ちょっとは笑って! ホマレちゃん!   作:調味のみりん

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13.私が信ずるものは。

 

 

 

 

 

「これはまだ正式には決定していませんが──シロツメホマレさんのクラシック登録が棄却された事をお伝えしに参りました」

 

 

 細身の男は、そう淡々と告げる。

 細められた目は、固まった愛川の姿を映していた。

 

「え──え?」

 

「今後状況が変わることも十分あり得ますが、このままでは彼女のクラシックは難しいと言えます」

 

 口を開いて、閉じる動作を繰り返す愛川。

 男はそれを意に介さないように続けようとする。

 

「ちょ、ちょっと待って下さい!!」

 

 それを止めたくて、状況を整理したくて、男の話を切るように愛川が声を上げた。

 男は表情を変えずに頷いた。

 

「ええ、待ちますよ。結構な事ですからね。ここの椅子、座っても?」

 

 そう男が聞くが、愛川は黙ったまま動かない。

 すとん、と椅子に座り込み机を見ている。

 

 その様子に男は、愛川があまりの情報に頭が処理をしきれていないのだろうと結論づけ、静かに待つ事にした。

 そして、ギシリと音を立てる椅子に気がつく。

 

「あれ、パイプ椅子なんですか……? 予算は降りていない?」

 

 愛川は答えない。

 顔を地面に俯かせ、視線だけは壊れた機械のようにぐるぐると回っている。

 男は口を閉じて、ただ待った。

 

 

 

「……説明を、説明をして下さい」

 

 

 

 そして愛川は一分もしないうちに顔を上げる。

 癖のある彼女の髪の毛は少し乱れていたが、目だけはしっかりと理性の色を取り戻していた。

 

 男は嘆息した。

 

「さすが、冷静になるのが早いですね。周囲より秀才と目されるだけあります」

 

 そして再びニコニコとした表情を浮かべるが、愛川からの反応は無い。それが分かると男は表情を消した。

 

 そして、ふー、と息を吐く。

 

「何からお伝えしましょうか。ああ、ここからはオフレコでお願いしますね。メモもよして下さいよ。まだまだ文書に起こされるかなーり前に持ってきたんですから」

 

 男は指を一つ立てる。そして、それを自身の頭にトントンと当てる。

 頭の中身を確認するような動作だった。

 

「そのために全部()()()()()んです」

 

 

 

 ◆

 

 

「いま、URAは二つの勢力がコンフリクトしています。分かりやすく派閥と呼びましょうか。彼女をクラシックに出したくない派閥と、彼女のクラシックを認める派閥とでね」

 

 改めて席に座り、向かい合った両者。

 二人の間にはピリリとした空気が流れていた。

 

「そして今は彼女をクラシックに出したくない派閥の方が優勢です」

 

 その言葉に、愛川は知らず知らずのうちに椅子の下で拳を握る。

 爪は手のひらに食い込んで跡を作っていた。

 

「出したくない派閥の主張はこうです。──最近、彼女が不正入学しただとか、レースの安全性だとか。色々と言われています。それはもう、そこそこに」

 

 男は何も見ず、ペラペラと口を動かす。

 澱みのない口調は、録音された機械のように見えた。

 

「この前の雑誌は見ましたか? 『ずさんな試験体制! URA上層部の癒着!』って、出てましたよ。ああ、ゴシップで有名なハスズミ社ではなかったです。あそこ、今回は出してないんですよね。不思議な事に。──まあ、それはそれとして」

 

 

 そう言って話をすこし区切る。

 その間に男は一度唾を飲み込んで、喋る準備を整えた。

 

「とにかく、彼女の噂は世間に広まってしまっている」

 

 部屋には男の低い声と、時計のカチカチという音しかない。

 衝撃的な内容と、男の話すテンポから部屋の中では、まるで外とは違う時間の流れが出来ているようにも錯覚された。

 

「ですから、彼女の存在は、いつ周囲を巻き込んで爆発するか分からない火薬のようなモノになってしまいました」

 

 男は手のひらを握り、その後すぐにパッと開く。いわゆる爆発のハンドジェスチャーをした。

 愛川は反応を返さず黙っている。

 

「それを許容してまでレース──それも格式高いとされているクラシックに出たのなら。威信は失墜するか、少なくとも落ちる。そう考えられたのです」

 

