制服に着替えた鷹宮リオンが夕暮れの校舎を歩いていく。裸足をそのまま突っ込んだ上履きがきゅっきゅっきゅっ、と音を鳴らす。その足取りは急いでいるようで、しかし急ごうとする心を抑えているようでもあった。
鷹宮は立ち止る。保健室の前で。そのまま扉を開けようとしたが、少し気になって自分の体の匂いを嗅ぐ。
「わかんない」
呟くと、コメント欄から笑い混じりの共感の声が上がった。汗拭きシートで拭きはしたけれど……。鷹宮は簡単に髪を整えると、保健室の扉を開けた。
保健室は夕焼け色に染まっていた。電灯は点いておらず、天井の方は少し薄暗かったが、それでも電灯を点ける必要はなかったのだろう。
鷹宮が保健室に入っていくと、奥の方でパソコンをいじっていた黛灰がその顔を鷹宮の方に向け、カチ、カチ、とマウスを鳴らし、椅子を回転させて体ごと鷹宮の方を見てくれた。
「黛……」
鷹宮が呼び掛けると、黛は表情も柔らかに言った。
「鷹宮さん、リレー見てたよ。白組優勝おめでとう」
「あ、黛も応援ありがとね」
少し頬を赤く染める鷹宮。あるいは、夕焼けがそう見せただけかもしれない。黛は少し斜に構えて尋ねた。
「鷹宮さんはさ、このゲーム、楽しい?」
鷹宮はそんな黛の言動にも慣れてきたのか、呆れながらも微笑んで答える。
「またそんなこと言ってる。でも、うん、すごく楽しい!」
そうなんだ、と黛は頷く。
黛は体を鷹宮の方に向けたまま目を逸らし、鷹宮は椅子に座りもせず、お互いに沈黙し合う時間が過ぎていった。そんな時間を経て、黛が言った。
「俺はさ、覚えてる限りじゃ生きてて楽しいって思ったことが無かった。話しかけてくる奴らはみんな、悪意を持った誰かの手先に見えたんだよね」
「……え」
「もちろん、理性ではわかってるんだ。例え悪意を持った誰かがいたとしても、ここにいる人たちはみんなその誰かとは関係なく毎日を過ごしてる。善意で俺に話しかけてくれてるってことを。……名前を出すけど、健屋先生に言われたんだ。最近黛君、楽しそうって」
黛は回転椅子を揺らし、髪先を指に巻きつけながら、再び鷹宮に向き直って続けた。
「確かに、ここ最近、毎日の生活を楽しんでいる俺がいる。鷹宮さんだけじゃない、人と話すことに……人との交流に、温かさ……みたいなものを感じる俺がいるんだ。こんな自分は今まで知らなかった。俺はいままでこの世界に対して心を閉ざし過ぎてたのかもしれない。全部、鷹宮さんが現れてからだよ」
黛は三秒ほど、じっと鷹宮を見つめてから言った。
「鷹宮さん、ありがとう」
鷹宮は黛の言葉を聞いて瞳をうるうるとさせた。今までこんな風に誰かに感謝されたことなどなかったのだ。
「黛……」
感極まったか、今にも泣き出しそうな声で鷹宮が名前を呼ぶ。黛はそれを受け流すようにほほ笑み、目を伏せると、少し間をおいてから切り出した。
「鷹宮さん、今日もここに来てくれてありがとう。実は、最後に聞きたいことがあったんだ」
「最後?」
鷹宮が聞き返すと、黛は目を瞑って頷き、言った。
「このゲームの外の世界……つまり鷹宮さんの生活する世界のことなんだけど、このゲームに近いのかな。それともけっこう違ったり? ひょっとして魔法なんかがあったりして」
いったい何を聞かれるのだろうと身構えていた鷹宮は、少し拍子抜けした。なんてことはない、いつもの話だ。鷹宮は胸を張って答えた。
「ふっふっふ……ある!」
〇悪魔:小娘止まれー!
〇麻婆神父:ちょっ
「あー、どっち系? 誰もが魔法を使える世界? それとも一般人には魔法は秘匿されてて、裏で魔法使いたちが暗躍してる感じ?」
「暗躍系かなー。正確には魔法じゃなくて魔術だけど」
〇Nuzuha:駄目だこいつ…早く何とかしないと…!
