細かい所作を覚えている。
指にタコがあった事。ドアの開け閉めは意外と丁寧だった事。
呼んでくれた声を覚えている。
なんどもなんども、名前を呼んでくれた。
全ての記憶は、反芻するたびに今が辛くなって。
それで、いつしか思い出さなくなっていった。
◆
ダービー前に食べたプリンは美味しかった。
ダービーの前の日にやってたテレビは知らない人ばっかり出ていた。
「ふん、ふふん」
さっと勝負服に袖を通す。
揃えて置いた靴を履く。
「緊張してる?」
トレーナーが聞く。
勝負服が変なふうになっていないか、真剣に点検しながら。
「いいえ」
緊張はしない。
やっと終わるから。
だから、そう。興奮の方が近いかもしれない。
長いながい、シロツメホマレの旅がようやく終わるのだから。
控室の時計を見る。無骨な時計だ。
あと1時間で出走。コンコンとつま先で靴を調整して、グルグルと部屋を歩き回る。
「ふふふん、ふん、ふん」
鼻歌が漏れる。
体に溜まった熱が手にも移動する。
やっとだ。
やっと、ダービーだ。
──やっと、終われる。
◆
「こんにちはー、点滴の様子を見に来ましたよー」
シャッとカーテンを開ければ、若い男の人がベッドに座りテレビを見ている所だった。
本来この部屋は大部屋だが、偶然が重なり2日ほど男以外は誰も居ない。だから彼はイヤホンを使わず、スピーカーでテレビを見ていた。それほど大きくない音声が部屋を漂う。
「ああ、看護師さん。あれ、いつもの人じゃないんだね」
そうですね、と頷く。
確かに今日だけは特別に彼女が担当になった。
本来であれば別の担当だったのだが。
「いつもの人って言うのは、石川さんですねー。彼は所用で。夕方にはまたいつものように戻りますよー」
そう言えば、患者は納得したように頷いた。
そうしてまたテレビに視線を戻す。
彼女は点滴の調節をして、時間を測って。それで終わり。
慣れた今では慌てることもない仕事だ。
『さあ、出走する各ウマ娘の紹介です』
ナースカートに置かれたパソコンに入力をしていて、ふとテレビの画面が気になって見つめる。
画面に映っていたのは、今まさに始まろうとする今年のダービーの中継だった。
「ん? やっぱり気になる? ダービーだもんね」
「いえー……」
彼女はレースにそこまで熱心では無い。
日頃たいして気にする事はなく、気にしたとしてもコンビニやテレビのニュースで結果が報じられる時だけ。それを見て、大きなレースがあったんだ、と知るくらいだ。
──だが、ダービーだけは。
ダービーだけは、その単語が出るだけで追ってしまう。
そうなったきっかけは何年も前のこと。
まだ新人の域を出ないうちに出会った出来事。
それは、看護師をしていれば何度も出会う何の変哲もないものだ。しかし、妙に彼女の脳裏に残った、心残りのようなものだった。
『──2番アップツリー……』
彼女は、テレビから流れる実況の声にすこし昔を思い出していた。
◆
あれは5月の終わり、6月の初めの頃だった筈だ。
気温も26.8℃を記録したとかで、そろそろ夏の足音が聞こえて来るかな、という時期。
窓の外に茂る葉は、ますます青さを増していって生命力の強さを感じさせる。
それでも病室内は涼やかに保たれていた。
「はい、点滴交換の時間ですよー」
カーテンを開けて中に入れば、中年の男性がベッドに横たわり虚ろな目で天井を見つめている。