 あまりの論に、愛川は叫びそうになった。

 だが、話が続いている。まずは情報だ、と彼女は歯を食いしばり続きを促した。

 

「トゥインクルシリーズは興行です。そのレースは金で回っています。そして、金はレースの人気によって支えられています。レースの人気は、その威信と権威で生じています」

 

 男は指を一つ立て、ぐるぐると空中をかき混ぜた。

 トゥインクルシリーズにおける、金の循環を表しているのだろう。

 妙に滑らかに動く手首だった。

 

「だからこそ、彼らの派閥は興行に悪影響が及ぶことを何より恐れています。それが崩れれば──崩れる可能性が有れば、いまの走ってる子や今後走るであろう子に悪影響が生じるから」

 

 ですが、と男は続ける。

 

「勘違いしないで下さい。何もあなた方が嫌いだからこうなってる訳じゃない。URAは歴とした組織です。良い人悪い人ではありません。ただ、立場が違うんです。守るものの順序がそれぞれ違うんです」

 

 男は止まらず流暢な弁舌を披露する。

 

「URAはひたすらに動きます」

 

 

 

 ──すべては、最大公約数のウマ娘のために。

 

 

 ギシリ、と音が鳴る。

 男が少し前傾姿勢になりパイプ椅子が軋んだ音だった。

 

「それに漏れてしまったあなた方は、大変申し訳なく思います。大を助けて、小を切り捨てる、その小のなかに入ってしまった事をお詫び申し上げます」

 

 男は深々と頭を下げた。

 これまで男が述べた事を鑑みればバ鹿にしているか、嘲っているか、そんな風に取られかねない行動だ。

 

 だが、そこにある謝意は本物だった。それだけは確かだった。

 しかしながら、一片の隙間も無く、何も受け付けない謝罪だった。

 

「更に言えば、まことに運の悪い事に、不正入学という運営と彼女の癒着を疑われています。ですから表立って反論するとさらに噂が加速してしまうのを危惧して普段よりも動きが鈍い」

 

 男は顔を上げる。

 そして対面の愛川に目を合わせた。

 

「彼らは、信頼や、評判が決して失ってはいけない背骨だと考えているからです」

 

 一呼吸おいて、男は口を開く。

 

「だから、不正入学は否定しつつ──URAは今も必死で火消しをしています。もう、()()になってしまった彼女は出したくない」

 

 冷たい空気が室内に満ちる。

 乾燥した大気が唇を乾かしていく。

 

 男は愛川の心情を想像して、すぐにやめた。

 

「表向きの別の理由を付けて、穏便にレースに出さないでしょう。例えば、単にレースに出る力不足や、抽選で外れる、ですかね。それらが出来ない場合は、規約を変えて彼女が出られないようにするかもしれません。まァ、最後の物は流石にバッシングが大きくなりすぎるので消極的です」

 

 一息で言い切ると男は口を閉じる。

 時折挟まれるその間は、まるで頭の中の記録を参照し直しているように見えた。

 

 

「──彼女を出さなかったら……」

 

 愛川は呟くように、呻くように喉を震わせる。

 そして俯いていた顔を上げると、男を見据えた。

 

「彼女を出さなかったなら、それこそ失墜しますよ! 何と言われるか予想出来るでしょう!?」

 

 

 

 

()()、それこそがウィークポイントなのです」

 

 

 

 

 

 愛川が発言した瞬間、男の目は細められ、ごく微細な光を見るような形を作った。

 それは、爬虫類のようでいて、血の通った人間のようでもある奇妙な目付きだった。

 

「彼らは評判には──世論には逆らえない。いえ、世論に従わざるを得ない」

 

 男はガタン、と椅子から立ち上がり、まるで演説のように拳を握る。

 そして愛川の後ろにある窓の外に広がるグラウンドを見た。

 

「世論によって生まれた感情は、世論によって打ち消すことができます」

 

 男はくるりと愛川へと視線を戻す。

 そこに出会った時のニコニコとした表情の面影は、見て取れなかった。

 

「私は動けません。彼女とURAとの癒着が疑われている以上、何かを働きかければ疑惑は加速する」

 

 軽薄な雰囲気はなりを潜め、ただただ、真摯な瞳がそこにはあった。

 

 

「だから、こうして伝えに来ました」

 

 

 ──賽を振るために。

 

 

