その日、愛川ナツノは朝からソワソワと落ち着きが無かった。
だが、それも仕方のない事だろう。
仕事こそいつも通りこなしているが、事あるごとに腕時計を見たり、トレーナー室では壁掛け時計を見上げたりして何かを気にしているのだ。
時刻は弥生賞から少し経ち、土曜日の午後。
朝から続いていたトレーニングも終わり、昼食も食べ終わったあと、シロツメホマレはトレーナー室で今後のメニューに目を通していた。
その間も愛川はパソコンに表示されている時刻を確認したり、扉の方を見やったりと忙しい。
シロツメホマレは不思議に思って尋ねた。
「ねえ、ナツノ。このあと何か予定があるの? わたし早めに切り上げる?」
その発言を聞くと、愛川は目をまん丸にしてシロツメホマレを見つめる。
そして数秒固まったかと思うと、すこし震える口をゆっくり開いた。
「え、っと、ホマレちゃん……? 今日の予定伝えてなかったっけ?」
シロツメホマレは首を傾げる。
目線を右上にやったり、左上にやったりして記憶の底を網で掬うように頭を傾けたりして、結局は疑問符を頭上に浮かべた。
その様子に愛川はパクパクと口を開閉したあと、苦笑した。
「今日はね、勝負服が届くんだよ」
優しい声には、仕方がないな、と言った暖かな物が滲んでいた。
シロツメホマレは“ふうん“といった気のない返事を紙から目を離さないまま返す。
そしてちょっと考えたのか、それとも考えてないが故の発言か。
ん? と顔を上げて呟いた。
「……あなたの?」
「ホマレちゃんのだよ!?」
◆
──勝負服とは。
憧れの象徴であり、また競走ウマ娘の目標の一つでもある。
特注の専用勝負服を着用し、最も格式高いGⅠの舞台に胸を張って立つその姿は、どんなウマ娘であっても、多くの人の褒誉をあずかる事となる。
テレビ中継や、実際のレース場でその端麗な姿や格好の良い姿を見てレースを志すウマ娘も少なくない。
──それが、どうしてもシロツメホマレには理解できなかった。
「はい! こちらです。サイズは違いなく作成しておりますが、着てみた時に違和感があるといけないので!」
二十代の中盤を過ぎた頃の女性がニコニコと大きな荷物を指し示して言う。狭いトレーナー室において、その荷物は大きさ以上に場所を占領している気さえした。黒々とカバーがかかったキャリーバッグを二つ重ねた様なモノだ。
それがシロツメホマレの勝負服なのだと、説明されなくても分かった。
「着替えるのね」
「お願いできますか?」
「造作もないわ」
淡い小麦色の少女がそう答えると、女性は我が意を得たりとすぐに頷く。耳元にある大きなピアスがキラリと揺れた。
「あっ、先にお披露目だけしちゃいましょうか。やっぱり気になるでしょうし!」
ぱっ、と気がついた様に女性が言う。どうやら仕舞ってある勝負服を見せてくれるらしい。
その提案に愛川は手を胸の前で握って何度も頷いた。それを見てシロツメホマレも追随する様に頭を振る。
「──わぁ!」
愛川が思わずといった様子で声を漏らす。
女性が黒い覆いを取った其処には、皺がつかない様になのか、既に人が着た状態で広げられた勝負服が現れた。
愛川は感嘆の声をひとつ出して、それきり言葉を失ったように目の前の服を見ている。
勝負服は、一言で言ってしまえば袴のようなものだった。
若葉色を基調とした下の袴に、清潔な白の着物が付いている。その着物にもいくつか刺繍がしてある様だが、シロツメホマレはそこまで見ることはせずに肩を動かした。
「合わせはこのアンクルブーツになってまして……」
箱から靴を出しながら説明をする女性の傍ら、シロツメホマレは器用に義手を固定している器具を外していく。そしてスポンと右手でもって左の義手を引き抜くように外してしまった。
