよ。俺たち帰りたいんだよ」
「そうですねえ。っていってもぉ、お二人をここから帰らせるわけにはいかないなぁ」
二人の頭上で月が雲に隠れた。それに伴って、キラキラと輝いていた女の瞳がゆっくりと影を帯びていく。女は言った。
「私、全部見ちゃったんですよ。りりむくん、でしたっけ。先生に結婚を申し込まれてましたよね?」
「……それがなんだよ」
未だにショックでまともに話が出来ないりりむに変わってコウが答えた。女はそれを聞くと、妙にうれしそうな声で言った。
「いけないと思うなあ、そういうことは。お二人とも、一つ忠告しておきます……先生と結婚していいのは
その瞬間、コウは全身に違和感を感じた。ぞっとするような、何か、危険が迫ってるような。
俺たちの背後に、誰かが立ってる……!
コウは直感に従って前に倒れ込んだ。コウは肘を打ち、りりむはコウが庇ったのでなんとか顔を怪我せずには済んだが、それでも地面を転がって「あう!」と声を上げる。
コウは慌てて振り返った。そこに立っていたのは風紀の腕章をつけたあの男。目を線のように細め、優しい雰囲気を纏いながらもその中にほんの少し危険な雰囲気を漂わせる……通称、糸目の神田だった。
コウは冷や汗を流し、唾をのむ。神田は手に刃物を手にしており、今までちょうど振りかぶった態勢だったらしく、コウが前に倒れて逃げたために残念そうに刃物を持った手を降ろしたところだった。
神田は携帯をポケットにしまうと、仕留めそこなったコウとりりむについて何とも思っていないかのようにのんきな口調で言う。
「はぁー? 校則とか法律とか、全部嘘じゃん。なにいってんの? っていうか
女は星川というらしい。星川は神田の反応にキャッキャとはしゃいだ。
「そんな照れないでくださいよ♪」
「照れてませんー」
「おい、おい! 全然話についてけねえんだけど!」
声を上げたコウを二人は間の抜けた表情で見つめた。
「つまりさ、よくわかんねえんだけど、その神田っていうのは先生のことが好きなのか……?」
あまりにストレートな質問にキャッと顔を赤くした星川を神田は困ったように見つめ、やれやれと面倒くさそうに答えた。
「いえいえ、別に……好きだなんてそんな。ただ、少しだけ気になる……というか、なんて言えばいいんですかねえ。ただ、先生が他の男に構われてるのを見ると、ちょっとだけ胸の奥がざわざわする……うーん、気に入らない。わかってもらいたいんですけどー、私はただ心を平穏に、平静でいたいだけなんですよ」
神田のセリフの終わりと同時にキャーッと熱くなった顔を抑えて叫ぶ星川。コウは目を震わせて言った。
「お前はいったい、何を言ってるんだ」
「えー? 何か変なこと言いました? 私」
「変も何もお前、それ、完全に恋……」
「ちーがーいーまーすー! それより、まさかまだこの学校で先生に告白する生徒がいるなんてね。でびる君はさすがに尺度が違いすぎてどうとも思いませんでしたが……。まあ、あなたたちを邪魔に思う人もいるみたいですしー? ちょうどいいからここで消えてもらいますか」
コウの言葉を遮ると、神田は刃物を顔の前に掲げる。
コウは未だに立ち直らないりりむを壁にもたせ掛けると、人差し指をピンと伸ばして銃に見立て、神田を狙う構えをとった。それを見て神田は興味深そうに笑った。
「へー。魔術でしたっけ。昔本で読んだことがあるんですよー。私には必要のないものでしたので、すぐに忘れてしまいましたけど!」
セリフの途中で神田は手に持っている刃物を投擲する。それに合わせてコウは魔術を発動した。
「ガンド……!」
コウの人差し指から赤黒い炎のような光が生じ、光は球体となって弾丸のように神田に向かって発射された。
コウの放った魔術は神田の放った刃物によって真っ二つに割かれて空中で爆発した。爆発の真ん中に見えた銀色の光……。
「うわっ!」
コウは反射的に頭を横に逃した。ぴっ、とコウの頬に浅い切り傷が刻まれる。コウはひやりとしたものの、炎の向こうにいる男にすぐに意識を戻す。幸い、神田はその場から動かずじっとこちらを観察していた。
「ふーん、そんなもんか。ま、予想はしてたけど」
