14.それなのに
もし、一度生まれ変われるとしたら。
別の人生を選べるとしたら。
誰かが言った。俺は耳を塞いだ。
──砂漠にも花は咲くんだってさ。
沢山の種が地面に、じっと眠っているんだよ。
恵みの雨で、種の周りをコーティングしている化学物質が落ちたとき、一斉に咲くんだって。
だから砂漠に、一瞬だけ何処までもつづく花畑が出来るんだよ。
『お前は物知りやな』
記憶のなかの俺が言う。アイツは、はにかんだように笑って顔を背けた。
いつの事だか思い出せない。
──冴木さんも、そんな想像しません?
『せぇへんよ』
4. 未来に咲く花 始
◆
2月某日。
午後14時25分。
一勝クラスレース。寒椿賞、当日。
そこそこに人が入ったスタンド。それを見向きもしないでシロツメホマレはストレッチを行なっていた。
ただ勝つ事。それを目標にして。
膝を胸の前まで上げ、円を描くように回し、足首を回し、腿の裏を伸ばし、軽くジャンプをする。
まもなくゲートインの時刻。シロツメホマレは、周りのザワザワとした雰囲気を感じ取ってはいたが、特に意味のないものとして切り捨てていた。
「ふぅ──」
季節は冬の終わり。いまだ凍える空。吐いた息は曇り空に吸い込まれて消えた。
このレースは今後へ繋がるステップである。
寒椿賞から弥生賞へ。そして皐月賞。そこまで行けば、次に待っているのは──日本ダービー。
此れはそれまでの階梯。踏破が必要な道筋。
どこか遠巻きな周りのウマ娘も観客も全て脳の認識に入れず、シロツメホマレはゲートを見つめていた。
「おうおうおう! なんてくらい顔してやがる!」
ワッ、と音の波を被ったようだった。
レースを待つ彼女は、唐突に横から声を浴びせられた。
視線だけでそちらを見れば、勝ち気な表情を浮かべたウマ娘が腕を組んで立っている。
さっぱりとした髪型が特徴的だ。
「せっかくのレースだ! 楽しまないとなッ!」
物怖じしない声に、それを裏付ける自信にあふれた瞳。
シロツメホマレは事前に愛川に叩き込まれたデータを頭の中で思い出していた。
「俺の名前は──」
「スーパーヒュレー」
「知ってたか!」
シロツメホマレが口の中で呟けば、目の前の鹿毛のウマ娘はニカッと笑った。
「今日は良いレースになりそうだ。頑張ろうッ!」
彼女はそう言って、ぐっと拳を握りアピールをする。
夏に吹く風の様な印象の少女だった。
「そうね、走らないとね」
シロツメホマレは髪をかき上げながら答える。
さらさらと細い毛が彼女の腕を撫で落ちていった。
「
その発言にスーパーヒュレーは顎に手を当て、首を傾げる。
そして少しの間、ウンウンと唸ったあと、ぽつりと尋ねた。
「キミは誰かに走らされているのか? もし、そんな顔をさせる様な奴なら俺がとっちめてやろうか?」
これに対し、きょとんとしたのはシロツメホマレである。
彼女は浅緑の瞳を目の前のウマ娘に向けた。
「? わたしはわたしの意思で走ってるわ」
「それじゃあ、何がキミを走らせているんだ?」
ひゅう、と風が吹く。
曇り空は今にも泣き出しそうで暗い色を放って居た。そんな中でもスーパーヒュレーは鮮やかに見える。
「原動力の話さ。大事だろう? 車だって動力がなきゃ動かない」
彼女は指で自身の胸をトントンと叩く。
シロツメホマレは自分の胸を見た。
動力。
自分を動かすもの。
なにが自分の脚を動かすのか。
そこまで考えて、溢すようにつぶやいた。
「……過去の記憶?」
「そうか! それもまた、いいんじゃないか!」
スーパーヒュレーは最初と同じように、笑顔を作り彼女の答えを祝福した。シロツメホマレは目を細めた。眩しく思えた。
「聞くだけってのはフェアじゃないな! 俺が走る理由は楽しいから! それと期待に応えたいから!」
スーパーヒュレーは元気に言ってゲートに向かっていく。
左肩がパキリと鳴った。まだまだストレッチが足りないようだ。
肩を回す。
スーパーヒュレーが去り、また周りに静寂が帰ってくる。
(走る理由──原動力)
