僕の家は海のすぐ傍にあって、裏口から出て一分も歩けばもう、切り立った崖の上から海を望むことができる。
同じ中学の友達を家に呼んだ時、お前んちってモグリの医者でも住んでそうな感じだよな、と言われたことがある。確かにロケーションとしてはそのまんまだ。ただ、家には母さんと僕の二人暮らしで、父は医者ではないどころか、共に住んですらいない。
母さんによると、父は存命で、浮気だとかそういった重い事情もなく、僕が物心つく前に仕事の都合で単身赴任に出てしまっただけなのだという。でも、どこにいるのか、どんな仕事をしているのか、そういうことを聞くと、母さんは決まって難しい顔で黙り込んでしまう。
自分の質問が母さんをひどく悩ませることに気付いてから、僕は父について尋ねることも、自分で想像を巡らすこともやめてしまった。
中学校は夏休みに入っている。暇を持て余した僕は、いつも通りに海で時間を潰そうと考えた。炎天下の昼下がり、海風が涼しく崖が日陰を作る崖下の岩礁は、家で扇風機に当たっているより過ごしやすいに違いない。
裏口ではなく正面玄関から家を出て、道なりに数分ほどかけて崖を迂回しつつ降りると、足場代わりにできる岩礁が広がっていて、満潮でない限り、安全に過ごすことができる。そこで釣り糸と適当な餌を使って岩蟹を釣ったり、波音を聴きながら思索に耽ったりするのが、僕は好きだった。大した魚も釣れないからか、ここには釣り人も滅多に来ない。家から近く、静かで落ち着く、僕の場所だった。
ただ、今日は珍しいことに、先客がいた。下半身は海に浸かったまま、顔を伏せ、上半身だけを岩に預けて揺れる女の人だ。こんなところで遊泳する人なんているわけもなかったし、何より、その人の格好の異様さが、僕を呆然とさせた。長い髪を二つに結んだ、僕より年上だろう―――高校生くらいだろうか―――、スクール水着の女性。その胸の、何というか……豊かさが、着ているものと絶望的にちぐはぐな、そんな印象だった。
土左衛門だったらどうしよう、という心配はあまりなかった。体は波に揺れこそすれ、腕にはしっかりと力が入っているらしいことが見て取れたし、肌もそういった人特有の青白さとは無縁の、健康的な血色をしていたからだ。
とはいえ、放っておけるような状況には見えない。僕は岩を伝い、女性のところに近付いくことにした。
「……誰なのね」
すぐ傍まで来た時、鋭い声が飛んできた。予想よりも強い反応に驚いたものの、この近所に住んでいる者です、大丈夫ですかと、僕はそんなことを言った。
彼女は顔を伏せたまま、何かを考えているようだった。少しばかり間を空けて、顔を上げ、口を開く。
「ここの人、ね……。申し訳ないけど、ここがどこだか教えてもらえるのね?」
街の名前を教えると、彼女は呻き声を上げた。随分と流されたのね、と呟いたのを聞いて、僕にも彼女の身の上が朧気に想像できた。溺れたか何かして、流されてきたのだろう。服装からして、学校の活動で、だろうか。流されておいて水を飲まなかったというのは僥倖だ。
ともかく水に浸かりっぱなしもよくないでしょうと、僕は手を差し出した。自分より背の高い女性だが、水中から引っ張り上げるくらいはできるだろう。そう考えての行動だったが、彼女は難しそうに眉根を寄せて、うーん、と唸るばかりだった。
しばしの沈黙の後、彼女はこう言った。
「よろしくお願いするのね。……その、びっくりしないで欲しいのね」
僕の手を取り、岩によじ登った彼女のお腹のあたりから、赤黒い液体が滴っていた。
思わず硬直する僕を見て、だからびっくりしないでって言ったのね、なんて、何でもない風に彼女は言い残して、その場に座り込んでしまった。
「見た目よりは浅い傷なのね。放っておいてもすぐに沈むほどではなかったけど……自力でよじ登る体力も残ってなかったから、どのみち危なかったのね。感謝するのね」