床頭台に設置されたテレビは付けっぱなしで、午後3時の料理番組を延々と流していた。
点滴を取り替えている間も特に反応はない。
キュッ、キュッとだんだん手際がよくなってきた動作でローラークレンメを調節し、交換した抗生物質に時間を書いていく。
「はい、終わりです。テレビ、見てますか? 消しちゃいましょうか?」
テレビカードも無限ではない。無駄に付けっぱなしでは消費も激しいだろう。
だからそんな提案をすると、男性は緩く首を横に振った。
「あー、……ウチの子は、来て、ますか? あの子、忙しいだろうな」
「いえ。来てないですね。この時間だと、まだ小学校じゃないですか?」
「それも……そうですね。ホマレはいつ、走るかな……」
誰に向けられたでも無い言葉を、うわ言のように呟く男性。
男性には一人娘がおり、頻繁に見舞いに来るので看護師や医師の間でもそこそこ有名だ。
娘さんは、ちょっと鋭い気配を纏った、それでも可愛さの抜けないウマ娘だったと記憶している。
「あ」
男性が呟く。やけに鮮明な声だった。
それに思わず、カートに付いたパソコンから顔を上げて男性の方を見やる。
彼は付けっぱなしのテレビ画面を見ていた。
「ダービーだ」
ダービー、誰でも知ってるような大きなレースだ。
彼女は改めてテレビ画面を見てみるが、放送されているのはただの料理番組だ。レースではない。
『本日ご紹介するのは、こちら! 簡単、完璧! 電子レンジを使ったハンバーグの──』
「ダービーですか?」
思わず尋ねるが、男性はそれを意に介さず、乾いた目で首を動かして画面を追っていた。
「見える……勝負服を着たウチの子が。……とっても綺麗でしょう。ほら……」
看護師は慌てて男性の脈を測る。
平常だ。心電図に異常もない。
それでも、男性の担当医に急いで連絡を入れ、来るのを待った。
「ホマレが、ダービーを走ってる……」
彼の一人娘はまだ小学生で、トウィンクルシリーズを走っているわけがない。
だからこれは意識の混濁だ。
確かに、彼の娘さんは何度か、子供のレースを勝ったりしているからもしかしたら可能性はあるが、まだ小学生だ。それにトウィンクルシリーズは才能ある子がひしめき合う魔境と聞いた事がある。
だから、可能性はあるが、『なれたらいいね』の代名詞だ。
特にダービーというのは。
「ほら……走ってますよ。勝負服も似合ってて、綺麗でしょう……」
ありもしない映像を見ている男性を、早く医師が来てくれないかと思いながら宥めようとする。
「あの、今日はダービーでは──」
そこで、看護学校に習った事と、目の前の人物が娘の晴れ舞台を見る事が出来ないだろうという冷静な判断が、その言葉を止めた。
そして出来る限り優しく、少なくともそう聞こえますようにと声を出した。
「……はい、とっても綺麗ですね」
◆
そして現在。
あれから7年かそこらだろうか。
毎年ダービーは気にするようになってしまった。
テレビでは出走する、世代の頂点達をパドックで紹介していく。
流石はダービー。一人ひとり、新しいウマ娘が登場するたびにすごい歓声だ。
3番の子の紹介が終わり、次の子の番になる。
奥から出てきたのは──ああ。
『──4番、シロツメホマレ』
『普段よりも調子が良さそうですね。これは期待大です』
テレビの向こうで、勝負服を身に纏い、多くの声を受ける少女は。
片腕で、懐かしい髪色のウマ娘。
──勝負服も似合ってて、綺麗でしょう?