神田は懐から新しい刃物を取り出すと、退屈そうにぷらぷらとぶら下げて弄ぶ。今の撃ち合いでコウの実力を見切ったのか、神田はすでにコウを、自分を傷つける可能性のある敵として見ていない。コウにはそれがわかった。
敵が油断してる間になんとか逃げるしかないか……。
コウは再びりりむの肩を揺すろうと手を伸ばす。その手めがけて、刃物が飛んできた。コウは全く反応できず、無防備な手の平を深めに切られてしまう。
血が、りりむの頬にはねた。
「ひっ!」
りりむが目を見開いた。それを見てコウは事態の深刻さを悟る。コウはりりむから手を引くと、立ち上がって振り返った。
「なあ、お願いなんだけどさ、俺は殺しくれて構わないから、りりむちゃんだけは見逃してくんねーかな……」
神田は相変わらず笑っているかのように目を細めたまま、ゆっくりと首を横に傾ける。
「それはおかしくないか? 先生に告白したのはりりむくんなんだから、私が真っ先にやるべきはりりむさんじゃないですか。逆に、りりむくんは見捨ててあなただけでも逃げようとは思わないのかな? 私のことを言えば、あなたたちを殺せと人から言われてはいますけどね、告白を見ていただけのあなたに関しては別に恨みもないですし? 私があなたを見逃したところでこの先にはまだボスがいるんですから。私も別に怒られもしないでしょ。ねえ、卯月コウくんでしたっけ? どうしてあなたは一人でさっさと逃げないんですか? りりむくんを庇って死ぬことで、あなたに何か得があるんですかね?」
飄々と舌を回す神田にコウは苛立ち、一言だけ言う。
「うるせえよ……」
その答えが意外だったのか、神田は一瞬コウを無表情で見つめたが、じきに薄笑いを浮かべて言った。
「ほーう……なるほどね。彼女を庇う理由はなんとなくわかりましたよ」
「え! 星川わからなかった! ねえ、なんでなの! 教えて!」
神田の背後に隠れていた星川が神田の腕にしがみついてねだるように引っ張った。
「だぁー! うるさいよ、ちょっとは自分で考えろ! っていうかもうちょっと後ろに隠れてなさい」
念のためにね、そう言って神田は刃物を顔の前に掲げると、コウに狙いをつける動作を見せる。
「卯月コウくん、あなたのお願いは聞き入れてあげますので、この場に関してはお気になさらなくてけっこうですよ」
それを聞いてコウはホッとする。神田が刃物を振りかぶる。コウは目を瞑った。
―――――――
コウが覚悟した痛みや衝撃はいつまでたっても来なかった。コウが目を開けると、神田は刃物を持った手を下ろし、バツの悪そうな顔でコウの背後を見つめていた。
足音が響く。聞きなれたローファーの音だが、その音は暗く殺伐とした路地裏にあってはやけに高く、澄んで聞こえた。
コウが振り返ると、いつか祭りの時に見た、長い髪を二つ纏めた女がそこにいた。女はもう大丈夫、といって優しくコウの肩に手を置き、コウの前に進み出る。
「生徒会長……!」
神田が忌々しそうに呟く。女は余裕たっぷりの表情で言う。
「こんばんは、風紀委員長。こんな夜に、こんな場所で会うことになるなんてね。ところで……」
女はわざとらしい口調で神田の手に持っている刃物を指差した。
「その手に持ってるものは何かしら。ひょっとして、なんだけど、まさか風紀委員長ともあろうものが生徒を刃物で傷つけようだなんて、そんな馬鹿な話、あるわけないわよね?」
「ふう、まったく、とんだ災難だな。ええ、説明はややこしくなるので難しくはなるんですけど、聞く気はありますかねー?」
「いいえ。こう見えてややこしいのは嫌いなの。手っ取り早くこれで決めちゃいましょう」
そう言うと女はゆっくりと腕を持ち上げて、先ほどのコウがして見せたように、指で銃の形を作り、その銃口である人差し指を神田に向ける。
「はぁ、まあ遠坂ですし、そうなりますよねー。ですけど、その技は見たばかりですから、どうぞお好きなタイミングで放ってください」
「そ。それじゃ遠慮なく」
女の指先に魔力が集まっていく。その指先を取り巻くように暗い渦ができ、渦の中心はどんどん赤く、どす黒くなっていく。神田はこの時点で少し違和感を覚えるが、まあいいか、と刃物を構え、その時を待つ。女の指先に凝縮した暗闇が、そのおぞましい輪郭が、不安定にぶれ始める……。
