ちょっとは笑って! ホマレちゃん!   作:調味のみりん

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17. 花よ

 

 

 

 ──花はなぜ咲くのか。

 

 その疑問に、幼い頃はただ“綺麗だから“咲くのだと思っていた。

 だが、綺麗とは言いづらい、慎ましやかな花や、異色の種類を見て違うのかと考えた。

 

 

 ──花は何故咲くのか。

 

 最近はそれに答えが付いた。

 花は、きっと未来を目指すために咲くのだ。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 弥生賞は、寒椿賞とは違いスタンド前からスタートする。

 そこからバックストレッチを超えてまたスタンドの前まで戻っていく全長2000メートルのコースだ。

 

「絶対に勝つ……」

 

 一人のウマ娘が控室に貼られている弥生賞のポスターの前で呟いた。

 握られた褐色の拳は固く、彼女の心情を如実に示している。

 

「気負わなくていいよ。君は勝てる」

 

 柔和な顔立ちの若いトレーナーが言う。

 既にゼッケンを着け終えた彼女が頷くと、彼もまた頷き返した。

 

 弥生賞は上位3着までクラシック初戦の皐月賞へ優先出走権を得ることができる。だから三着以内に入れば、クラシックを見据えているウマ娘はある程度安泰なのだ。

 それでも彼女は1着を目指していた。

 

「ゲートが開いた瞬間に飛び出してそのままハイペースに……」

 

 ぶつぶつと作戦を確認するように口の中で繰り返す。

 

 彼女はレースをハイペースにしようと考えていた。そうすれば“末脚“が武器のウマ娘は体力の残高不足で“末脚“は使えなくなるから。

 

「絶対勝つんだから」

 

 彼女は呟いた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「き、緊張で胃が」

 

 一人のウマ娘が控室でお腹をさすった。

 彼女の普段の穏やかな顔つきも、この時ばかりは歪んでいる。

 

「こんなとこ迄、弱音を吐くな」

 

 深い皺が縦に走った老境のトレーナーはすこし低い響く声で言った。

 それに反応するように、若干垂れた目で彼女が見返す。

 その視線にトレーナーは、ふん、と息をひとつ吐いた。

 

「お前は勝てる。それだけ厳しいトレーニングを弱音を吐きながらも、それでもやりきっただろう。だから、堂々としていろ。お前は十分、勝てる」

 

 二人で一緒に緻密なレースプランを練った。全体の中団に位置し、そこから後ろのウマ娘が仕掛ける少し前に飛び出すのだ。そうして後ろのウマ娘が大回りをせざるを得ない状況を作ろうとしていた。

 

 それが彼女の勝ち筋だと信じて。

 

「が、がんばりましゅ……」

 

 老境のトレーナーは努めてため息を我慢した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「────」

 

 

 一人のウマ娘はただ目を閉じて開始時刻を待った。

 赤みがかった髪の毛を丁寧に垂らし、鋭い目つきを封するように目をキツく閉じる。

 

 

 その組んだ腕は小刻みに揺れていた。

 彼女は先行で行くつもりだった。先頭の少し後ろ。最後の最後で抜かしきる。それが一番得意なやり方。

 

 彼女のトレーナーは、そんな彼女に何も言わず、だが決して離れることなく開始の時刻を待った。

 

 時計の音だけが響く。

 

「──」

 

 彼女は開始時刻を待った。

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

『ふふ、何でしょう。私にもよく分からないんですよ』

 

 停止、巻き戻し。

 

 再生。

 

『そうですね──』

 

 

 ビデオを再生。停止、巻き戻し。再生。

 

 

 

 

 

 彼女は控室で何度も何度も、繰り返しそれを見ていた。

 レース場の熱気の届かない、控室でソレを見ていた。

 

 

「ホマレちゃん、あと十五分したらストレッチ始めようか」

 

 

 愛川が声をかける。

 シロツメホマレがそちらを見ると、愛川は体調が万全なのか、血色のよい顔色をして立っていた。クセのある髪は一つに纏めてあり、清潔感と品を感じさせるセットがされている。この日のためなのだろう。

 

 シロツメホマレは頷く。

 

 ビデオ再生。………………停止。巻き戻し。

 

 どうしてこんなにも、先週放送されたテレビを繰り返して見ているのか彼女自身にも理解がつかなかった。

 だが、こうしていると胸の奥の方から湧き上がってくるのだ。

 それが一体なんなのか彼女は知らない。

 