「私を派遣したのは反対派のトップです」

 

 男は首から掛かったURA職員のカードを軽く触った。

 そして絡まった首紐を解くように揺らす。

 

「彼──私の上司はびっくりするほどの仕事人間です。組織の利益だけを追い求める。そして彼は今の状態の彼女がクラシックに出ない事こそが可能な限り多くのウマ娘の幸せに繋がると信じています」

 

「では、なぜ」

 

 愛川が静かに尋ねる。

 なぜあなたをここまで遣わして来たのか、と。

 

 その疑問を受けて、男は何かを思い出すように視線を上へとやった。

 

「そうですね。()()()()()、と言っていました」

 

 その声色は幾分か穏やかであり、また硬くもある。

 不思議な二面性を孕んだ声だった。

 

「誰かを助けて、それで自分の片手を失ってしまうような。それでいて、トゥインクルシリーズまで不利を跳ね除けやって来た。そんな()()()ウマ娘の、強さを」

 

 

 ひゅるりと風が吹き荒ぶ。

 窓枠は立て付けが悪さをして、一瞬静寂を壊した。

 

「彼女が走るには世論を変えるしかありません」

 

 男は平坦な口調で言う。

 まるで本に書かれた史実を読み上げるように。

 

「本来であれば、何もなかった所にこんな重荷を背負わせて申し訳ありません」

 

 淀みなく、止まる事なく。

 流れるような口調で。

 

「不合理に思えるでしょう。何故こんな事にと思われるでしょう」

 

 男は続ける。

 朗々と、ただ目的の場所に向かって。

 

「残念ながら、このケースにおいて、噂が真実かどうかは重要じゃないんです。信じる人がそれなりにいれば嘘も真実と同じくらい質量を持ってしまうから」

 

 一呼吸。

 息を吸う音はこの部屋によく響いた。

 

「隻腕のウマ娘は、いままでトゥインクルシリーズに居なかった」

 

 続く男の声は、物語の始まりを告げるような、そんな調子で。

 埃をかぶっていた話を、誰かに教えるようなもので。

 

「何故かと言えば、()()()()から。速くは走れないから。強く無いから。()()()()()()()()()()()()()。そんな、無意識レベルに刷り込まれた当たり前。『常識』が、色眼鏡となって彼女を映してるんです」

 

 ──だから。

 男は言う。

 

「その色眼鏡が、こうしてデタラメが通る空気を作ってしまっている。これを否定したいなら世間を変えるしかない」

 

 カツン、と靴を合わせて男は愛川へ姿勢を正した。

 まるで、背中に芯の入ったような立ち姿だった。

 

「つまるところ、彼女の敵は『世間』です。『前例』です。『常識』です。それは薄くて見えないようで、分厚い氷のようにどこまでもある」

 

 ごく自然な動作で、まるでそうなると決められていたように。

 男は頭を下げた。

 

 

「申し訳ない」

 

 

 1秒、2秒。

 黙った時間が過ぎる。

 男は頭を下げた状態で動かなかった。

 

 

「──理解、しました」

 

 誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるように。

 愛川は椅子から立ち上がりながら声を落とした。

 

「あなたがたは、多くのウマ娘のために動いている。利益を重要視するのはそのため。ええ、分かりました。そこにはちゃんとウマ娘への想いがある」

 

 彼女の腹の中から出た、重さのある声だった。

 そこには、震えや迷いは一切ない。

 

 

──私、今日たまたま調子が良くて。それで、偶々レースを見ようって思って。偶然、あなたのレースを見たの! 

 

 

 

「ですが、こちらにも想いがあります」

 

 

 

──それで、……すっごくスッゴク感動しちゃって! 

 

 

 

 それは彼女の意思を貫くため。

 シロツメホマレのメイクデビューの時に決めた事を守るため。

 

 

「大小じゃありません。そこに()()んです。──彼女は気づいていないけれど、たくさんの想いを背負ってる。多くの、一度諦めてしまったひとや、俯いてしまったひとの想いを」

 

 

 

──だから──そう! 次も見るから! 頑張ってね! 

