『シロツメホマレさん、第二診察室にお入りください』
ぽーん、と放送の音が待合室に響いた。
それと同時に一人のウマ娘が長椅子から立ち上がり、リノリウムの床をひょこひょこと歩いていった。
そのシルエットは万全ではなく、左の袖が寂しく揺れている。
──シロツメホマレ、10歳。
事故にあったウマ娘。
しばらくレースには出れていない。
◆
わたしが診察室のドアをスライドすると、温和な顔の医者がこちらを見た。
「やあ、シロツメさん。手荷物はそこに。うん、じゃあ座って」
言われた通りに鞄を網かごに入れ、椅子に注意しながら座る。勢いよく座ると、倒れてしまうかもしれないから。
「包帯はどうかな、キツくない?」
「問題ないわ」
医者はクリップボードに何か書き付けながら“そっかー“などと相槌を打つ。その手は澱みなく道具を準備していた。すると看護師が一人、図ったかのように奥から包帯を持ってやって来た。
そこからはいつも通りの検診。
喉の奥を見て、左腕の包帯を解いて、消毒をして、塞がった傷口を見て、また包帯を少しきつめに巻き直す。
一通りの作業が終わったあとに、医者はまた何かを紙に書いて、今度はパソコンをいじっていた。
「うん、うん。膿みも腫れもない。経過は良好だよ。あとはもう少ししたら義手のリハビリを始められそうだね」
医者はそう言ってキーボードを叩く手を止め、こちらに向き直ってくる。看護師は汚れた包帯を袋に入れて、一礼をしてまた出て行った。
「また感染症予防の薬は出しとくから。あと痛みがひどかったら飲む用の薬もね」
「ええ」
「それで、シロツメさん」
「はい」
いつも通りの検診が終わり、そこで退出しようと腰を浮かした。ちょうどそのタイミングで医者は声色を硬くしながらこちらを見てきた。メガネの奥は少し細まっている。
「
咎めるような、すこし労わるような。そんなふうに医者は言った。目線はこちらの頬や、脚に向けられている。もしかしたら転んだときに枝で切った傷がついていたかもしれない。
「まだ、君は片腕のバランスに慣れていないんだから無茶しちゃダメだって。何度も言ってるだろう?」
「…………」
何も言えなかった。
かと言って言い訳をするつもりはなかった。
「確か、トレセン学園に入ろうとしていたんだっけ」
一転、医者は優しい声で確認をしてくる。
まるで空気を変えるような質問は──実際、空気を変えようとしてくれたのだろう。この医者はそういう気遣いをする人物だ。
「私から患者さんに対して、“こうしろ“とは言えない立場だよ」
医者はそんな風に言うが、目線は決して外してこない。鋭い、とまではいかないが、平時に比べると尖った目をしている。
「ただ、ひとつ覚えていて欲しいのが“別の道もある“ってこと」
医者はわたしの腕をちらりと見た。
きっと1キロ強の重りが消えて、右側に傾いたバランスの悪い私の体を見ているのだろう。
「特に君は、まだ実感は無いかもしれないけど、若い」
それこそ幼すぎるくらいに。そう医者は続ける。いつのまにか細まっていた目は元に戻っていた。
「だから、ね。これからいろんな未来が拓けているよ」
そこを理解して欲しい。そう言って医者は言葉を区切った。
1秒、2秒。沈黙が診察室を支配する。医者はただこちらを見ていた。
「ごめんなさい」
それだけ言って、退出した。
◆
また待合室に戻って来た。
椅子に座ると、ぼうっと柱に設置されたテレビ画面を眺める。そこに自分の番号が表示されるまでは会計が出来ない。だからただ見ていた。
3分もすれば、だんだんと混んできたので、傍に一緒に置いてあったカバンを前に抱える。カバンはチャックが少し開いていて中身が見え隠れしていた。
手をカバンの中に入れ、取り出してみれば、しっかりとした紙で作られたパンフレットが出てくる。
『日本ウマ娘トレーニングセンター学園』
なんども読み返したパンフレットだ。