 

 ──原動力の話さ。大事だろう? 車だって動力がなきゃ動かない。

 

 

 ふと頭をよぎる、少し前の台詞。

 それを言った彼女は、今日は走らないらしい。いつかは再びぶつかるだろうが。

 

 

 停止、巻き戻し、再生。

 停止、巻き戻し、再生。

 

 ただ、透き通った目で何度も何度も試聴を続ける。

 

 画面の中で老境の女性が話す。お世話になった医師が喋る。

 

 シロツメホマレについて、何か喋っている。

 

 

 椅子に座り直す。

 体重移動に音は鳴らない。良い椅子だ。トレーナー室に備え付けられているパイプ椅子とは違う。彼女はパイプ椅子の方が好きだった。

 

 

 

 3月初週。14:20分。

 天候は晴れ。GⅡ弥生賞、当日。

 

 

 控室での出来事だった。

 

 

 

 

 ◆

 

 

『さあ、まもなく始まりますGⅡ弥生賞。若々しい力でここまで道を切り開いてきたウマ娘が集まります。上位3着までには皐月賞の優先出走権が与えられる、今年のクラシックに繋がる一戦。注目が集まります』

 

 そこまでを一息で澱みなく、滑らかに言い切った声は、一区切りをする。

 レース前の独特の熱気と緊張の入り混じった感覚に、早くなりすぎないよう気をつけながら、言葉を重ねていく。

 

『解説はウマ娘ナインの萩谷さんです。──よろしくお願いします』

 

 今日、この日は数あるレースの中でも重賞と言われる大きなレース。

 レースを盛り上げる為に必要不可欠な役目を負った声は、その興奮を漏らすことなく蓋をするよう、声をマイクに乗せ続けた。

 

 

『よろしくお願いします』

 

 

『萩谷さん、今年はなかなか注目のウマ娘が集まる群雄割拠の状態となりました。特に注目のアップツリー、コルネットリズムなど全体的にハイペースな展開になりそうですが、どうでしょうか』

 

『ハイ、やはり前走も逃げで後方を追い付かせずゴールしたアップツリーが引っ張っていくでしょうね。時計も出ていますし、それに対して後方からコルネットリズムもどう対応していくかが見どころです』

 

『それでは、注目のもう一人。シロツメホマレについてはどうでしょうか』

 

『ええ、彼女はね。前走の寒椿賞では最後の末脚がハイペースで思うように使えず5着でした。そして今回も全体を引っ張っていく逃げのウマ娘もいます。体力の配分に気をつけ、差が開いても冷静に進めていかないと厳しいでしょうね』

 

『はい』

 

『しかし、裏を返せば、体力さえ残せれば彼女は差してきます。それこそ徐々に加速するのではなく、一気にトップスピードまで行きますからね。周りのウマ娘も、意識しているでしょう。それが彼女の怖いところです』

 

『今回は例年に比べ、レース場の客入りが多いですね。パドックでも応援の声が多くみられました。注目度はここ最近のレースで最高の部類なのではないでしょうか』

 

 

 ふぅ、と呼吸を開ける。

 放送席のここまで、レースを走るウマ娘の気迫が伝わって来る様だった。

 慌てず、焦らず、正確に。

 実況をするのだ。声の主はごくりと唾を飲み込んだ。

 

 

『さあ、最後にブレイブリーコウ収まって、クラシックへ駒を進めるのは一体誰なのか。GⅡ弥生賞……スタートしました! ややバラついたスタート、シロツメホマレは少し出遅れたか』

 

 

 ◆

 

 

(ゲートを飛び出したら、そのままハイペースに!)