突然、目の前で起きた見慣れない行動にピアスの女性は笑顔のまま固まる。それを他所にシロツメホマレはそのまま上の体操着に手を掛け、慣れた手つきで上を脱ぐと丁寧に畳んでいく。
「……ワーッ!? ホマレちゃんちょっと待ってまって待って!」
瞬間、慌てた愛川が部屋のカーテンを閉めに飛びついた。
これには流石の靴を持ったままの女性も苦笑いをこぼした。
──シャツを着ているのに大袈裟な。
渦中の少女はあんまりな感想を抱いていた。
◆
「よくお似合いですよ」
そして十数分後、トレーナー室には、勝負服に身を包んだシロツメホマレが立っていた。丈やウエストは申し分なく、動くことに支障もない。幾分か裾が短い袴は、走る彼女のために作られたことをしっかりと示していた。
「片袖がないのね」
「──はい。やっぱり、シロツメホマレさんの美しさを一番に見せるには、こうしたデザインが一番良いと思いました」
勝負服を着た少女の質問に、女性は淀みなく答える。その声にはどこか懺悔するような響きがあって、思わず首をかしげる。
「左の、その分は右袖に。走ると袖が広がって、綺麗になるよう作らせていただきました」
「ええ、そう」
──それがどうしたというのだ。
シロツメホマレは思った。
やはり、喜ぶべきなのだろう。
それが普通なのだと知っている。そうでなければ、せっかくこんな服を作ってくれた事に対して面目が立たない。だが──
心にもない感謝の言葉を口にするのは、心が削れていく気がする。
だから彼女は嫌だった。
それでも、いまこの場においては“ありがとう“と。そう言うのが正しい。つまりは、その言葉を声に出すことが良い行動である。そこまで考えて、ふと気がつく。
愛川はシロツメホマレが勝負服を着てから何も感想を言ってないな、と。
そして視線をそちらに移すと──シロツメホマレは目を丸くした。
「ぅ……うぅ……」
愛川は泣いていたのだ。
声を漏らさぬよう、口元を押さえながら。その手には涙が伝っていく。
「な、ナツノ?」
思ってもみなかった事態にシロツメホマレの右手はオロオロと空中を彷徨い、空を切る。
何かあったのか、と彼女は必死で考えた。
「ゔぅ……カッコいいよ……ホマレ、ちゃん……」
ぐすっ、と鼻を啜りながら愛川はそう言う。
そして気がつくと彼女はパシャパシャと反対の手で写真を連写していた。
シロツメホマレは肩の力が抜けたような気がした。
──なんだ。ただ着ているだけで、嬉しそうじゃないか。
シロツメホマレが何も言わなくても、たとえ何も感じていなくても。
彼女のトレーナーは落涙するくらいには喜んでいた。
それを見てシロツメホマレもまた、すこし嬉しい気持ちになった。
少女は一連の流れを邪魔にならないよう隅で見ていた女性に向き直ると緩やかに頭を下げた。
「──ありがとう、こんな素敵な服を作ってくれて」
そうして、その言葉は驚くほどするりと喉から出てきた。
感謝を伝えられた女性は、眩しいくらいに笑って何度も頷いた。
◆
「あっ、写真送るね、ホマレちゃん。誰かに見せたりする……よ、ね?」
「ええ、ゴールドシチーにでも送っておくわ」
勝負服の合わせも終わって、ピアスの女性も帰り、すっかり元の服装に戻ったころ。
愛川は携帯を操作しながらそう言った。
シロツメホマレは愛川からの受信した画面を指で触りながら、考える。
あとは──冴木だろうか、と。
せっかくだし電話でもしてみようかと電話帳を開く。
そして少ない人物名の欄からお目当ての番号を探し当て、タッチするとコール音がする。
そして電話が繋がる前特有の途切れ方をして、コールが止んだ。
「ミハル、わたしの──」
勝負服が出来たのよ、と。