約2000人ものウマ娘が通う、レースのための学園。過去の歴史を見れば、たくさんのウマ娘たちが居る。輝かしい記録を残したウマ娘に、惜しいところで、しかしそれでも走り続けたウマ娘、そのウマ娘を超えろとまで言われた伝説のウマ娘。
そんなウマ娘たちがごろごろと現れる。
──その中であっても隻腕のウマ娘はついぞ見なかった。
記録を漁ったとて、在学さえしていなかったようだ。
世話になっている親戚はわたしが走ろうとすると必死で止める。
パンフレットを見ていると悲しそうな顔をしてくる。
いちど、腕を失ってからわたしが走る姿を見にきたことがあった。わざわざタイムを測ってくれるというのでストップウォッチを渡した。
『……もう、やめにしないか』
わたしのタイムを計測し終えた親戚は、表示された時間を見ながら泣きそうなほど顔を歪めて言った。
彼はわたしがレースで走るところを知っている。そしてそのタイムも時々、測ってくれていたから知っている。だからこそ、そんな顔をした。
がたがた、ふらふら。カーブは曲がりきれず、下手をしたら転んでしまう。わたしの走りはそんなものになってしまった。
ぱぱぽん、と音が鳴る。
顔を上げてみればテレビには自分の番号が表示されていた。カバンにパンフレットを戻すことは億劫で、結局手に持ったまま立ち上がった。それがいけなかったのだろうか。一、二歩踏み出した時に横にいた人物にぶつかってしまう。ぱさりとパンフレットが落ちた。
「おお、すまんなぁ、嬢ちゃん」
ぶつかった相手である若い男は人好きのする笑みを浮かべながら謝ってくる。病衣を着て、点滴を押し歩く少し顔色の悪い男だった。
「こちらの不注意よ。悪かったわ」
「わはは、礼儀正しい子やな」
からからと笑う男は、すぐに地面にあるパンフレットに気がついたようで、ひょいとしゃがむと向きを変えながら手渡してきた。その時に表紙が見えたのだろう。男は何気ない調子で尋ねた。
「走りたいんか」
「走るのよ」
答えになっていないような、答え。それで男は納得したのか納得していないのか、分からないが一つ頷くと点滴を押して廊下を歩いていった。
──以前であれば、それこそトレセン学園を目指していると相手が知った場合、『頑張ってね』などと言われたものだ。
もう、その言葉はすっかり聞かなくなってしまった。
◆
小学生女児が電車と衝突
25日午後4時ごろ、〇〇線××駅にて停車するためホームに進入して来た電車とウマ娘の女児が衝突する事故が発生した。女児は一命を取り留めたものの重体。約30分の後、運転は通常通り再開された。鉄道関係者からの聞き取りによると、女児は線路内に落ちかけていたベビーカーを引き上げようとした際、線路内に落下した模様。ベビーカーに乗る乳児は無事救出され怪我は無かった。同駅は以前からホームの傾斜が問題視されており、今回の事件を受けて複数の市民団体からホームドアの設置を求める声が上がった。
◆
「ふーん」
入院設備を備えた大きな病院には大抵コンビニが建物内に併設されている。その、コンビニの横に設置されたカフェテリアのような場所で女が呟いた。まだ年若いスーツ姿の女だ。
手にはくしゃくしゃになった、ずっと前の新聞。
彼女は上司がぎっくり腰を発生させたため、付き添い兼、送迎要員で病院に来た。その上司の診察が終わるまで暇だったため、病院の外にある出店のタコスを買い、食べ終わったあとその包み紙として使われていた新聞の一枚を眺めていたのだ。
「おー、いてて……腰が……」
すると奥から中年の男が腰をさすりながらこちらにやって来る。顔には歳以上に疲れた皺が刻まれていた。
「タジマさぁん、もう若くないんだから気をつけてくださいよ」
「あいあい」
そう女が言えば男は少しうるさそうにしながら同じテーブルの席に腰掛けた。腰の辺りにはなにか巻かれている。おそらくコルセットか何かだろう。
「そういえば」