 

 そう心で呟きながら決めたスタートは上々だった。

 芝の状態は良い。得意なコンディションだ。

 

 ──いける

 

 先頭を走る彼女はそう思った。

 

『さあ第一コーナーを回りまして──先頭はアップツリー、二番手にブレイブリーコウが付きます。中団やや固まって──』

 

 最初のコーナーが来る。目の前に広がるのは誰もいない景色。

 これだ。この景色のままゴールを駆け抜けるんだ。

 

 先頭を走るウマ娘は、自然と荒くなっていた呼吸を意識して整える。世界が少し澄んだ気がした。

 そして頭の中の時計を確認しようとした瞬間。

 

 ざわり、と観客席がどよめく音がする。

 

 嫌な予感に、後ろを見やる。ちょうど自分がコーナーを回る所だったので、振り向かなくとも右目の端に最後方を走るウマ娘が見えた。

 

 見えてしまった、と言うべきか。

 

『おおっと!? 最後方のシロツメホマレが早くも前との差を詰めにかかる!』

 

 あの、隻腕の小さなウマ娘が、腕を大仰に振りかぶったのが見えた。 

 このハイペース必至のレースに末脚勝負は無理だと見込んで、もう先頭に立ちに来たのだ。

 

 

 ──させない

 

 先頭のウマ娘は息を吐いた。

 

 そして脚に力を込める。

 芝を蹴り上げるくらいに、深く踏み込む。

 その力を次の一歩へ繋げる! 

 

 景色は速度を変えて目まぐるしく移っていく。

 息が苦しい。だが仕方ない。

 

 上がった速度に釣られてすぐ後ろのウマ娘も歯を食いしばったのが見えた。

 

 このまま、このまま。

 

 先頭でゴール板を抜ける! 

 

 

 

 ◆

 

 

『最後の直線、先頭は変わらずアップツリー、その後ろブレイブリーコウが追い上げていく! 残り200メートル、コルネットリズム、ブレイブリーコウがアップツリーに並ぶ、差し切るか、差し切るか、──内からシロツメホマレ!!』

 

 

 バカな、と思った。

 何故──

 

 そこで苦しくも先頭を維持していたウマ娘は気がつく。

 

(あえて()()()スパートだったのか!)

 

 いや、スパートですらない! あれは、単なるフェイクだった! 

 

 ハイペースにさらに速度を早めるよう、見せかけのスパートをして圧をかけ、彼女より前のウマ娘を終わりのない加速に突っ込んでしまった。突っ込まされた。

 そんなウマ娘を待ち受けるのは──知らず知らずのうちに体力が底を突いた失速だ。

 

 それを彼女は狙っていた。

 秘めたる小柄な少女は、寒椿賞でやられたことをそっくりそのまま自分で使ってみせたのだ。

 

 

 

 

 ──これはあまり知られていない事だが──いや、むしろ知っているのは一人か二人くらいのものだろう。

 

 

 シロツメホマレは沸点が意外と低い。

 どんなにレースの結果に興味が無くとも、負けたことは覚えている。

 

 だから矢鱈にボードゲームを挑みたがる。

 負けを積み重ねて、負けた原因を考えて、それでまた愚直に突っ込んでいく。ゴールドシチーはすこし辟易しているようだったが。

 

 そしてレースにおいては、ソレは二度同じ手には引っかからないぞ、という彼女の激情だった。

 

 

 シロツメホマレに横を追い抜かされたウマ娘は、後から彼女の背後を付いて行くように吹く風に、少し目を細めた。

 

 

 ──あれには届かない。

 

 

 あの少女には、届くべくもない。

 

『息を潜めていたシロツメホマレが恐るべき末脚で前に喰らいつく! 二番手で──いや! 届いた! 差し切った!』

 

 

 歓声が膨れるように大きくなる。

 レース場を結末に向かって人の声が揺さぶっていく。

 

 

『シロツメホマレ、差し切って見事ゴールイン!!』

 

 

 

 そして、今日、この日に。輝かんばかりの希望が生まれた。

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 日本の人口は約一億二千万。

 その殆どが平等に情報を享受出来るものは、一般的にはテレビやラジオとなる。

 

 その中でテレビジョンとは、そこそこの過去には、おいそれと手を出せぬ高級品であり、そして時間が経つにつれ三種の神器になぞえられられるようになっていった。豊かさと憧れの象徴となったのだ。そしてさらに時間が経つにつれて、誰でもが持てる当たり前の物となっていった。

 

「つまり、テレビは恐ろしく多くの人に喧伝出来るモノ、というわけです。──その情報が真実かどうかは置いておいて」

 

 そう言って、前と同じように来客許可証とURAの職員証を首から下げた細身の男は、スーツの裾を窮屈そうに緩めると天井を見た。

 対面に座る愛川はパイプ椅子に浅く座って男の言葉を待った。

 

「彼女を取り上げた件の番組の平均視聴率は14.7%。中々なもんです」

 

