G1の舞台にどれだけのウマ娘が、トレーナーが焦がれただろう。
彼女には分からない。憧れたことがないから。
そんな彼女が走る理由はただ一つ。
それは──
4月、中旬。
時刻は15時。天候は晴れ。
皐月賞、当日。
間もなく出走時間。
◆
控室の椅子に座るのも何度目だろうか。
同年代のウマ娘と比べたら、自身は体づくりの休養を挟んでいるからそんなに多くはないな、と思った。
シロツメホマレは何とはなしに顎を天井に向けて上げる。光る蛍光灯が見える。クリーム色の壁紙が目に優しい。
「ホマレちゃん、蹄鉄確認するよ」
「おねがい」
ガチャリと扉を開けて入ってきたのは、そこそこ上背のある彼女のトレーナー。
相変わらずレースの時はきっちりしたスーツで身を固めている。
「ダービーの優先出走権は、五着までよね」
椅子に座りながら、アンクルブーツを上げてシロツメホマレが言う。
愛川はそこにしゃがみ込んで、コンコンと靴の裏に着いた蹄鉄を叩きながら頷いた。
「そうだね」
シロツメホマレは真剣そうな表情で点検をする愛川から視線を外して空中をぼんやりと見つめた。
ふぅ、と息を吐く。
じゃあ、別に勝たなくてもいいんだな、と。
◆
ターフに続く道である地下バ道。シロツメホマレがそこを歩いていると、見覚えのある背中が隅の方で佇んでいるのを見つけた。
歩く彼女のブーツ裏にある蹄鉄の音で気がついたのか、その背中は振り返る。
「ん? おっ、キミは……!」
そこにいたのは、かつて寒椿賞で戦ったスーパーヒュレー。
意外なことに、彼女の勝負服は科学者のように白衣に飾りのついたインナーといった出立ちだった。
(まあ、策略家だものね)
ちょっとの逡巡の末、シロツメホマレは納得する。
スーパーヒュレーは以前と同じように勝気な表情を浮かべ、出口であるターフを見つめていた。その目線は今はシロツメホマレに合わせられている。
「どうしたの? まだ入れないの?」
もう返しウマの時間だった筈だとシロツメホマレは尋ねる。
スーパーヒュレーは一瞬表情を消して体をピクリと動かすと、すぐに元の強気な表情に戻った。
「いや……ちょっと躊躇ってただけさ!」
午後の傾いた日差しが、くらい地下バ道まで差してきている。
足元だけを中程まで照らしている。
スーパーヒュレーはその光の一歩手前で立っていた。
「怖いの?」
「ああ、怖いさ」
あっさりと彼女は認める。
シロツメホマレはちょっと目を見張った。
「もし、負けたらどうしよう。もし、期待に応えられなかったらどうしよう。そんなことばっかり考えてしまう」
そう言う彼女の目に揺らぎはない。
だが、胸の前で組まれた両手は小刻みに揺れていた。
「特にキミは強いからな!」
「あなたには負けてるわ」
反射のようにシロツメホマレは返す。
それに、ここで負けようとダービーで勝てればそれで良いのだから。
だが、そのダービーも、今回も。いつもはある応援の声が一つ少なくなった事は小骨のように喉に突き刺さって消えない。
「あの時とは違うさ。キミも、俺も」
そうか、とシロツメホマレは頷いた。
誰も彼もレースの為に頑張っているのだろう。シロツメホマレだってやってきた。
日本ダービーという、最も格式高いレースを勝つ為に。
目指しているのはダービーのトロフィーだけだった。
だけど、最近はあまりそれを人に言えない。
ダービーを勝ちたい、それだけならばいくらでも口外出来る。
ダービーを目指すウマ娘ということで普通の枠の中に収まり、人にも言える話になる。
でも違う。
シロツメホマレが日本ダービーを目指しているのは、それが憧れだからではない。日本ダービーに勝ちたいからではない。
“約束”だから。
もう履行出来ない、一方的で崩れかけの“約束”だから。
それを果たすためにずっとレースに出てきている。
近頃は、ほかのウマ娘や人が眩しく思えてきた。
きっとみんな、勝つためにこのレースに出ている。
レースに勝って何かシロツメホマレには想像もできないような素晴らしいモノを得ようとしている。
対して自分は何だ。