今ならその言葉の答えが、心から言える気がする。
本当に、お世辞も何も抜きにして、思ったのだ。
誇らしげな勝負服を着て、舞台に立つ彼女は──
「綺麗、でしたよ」
ぽつりと呟かれた7年越しの答えに、患者の男性はすこし不思議そうな顔をした。
◆
日本ダービー。
それは副称であり、正式には『東京優駿』と言った。
その成り立ちや由来は語るほどに多くあるが、ここではその一切を省く。
必要な情報は、そのレースが『祭典』と呼ばれること。
GⅠの格付けであること。そのレースを勝つことは最高の栄誉とされていること。
東京レース場、芝2400メートルであること。
そして、彼女がずっと目標にしてきたレースである、という事。
何年も、走り続けてきた“約束”の終着点であるという事だけだ。
◆
気がついたら、ゲートの中だった。
鉄の匂いがする。
脚に力が籠る。それ以外は何も感じない。
パッとゲートが開いた。
『スタートしました、ややばらついたスタート』
『おお、インディゴシュシュが先頭に行きます』
『シロツメホマレは中団のやや後方です』
脚が、脚が軽い。
これで、これで走り切ったら。
終わるんだ。
走り切れば、レースを走っていたシロツメホマレはようやく終わる。
バックストレッチを過ぎる。
最終コーナーを回る。
スパートをかける。
差が消えていく。差が縮まっていく。
そして──
そして────
◆
愛川は最前列からシロツメホマレのレースを見ていた。
いつもそうしているように、手をきつく握りながら。午後の日差しに少し汗ばむ気温になる。
レース開始前のざわめきが客席に広がっている。
どの人も、ゲートが開く瞬間を今か今かと注視していた。
その中で愛川は確信している事があった。
このレースが終われば、きっとシロツメホマレは元のようにはならないだろう、と。
彼女が、事故を負った状態からこんな大舞台で走れるようになるまでに必要な努力と執念は並大抵のものでは無い。それこそ異常と言ってしまえるほどの精神力で、厳しいトレーニングをこなして、後方から追い込みという精神的にも負荷の大きい走りを続けている。続けられている。
では、その根源は何か。走りを支えている物は何か。
それこそが、彼女の走る理由。
“父親にダービーのトロフィーを持たせてあげる”という約束であった。
その一心で彼女は走っている。当人はそれを信じて疑っていない。
だからこそ。ダービーの勝敗に関わらず、その大き過ぎる支柱が無くなった時、彼女は崩れてしまうだろうと確信していた。
何度も支柱を増やそうと試みた。
ある時はファンとの交流を設け、ある時はファンレターを読ませ。
だが、シロツメホマレの約束への固執は並大抵のものでは無かった。
確実に、彼女は一歩一歩、自身のアイデンティティの崩壊に向かって歩いている。
それは最早、誰に止められるものでもなく、ただの現象と言って差し支えないもの。
最後には何も無い奈落に向かって落ちていく。
それが今日、このレース。
『風僅かに吹く中、あと数分でゲートが開かれます。日本ダービー、全てのウマ娘にとっての、一生に一度の舞台へ、刻一刻と針は進みます。ここに集いし24人はまさに世代のトップ。今日、その中の頂点が決まります』
だから愛川は。
愛川ナツノはシロツメホマレを送り出した。
確実に非難されるだろう。トレーナーとしてあるまじき行為だろう。
だが、彼女は
肩書き云々ではなく、そうありたいと思ったその日からトレーナーなのだ。
「頑張れ、ホマレちゃん……」
溢れた呟きは雑踏の中に消えていった。
◆
『さあ600の標識を通過、第四コーナーのカーブに差し掛かります! 先頭はインディゴシュシュ、ゴールドシチーはやや前方、スーパーヒュレーはニバ身ほど離れて追走する、シロツメホマレは未だ最後方です』
ここだ。
ここからが勝負だ。
最後のコーナーを走りながら、後方に居たウマ娘は息を吸いながら考えた。
ここで栄光と、その他の道が決まる。だから絶対に負けられない。
『シロツメホマレが若干上がって来る、スパートをかけ始めるか、ゴールドシチーも前目に位置をとる』
背後には後方一気を得意とするウマ娘──シロツメホマレがいる。
抜かさせるものか。
「ふっ、ふっ……!」
少女の気配を背後に感じる。
その前、つまり自身から見た横にはもう一人のウマ娘が居て、速さが拮抗し並んで走っている。
簡単に言えば、シロツメホマレの前には二人の壁が出来上がっていた。
二人の間に隙間は無く、シロツメホマレが間を抜けることは叶わない。二人を躱そうとして外を大きく回れば、体力を大幅に消費してスパートが持たない。
そうは言っても、このまま後ろを走ればいつまで経っても彼女は前に上がれない。
(どうする! シロツメホマレ!)