 男の少し前に会った際の慇懃な態度はやや砕け、疲れたような雰囲気を纏っていた。

 カチコチと時計の音が狭いトレーナー室に響く。

 

「詳しい計算は、まァ煩雑なので省きますが。大体14%というのは、二百万世帯、五百万人程が目にしたという事になります」

 

 

 日が傾くと、このトレーナー室は日陰になってしまう。

 それで大体の時間がわかる。

 もう1時間もすれば、少女たちは放課後だろう。

 

 

「対して過去に彼女の疑惑を取り上げた雑誌の発行部数は五十万部の会社がひとつ、十五万部の会社がひとつ。あとは細々とした会社がいくつか」

 

 男は以前と同様、内容を暗記してきたのかこめかみのあたりをトントンと叩きながら続ける。

 はらり、とワックスで固めた髪が一束落ちかけて、すぐに直す。

 

「テレビという彼女への純粋な興味が五百万人、対、週刊誌等の批判的で懐疑的な興味が七十五万。噂の強度はどちらが強いか、明白です。よくもまあこんな番組引っ張ってきたもんですよ」

 

 そう言って、尊敬と畏怖と、よく分からない感情を込めた瞳で愛川を見やる。そして目線を机の下へ向けた。

 若きトレーナーは、戸惑ったように手を握ったり開いたりした。

 

「そして、その純粋な興味の五百万人が注目するのは、次のレース……弥生賞。そこで……」

 

 はぁ、と男の時間が溶け出したような吐息。

 そして下げていた目線をキッと上げると、溜めを作ってからその口を開いた。

 

「かのシンボリルドルフに次ぐ、史上2番目のタイムを出して勝利するとは。──あんなに大勢が注目する中で、重賞を勝ってしまうとは」 

 

 

 つまるところは、そう言うことだった。

 

 

「SNS等はご覧になりましたか」

 

 やや唐突に男が尋ねる。

 

「えっと、はい」

 

 愛川はぎこちなく頷いた。

 

「凄いですね、いや、本当に。こうも鮮やかに世論が反転するとは」

 

「そんなに難しい事ではなかったですから」

 

 その発言に、おや、と男が聞く体勢を取る。

 それを察して愛川は詳しい内容を思い出しながら語った。

 

「ホマレちゃんがクラシックを走る事に対して否定的な意見が全体の1割、肯定的な意見は多く見積もっても2割だったそうです。──この数はおおよそこの程度だとタジマさんから教わったんですが──残りの何も言わない7割を肯定側に引き込めば良いんだそうです」

 

 既に何度も反復した内容なのか、愛川は一度もつっかえることなく説明をしていく。

 今度は男が黙って愛川の言葉を待っていた。

 

「そうすることで、2対1の中々拮抗しているように見える状態から、9対1の圧倒している状態になりますから」

 

「サイレントマジョリティというやつですか」

 

「はい。そうしたら、もう世論はホマレちゃんの味方です」

 

 くくく、と男は含み笑いをした。

 そんな訳がないだろう。

 

 世論を変えるなんて、テレビ一本で出来る単純な話ではないだろう。

 それに、否定的な意見を持つ1割は分母に対して小さくはなったが消えては居ないのだ。

 

 

 

 だが──

 

 

タックミ♤レース予想家

@taku_mi_race 1日

 

今年のクラシック本命はシロツメホマレ。

最後の伸び脚もさることながら、その勝負勘が抜きん出ている。

 

 

 

 

ミカ☆cafeteria おーなー

@mikako09 12時間

 

ホマレちゃんの皐月賞がたのしみ!! 

 

 

 

えゆペン@ハチミーキング連載

@eiupencile 2日

 

シロツメホマレって子が推し。

あの顔つきから繰り出される無慈悲な末脚に惚れた

 

 

 

 

 そんな風な投稿が、もはや探さなくても目につく。

 ちまたに、彼女は確実にその存在を知らしめている。

 

 

 

 そうか。

 走りで変えたのか。

 

 あるかどうか分からない疑惑よりも、絶対にあり、実際に見せつけた彼女の走りに皆惹かれたのか。熱を持ったのか。

 

 男は、自身の裡にある少しの不納得と、見えない大きな納得に深く椅子に沈んだ。

 

「どうやら本当に、私は彼女を見えていなかったようです。彼女はただのウマ娘ではなく──大洋に浮かぶ小島、砂漠に一輪咲く花。そんな存在だった」

 