携帯をいじり出した男に向かって、女がなんとなしに切り出す。
「タジマさんが前によくいってた注目のウマ娘の子居るじゃないですか。あの子、どうなったんですか? 最近聞かないですけど」
それはふと女の頭に思い浮かんだ疑問だった。なぜいまその疑問が浮上したかと言えば、間違いなく新聞の記事を読んでいたからだろう。
「え? あ、あー……」
話を振られた男は携帯から手を離すと視線を彷徨わせる。席から見えるコンビニでは何人か買い物をする入院患者やその家族が見えた。
『えっ、これ先月の刊なん!? ……ほんまや』
ちらりと、近くのコンビニのレジで、声を上げる病衣の男を眺めながらタジマは頭をかく。眉は困ったかのように寄っていた。
「うーん、あの子、かぁ……」
「なんですか、前まで“すごいウマ娘の子がいるぞ! “ “しかもこの近くだっ! “って騒いでたじゃないですか」
「…………」
男は答えない。答えを知らないのではなく、どう表現したものか迷った顔つきをしていた。
「なんですか、そんなに悩んで。あ、もしかして海外に行っちゃったとか?」
「いや、日本にはいるんだ。居るんだが、うーん……」
言葉が喉で止まっているような、言っていいのか迷っているような、そんな煮え切らない態度の男に若い女が訝しげな目付きになる。
すると男は女の持っているくしゃくしゃの新聞に目を止めると、数秒間黙って見つめた。
「その子」
そうして男は指差した。新聞の記事を。
「えっ?」
「ケガで、ね。左手無くしちゃったんだ。フツウ片手一本で走るなんて、バランスが取りづらい上に下半身の力まで減衰しちゃうんだ。ましてやウマ娘の速度では、ね」
ペラペラと、まるで暗記したかのように淀みなくしゃべる男に女は思わず口を閉じた。そうして混乱するように手元の新聞と男の顔を視線が行き来する。
「いや、でも……」
本当にそれだけが理由なのか、といった困惑が声に乗る。
なぜなら、そのウマ娘の話をする時の男はとても楽しそうだったから。それだけに、期待していた子をそんなに簡単に諦めてしまうのかと疑問だった。
「いままで片手でトゥインクルシリーズを走ってる子見たことあるか?」
「いえ……」
「ローカルシリーズは?」
「…………ないです」
それに対しての男の答えはそれだった。
それだけで不思議と納得してしまった。
「ま、それが答えっちゅーことだ。気の毒だがあの子の競技生活はアレで終わりだ。あんなに走ることを頑張ってた子なんだ。他の道もすぐ見つかるだろ。うん」
男はそう言い切ると、重たそうに腰を上げた。そしてそのまま病院の出口に向かって歩いて行ってしまう。女は慌ててそれを追いかけた。
「ほーん」
その姿を、顔色の悪い病衣の男が見つめていた。
◆
「ふっ、ふっ、ふっ……」
初夏の季節。
だんだんとむせ返るような暑さが増えてきた日に、シロツメホマレは病院の中庭を走っていた。
否、走っていたと形容するには未熟な何かを続けていた。
人が走るランニング以下の速度で、何度も横にヨレて足を止める。そしてその都度修正をして『ランニングもどき』を続けていた。そこそこの広さの中庭はぐるぐると回りながらやる事に不足は無いようだった。
「はっ、はっ、はっ……」
今日は生憎の曇り空のためなのか、他に人は居ない。
暗い雲が湿気た空気を地上に下ろしていた。
「ふぅ、はぁっ……」
右に、左に。注意深く足を交互に出している。それでも真っ直ぐには走れない。それに加えて、神経をそこに集中させる必要があった為か腕の振りはぎこちなかった。
「はっ、……あっ」
ちょうど曲がろうとした時、それは起こった。集中が切れたのか、はたまた疲労が溜まったのか。ずるりと草の上を足が滑り、そのまま崩れるように倒れる。
「…………」
何とか鼻からいくことは避けたが、口の中には幾分土が入り込んだ。
シロツメホマレはうつ伏せに倒れたまま顔を上げない。