『あの、シロツメホマレ……さんですよね?』
そう伝えようとした言葉は、知らない女性の声によって止められた。
番号は合っている。電話帳からかけたのだから間違えようがない。
「ええ」
シロツメホマレは答える。
この電話口にいる人物は誰なのか。なぜ彼が出ないのか。
「ミハルは?」
その疑念は声に乗って表れた。
しかし、相手はそれを意に介していないようだ。
それもそのはずで──
『冴木三春はその……ただ今──』
「ナツノ、ナツノ! 車を出して、おねがい」
電話の女性が語ったのは、冴木三春の意識が戻らない、という知らせだった。
◆
辿り着いた病室は、扉の外はあまりにいつも通りだった。
もしかしたら誤報なのではないか、とシロツメホマレは疑った。
「は……ふ……」
息が切れる。
体力は鍛えているはずなのに。
扉に手を伸ばす。
そして取手に指をかけて開き、中の三春に会うのだ。
なのに、手が言うことを聞かない。ハンドルに触る指から体温が逃げて行く。
「…………」
病棟特有の暖かい空調に汗が滲むのを感じる。
「大丈夫」
そっと上から置かれた手は、愛川のものだった。
彼女はシロツメホマレに向かって表情を柔らかくすると、熱を伝えるように軽く握った。
「ええ」
そしてガラリとドアが開く。
中に居たのは、スーツ姿の鋭い雰囲気を纏う女性と、数名の看護師。そしてベッドの脇にクリップボードを持った医者。
肝心の冴木三春は、ベッドに上半身だけを起こして医者と話していた。
ああ、ノックするのを忘れたな、とシロツメホマレは思った。
彼女が来たことに中年の医師が気づくと、彼は軽く会釈をして『何かあったらすぐに呼んでください』と言って出て行ってしまう。
「ああ、ホマレと…………げ」
冴木は部屋の前に佇んでいた二人を見つけると、そんな風に言って、不自然に言葉を途切れさせる。
一体なんだ、とシロツメホマレが愛川の方を向くと、彼女は少し気まずさや恥ずかしさの混じった表情を浮かべていた。
もしかして、知り合いだったのか、と聞こうとすると愛川は顔だけをすこし動かしてシロツメホマレへ、冴木の方に注意を促した。
「お前、ホマレ。今日は平日やろ。それやのに制服で来てるなんて、何かあったんか?」
するとタイミングを合わせるように冴木が口を開く。
その内容にシロツメホマレはすこし眉を顰めた。
「なにかって……あなたが……。それに今日は休日よ」
「おん? そうか」
その指摘に冴木はきょとんとするだけだ。
途端にシロツメホマレは何を言っていいのか分からなくなってしまう。
後ろに居る愛川の様子も少し変だ。
誰も言葉を続けなくて、奇妙なくらいの沈黙が部屋に流れた。
ジーという低い音が室内に響く。備え付けの小さな冷蔵庫の稼働する音のようだった。
「あの」
その沈黙を破ったのは、意外な事に、最初に部屋にいたスーツ姿の女性であった。
「シロツメホマレさん……よね? 少しだけお話、いい?」
◆
「ハル……弟は、その少し疲れが溜まってたみたいで」
スーツ姿の女性──冴木三春の姉だという彼女は、冴木と愛川の様子に何かを察したのかシロツメホマレを少し病室の外へと連れ出した。
同じ階にある、ちょっとした休憩のための椅子やらテーブルが複数設置されている場所へ。
そして自販機で飲み物を二つ買うと、一つをシロツメホマレへと手渡し、彼女を椅子に座らせてから、そうやって切り出したのだった。
シロツメホマレの手には彼女に購入してもらったミネラルウォーターが蓋の閉まった状態である。
「だから、心配しないで。少し休めばまた元気になるわ」
元気、元気とは一体どの状態を指しているのか。
シロツメホマレは思わず目の前の女性を見た。
冴木が点滴を取っている姿など見たことがない。