シロツメホマレは両掌を、手相を見るように広げた。
そこにいつもの義手はなく、右手だけが応えてくれた。
「──キミはキミの理由がある。でも、楽しむべきだ!」
少し離れた所からスーパーヒュレーが口元に手を当ててメガホンのように叫ぶ。
すこしお節介な性格なのかな、とシロツメホマレは思った。
そして、その言葉にしばらく黙ったあと、スタンドの方に目を向ける。
離れていて見づらかったが、前の方に金色の髪があったことに気がついた。
『まもなく出走時刻です。ゲートにお入り下さい』
◆
『──スタートしました! 各ウマ娘揃って一斉にスタート!』
両扉の視界が開けると同時に、シロツメホマレは勢いよくそこから飛び出す。
瞬間、風が体を覆っていく。
『先頭に立ったのはインディゴシュシュ。その少し後ろをヘイストファイアが追走していきます』
右手を動かし、脚をしっかり踏み込んでバランスを取る。そうしなければ風に煽られてまともにスピードが上がらない。
地面を伝う感触が足裏から腹まで登ってきた。
「お先ッ!」
ひゅん、と風が通り抜ける様に彼女の脇を抜けて行ったのは、スタート前に話しかけて来たウマ娘、スーパーヒュレー。彼女は前のウマ娘の後ろに着くと、姿勢を低くして虎視眈々と機会を伺う姿勢になった。
(彼女は──確か追い上げていくタイプのはず)
出走者の情報は愛川がまとめて、無理矢理にでもシロツメホマレに叩き込んでくる。それが必要だとばかりに、普段の彼女からは考えられないほどの強情さで。
そして現在、シロツメホマレは15人いる中の15番目。
スーパーヒュレーは13番目のウマ娘の後ろにピッタリと付いた。
(だから、わたしは彼女の後ろに着く)
彼女が叩き込まれた情報は、現在進行形でシロツメホマレの戦略を組み立てる礎となっていった。
『先頭リードは1バ身! 後続もやや一団となって進んでいきます』
目線を遠くに飛ばすと、バ群の隙間から先頭を走るウマ娘が見える。
そして目線を近くに戻せば、前にくっついて走るスーパーヒュレーの姿が見える。
シロツメホマレは最後尾から頭を回して考える。
スーパーヒュレーがあの位置に付いたということは、そこから差し切れるということ。
ならば、同じ作戦を取るシロツメホマレもまた、同様に後ろから先頭まで躍り出ることが出来るライン。
いま彼女とスーパーヒュレーの間には2バ身ほどの少し大きめの差が空いていた。
シロツメホマレは考える。勝てる方法を考える。
最後の差し切るコースの確保のためにやるべき事は──
(あと3メートルは詰める──)
足に込める力を更に注ぎ、速度を上げる。
そこで、誰かがニッと笑う気配がした。
『さあ、三、四コーナーを回りまして、先頭は依然インディゴシュシュ、続いてヘイストファイアがスーッと上がってくる』
残り400メートル弱。
直線に向かう瞬間、シロツメホマレの前を走っていたスーパーヒュレーがスピードを上げた。
追い込むつもりだ。
そしてシロツメホマレも追い込もうとして──
(差が……縮まらない)
言うことを聞かない脚に気がついた。
いつものように、力が入らない。
「ハッ、ハッ……!」
息が上がる。
肺が縛られる。
そこで気がつく。
ハイペースだったのだ。
それほど全体がバラけていないスタート直後の段階で追い込みのはずのスーパーヒュレーが素早く上がり、焦った前が速度を上げる。そしてそれを見た前も速度を上げ、さらに前も──。
(策略家──)
ぜいぜいと、荒い呼吸を繰り返す。
残り200メートル。
現在、15番目、最後尾。
シロツメホマレは考える。酸素の回りきらない頭で考える。
体力が持つがどうか分からなくても、ここで仕掛けなければ勝機はない、と。
「──シッ!!」
そして彼女は一気呵成とばかりに、腕を振り上げた。
瞬間、変わるギア。
流れる速さが変わる景色。
一人だけ早回しになったような速度で、バ群の中を突き進む。
風を切る音が変わる。砂嵐の中を走っている様なノイズになる。