僕はすぐに医者を呼ぼうとしたが、それは彼女に止められてしまった。何故と聞いても、どうしてもなのね、と繰り返されるばかり。
「医者はまずいのね。でも、そう―――そうね、電話を貸してもらえると有り難いのね。連絡さえできれば知り合いが呼べるから、どうとでもなるはずなのね」
生憎、僕は携帯電話を持たされていなかった。すぐ上が僕の家ですと告げると、彼女は人を呼ぶなりしてそこに連れて行ってもらえないか、といったようなことを言った。僕は頷いて、家への道を急いだ。家に帰れば母さんがいるし、電話もある。僕がこの人を伴って坂道を登るのは難しいだろうし、とにかく、母さんを呼ぶべきだ。そう考えて、道を急いだ。
怪我した人が海に打ち上げられていたと告げると、母さんはすぐに岩場に降りてきた。
顔を合わせた時、二人とも、ひどく驚いた表情をしていた。女性の方は唖然とした様子で口をあけて固まっていたし、母さんも普段は全く見せないような、虚を突かれた様子だった。
知り合いだったりしたのだろうか、と思ったものの、二人とも、詳しく語るつもりはないらしかった。それが僕に配慮しての振る舞いらしいということくらいは、僕にも何となく解った。
「……すぐに家に運ぶわね。背中、乗れる?」
「大丈夫なのね。ただ、お洋服は汚しちゃうのね。……ごめんなさいなのね」
「気にしなさんな。ほら、ちょっと揺れるけど我慢してね」
母さんは軽々と女性を背負って、坂道を登ってゆく。いくら僕より体が大きいとはいえ、同性の、自分と大して体格の変わらない人をそう簡単に背負えるのかと、僕は驚いていた。
数分もしない内に、家が見えてきた。先に寝床を用意してくれるかしら、と母が言ったので、僕はその通りにした。来客用の部屋に布団を敷いて、二人を待つ。程なくして到着すると、母はタオルや洗面器をてきぱきと用意し始めた。どうも、自分で治療するつもりらしい。
大丈夫なのかと心配になったが、母さんも、女性の方も、二人して当然のような顔をしているものだから、追求するのもどうかとも思えた。どうも知り合いのようでもあるし、考えてみれば、僕は母さんが主婦になる前のことを何も知らない。案外、医学の心得があるのかもしれなかった。
「じゃあ、母さんはこの人の手当てをするわね。ちょっと外しててくれる?」
そう言われて部屋を出たあと、数時間もしただろうか。疲れた表情の母が部屋から出てきた。
料理している時間はないから、簡単なものでごめんねと、そう告げる母に誇らしいものを感じながら、ありもので拵えた簡素な夕食を摂っていると、母が口を開いた。
「あの女の子ね、お迎えの人が来るのに三日くらい掛かるらしいの。だからその間、ここで休んでいってもらおうかなって思ってるんだけど……いい?」
反対する理由はなかった。……いや、年上の女の人と同じところで生活することには、凄まじい気恥ずかしさを覚えたのだけれど。相手は怪我人なのだし、僕の都合で拒否するようなことではない。そんなことを言うと、母は本当に嬉しそうに笑うので、僕も誇らしい気持ちになった。
彼女は大した傷ではないと言っていたが、お腹から血を流し、へたり込むほどの状況だ。きっと快復には時間がかかるだろう、僕も気を遣わなければと、その晩の僕は、そう考えていた。
そして一日が終わり、寝て起きて、居間に来た時。そこには、元気そうに食事をする彼女の姿があった。
呆気にとられる僕を見て、彼女は嬉しそうに笑うと、箸を置いて僕の傍に駆け寄ってきた。足取りは軽く、怪我人の動きにはとても見えない。
「改めてお礼を言うのね。すっごく助かったのね。君、名前は?」
ずい、と顔を寄せられて仰け反りながらも名を告げると、彼女は楽しげに口の端を吊り上げて、こう言った。
「私はイクなのね。これからお世話になるのね!」
彼女の肩越しに、母が苦笑しているのが見えた。
導入部。