「ほら、私もちょっと動転してて電話で貴女に、弟の意識が無いって言っちゃったけど、それも少しの間で。本人はすぐに起き上がってたし。お医者さんもそこまで深刻な顔はしてなかったでしょう。あっ、貴女、このあとクラシックを控えているのよね。 凄いわ。それなら尚更、そこに集中しないとね」
少し早口で、捲し立てるように女性は話す。
しかしシロツメホマレが何も言わないのを見ると、一度目を閉じてから、ふぅ、と息を吐いてゆっくりと目を開けた。
「……弟に何か教わったの?」
先ほどとは打って変わって、落ち着いた様子で尋ねる。
おそらくこちらが彼女の素なのだろう。
シロツメホマレはパッと両手を広げる様にして、席を立った。
「この服はミハルのお陰よ」
そこにはトレセン学園の、紫を基調とした制服がある。
多くのウマ娘にとっては、それを着ているだけで、中央所属という憧憬の対象となる服が。
「わたしの走りも」
そう言って腕を軽く振る。
「いまこうしている時間も」
義手の動きは滑らかで、手袋をしてしまえば注視しない限りそうだとは分からない。だが、彼女は走る時にそれを外す。
「たくさん貰ったわ」
声にすこし力が込もる。
表情こそ変わらないが、耳や尻尾の動きで感情が見える子だな、と女性は思った。
「それを……」
シロツメホマレは上げていた手を下ろして地面を見た。
材質は分からない。ただすこし反発のある柔らかめの素材が、いつものようにローファー越しに伝わった。
「なにも返せてないのに」
少女の背中に備え付けの窓が見える。
日が長くなってきているとはいえ、外はもう薄暗くなり始めていて、彼女は暗い世界にひとり佇んでいるようにも見えた。
「許さないわ。そんなことは、ゆるさない」
声色が変わる。
先ほどの、すこし力が消えそうな響きから、どっしりした物へ。
「貰いっぱなしなんて、癪だもの」
どこか怒る様に。怒りで他の感情の代替をしているように。
女性は、目の前の少女の可愛らしい歪んだ発露に目を細めた。
「だからちゃんと……ちゃんと……」
そこでシロツメホマレは言葉を切る。
それきり黙り込んでしまって、下を向くばかりだ。
女性は思わず立ち上がり、俯く少女の頭を撫でた。一本一本梳くような丁寧なその撫で方に、シロツメホマレは対照的な父親の乱暴な撫で方を思い出して,目の奥に熱を覚えた。そして栓をするよう、眉間にぎゅっと皺を寄せた。
◆
その後、女性と二、三言交わした後。
彼女はシロツメホマレを病室に促した。自身はもう少し休憩スペースで休んでいるそうだ。
身内が倒れたのなら、その心労は相当だろうとシロツメホマレは頷き一人病室へと向かった。
少女が病室に戻った時、そこに居たのは冴木だけだった。
不思議に思って彼女が尋ねると、愛川は車で待っているらしい。冴木がすこしむっつりして答えた。
シロツメホマレはベッドの脇に置かれた来客用の椅子に腰を下ろすと、おもむろに口を開いた。
「このまえ、弥生賞を勝ったわ」
「おお、見とった。っちゅうか、電話したやろ」
「そうね」
冴木の返答はいつもと変わらない。
だが、その声が心なしか
肺に充分空気を取り入れられなくて、その状態のまま発声するとき独特の薄さ。
「そのあと、すこしゴールドシチーと言い合いではないけれど、ちょっと色々あったわ」
「ちょっとなのか色々なのか、どっちやねん」
そこで会話が途切れる。
いつもなら、ポンポンと話題が出てくるはずなのに今回ばかりは詰まってしまった。
少女は唇を噛んで、すぐにやめた。
「ねぇ、ミハル」
徐に。力まずに喉を飛び出た言葉が病室に響く。
それは彼女の意図した発言では無かったが、後から続く言葉は止めることは出来なかった。
