19.いまは走る彼女へ
四月の初週。
木々には青々とした葉が茂り始めたころ。
皐月賞を2週間後に控えたとある日。
その日の授業と練習を終えて、寮で休んでいたとき。ふとシロツメホマレは誰かと待ち合わせをしていた気がして、三女神の像の下へ出向いた。
時間は既に23時を回っていて、見つかれば寮長に怒られることは間違い無い。それを危惧してか彼女はコソコソと寮から植え込みや茂みの陰を伝って、隠形を重ねながらようやく像の前に辿り着いた。
そこにはあったのは、昼間と変わらないいつもの三女神像。
伝説の存在を象ったという、見上げるほどの高さがある石像からは水が流れて──
「……?」
はて、誰と約束していたのだったか。
シロツメホマレは、記憶にない“待ち合わせ”の約束に眉を寄せて首を傾げた。
『来てくれたんだね』
その瞬間、彼女の視界はぐにゃりと歪んだ。
『シロツメホマレ』 始
◆
頬がチクチクとする。
最初に感じたのは、その感覚。
次いで目を開けると、木でできた壁と地面いっぱいに広がる草が見えた。
──寝てたんだっけ。
不思議とここは暖かく、いつまでも微睡の中に居たい欲望にかられる。だが、すぐに誰かが呼びにくる。
────?
誰かって、誰だろう。
起きてよ、ほらぁ
分かったよ。
まだ眠たいけど、仕方がない。
うゔん、と声が漏れる。
しばらく目を潤わせようと瞬きを繰り返す。
一回、二回。……視界のぼやけが薄くなっていく。
そうしていつものように、のっそりと彼女は立ち上がり、伸びをした。次いで流れるように自身の制服に付いた、長くて黄色い草を手で払った。
「あっ」
そこで気がついた。
左手があったのだ。義手ではなく、自分の意思で動く左腕が。
何度も確かめるように、わきわきと握ったり開いたりして、反応で自分のものだと分かった。
こっちだよ
その時、計ったかのように彼女を呼ぶ声がする。どうやら外から響いてきている。
それはお風呂場の声みたいで、ぼんやり反響している。夢の中にいるみたいだ。そのせいか頭がぼうっとする。目に映るもの全部が暖色を帯びている。
──外に行かないと。
何処かに出入り口は無いかと首を回せば、すぐに見つかった。
大きな動物も入れるくらい背が高い出入り口だ。
扉はついてなくて、彼女の胸の高さに木の棒が一本。横にかかっている。扉のない閂に思えた。
彼女はそれを特に躊躇わず潜る。小柄な体格にとっては簡単な事だった。
パラリ、と動いた拍子に頭に付いていたらしい草が落ちた。これは、きっと藁だ。ふかふかしていて気持ちいい。
出入り口の外は通路で、道沿いに彼女がいた部屋と同じような部屋がいくつも見えた。部屋の中には相変わらずストローのように長い草が敷き詰められているが、空っぽだった。
道はわかる?
声がする。
分かるよ。たぶん。直感的に分かる。
通路を歩けば、そんなに長くなくて、すぐに外につながっていた。
出口の横には大きな熊手や塵取りが立て掛けてあって、でも使う人は居ないみたいで静かに佇んでいた。懐かしい? いいや。
一本竹箒が倒れていたので、直しておいた。
外に出る。
外は何処までも続く平原だった。太陽の光が穏やかな熱を地面にある植物に伝えている。風はなく、鳥の鳴き声もなく。
何処までも静かな平原だった。時間が止まっているかのようだ。
だが、その緑の野の中で、一つだけ色彩を放つものがある。
それは春に咲く、淡紅色の木。
一本の堂々とした木が、小屋の少し離れた所に立っていた。
──声はきっとあそこからだ。
その木に向かって歩いていくと、一人の少女が立っていた。
『こんにちは』
顔は見えない。そこだけ蜃気楼みたいにボヤけてよく分からない。
少女は笑ってる。それは分かった。
「ええ、こんにちは」
顔の見えない少女は手をひらひらと振った。
──その左腕は肩から先が無かった。
「わたしは、どうしてここに?」
彼女は目が覚めた時からの疑問を少女にぶつける。
自身の声もお風呂場のようにすこしくぐもって聞こえた。
『呼んだからだよ』
少女はあっけらかんと答えた。
呼んだ? ここに? 疑問が新しくなる。
「どうして?」
『四月だからね』
少女はニコニコと笑っている。
答えになってないが、そういうものか、と納得してしまった。
『ほらっ、手、手を出して』
少女は急かすように言う。
言われた通りに
何かと思って、手を引っ込めて見てみると、それはさくらんぼの茎みたいな先に、黒豆のような実が付いた植物の一部だった。