耳が風圧に耐えかねて後ろに流れる。
ぎょっとするウマ娘たちを通り抜け、ゴールを目指しひた走る。
『抜け出した! 抜け出した! スーパーヒュレーが一人抜け出しました! その後ろヘイストファイアも追走するが届かない! スーパーヒュレー、1着でいま、ゴールイン!』
──シロツメホマレ、5着。
「やったァァァ!!!」
両手を突きあげ、喝采を上げる少女。
シロツメホマレはそれにすこし拍手をして、地下バ道に引き上げていった。
◆
寒椿賞、数十分、スタンド。
その最前列には、ゴールドシチーが制服姿でバ場を見つめていた。
その目当てはもちろん、出走する予定の
ゲートが開く時間を今か今かとも待ちながら、まだ開かないでほしいと矛盾したレース直前特有の矛盾した感情を抱えて視線を遠くにやった。
バ場状態はそんなに悪くはないようだ。
「わあ! びっくり」
すると後ろから驚いた声が聞こえる。
反射的にそちらを向けば落ち葉色の少女が手を口元に当てて目を丸く見開いていた。
「トレセン学園の制服が見えたから近寄ってみたら、キミ、ゴールドシチーちゃんだよね!」
ゴールドシチーは頷きながら記憶を漁る。
確か彼女は、ファン感謝祭のときにシロツメホマレの走ったレースで一着を取っていたウマ娘。
「応援かな?」
ゴールドシチーの先輩に当たる少女は、懐っこそうな表情で首を傾げる。くりくりとした目が特徴的だった。
「ハイ、そんな感じです。先輩は?」
ゴールドシチーは尋ねる。この状況がすこし分からなかったからだ。普通、同期であればレースを見に来ていてもおかしくない。それはクラシックでぶつかる可能性があり、その対策、研究、モチベーションの維持と様々だ。だが、彼女は二つ上の学年で、それには当てはまらない。だから分からなかった。
「ワタシも応援だよー! あと、偵察、かな?」
ニコッと笑いながら彼女は答える。そして指を顎に当てながら言葉を探すように言った。
「面白い子が……うーん、違うなぁ。そう、
ゴールドシチーには、それが誰を指しているのかすぐに分かった。
◇
「あらー、ファン感謝祭の時の調子じゃあないね」
レース後。
ゴール板を駆け抜けていったウマ娘を見ながら先輩のウマ娘はつぶやいた。
その表情はレース前と比べてどこか大人びて見えた。
「
彼女はそこで言葉を一度切る。
そして彼女自身の中でなにか思考を消化するように頭を二度三度横に振る。横で見ていたゴールドシチーはその様子を待つように見続けた。
「ウン、まだまだ気がついてないのかもね。自分に」
落ち葉色の少女はそう納得したように頷く。
彼女の目線は未だにゴールを見ていた。
「片方の車輪だけで走ってるみたいだ。……アッ!! い、今のは彼女を揶揄った訳じゃないよ! 心の話だからねっ!?」
そんな彼女は、自身の発言の途中で何かに気がついたのか、ワタワタと慌てだす。
そして一通り言い訳のような動きを繰り返したのち、ふぅ、と息を一つ吐くとゴールドシチーに向き直る。
きらりと彼女の目が光った。
「キミも見にきてるって事は、
「──はいっ」
◆
「あら、ゴールドシチー」
地下の薄暗い空気の中を、蹄鉄の音を響かせながらやって来たのは淡い小麦色の少女。
全力疾走した後だからか、細い髪の毛がいくつか頰に張り付いていた。
「おつかれ」
「ええ、疲れたわ」
言葉をかければ打って響くようないつものやり取り。
いつもの、日常生活と変わらない抑揚と声色で答える。
「その……まぁ、まだレースはあるし」
──思ってもいないことを。
ゴールドシチーは自身の口から出た言葉を疑った。
ひどく薄っぺらいものに思えた。
「励ましてくれているの? 大丈夫よ」
「あ、そ」
「ええ」
シロツメホマレは変わらない。
レースで負けても勝っても。
誰かに揶揄われようと、褒められようと。
蛍光灯の灯りが、コンクリートの壁を照らす。
その明かりはひどく冷たいもののように思えた。
「アンタさ、目標がダービーだって言ってたよね」
シロツメホマレは首肯する。