「死んじゃうの?」
「おお、死ぬな」
冴木はあっけらかんと答える。
その軽さは、明日の天気を聞かれて答えるような気楽ささえあった。
「あとひと月、持つかどうからしい」
「それは、許さないわ」
シロツメホマレは噛み締めるように言う。
冴木はそんな少女を見ながら軽く笑った。
「無茶言うなぁ」
「まだ何にも返せてないじゃない。それなのに、勝手にいこうとするなんて」
「体がもう言うこと聞かへんねん」
「きかせなさい」
冴木三春はどこまでも軽やかだった。
その軽さが、存在の軽さに思えてシロツメホマレは自身の喉がヒュッと音を立てるのを感じた。
「言うこと聞かせて、たえて、耐えて……それで……」
それで、と彼女は繰り返す。
冴木はその間口を挟まず黙って少女を見ていた。
「“奇跡”でもいいから起こしてみせなさい。時々言われるのよ。わたしがまた走れたことは“奇跡”だって。だから、あなたもそうしなさい」
「奇跡、か」
初めて冴木がすこし重たく呟く。
彼女はそんな男の顔を見た。頬が出会った頃よりも随分窪んだように思える。
腕が細くなったように思える。
それはきっと勘違いではないのだろう。
「ホマレ、俺の余命はな、
「まえ?」
突然のカミングアウトに、思わず鸚鵡返しをする。
何のことを言っているのか。言葉の意味は分かっても、内容が頭になかなか入ってこない。
それがもどかしく感じた。
「そう。お前と初めて会うた時、もう二か月余分に生きとった」
冴木三春は電源のついてないテレビを見やる。
黒い画面は、室内の光を反射して鏡のようになっていた。
「当時はな、こんな余分な、ちょっとの時間を目の前にぶら下げるなんてヒドイ話やと思っとったけどな」
そこで彼はニヤッと笑ってシロツメホマレを見た。
「ええか、ホマレ」
その声はどこまでも優しく。
だからこそ、シロツメホマレは聞きたくなかった。
耳を塞いでしまいたかった。
しかし、それは叶わない。誰よりも、彼女自身がこの
だから、時間は過ぎる。
言葉は紡がれる。その事が、ひどく胸を締め上げた。
「奇跡はな、もう
ダメだ。
それを言ってしまったら、終わりになってしまう。
「今こうしている事が“奇跡“や」
それでも、冴木三春は口の端を吊り上げて歯を見せた。
蝋燭の最後の火みたいに力に溢れた、そして寂寞とした表情だった。
「俺は、満足や」
それだけ。
シロツメホマレは何も言わなかった。
「ああ、でも……」
先ほどの表情から一転。
冴木は何かを思い出したかのように顎に手を当てた。
「言ってみなさい」
間髪入れずシロツメホマレは言う。
その勢いに冴木はちょっと驚いたように体を下げた。
「いや、お前の勝負服は見れてへんなって」
思わずシロツメホマレはポケットに入っている携帯を握りしめる。
パキ、という感触が手に伝わって、その音で何かバレたんじゃないかと冴木の顔を見れなかった。
「そんなの、現地でもテレビででもみればいいじゃない」
冴木は何も言わない。
ただ、黙ってシロツメホマレの頭を撫でた。
「見にくればいいじゃない……車椅子でもなんでも、押してあげるから……」
冴木は思わず笑い出したい気分だった。
こんなにも感情が分かりやすい彼女は初めて見たから。
きっと今なら、この無愛想な少女をよく知らない者でも彼女がどんな思いなのか感じ取れる。
だが、ここに他の人間は居ない。
笑い出したい気分だった。
「皐月賞にもダービーにも、きっと菊花賞にもでるから、機会なんていくらでもあるわ」
シロツメホマレには、どうしても忘れられない、人に言えない後悔があった。
それは、父親の見舞いに行った時。最後に病室を振り返らなかったこと。
それが、分かれ目だったのではないかと思っている。