頬に触れたクローバーからは、むわりと咽せるような草の匂いがした。
「よお、嬢ちゃん」
頭上から、声がする。シロツメホマレは眼球だけを動かしてその人物を見た。声の主は、いつかの待合室でぶつかったあの男だった。
その男は、ちょうど目の前の建物と建物を繋ぐ通路に設置されたガゼボで座ってこちらを見ている。
「これ、嬢ちゃんのやろ。こっちまで滑ってきたわ」
男が手に持つのは若草色の手帳。シロツメホマレのポケットに入っていたものだった。
「そうよ」
シロツメホマレはうつ伏せのまま、ぴくりとも動かずに肯定する。その様子に男は苦笑いをし、手帳を渡そうと椅子から点滴の棒を支えに立ち上がる。その時に手帳についた土を払おうとしたのだろう。偶然ページが捲れた。
「おっ、と。すまんなぁ……っ」
その偶然開かれたページを見た男は目を見開いた。
そこにはぎっしりと、どうすればバランスが取れるか、どうやったら再び走れるようになるか、のメモが書き殴られていた。それは正に、目の前の少女の試行錯誤の歴史であった。
「ええやん」
男が笑う。顔色の悪い中に、それでも獰猛な笑みを浮かべた。
「何で走っとるん? 嬢ちゃん」
男が尋ねる。
開かれた手帳は男の手によって丁寧に閉じられた。
「次の検査まで、1時間以上あるのよ」
シロツメホマレはそんな男の顔を見ながら答えた。
男は絶妙な顔をする。シロツメホマレはすこし首を傾げた。
「いや、あー、うん。ここで走っとる理由じゃなくて、そもそもの走る理由を聞いとんねん」
ひゅう、と風が吹く。
さわさわと、植え込みが揺れる音がした。
「先生や、親、友達、知り合い、みーんなに止められとったやろ、たぶん」
男はガゼボを抜け出して、こちらまで歩いてくる。
点滴のスタンドが音を立てた。
「トレセン学園に電話したか? ん? したんやな。あまり良い返事もらえんかったろ」
揶揄うように、面白がるように。
しかし、どこか怒りを孕んだ声で。男は聞いてくる。
「そらそうや! 隻腕でも走れる、競える速度で走れるウマ娘なんて、今までで1人もおらん」
男はまるで劇の役者のように両手を広げた。声には力が籠っていた。
シロツメホマレは眉ひとつ動かさず男を見た。
「だから別の道を潔く進んだ方が賢明や」
男が腕を畳む。そうしてジロリとシロツメホマレの目を見つめる。
誰もいない中庭では、やけに声が響いていた。
「それなのに、なんで嬢ちゃんは走っとるんや」
男が屈む。
すっ、と手帳が差し出される。
シロツメホマレは受け取らなかった。
男は黙ったままだ。それは、さながら返事を待つように。
「約束が、あるのよ」
やがて、ぽつりと切り出す。
それに応じて、彼女は目線を下げた。淡い小麦色の髪がサラサラと首筋を伝う。
「それを守りたいだけ」
その浅緑の瞳は、すぐ下のクローバーを見ている。
男はやはり何も言わず、黙っていた。
「それだけなのよ」
呟くように、言葉を重ねる。
「深い理由はないわ」
シロツメホマレは言い切ると、差し出された手帳をうつ伏せのまま右手で受け取った。
「ははっ」
乾いた、それでいて熱をはらんだ声が聞こえる。
その発生源は、頭上の男だった。
「はははははっ!」
男は腹を抱えて笑う。愉快そうに、痛快そうに。
そうしてひとしきり笑いの波が収まると、無造作にポケットに手を入れた。
男は、そこから引き抜いた小さなバッジを草の上に、ころん、と転がした。彼女にとって、見覚えのある形だった。
シロツメホマレは首を上げる。男は嬉しそうに、それはそれは楽しそうに笑っていた。
「改めまして、こんにちは。お嬢ちゃん。俺の名前は
──中央のトレーナーや」
男の姿は逆光になって見えた。
いつの間にか暗雲はどこかへ行ったらしい。
空からは眩しいくらいの陽光が辺りを照らしている。
「俺がキミを
降り注ぐ光を浴びて、露に濡れた草は、やけに輝いて見えた。