「じゃあさ、ダービー終わったあとはどうすんの?」
「なにもないわ」
スパッと彼女は答える。
入力に対してあらかじめ決められたことを出力する機械のように。
「何もないって、アンタ……」
そこでゴールドシチーは気づく。シロツメホマレの目には影が深く落ちていた事に。
比喩表現では収まらない影が落ちていることに。
「ふふ」
声だけで彼女は笑う。表情は変わらない。
だから本当に笑っているのか、それとも自然と口から漏れた吐息なのか、ゴールドシチーには判別がつかなかった。
「なにか在るかもしれないけど、ないのよ」
シロツメホマレは淡々と言う。
影の目が、目の前を見つめている。
彼女が見つめている。
自身の終わりを。終着点を見つめている。
不思議とそれが手に取るように分かった。
そこそこ長い付き合いのせいかもしれない。だとしたらなんて事だ、とゴールドシチーは一瞬あたまによぎった考えを消した。
シロツメホマレの目はくらい緑色で見つめている。
これから予定を考えるわけでもなく、ただ終わりを。
予定が決まっていない、ではなく、
「わたしには、なにもないわ」
地下には冷たい光が満ちている。
彼女の目には暗い影が落ちている。
「あなたと違って」
それはずっとソコにあって、地下という暗い空間で初めて露出した彼女という根幹だった。
ゴールドシチーはため息をつく。
「そんなコト無くない?」
そしてなんて事のないように、軽く言った。
「アタシさ、ずっと分からなかったんだよね」
あえて眼前のシロツメホマレから目線を外すように、天井を仰ぐ。
コンクリートの鼠色は塗装されているのか明るめのカラーリングだった。
「ホントに走りでみんなの見る目を変えられるのか」
彼女は口を開く。
瑞々しいその唇を震わせて言葉を作っていく。
「アタシが走る理由、言ったよね。アタシは見た目だけじゃないって、キレイなだけのお人形じゃないって、示すためだって」
ゴールドシチーは語る。
昔話を子供に聞かせるように。それよりは幾分か荒々しく生々しく。
「そりゃ、勇んでる時もあるよ。やってやる! って」
シロツメホマレは黙って聞いている。
普段から人の話は遮らない彼女だが、今回ばかりは絶対に口を挟んでは良くない気がしていた。
だからいつも以上に静聴している。
「でもさ、なかなか思い通りに走れなかったり、タイムが伸びなかったりすると考えちゃうわけ」
ゴールドシチーは言葉を止めた。
そして小さく息を吸い込んで肺に酸素を取り込む。
「アタシのやってる事は正しいのか、意味があるのかーってね」
なんて事のないように、そこに込められた感情をあえて軽く喋るように続ける。
彼女の柳眉はすこしハの字を描いた。
「こんなに頑張っても、苦しい思いしても、ぜんぶぜんぶムダなんじゃないかって」
そして、ゴールドシチーはシロツメホマレを見た。
「そんなとき、アンタに出会った」
ブロンドの髪を持つ少女は、その瞳に並々ならぬ意志を携えて、シロツメホマレを射貫く。
「最初の選抜レースのとき、見た目でアンタの事を見る人たちを、走りで黙らせた。いや、走りで魅せた」
アンタは分かってないかもだけど、と付け足すように言う。
彼女の声に、熱が乗った。
心地よい響きを持つ声帯が感情に震えていた。
「あんなに多かった視線をゴールと同時に変えてみせた。そんなウマ娘に会った」
シロツメホマレは、そんなゴールドシチーを初めてみた。
シロツメホマレの中にあるゴールドシチーのイメージはいつも飄々としていて、気遣いが出来て、そんなものだった。
「だから、アタシは走る。周りの見る目は絶対に変えられるって知ってるから。アンタに教わったから」
だが違った。
大間違いだった。
彼女は黄金だ。
見るもの全てを惹きつける、そして熱を孕んでいる。
「勝って──レースで勝って、勝って、勝って……アタシはアタシになる。絶対に」
シロツメホマレは思わず後退りをした。
太陽の光に灼かれる蝋製の翼のように、自身が溶け焦がされていくのを感じる。