後ろを気にする少女は、スパートのタイミングを測っていた。
シロツメホマレは加速こそ他の追随を許さないが、持続力が無い。だから彼女をギリギリまで留めておいて、こちらがゆっくりスパートを掛ければ──勝てる。
『ここでシロツメホマレ抜け出したァ! バ群の間を通ってぐんぐんと上がっていく! スパートにはやや早いが勝負を決めに行こうというのか! 残り500メートル!』
「はっ?」
思わず声が漏れた。
何故ならそこには、存在しない筈の、淡い小麦色の少女が二人の隙間から飛び出してきたから。
「うっ──そ……ッ!?」
なぜ抜けてきた。完璧に蓋をする位置取りだった筈だ。
彼女はバ鹿みたいな加速でターフをすっ飛んで行く。
その、自身の一回りも二回りも位置の低い頭を見送って、気がついた。
芝の状態は一定ではない。
今、前を走るウマ娘や、午前中に行われたレースで凹凸が生じている。
だから、そこを踏むと必然的に体は少しブレて傾く。僅かな──それこそほんの一歩か二歩分の位置取りにズレが生じる。
そこを隙間として突破してきたのだ。
(可笑しいだろ──!?)
だからと言ってそれを実行に移すなど。
小柄な体格だからこそ、人より劣った体格だからこそ、普通では通れない隙間を“道”として走れるのだ。
そして、それだけでは無い。本来であれば1秒あるかどうかの隙間であるから、その隙間は『道』である筈が無い。
だが、シロツメホマレは──
(アイツのスパートは加速をすっ飛ばしてトップスピードに入りやがる!!)
だから、ごく僅かな瞬きするほどの隙間でも抜けることができるのだ。
体重の軽い小柄な体格に、一瞬で最高速に達する加速力。そして淡い小麦色の髪。大人しい見た目のクセして獰猛。
チーターみたいな奴だな、と後方の少女はぼんやり思った。
◆
「ヒュッ、フッ、……!!」
肩が軋む。
酸素が消えていく。
ただ、ゴールへ。
手にしたかったトロフィーへ。
『インディゴシュシュはややキツいか! そこをゴールドシチーが上がって来る! スーパーヒュレーは未だ中団、そのすぐ後ろをシロツメホマレが猛烈なスパートで追い上げる! 300標識通過、シロツメホマレ、ロングキャラバンを交わした!』
終わりへ、灰に捧げる、みっともない自己満足へ!
たとえちっぽけでも、それしかない、ただ一つの目標へ!