女は軽やかな笑みを浮かべて叫ぶ。
「ガンド!」
神田は先ほどと同じように刃物を放った。その刃物が、高密度の暗いエネルギー体に呑み込まれて一瞬で腐り落ちた。神田はその細められた目をくっきりと見開く。
そこからの神田の行動は早かった。懐からスペアの刃物を取り出すと、一瞬投擲するか逡巡し、投擲はやめて刃物を逆手に持つ。そして顔のすぐ目の前まで迫っていたガンドを切り裂くと、爆発の衝撃が迫る前にバックステップ、背後で固く目を瞑る星川を抱えて大きく飛び退いた。
「卯月コウくん」
神田の一連の動きを見ていた女は言った。
「ごめん、私じゃ神田君を抑えきれそうにない。隙を見て早く逃げてちょうだい」
「そんな……だって」
「だっても何もないわよ! 大切な人がいるんでしょ!」
「いや……」
違う、という言葉を飲み込んだ。どんな意味にしろ、りりむがコウにとって大切な人であることに変わりはないのだから。
コンクリートの上で燻る呪われた火の向こうに、星川をおぶった神田が歩いてくるのが見えた。
「まいっちゃうなあ、ったく。こんな面倒くさい仕事じゃなかったのに。星川ー、今日は甘いもんでも買って帰るかー」
「えっ、奢ってくれるんですか!」
「あぁ、奢る奢る。好きなもん選べよ」
「やったー!」
星川はひとしきり喜んだ後、突然トーンを変えて真面目な口調で言った。
「神田さん、絶対勝ってくださいよ」
「ああ、それはね……」
「先生との結婚のために!」
「だーかーらー……結婚はしないって言ってんだろ!」
ふぅ、と息を吐き、神田は女に向き直る。
「いやあ待たせちゃって申し訳ない。すぐに再開しますからねーっと」
そう言うと、神田は上着の前を開いてその内側に収納されていた幾枚もの刃物を一枚ずつ丁寧に取り出し始める。女は冷や汗を流しながら聞いた。
「そのおんぶしてる子、星川さん、でしたっけ。下ろさなくていいの?」
神田は刃物を取り出す作業を中断し、背後におぶっている星川を振り返る。
「だってさー星川。下りた方が身のためだぞー?」
「やだー。足疲れたー!」
「小学生かよ!」
ため息をついて神田は言う。
「じゃ、このままで」
神田はまるでマジシャンがトランプをシャッフルするように両手の間に刃物を行き交わせてにっこりと笑った。
「守り切れるもんなら守ってみせてくださいよ……生徒会長」
刃物が一斉に女に向かう。しかも、飛んでくる刃物はまっすぐではない。跳弾を続ける弾丸のように、互いに激しく、複雑にぶつかり合いながら、広い範囲を危険なデッドゾーンに変えながら向かってくるのだ。
女は舌打ちすると、一瞬コウとりりむを振り返り、くっ、と歯噛みして上着のポケットから宝石をいくつか取り出す。それらを飛んでくる刃物に向かって放った。
宝石は前方に拡がると、それぞれの宝石間を結ぶように赤い結界の防御壁が展開される。狭い路地を飛び交う無数の刃物は壁の前に散り散りに落下していく。
「ふふっ、
防御壁の向こうから神田の声が聞こえた。女が焦ったように空を見上げているのをコウは見た。コウが頭上を見上げると、大きな月に一点、小さな黒い影が浮かんでいた。影はただ、ただ、少しずつ大きくなっていく。コウは気づいた。
刃物が自分に向かって真っすぐに落ちてきている……!
終わった……。そう思い、茫然と突っ立つコウだったが、一瞬何かと衝突したような小さな衝撃が体に走り、続いて体は浮遊感に包まれる。気づいたときにはコウは上空に舞い上がっていた。
「って、りりむちゃん!」
コウを抱きかかえて空へと舞い上がったのはサキュバスであるりりむだった。りりむはその小さな羽根をパタパタと動かし、夜空を飛んでいた。
「りりむちゃん、もう大丈夫なのか?」
「えへへー……恥ずかしいとこ見せちゃってごめん。たぶん、もう大丈夫だから……」
「そっか」
コウは眼下の自分たちを救ってくれた女に手を振る。女も笑顔で手を振り返してくれた。
星川はこちらを指差して何か喚いているようで、神田が面倒臭そうに宥めている。相変わらずマイペースだな、とコウは呆れるばかりだった。
夜空の二人は旋回し、街の明かりの眩い方へと飛び去っていった。