「アンタから伝わる熱でそう思えた」
シロツメホマレは身震いをした。
普段感情を表に出さない彼女にして、耐えきれなかった。
「空っぽなんてウソだよ」
ゴールドシチーはそう優しく強くシロツメホマレに語りかける。
その目をシロツメホマレは瞬きも忘れて見続ける。
「やめて」
シロツメホマレの声は、押し出されるようにするりと喉から出て来た。
(なんとなくは、分かっていた)
自分の走りの行き着く先に何もないこと、その虚無感や無意味さを。それが真実かどうかは関係なく、思考の奥でそうやって考えてしまっていた。
彼女は知っていた。当たり前のことを。彼女の走る理由である父親はどんなにレースで勝っても、もう帰ってこないことを。
だから、いつまでも死人に縋る自分がみっともなく思えて、後退りをした。
「アンタは──」
「やめて!」
「──!」
硝子が割れたような叫びだった。
ゴールドシチーがシロツメホマレを改めて見れば、彼女は珍しくその顔に表情を浮かべ肩で息をしている。
「わたしに、そんな風にしないで」
右手を顔に貼り付けるように、溢れるものを抑えるようにシロツメホマレは言う。
「もう、どうしようもなく、寂しくて」
家に帰っても、わたしの名前を呼んでくれるひとはいなくて。
レースで勝っても、喜んでくれるお父さんは居なくて。
乗り越えるべき事柄を、あまつさえ自分の生きる理由に引き伸ばして。
シロツメホマレは濁流のような感情を必死に制御しながら言葉を一つ一つ捌いていった。
ゴールドシチーは何も言えない。固まった体は思うように動かない。
「わたしは、とても受けとれないから。なにも返せないから」
電灯が均一な光を放っている。
人工的な明るさに地下が照らされている。
ゴールドシチーは停止しかけた頭で、そんな視覚情報を無意識に処理していることに気がついた。
──何をやっているのか。
──何か言わなくては。
「シチー、ゴールドシチー。おねがい、おねがい。どうかあなたのその優しさは、他の誰かのために、とっておいてあげて」
やがてシロツメホマレは顔から手を引き剥がし、ゴールドシチーの瞳を見据える。
そこには先ほどまでの激情は無く、いつものように凪いだ表情があった。
「わたしは、とても受けとれないから。なにも返せないから」
──穴が空いた鍋みたいに、零してしまうから。
全てを突き放した少女は、そう言って歩いていった。
◆
「それじゃあ、始めよっか」
「ええ」
数十分後。
ウイニングライブまでの待機時間。
用意された控室でシロツメホマレと愛川は向かい合うように座っていた。
シロツメホマレはすでに着替えを済ませており、ラフな格好をしている。
愛川はシロツメホマレのレースについて、特には言及をしなかった。シロツメホマレにとってはそれが幾分かありがたかった。
「はい、呼吸して。うん、そう」
そんな風に言う愛川の後ろにはライブ用の衣装がハンガーに吊るされている。
ウマ娘なら一度は見る衣装だ。
シロツメホマレはそれに特に何も思わない。
「いつもみたいに質問していくからね。深く考えすぎないで、正直に答えてね。でも、無理に答える必要はないんだよ」
「まいどその説明は必要なの?」
「え、うん」
髪からほかほかとした湯気を出しながら、シャワー上がりのシロツメホマレは尋ねる。
それに対しスーツ姿の愛川は手元のタブレットを脇の机に置きながら反射的に答えた。
「そう」
そしていつものように、愛川とシロツメホマレの答弁が始まる。
「最近、寝つきが悪かったり、朝起きられなかったりする?」
「いいえ」
「夢は見る? その内容はどんな感じ?」
「夢は見ないわ」
「街中を歩いていて、自分のことを噂しているように思えたり、見られている感じはする?」
「ないわね」
「それじゃあ、人前で手が震えたり、なにか言われるんじゃないかって不安になったりする?」
「ならないわ」
「自分はこれをするべき、しなくてはならないって思うことはある?」
「ええ」
「それは、つらいこと?」