もっともっと、腕を振り上げろ。
もっともっと、腕を振り下ろせ。
『シロツメホマレ抜けた! シロツメホマレ抜けた! そして先頭のゴールドシチーを交わし──交わし──いや! ゴールドシチーが粘る、粘っている!』
それなのに。
それなのに、前を走るブロンドの髪に届かない。
背中しか見えない。
「ぁ……ああ……ッ!!」
声が漏れる。
いやだ、負けたくない。
約束を果たさなくては。
『ゴールドシチー先頭! 差はジリジリと溜まっていくが、残り70メートル! シロツメホマレは届くか!?』
なのに──
それなのに──
『ゴールドシチー逃げる逃げる! シロツメホマレが追い上げる! しかし届かないか! 届かないか! 先頭はゴールドシチー! ゴールドシチーが先頭で、ゴールイン!!』
ゴールした瞬間に、歓声が膨れ上がった。
それに、耳が今まで機能してなかったみたいに、今になって気がついた。
肩が上下する。
少し前で、笑顔で拳を握りしめる彼女が見える。
──あの時ああしていれば、こうしていれば。なんて。
無数の選択肢が展開されて、圧倒的な今に押しつぶされていった。
体全体に押しかかる疲労感と、自分には向けられていない数多の賞賛の声に、“約束”は守れなかったのだとひどく冷静に理解した。
サァ、と血の気が引く。
足元があるのかどうか分からなくなる。
「……っぁ」
──シロツメホマレは“強い”ウマ娘である。
ハンデを背負ってもなお、その常識はずれの加速力は、彼女がスパートを掛け始めたのを見て他のウマ娘が速度を上げたのでは到底追いつけない程である。片手の少女は僅か二歩ほどで最高速になるのに対し、通常のウマ娘は1ハロンや2ハロンを使って加速していく。
だから、同時にスパートを掛けたなら、ほかのウマ娘が最高速に達する前にシロツメホマレが先にゴールをしてしまうのだ。
そして、それをゴールドシチーは
言い換えれば、シロツメホマレのスパートの始点より先にスパートをしておいたのだった。
それはシロツメホマレのスパート開始位置を正確に予測出来なければ、そして察知できなければ出来ない芸当。
ただ走るだけでは、後ろから追走してくるウマ娘のスパートの兆候など見て取れるはずもなく。耳で聞こえるはずもない。
それこそ、レースに支障が出るほどに全神経をシロツメホマレに集中させない限りは。
だが──ゴールドシチーがシロツメホマレのことを
初めて走りを見た選抜レース。わざわざ現地まで足を運んだ寒椿賞。そして悔しい悔しい後塵を拝した皐月賞。
意識しない筈がない。
つまるところ──ゴールドシチーの勝因はそれだった。
シロツメホマレが“約束”を見つめていた間、彼女は“シロツメホマレ”を見ていた。
「──ふっ、ぅ」
シロツメホマレの顔が歪む。
「ぁ……く。…………おめでとう」
それを言うのが限界だった。勝者には祝福をしなければ。そんな思いで紡がれた言葉だった。
だが、それが。ひどく薄っぺらい言葉に思えた。
なぜそう感じるかは、そう。何もなくなった今はっきりと理解した。
「空っぽ、だったのね」
何も持たないヤツだから。言葉もまた薄いのだ。
“約束”さえ消えて、いまのシロツメホマレには何も残っちゃいない。
レース後の祝福の空気に自分が異物のように感じられて、逃げるように、人目につかないように、地下バ道の方に脚を向けた。
「──違うッ!」
肩を掴まれたのは、その時。
振り返ってみると、整った顔立ちの少女が、その顔を真剣な表情にしてシロツメホマレを見ていた。
「違う、……違う! 空っぽなんかじゃない! アンタも、アタシも、空っぽのお人形なんかじゃないッ!」
聞こえていたのか、なんて疑問はすぐに消えた。
何故なら、そう言うゴールドシチーは汗だくで。
髪も乱れほつれていて──何よりも綺麗に見えたから。
「少なくともここに一人! アンタに勝ちたくて全霊を懸けたヤツがいる!」
ブロンドの少女は訴えかけるようにシロツメホマレに吠えた。
その激しさがそのまま、彼女の優しさに思えてシロツメホマレはゆっくり目を閉じる。
そしておもむろに、右手をゴールドシチーの背中に回し、胸元に顔を埋めるように抱きしめた。
ドッド、という心臓の音が聞こえてきた。湿っぽい、熱いくらいの体温が伝わってきた。
シロツメホマレの、卑しい存在ごと溶かされてしまいそうだ。
1秒、2秒。
長いように感じられて、一瞬の抱擁の終わりはシロツメホマレの方からだった。そして彼女は固まってしまったブロンドの少女から数歩後退り離れる。