灰になった人にダービーのトロフィーを持たせてあげる、という最早叶わない、何処までも自分本位な願いに縋っているだけの矮小。
後ろ向きで暗い。得るものなど自分の満足しかない。生産性のない。
「それじゃあお互い、頑張ろう!」
「ええ」
爽やかに告げるスーパーヒュレーに、シロツメホマレは目を伏せながら答えた。
ダービーだ。
ダービーさえ勝てば全部終わる。
「ああ、それと──」
手を振ってターフに行こうとしたスーパーヒュレーは付け加えるように首を回す。
そしてシロツメホマレの胴に指を向けるとウィンクをして言った。
「ソレ。いい、勝負服だな」
「────あなたもね」
そして彼女はシロツメホマレの返答に振り向かず、高笑いをしながらターフに抜けていった。光の道へ躊躇いもなく一歩一歩。
シロツメホマレはいまだ影の中にいる。
光に消えたウマ娘を見ている。
10秒もしない内に、ターフにスーパーヒュレーが姿を現したことに対する歓声がワッ、と上がった。
◆
ゲートに収まる。
金属の匂いが鼻の奥まで通り抜けるようだ。
シロツメホマレは顔にかかった髪の毛をさっと払って、時間を待った。いつもと違う、服の擦れる音が気になる。
──勝負服か。
そこで、先ほど目があったゴールドシチーを思い出す。彼女も皐月賞を走る。つまりは勝負服を着用していた。
青白のチューブトップにデニムのパンツ。その上から黒いジャケットを羽織って、パリッとした印象と艶やかさが同居する勝負服だった。
だが、彼女はシロツメホマレをちらりと見て、『負けないから』とだけ言ってそれ以降は声をかけて来たりはしなかった。
ゲートインは、後ろのウマ娘がつかえているようでもう少しかかりそうだ。シロツメホマレは空を見上げた。晴れた、春の空だ。
(──不純)
みんな負けたくないと思ってる。
走る理由がちゃんと
それに比べ、この手にあるのはなんと卑しい理由に思えるのだろう。
お父さんとの約束を卑しい物と思うな。いいや、約束じゃなくて、それに縋る性根が卑しいのだ。
なんと人に誇れない動機だろう。そんな風に思ったって、ソレしかないのだからそれまでだ。
──人の目なんか気にしたことがなかったクセに。
そうだ。
いつからだ?
人の目を気にし出したのは。
『コースの芝の状態は良。すこしスウィフトアクセルがゲート入りを渋っています。彼女にしては珍しいです。道中焦らずに進められるか』
『やはり大きなレースですからね、緊張も段違いでしょう。それでも冷静さが売りの子ですから。持ち直してくれると信じています』
初めはそんなことを考えなかった筈だ。
もっと純粋に、一心に“約束”だけを見据えてやってきた。
濁ったか? シロツメホマレは考える。
──あの時とは違うさ。キミも、俺も。
スゥ、と息を吸う。
まずは掲示板を確保だ。
『残る二人がゲートに収まれば、クラシック第一戦目、三冠に続く最初の道、皐月賞がスタートします! 新たな王者の誕生か、今か今かと時を待っています!』
体が重たい。
自分の体と意識が、変に遊離したように感じられる。
音が遠くなる。
『──!!』
『──っ──!』
皐月賞はスタンド前から発走する。
だから、見に来た客の声が聞こえる。
『頑張れ──っ!』
『シチー! シチー!』
『魅せてくれスーパーヒュレー!』
『おらーッ! シロツメホマレー! 気張れよ──ッ!!』
ハッとして、ゲートの中からスタンドを見遣る。
最前列では無精髭を生やした中年の男が、大きく腕を上げて叫んでいた。
身なりをきっちり整えた人とは見比べるまでも無い、服はヨレヨレで皺だらけ。
街中にいたら顔を顰められるような人物だ。
そんな人が必死になって声を出している。
男が何を思ってやっているのかは知らない。もしかしたら、彼女に何か賭けているのかも知れない。そうであるなら顰蹙ものだ。ただ、その目は。その黒い目の奥は。どこまでも真剣にゲートの中の少女を見ていた。
『頼むぞ──ッ!!』
男は必死だ。
何をそこまで他人に期待するのか。
『勝ってくれよォ──ッ』