「くれるの?」
『ううん、託すの』
それきり少女は口を閉ざしてしまう。
自分のやりたいことは終わったとばかりに。
受け取ってしまった。
知らない人からは物を貰っちゃダメな筈なのに。
彼女は当惑した。
だが、ここでとある思いつきが彼女の脳内を走る。
貰うだけでなく、こちらも渡せば『交換』になるのでは? と。
そして彼女は、自身のポケットに何かないかと探して、一つだけしか指に当たる感触がなく、そのままちょっと固まるが結局はその一つをポケットから引き抜いた。
「じゃあ。わたしからはコレを渡すわ」
顔の見えない少女はきょとんとしながら手を差し出す。
そこにポトンと白色の糸車のようなものを落とした。これは? と少女が尋ねる。
「ボビン」
『ボビン? どうして?』
「家庭科で使ったから。ええっと。下糸になるわ。……ミシンがあればだけど」
説明をする彼女は、言葉尻が段々と小さくなっていく。
そして言い切るころには、憮然とした表情で黙ってしまった。
「……これしかなかったのよ」
受け取った少女は目をまん丸に見開いた。
そして、ぷっ、と吹き出すとお腹を抱えて笑い出した。
『あはははっ、ありがとう!』
顔の見えない少女は、ボビンを握りしめながら言う。すると不思議な事に、白色だったそれは薄く緑色に色付いていった。
それを見て少女はすこし嬉しそうにした。
『白じゃ、ないんだもんね。うん』
そうして一通り笑いの波が収まると、少女は目尻に溜まった液体を指で拭いながら質問をした。
『──走るのは、たのしい?』
そこには先ほどとは違って、真剣な色合いがあった。
彼女は、ゆるゆると首を振る。
「いいえ」
そっか、と言う声が聞こえて、景色が解けていった。
◆
「────ら。──ほら、起きな! こんなトコで寝てたら風邪引いちまうよ!」
ゆさゆさと肩を揺すられる感覚に、意識が繋がるようにパッと目を覚ます。
シロツメホマレが辺りを見回すと、目の前にすこし眉を下げた、褐色肌のウマ娘が映った。
「こんばんは」
「はい、こんばんは……って違う!」
シロツメホマレは目を擦りながら挨拶をする。
それに釣られたように褐色肌のウマ娘──ヒシアマゾンもまた挨拶を返しそうになり、バッと頭を上げた。
「像の所で眠りこけてる子が居るって聞いて来てみたら……」
彼女はしゃがみ込み、像の脇で凭れるような姿勢のシロツメホマレに目線を合わせた。
わざわざ確認に来てくれたらしい。
艶黒の尻尾がゆらゆらと不規則に揺れている。
ヒシアマゾンは眉をギュッと寄せると、口を開いた。
シロツメホマレは漠然と、怒られるかな、と思った。
「体、どっか悪いのかい?」
だが、その口から出てきたのは相手を慮るような声色。
問われた少女は、その場で肩を回したり、首を動かすが、筋肉痛くらいしか症状はない。それを首を横に振ることで、目の前の世話焼きなウマ娘に伝えた。
「それならいいんだけど……。最近、皐月賞に向けて頑張ってるんだろう? だけど、あんま無理し過ぎちゃ──」
そこで彼女は何か思い至ったように言葉を切る。
そして先ほどまでの顔から一転、穏やかな表情になるとシロツメホマレを琥珀のような瞳で見つめた。
「ま、仕方ないか。G1のレースだしね」
無理はしちまうよ、と彼女は続ける。
それは同じ競走ウマ娘としての立場からくる、深い理解だった。
相手を頭ごなしに否定しない、非常に優しい共感だった。
ただ、シロツメホマレは『それは違う』と叫びたかった。
自身はそんな
「とにかく──」
ヒシアマゾンが切り替えるように言う。
このハキハキとした口調から彼女がどんなウマ娘なのか、あまり彼女を知らない人にも伝わる。
時々しか言葉を交わさないが、シロツメホマレはその喋り方が嫌いではなかった。
「アンタは、ちゃんと周りを頼りな! みんな居るんだから!」
「いないわ」
シロツメホマレが自分でもびっくりするぐらい、ざらついた声が出た。
棘のある、決して人に向けてはいけない声だ。
あっ、と気がついた時にはもう遅い。
口に出した言葉は、引っ込んではくれない。
後悔先に立たず。
シロツメホマレは慌てた。どうにか、今の刺々しい言葉が、目の前のウマ娘に対しての物ではないと伝えようとした。
だけどすぐに言葉が出てこない。喉にひっついたような粘性の感情が絡まって、何も言えない。
──ダメだ。
ダメだ。今の言葉は本意じゃない。それはダメだ。
だけど、訂正の言葉が作れない。
喉の奥で、自分も知らない何かが逆流しそうになる。