それが、最期の言葉をかけるチャンスだったのではないかと。
彼女は覚えている。
二度、同じ轍は踏まないために。
「──わかったわ。すこし待ってて」
そうして病室から駆け出した。
◆
勝負服の業者にも、愛川にも無理を言ってしまった。
だが、両者とも快諾をしてくれて、それどころか協力さえしてくれると。
1時間ほど過ぎた後。
シロツメホマレは勝負服姿で病室の扉の前にいた。
最終調整の為に一度回収された勝負服を、どうしても着させて欲しいと業者に頼み込んだのだ。
最初は彼女が(というよりは愛川の車で)取りに行く予定だったが、業者はわざわざ車を走らせて病院まで来てくれた。
そして昼間のピアスの女性も一緒に。
彼女は『せっかくなのだから、一番綺麗にしていきましょう』とメイクさえ施してくれた。
そうしてシロツメホマレはいま、ここに立っている。
コンコンとノックをすると、間を置かずに“おう”と返事がある。
シロツメホマレが扉に手をかけて中に入ると、その格好を見た冴木は、目をまん丸に見開いた。
「これが、わたしの勝負服よ」
シロツメホマレはそう言って、すこし胸を反らした。
その袴の勝負服は、彼の記憶にある無数の勝負服に比べて華美さは無かった。
ただ、楚々としていて、それがいつも表情を変えない少女にはよく似合っていた。
そして着物にいくつかあるクローバーの刺繍のうち、彼女の胸の、心臓に当たる場所だけは、他とはすこし違っている。
冴木はすこし目を凝らして、気がついた。
そこにあったのは四葉のクローバー。
なんとも、彼女らしい。
その時、彼女のかつてのトレーナーは、このウマ娘と
あれは、そう。
何処にでもある、雑草の上だった。クローバーの上だった。
本当に、なんとも彼女らしい。
冴木は柔らかく笑って言った。
──ええやん、と。
結局。
彼がシロツメホマレのクラシックを見届けることは終ぞ無かった。
だが、それでも彼は幸福だった。
◆
もし、一度生まれ変われるとしたら。
別の人生を選べるとしたら。
誰かが言った。俺は、そんなもんあるかと笑い飛ばした。
──砂漠にも花は咲くんだってさ。
沢山の種が地面に、じっと眠っているんだよ。
恵みの雨で、種の周りをコーティングしている化学物質が落ちたとき、一斉に咲くんだって。
だから砂漠に、一瞬だけ何処までもつづく花畑が出来るんだよ。
『お前は物知りやな』
記憶のなかの俺が言う。アイツは、はにかんだように笑って顔を背けた。
あれはきっと、養成学校の時だったと思う。
──冴木さんも、そんな想像しません?
「────するなぁ」
人の心に砂漠があるとするなら。
きっと、流した汗や涙や、転んで傷ついた血で、コーティングが剥がれて。そして花を咲かせるのだろう。
人生、まともに生きようとしていても落とし穴ばっかりだと思う。
自分の境遇のせいか、ドロップアウトばっかり目についてしまう。
勉強ミスったら終わり。最後のプレーミスったら終わり。受験ミスったら終わり。就活ミスったら終わり。それが全部うまく行ってても
──そんな訳あるか!!
──そうであって、たまるか!!
そう叫んでやりたかった。
見てるか、俺を諦めた奴ら。
見てるか、ありがたくも俺を憐れんでくれやがった奴ら。
病気でも、あと少ししか時間がなくても。
俺はやってやったぞ。俺はトレーナーだったぞ。
俺は──誰もが見つけられる“希望“を
だけど、もう。それもどうでもいい。
いまはただ、あの花が綺麗に咲いてくれるだけで。
それだけで。他はなにもいらない。
そう、思えるようになった。
ああ、見える。
レース場に凛と咲く花が。
遠い先で、大勢の人の歓声を一身に浴びる花が。
それは、きっと──
4.未来に咲く花 終