〇社築:すまん、俺が本当のこと話せって言ったから……
気づいたときには鷹宮は全てを話していた。黛の知的な相槌も相まって、それはもう、あまりにぺらぺらと。
「あー、つまり、鷹宮さんとでびるくんは、命がけの魔術師たちの戦いのさなかにこんなギャルゲーを配信している……と?」
「その通りです!」
「うん、馬鹿じゃないの?」
「なっ、馬鹿じゃないです! 成り行き上仕方なかったのです!」
「どんな成り行きでそうなるっていうの……」
「それは、戦いを妨害しに来た刺客がたまたま配信者で、配信でゲーム対決だ! って。なるじゃないですか、普通」
「ならないよね? 普通」
「……ならないかも」
照れ笑いを隠して鷹宮は顔を背けるが、そこでコメント欄が目に入った。表情を固めた鷹宮の視界の端を、ものすごいスピードでコメントは流れていく。
「やっ、ちょっ、言い過ぎた!」
鷹宮が慌てて両手で口を塞いだのに対し、黛はいたって冷静だった。
「ああ、魔術の話……秘匿してるんだっけ。まあでも、大丈夫じゃない?」
「え、なんで? だってそんな……」
「まあ落ち着いて。まずはじっくりコメント欄を見てみなよ」
それだけ言って黛は椅子をくるりと回し、パソコンに向かってしまったので、仕方なく鷹宮はコメント欄を見た。
初めは何ら変わったところのない、いつも通りのコメント欄に見えた。コメントの加速も何やら失言してしまったらしい鷹宮が慌てているために囃し立てているだけだ。ノリがよくて、みんな楽しんでくれている。だが、鷹宮の胸に違和感がちらついた。そして、それに気づいたとき、呆然として目蓋を擦り、立ち尽くした。次第に冷静になってくると、次には失望が来る。
ここに来てわかったことだが、どうやら視聴者たちの多くは、でびでび・でびるという存在を架空のキャラクターとして受け入れているらしい。願いを実際に叶えてもらった者がいるというのに、それすらもサクラ扱いし、言ってみれば、嘘を嘘と分かったうえで楽しむエンターテイメントと考えているようだった。今回の鷹宮の話も架空のキャラクターのコンビ、悪魔・でびでび・でびると魔術師・鷹宮リオンを取り巻く設定として自然な形で受け入れられてしまっている。
ひとまず大変なことにならなくてよかったと安心すべきか、はたまた……。
「で、どうだったの」
黛はパソコンに何かを打ち込みながら、どうでも良さそうに聞いた。鷹宮が受け入れきれない現実を、何ら驚くことでもない当たり前のことだと言わんばかりに。
「そんな……ここ一か月くらい、ほとんど毎日みんなと話したり遊んだり、楽しくやれてたはずなのに……」
鷹宮の落ち込みようから察した黛は軽く息を吐いて言う。
「ネットの向こうにいる悪魔と魔術師のコンビなんか誰も信じないよ。いや、ていうかさ、コンテンツを楽しむのに信じる必要なんかないでしょ」
黛が何を言ってるのかわからない。コメント欄が何を言ってるのかがわからない。
「ねえ、鷹宮さん。俺はプレイヤーがプレイしてないとき、何してんだろうね」
「え……あ……さあ」
「もっと気楽に考えなよ」
予想よりも鷹宮がショックを受けていたからか、黛は椅子を回して再び鷹宮に向き直る。
「逆にさ、鷹宮さんを見てる奴らの方が存在してるかどうかわからないじゃん。そっちが現実でこっちがバーチャルだなんて、誰が決めたのって話」
「そ、そうですかね……?」
「そうだよ。それに、鷹宮さんの世界にだって、外側がないなんて言えないんじゃないの? 例えば、小説だったり……」
おっと、と黛は口元に薄い笑みを浮かべ、それを垂れた袖で隠した。
「ま、どうせ本当のことなんてわからないよ。人は誰だって常に、バーチャルの中で生きてるんだから」
そこまで言うと、黛は立ち上がった。今にも崩れ落ちそうな鷹宮を通り過ぎ、保健室の扉に手を掛ける。黛は振り返って言った。
「鷹宮さん、ちょっと歩こうか」