そうして淡い小麦色の少女は、離れた後のゴールドシチーの顔を見る事もできず、何もかも振り切って走り去った。
斯くして、シロツメホマレの“約束”の物語はあっさりと終わりを告げた。
◆
道中、なにか声をかけられた気がするがよく覚えていない。
気がついたら控室に居て、目の前に椅子があって、すごく疲れていたから倒れるようにして座り込んだ。
あんまりにも勢いよくいったものだから、義手をつけていない事を忘れてバランスを崩し、倒れそうになったけど耐えた。
危なかったな、と思った途端、無性にやりきれない気持ちになって、地面に向かって俯いた。
──何をやっているんだろう
「ホマレちゃん、風邪、引いちゃうよ。シャワー浴びてこよう?」
「ええ、うん」
投げやりな言葉しか返せない。
頭がグルグル動いているようで、真っ白だった。
「──強かったね。あと少しだった」
「そうね」
カチカチと時計の音が聞こえる。
剥き出しの体を時間が削っていくような気さえした。
体の何処にも力が入らない。
「ねぇ、ナツノ」
「何? ホマレちゃん」
愛川の声は敗戦の後だと言うのに穏やかだった。
それを聞いてもシロツメホマレは俯いたまま動かない。
「わたし、頑張ったのよ。ホントは早起きするのだって大変だけど、毎朝かかさず走ったわ」
「うん」
「走るのだって、そんなに好きじゃないけど、でも“約束”を守りたかったから。だから、頑張ったのよ」
「うん」
「左手が無くなってばかりのころは、よく転んだし、すり傷は痛かった。でも、……でも、約束のために、それを果たせるなら……って」
「うん」
「なのに……でも……」
そこで言葉が途切れる。
沈黙が部屋を支配して、すぐ自嘲気味の声によって破られた。
「これで、おしまいね。ぜんぶ、無駄だった」
乾いた響きだ。
無味乾燥の、搾りかすしかない声だった。
紛れもなくシロツメホマレの声だった。
「これまでやってきたことも、出来たことも全部ダービーの、この日のためだったのに。なのに、ダメだったなんて。それって……今までの事はぜんぶ──意味がなかった」
そう言ったきりシロツメホマレは動かなくなる。
芝や土で汚れた勝負服のまま、動くことが億劫だとばかりに項垂れて、置物みたいに息を殺して存在していた。
「──ねぇ、ホマレちゃん。どうして走ろうって思ったんだっけ」
唐突に、愛川が質問をシロツメホマレに投げかける。
彼女は地面を見ながら喉を震わせた。
「それは……約束したから。ダービーのトロフィーを持たせてあげるって、約束したから」
何度も話しただろう、何を当たり前の事を、とばかりにシロツメホマレが答える。
「ううん。その前。小さい頃から走ってたんだよね。それじゃあ、一番初めはどうして走ろうって思ったの?」
愛川はゆるゆると首を振った。
「いちばん、はじめ……」
シロツメホマレは繰り返す。
いちばん初めは、いつだったか。
──そういえば、おとうさん。わたし、一着を取ったのよ
──なに!? ほ、ほんとか! すげぇ、すげぇじゃねぇか!
すげぇ、すげぇなあ! 今夜はお祝いだ!
「あ……」
記憶はびっくりするほど簡単に、彼女の脳裏に浮かんできた。
それは随分と懐かしい、最早輪郭がぼやけてきそうなほどの記憶。
温かく、今はもうない過去の記憶。
「ぁ……あぁ……」
ぽろぽろ、と頰に雫が伝わる。
口の端が痙攣したように震える。
「わたしは……」
右手で顔を押さえるが、一度抜けた栓は塞がらず、溢れ続ける。
その様子を愛川は見守るように口を閉ざした。
「わたしは……ッ。大好きなひとに、笑って欲しかったから、喜んでほしかった……からッ」
うぅ、と嗚咽が溢れる。
髪の毛がサラサラと揺れる頭に流れた。
「わたしを愛してくれたひとが、笑っていてほしかったから……」
だから走った、とシロツメホマレは言う。
「ねぇ、ホマレちゃん」
少女は顔を上げた。
濡れそぼった浅緑の瞳がきらきらと反射している。
「本当に、ぜんぶ無駄だった? 本当に、もう何もないの?」
まるで『気がついてないの?』とばかりに、すこし揶揄うように。
何処までも優しい、包み込むような口調だった。
「思えば、ホマレちゃんが勝ったレースの前は、誰かがホマレちゃんのことを応援してくれたね」
愛川は上を見上げる。
天井ではなく、何処か別の場所を見透かすように。
「メイクデビューの後も」
──だから、そう! 次も見るから! 頑張ってね!