ぱっ、と体の感覚が戻ってくる。
視界がクリアになる。音の粒が耳に入ってくる。
──そうだ。
走るんだった。
◆
『スタートしました、二十人揃って綺麗なスタート。内からはポルカステップ、スーパーヒュレーはやや後方からです』
ゲートが開く。視界が開ける。
流石はクラシック。歓声で視界が揺れるようだ。
ブロンドの少女はリズムよく呼吸をするよう努めた。
『ゴールドシチーはやや後方、シロツメホマレやスーパーヒュレーを警戒しての位置取りか。先頭はジュエルアズライト 、二番手スウィフトアクセル!』
そして、それもすぐ気にならなくなる。
自分の呼吸の音と、足を伝う感触だけが世界になる。
ゴールドシチーは一歩踏み出した。景色が加速する。
『最初のコーナーを回りまして、各ウマ娘順調に進めていきます。皐月の栄光まであと1800!』
勝つ。勝って、それで自分を証明する!
前との差を詰めて、3コーナーを超えたら先頭へ!
◆
バックストレッチを過ぎ、残り1000メートルを切ったころ。
シロツメホマレは最後方を追走していた。
先頭までは一体何バ身あるのかすら定かではない。
格上と戦ったファン感謝祭を除けば、公式のレースで今までにない差のつき方だ。
それほど、前が遠い。
位置どりはいつもと同じ。
走りもいつもと同じ。
それなのにこれだけ差がついているのは、彼女が遅くなったのでは無く、このレースを走るウマ娘のレベルが高いから。
GⅠの重みがあるから。
相対的に差が開いていた。
「ヒュッ……フッ……」
息が上がる。
片手だけの、踏み込みが足りない体では脚の力で加速が利かない。
(まあ、いいか)
五着になんとか入れれば良いのだから。
勝てなくても別に良いのだから。
それこそ、負けたってダービーに出られないという訳でもない。
だから、そこまで無理をする必要はないのだ。
大事なのは万全な状態でダービーに駒を進めること。
だから、勝てなくても……
(──本当に?)
勝てなくても?
誰かの後ろでゴールしても?
それで、喜んでくれる?
──なぁ、ホマレ。
かつてのシロツメホマレは将来を嘱望されていたウマ娘だった。
彼女の、逃げで周りを寄せ付けない走りをみんなが褒め称えた。笑顔で語った。いつかは重賞にも手が届くのでは、と。
『中団の前目にゴールドシチー、その1バ身後ろにスーパーヒュレーが着きます。前が詰まって抜け出せないか!? そのすぐ後ろジップライナー、シロツメホマレは最後方です』
──そして、その全てを事故で喪った。
左腕を無くしたバランスの崩れた身体は、真っ直ぐに進むことすら出来ず、ヨタヨタと走り。
不安定に揺れる体ではコーナーをまともに曲がり切れず、転倒するばかり。どれだけ走っても、走っても、元のようには走れず切り傷や擦り傷ばかり増えていった。
惨めだ。
シロツメホマレは“可哀想”なウマ娘になった。
走る力を無くしてしまった。
みんなが諦めた。そして慰めた。別の道を薦めた。
それなのに今、シロツメホマレは走っている。
あろうことか中央で、GⅠのレースに勝負服を纏って。
『六百標識を通過して、先頭スウィフトアクセルに変わった! しかしジュエルアズライト食らいつく! ああ、場内にどっと歓声が上がった、ゴールドシチーがぐんぐんと上がって行きます!』
一体誰が想像しただろう。
走りを無くした少女が、全てをまた一から作り直して、再び他のウマ娘と競えるようになるなどと。
一体誰が信じられるだろう。
無くした片手を、ハンデはハンデと割り切って、それを推進力にする走り方を身につけて戦ったなど。
──俺はお前に感謝しとるんやで
──理由は教えてやらへんけどな
シロツメホマレは覚えている。
その未来を想像した男を。彼女の走りを信じた人を。病に冒された身体をものともせず力強く背中を叩いてくれた嘗ての
──まぁ、でも
シロツメホマレは覚えている。
彼女に、もう一度走りをくれたひとを。
意固地になった『約束』を果たす力を育ててくれたひとを。
──まだまだ、終わっちゃいないんやろ?