何か言わなくては。
そうでないと、そうじゃないと。
「ぁ……」
思考が一気にスパークする。
頭の回転が速度を上げる。
ぐるぐる、ぐるぐると気持ちの悪い感覚が強くなる。
だけど喉は震えるばかりで言葉を作らない。
まずい、ダメだ。
ぐるぐる、頭が空虚な回転を早める。
何か、なにか。いわないと。
それで、視界が歪んで──
そっ、と抱きしめられた。
温かな体温が服越しに伝わる。
「大丈夫、大丈夫」
ポンポンと背中を優しく叩かれた。
子供をあやすように、安心させるように。
淡い小麦色の少女は、いつの間にか肩に入っていた力が抜けるのを感じた。
「──ごめんなさい」
「謝るこたぁないよ」
シロツメホマレより一つ年上の少女は、あくまで気にしていないという風に言った。
自身を含め、いくらトゥインクルシリーズを走っていても、いくら激しいレースを制しても、年頃の少女に代わりはないのだから。そんな、ある意味
ヒシアマゾンはシロツメホマレがレースに出ることを止めたりはしない。彼女もまた競走ウマ娘だから。ヒシアマゾンはシロツメホマレの自主練を無理矢理にでもやめさせたりはしない。その気持ちは理解できるから。
そしてなにより──シロツメホマレがレースの後、あんなにも
それに気がついて居ないのは、ひょっとしたら彼女だけなのかもしれないが。
「ちゃんと、トレーナーなりヒシアマ姐さんなり、頼りな」
その言葉が、シロツメホマレにとっては、どうにも申し訳なく感じられたのだった。
夜は、春の初めでも空気が冷たく。
その分、空気が澄んで夜空の遠くまで見通すことが出来た。
星は──未だ明けることのない夜闇に居る少女を、優しく何も言わず、見守っていた。
結局。
彼女が夜間に無断で寮を抜け出した事に関してはきっちりと絞られた。
無断で、というのがかなり大きかったらしい。
後日、ヒシアマゾンの部屋の前には、2枚の反省文と菓子折りが置かれていた。
◆
トレセン学園のカフェテリアには、そこそこ大きなテレビが設置されている。大抵はニュースなどが流れていて、興味のないウマ娘はほとんど見る事は無いのだが、ある時には決まって同じ番組が流される。
それは、大きなレースの時。
出場するウマ娘と同年代の子は言わずもがな、親交のあるウマ娘に、ハイレベルな戦いを目に焼き付けようと特に向上心の高いウマ娘もテレビを注視することとなる。
その日は皐月賞前のインタビューということで、出走予定のウマ娘たちが勝負服を纏って画面に映っていた。
クラシック級になりたてであり、大きなレースも経験がない彼女らの多くは緊張に頬が引き攣っていたり、目が忙しなく泳いでいたりする。
そんな中であっても、一切動じた様子を見せないウマ娘もいる。
『では、シロツメホマレさん。今回の皐月賞が初のGⅠということになりますがどのようなお気持ちでしょう』
『皐月賞の前だな、という気持ちね』
少女にマイクを向けていたインタビュアーが固まる。
だが、さすがにプロ。すぐに復帰すると笑顔を作り彼女のコメントをまとめた。
『……なるほど! やはり他のレースと違うという感じでしょうか。それでは次の──』
テレビを座って見ていた内の一人であるヒシアマゾンはウンウン、と頷いた。
だが、画面の向こうにいる少女は、自分の意見が勝手に要約されたことが気に入らないのか耳をさっと後ろに倒した。
テレビを見ていた褐色肌の少女は、ひじょうに嫌な予感がした。
あの子は、アレでけっこう熱くなりやすいのだ、と。
画面に映るシロツメホマレはさっきまで微塵も興味を示さなかったマイクを睨むと、訂正を入れようと、グイと首を伸ばした。ギリギリ音が拾われる圏内だ。分かってやっている。
『べつに同──』
『では! 次の方、スーパーヒュレーさん、このレースに向けてどのような練習をされてきましたか!?』
あわや音声が拾われそうになる一瞬で、インタビュアーはシロツメホマレの横のウマ娘にマイクを向けた。しかしすぐに、シロツメホマレから発せられているであろう怒気を受けたのか、ヒッ、と引き攣った声を上げる。
周りの関係者は、そんなインタビュアーと、表情の変わらないシロツメホマレを見比べては不思議そうな顔をしている。(彼女のトレーナーだけはバックボードの脇で慌てていた)
限られた時間の中、スポンサーや視聴者の聞きたい意見を聞き出さなければいけないインタビュアーは大変だな、とヒシアマゾンはつくづく思った。
そして帰ってきたらシロツメホマレに一言言おう、とも。