「ファン感謝祭のときも」
──がんばれー!!
──まけないでー!
「弥生賞のときも」
──彼女が走っている姿が見たいんです
「皐月賞のときも」
──行ってこい! ホマレ!
すぅ、と息を吸うと愛川はシロツメホマレへ目線を合わせた。
少ししゃがみ込んで、その目を真正面から見えるように。
「ねぇ、ホマレちゃん。──ずっとずっと、応えようとしてくれてたんだね」
彼女は──シロツメホマレはずっと、誰かの応援で走っていた。
誰かの期待を背負って、それに応えようと走ってきた。本人が気がついていないのは、きっと、父親というあまりに大きなものを無くしてしまったから。
その喪失に目が向いてしまったから、それしか見れていなかったのだ。
大好きな人の死を受け入れられずに、“約束”という形で縋ったから。
これこそが彼女の歪み。
やさしいやさしい、少女の歪みの正体だ。
「無駄だった? ほんとうに、お父さんとの約束は、無駄だった?」
シロツメホマレは黙っている。
鼻も啜らず、ただ紡がれる言葉を聞いている。
「何もなかった?」
シロツメホマレは目を伏せた。
その時、彼女の視界に愛川の胸元に付いたネクタイピンが目に入る。
いつかのクリスマスにシロツメホマレが贈った、クローバーのネクタイピンだ。
『繋がりますよ。きっと、誰かに』
「あ……」
「無駄じゃないよ。ぜんぶが全部、無駄なんかじゃない」
愛川は親指の腹でそっと少女の目元を拭った。
この少女の孤独は知っている。
最初の選抜レースで走りを見た時から、寂しそうにしてきたから。
「私
だから、そんな悲しそうな顔はしないで。
涙を拭って。また顔を上げよう。それがきっと、明るい方向だから。
だから──
「ちょっとは笑って、ホマレちゃん!」
少女のしゃくり上げる声が静かな控室に響く。
彼女はなんども何度も流れる涙を擦って、震える口を動かして。
「──うん」
そうして、ぎこちない笑顔を作った。
「このまま走るのも、それとも止めるのかも、ホマレちゃんの自由だよ。その選択がどうであれ、私はホマレちゃんの側に居るし、責めたりはしない」
愛川は少女の隣に腰を下ろし、頭を撫でながら言う。
「ホマレちゃんは、どうしたい?」
「わた……わたしは……」
淡い小麦色の少女は、言葉を詰まらせながらも必死に一言一言声に出していった。
──空っぽなんかじゃない! アンタも、アタシも、空っぽのお人形なんかじゃないッ!
「わたしは、──貰った想いに応えたい」
それは願い。
前に進むための、未来への嘱望。
「わたしは──走りたい」
「うん、うん」
愛川はその答えに、鼻の奥がツンとなる。目の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じながら、何度も頷いた。
「菊花賞、勝とうね」
斯くしてシロツメホマレの“約束”の物語は終わり、
新たな物語はまた、紡がれ出す。
その物語にタイトルをつけるとするならば──きっとそう。
飾り気のない言葉で。彼女の最初の走る理由を。ただ一言。
『愛に捧ぐ』と。
『シロツメホマレ』 終