 

 

 

「彼女は──ホマレちゃんはそれに対する対応を決めようとしている。顔には出ないけど、ちゃんと考えている。ですから、いま、ここで。引くわけにはいきません」

 

 

 

「──貴方は」

 

 そんな愛川に男が気圧されたように、目を見開く。

 何か言おうとして、言葉が出なかった。

 

 

 すると、そこにコンコン、とノックの音が響き渡る。

 男は想定外のことに固まった。

 

 しかし、愛川は何の用か分かっていたようで、迷いなくドアまで歩いていくと扉を開けた。

 

「失礼する。頼まれていた資料だが──おや、お取り込み中だったかな?」

 

 

 そこに立っていたのは、凛とした空気を纏う少女。

 ──史上初の無敗三冠ウマ娘。君臨する皇帝。

 

 その身体に溢れんばかりの覇気を纏って存在感を示している。

 

 

 現在、トゥインクルシリーズにおけるウマ娘の頂点。

 

 シンボリルドルフその人だった。

 

 

「え、えっと……あなたが持ってきたんですかっ?」

 

 愛川は先ほどとは打って変わり、困惑しながら尋ねる。それにシンボリルドルフは鷹揚に頷くと道を開けるように横に一歩ズレた。

 

「貴女の話を聞いて、一人、ぜひ彼女に協力したいと言って下さった方がいてね。どうしても直接見に来たいと」

 

 

 空気が変わる。

 いま何が起こっているのか、男には理解しきれなかった。

 

 

「だから、私が案内をさせていただいた」

 

 そして彼女の横から出て来たのは、一人の小柄な中年の男。

 グレーのジャケットを着て、フォーマルな印象を周囲に与えている男だった。

 その顔には皺が刻まれて、人好きのする笑みを浮かべている。

 

「いやー、腰が痛くて、すみませんね、お辞儀も出来ず」

 

 男は腰を摩りながら一歩部屋に入り、愛川の元へ歩いていく。そして彼女の目の前まで行くと、ポーチから名刺を差し出した。

 

「ASテレビでディレクターをしております。タジマ、と申します」

 

 以後お見知りおきをお願いします、と男は告げる。

 肩書きにふさわしく、手慣れた様子だった。

 

「あなたに貰った資料──いまはシンボリルドルフさんが持っているヤツですね。充分でした。これなら、番組まで通ります」

 

 そう言って男は力強く頷いた。

 愛川はホッとしたような表情を浮かべた。

 

 

 ──愛川にはメディアの実態がよく分からない。

 彼女の専門外であるから、どうすることもできない。

 

 

「お話、受けさせていただきます。やりましょう。ひとつ、番組に仕上げましょう」

 

 男は意志のこもった瞳で愛川を見る。

 彼女もまた、同じ色を瞳に宿して返事をした。

 

 

 ──愛川には専門外のことがよく分からない。

 シロツメホマレに褒められた、観察力のある“目“でいち早く事態は察知できても、対処の方法が分からない。

 

 

 ──だから、人を頼った。

 

 

「ここからは私どもが働く番です」

 

 タジマはシンボリルドルフの持つ資料に目をやった。

 視線を受けた少女は、それに気がつくと手元の紙の束と愛川の間で視線を交差させる。

 そして彼女を案ずるように口を開いた。

 

「すこし、休まれては? “これ“のせいで最近お忙しくしていたと聞いている」

 

 そう言って手に持った紙の束をトレーナー室の机に置く。

 それに対して愛川は首をふるふる、と振り否定した。

 

「いえ、これが仕事──私のやりたい事ですから」

 

「そうですか」

 

 その返事は穏やかで、優しげであり、満足げな響きを伴っていた。

 

 

 

 それらのやり取りを終始、口をぽかんと開けて見ていた男は思わずかぶりを振った。

 

 ──動いていたのか。もう、既に。

 

 彼の脳内に過ったのは、そんな感嘆とも畏れとも付かない感情。

 それが喉を伝って、震えたものとして出力された。

 

「は、はは。ホント、秀才なんですね」

 

 口角をすこし引き攣らせながらそう言う。

 愛川が視線を男にやった事を確認すると、目を伏せぼそりと呟いた。

 

「これなら私が言わなくても──」

 

「いえ、確信が持てました。行動の指針が明確になりました」

 

 挟み込むように言った愛川の声は、断言するような響きを持っていた。

 それに対して半ば反射的に男は顔を上げる。

 

 そこにあった女性の瞳は、波一つない水面のようだった。揺るぎない意志を持った者特有の静かさを湛えていた。

 

 