「つらくは……ないわ。むしろ暖かいものだもの」
「日頃、それを考えすぎて目の前の注意が疎かになったりした?」
「前方確認は怠らないわ」
慣れたライン工の作業のように。小気味よく一定のテンポでくり返される質問と答え。ぽんぽんと投げかねられる言葉がぽんぽんと投げ返され落語のような、そんな雰囲気さえ漂っていた。
「レースをする上で気がかりなことは?」
「いまはとくに」
そして、お互いに示し合わせたように沈黙が降りる。
愛川は先ほど置いたタブレットを手に持ち、何度か画面をタップして操作する。
そして眼前の椅子にちょこんと座るシロツメホマレに柔和な笑顔を心がけて笑った。
「言いたいことがあったら、いつでも、何でも吐き出していいんだよ」
「それじゃあ、わたしから」
その意外な返答に愛川はおや、と画面から顔を上げる。
そこにはいつもの変わらない彼女の顔がある。
「ナツノ──あなた、あんまり寝てないでしょう」
「ヴッ」
愛川が、およそ尋常ではない声を短く上げながら顔を引き攣らせる。
浅緑の瞳が突き刺さるようだ。
「目の下も疲れがでてるわ」
その指摘に、パッと指を目の下に走らせる。
だがそれで何か分かるわけは無いと気がつき肩を落とした。
「ねなさい」
「……ハイ」
一応、愛川にも言い分はあるのだ。
彼女も一介の学徒だった身。睡眠の大事さ、大切さは科学的にも経験的にもよく知っている。
だが。このくらいは、大丈夫、あとでリカバリーが効く、いまは元気の前借りという地点があるのだ。
そこのギリギリを攻めている限り、日常に支障が出るほどのミスは起きないのだ。
だから、ある程度は睡眠時間を削る、と。
「ねぇ、そんなに無理することないのよ」
小さく呟かれたその声に愛川は瞬きを繰り返す。
シロツメホマレはいつもと変わらない──いや、いつもより沈んだ雰囲気だった。
「うすうす気づいているもの」
それが今日の5着からくることでは無いと愛川は知っている。
愛川は、シロツメホマレの抱える問題と、その根っこをある程度掴んでいる。その、シロツメホマレが見込んだ類まれなる観察眼によって。
「あまり状況がよくないことに」
だからこそ、いまシロツメホマレが思っていることも、あらかた予想がつく。
彼女の弱さはその優しさであり、彼女の強さはその優しさである。
愛川はそう信じていた。
「ねぇ、ナツノ」
再び、尋ねるようにシロツメホマレが名前を呼ぶ。
「いつだって、わたしは見捨ててもいいのよ」
そして平坦な声でそんなことを述べる。
「ひとりでだって、頑張れるもの」
カチカチと壁掛け時計の秒針が鳴る。
シロツメホマレは愛川から目を逸らさない。
愛川はその視線を受けて、できる限り柔らかく笑った。
「ホマレちゃん」
その呼びかけの声はシロツメホマレにはどう聞こえたのだろうか。彼女の少し大きめの耳がこちらを向く。
「そんなことないよ」
出来うる限り、本心から出た言葉を伝えられるように。
愛川はそれを思いながらひとつひとつ声に出していく。
「大丈夫、私はここに居るから」
時間がゆっくりに思える。
脈が遅くなっていくように思える。
「何があったって、ホマレちゃんの側にいるから」
それを感じながら、目の前の少女の助けになるようにと言葉を重ね続ける。
ひとつひとつは小さくとも、いつか彼女の力になるまで。
「だから、大丈夫だよ」
眼前の、強く優しく、それでいて多くの期待を背負った少女の支えになれば、と。
「────そう」
シロツメホマレはそれだけ言って口を閉じた。
時間の流れはいつものように戻っていた。
愛川ナツノ
高校卒業後、トレーナーを目指し養成学校に通う。
数科目を主席を取るなど優秀な成績を修め、卒業。
卒業後は日本ウマ娘トレーニングセンター学園のトレーナー採用試験を受験し、合格。以来、トレセン学園内で実践経験を積むためにチームリギルの元でサポートをこなしていた。
勉学についての要領の良さから、養成学校を卒業してニ年後に、専攻していた臨床心理の資格を取得した。