「おわって……ない……っ!」
そして、シロツメホマレは知らない。
この、苦しさが苦しさではない状態を。
酸素が切れて動かない脚を振り上げる不思議な力を。
はるか彼方から、胸を衝き動かす感情を。
前までは10バ身以上。
まもなく最終コーナー。
前に抜けるための隙間が一瞬生まれる。
ダメだ、届かない。
ここからスパートをしたなら体力が持たない。
だが、この好機は1秒後には消えてしまう淡いもの。
無理だ。誰もがそう思った。
◆
『もう、脚は意識するな。腕や。 ──その残った腕を使う』
『腕を?』
『せや。ええか、ホマレ』
◆
「────スゥ」
息を吸う。
腕を振り上げる。
イメージするのは、大きな振り子。
限界まで腕を引き上げ、上げ、上げて……
──『振り下ろせ!!』
◆
『シロツメホマレは苦しい、この位置からはスパートもかけられないか!? ゴールドシチー追い上げる、先頭まではあと一バ身! スーパーヒュレーはバ群の中でもがいている』
ヴォン、という異質な風切り音。
コーナリングに意識を向けていたウマ娘は耳を疑った。
この特徴的なスパートの音は、シロツメホマレが勢いよく腕を振るが故に生まれる音響。
それは、分かってる。
データとして知ってはいる。
だが、それにしたって
それは、最終コーナーの途中から加速を始めるという愚行。
シロツメホマレが
『ここでシロツメホマレがスパート! 内をついてバ群を抜け出していくッ!』
──シロツメホマレ、ゴール前400メートル決死のロングスパート!
差し切れれば見事一着。
体力が尽きて垂れれば最下位にも沈みかねない大博打。
それを彼女は打った。
有らん限りの力で、酸素を推進力に変換し続ける。
前に出続ける。
『しかし最後に待ち構えるのは中山の急坂! 体力は持つのか!?』
『逃げろ逃げろ逃げろー!』
『いけー! いけいけ差し切れ──ッ!』
声だけが。
声だけが感覚として残っている。
霞む視界に、道標になっている。
『抜けた、抜けた! シロツメホマレ先頭だ! シロツメホマレが先頭だ! ゴールドシチー追い上げてくるが、シロツメホマレ先頭! そしてそのままゴールイン!』
火花が散った。
前が霞んだ。
ゴールはいつのまにか過ぎていた。
『片手の少女がやりました! 荒地にシロツメクサの道を拓きました! 歴史に残る一勝! シロツメホマレが三冠の一つ目に手を伸ばした!』
喝采に次ぐ喝采。
声が大気をビリビリと叩いている。
「ハアッ、ハアッ……ふっー、……ぅぐッ……」
膝が笑っている。
汗が目に入る。
側からみたシロツメホマレは、明らかに疲労困憊。
精魂尽き果てた姿だった。
そこに、視界を歪ませながら愛川は走っていく。
シロツメホマレはその様子に気がつくと、ぐっと拳を握り前へと突き出した。
ワッ、と場内が湧く。
彼女は立っているのも辛そうで、しかし何処となく満足げだった。
『いよっしゃー!!』
『よくやった!!』
『スゲェぞーッ!』
歓声が、祝福の声が飛ぶ。
最後の最後で差し切った少女を讃える。
それを聞いて愛川は思う。
冴木三春の信じた走りは、GⅠに手が届いたのだ、と。
『おめでと──っ!!』
ああ、ほんとうに。
震える口は勝手に言葉を紡ぐ。
誰に宛てたものかも知らないで、心からその言葉を──
「おめで、とう……」
──おめでとう。
確かに彼女は、走ったよ。