「彼女の存在を、押し上げます。誰も、無視できないくらいに」

 

 彼女が走るために。

 余計なしがらみは、一切、切ります。

 

 そう言って愛川は前を見据える。

 その視線の先に何が見えていたのかは、男にも容易に想像がついた。

 

 

「──あなたは」

 

 愛川はスーツの男に声をかける。

 彼は口を閉じて愛川の方を見た。

 

「彼女の敵は『世間』だと、『前例』だと、──『常識』であると言いましたね」

 

「ええ、ハイ」

 

「それは、違います」

 

 

 それは、断固たる否定。

 それは、断固たる意思。

 

 彼女の心からの言葉であった。

 

 

「ホマレちゃんの戦うべき相手は、競うべき相手は、ターフの上です。──これは、私の敵です」

 

 愛川は胸に手を当てる。

 そして、瞼の裏に映像を映し出すように目を閉じる。

 

「それが、彼女に夢を見せてもらった私の仕事だから」

 

 まるでシロツメホマレの走る、その姿を追うように。

 彼女の走りを。最後方から、目の覚めるような追い込みをする彼女の勝負を。

 

「“ホマレちゃんの走る道を整える“。それが仕事だから」

 

 どれだけ出遅れても、バ群に前を塞がれても。

 決して諦めを目に浮かべることの無い、彼女のレースを。

 

「ホマレちゃんが走り、私がそこまでの道を作る。たとえ、何もない場所であっても。そこで誰もが夢を見れるように。それが、トレーナーだと思っています」

 

 彼女が──愛川がシロツメホマレのトレーナーになりたいと決意した、メイクデビューの日の困惑したようなシロツメホマレの表情を。

 

「──違いますか?」

 

 それら全てを胸の内に秘め、愛川は笑った。

 男はしばらく言葉を忘れたように呆けていたが、やがて首をゆるく振った。

 

 

 ◆

 

 

 

 

「たぶん、彼女がクラシックを走るという事になったら、今後はこのような事はもう起きないでしょう。反対していた古臭い前例主義者はみんな、首を切られますから」

 

 

 トレーナー室から出て行く直前、扉に手をかけながら男はそう言った。室内に残る愛川の方を見ることはしないで。

 

 

「良い悪いじゃありません。時代の流れです。きっとみんな納得する」

 

 

 そして、振り返らず彼は去っていった。

 その姿を愛川は頭を軽く下げて見送った。

 

 きっと、もう、会うことはないだろうと分かっていたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、と。それじゃあ、私も行きますね。今度改めてこちらからも資料を持ってこないといけない」

 

 静寂を切り裂くように、タジマと名乗った男はそう言った。そして鞄を手に持ち、一度愛川とシンボリルドルフの方へと目礼をして出口の方へと向かう。

 

 しかし、何かを思い出したのか、ドアノブに手をかける前に振り返った。

 

「あ、その前に『どなり』の内容、今から考え始めておいてください。ちょっと早すぎるように思えるかもしれませんが、番組の制作には時間がかかるので」

 

「あの……“どなり“とは?」

 

 突然言われた意味のわからない言葉に、愛川は困惑を現す。それに気がつくとタジマはハッとしたように笑った。

 

「ああ、失礼しました。どなり、と言うのはですね──」

 

「舞台やテレビ等で、タイトルをもつコーナーの最初に演者の方がコーナー名を言うこと、若くはその音声のこと、ですね」

 

 スッと差し込まれるような解説。

 タジマはシンボリルドルフの方を見ると、感心したように頷いた。

 

「さすが、業界用語にも詳しいとは。そうです、馴染みのある呼び方をするなら“タイトルコール“と言います」

 

 そして、タジマは再び愛川へと視線を向ける。

 

「私どもの方で考えても良いんですが、折角なのでトレーナーである愛川さんに、と」

 

 

 

 

 狼煙が上がる。

 確実に、日本のレース史に記される転換点が、ここから始まる。

 誰に分からない未来に向けて、各々が動き始める。

 

 たとえそれがどんな結果を齎そうとも、誰も止まることはしないだろう。

 

 何故ならこれは────

 

 

 

 

 

 

 

「是非ともやりましょう。彼女の『タイトルコール』を」

 

 

 

 

 

 

 意志と想いのぶつかり合いなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 3.タイトルコール! 終

 

 

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