 男は小さな声を漏らす。

 そこには悔いる様な、それとも違うような複雑な感情が溶け合っていた。

 

「砂漠にも、花はありますよ」

 

 歌う様に挟まれた訂正に、「え」と男はこぼす。

 そのまま言葉の主である愛川を見ると彼女は懐かしそうな目をしていた。

 

「今は眠っている花が。雨が降って、降って。コーティングを洗い流したとき、きっと花畑が見えるはずです。なにもないように思える砂漠に眠っている草花の力強い姿が」

 

 男はすこしポカンとしていたが、その意味が飲み込めると口元を緩めた。そのまま愛川の方を見て、被りを振る。

 

「そうですか。ええ、それでは、改めて。──シロツメホマレさんのクラシック登録が正式に受理されました事をお伝えします。私がこう言うのも何ですが、大変おめでとうございます」

 

 

 男はパイプ椅子を立ち、愛川に向かって深々と頭を下げた。

 当の愛川は慌てた様に手を振る。

 

「そんな、頭を上げて下さい」

 

 そうして言葉通り頭を上げた男は、彼女のすぐ横に束になって置かれている紙に気がついた。

 やや乱雑に、付箋や端が折れた物が飛び出しているが、紙自体は新しく白かった。そのアンバランスさが気になって思わず尋ねる。

 

「コレですか? これは調整中のトレーニング内容ですけど……」

 

 そう言って愛川はそのうちの一枚を手に取る。

 ちらりと見えた其処には、グラフや、表が大量の数字と手書きの文字と共に並んでいた。

 

 男は僅かに息を呑む。

 

 この、目の前のトレーナーは自身の担当するウマ娘がクラシックに無事登録出来た事に関して想像よりも喜びを露わにしていなかった。

 

 それどころか、()に備えて仕事をこなしていたのだ。

 つまり、彼女は──この一連の騒動をただの通過点としか見ていない。あくまで見据えているのは、その紙の束を見れば一目瞭然だろう。

 

 男はこぼすように呟いた。

 

「流石ですね」

 

「えっ?」

 

 なんたるトレーナーか。

 これが、トレーナーか。

 

 男はしみじみと頷くと、手に持ったチェスターコートを羽織った。そして脇に置いてあった鞄を手に取り服装を整える。

 

「もう行かれるんですか」

 

 愛川が尋ねる。

 

「ええ、荷物整理をしなくてはなりませんから。それに、次の仕事を探さなくては」

 

 男はそう答えて、コートの袖を直すと改めて愛川へと向き直った。

 

「それでは、失礼します。あ、もうURAの職員としては最後ですから。一言────お怪我をなさらず、彼女と貴女が走り切れるよう祈っています」

 

 そうしてくるりと身を翻し、ドアに向かっていく。

 

「あっ……」

 

 その背を愛川の呟きにも似た声が引き止めるようにこぼれる。

 それに対して男は不思議そうな顔で半身だけ振り返った。

 

「あのっ、その……」

 

 愛川は、考えなしに突発的に声をかけてしまったため、肝心の内容がまとまらず言い淀む。

 それでもなんとか、言葉にしようと必死で頭を回した。

 

 

 すこし惜しいような気がしたのだ。

 確かにやり方こそ違ったが、目の前の男もまたウマ娘のために動いていた。

 

 だから、聞きたかったのだ。

 

「次は何をなさるんですか?」

 

 そうして声に出して、何を言ってるんだと思った。

 失礼だ、不躾だ。配慮のない質問だ。

 

 すぐに猛烈な後悔が愛川を襲う。

 

 しかし男は一瞬驚いた顔をつくると、すぐに綻ばせ、穏やかな顔で言った。

 

「博物館の、職員なんか目指してみます。私、ああいうの結構好きなんですよ」

 

 そうですか、と答える事で精一杯だった。

 それだけ男の顔が晴れやかだったから。

 

 だから、勝った側の愛川がやるべき事は、きっとそう。

 

 

「──お疲れ、さまでした」

 

 

 その言葉を受けると、男は笑って扉に手をかけた。

 そうしてURAの職員証を下げた男は何も言わず、振り返ることはせずに去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目標達成! 

 

 

 

 

【CLEAR!】クラシックに出走する

 

 

 

 

 

NEXT↓

 

皐月賞で5着以内

 

 

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