4.ガール・ミーツ・ガール
『ただいま』
『お帰りなさいっ』
作業着姿の男がそう言いながら、玄関を開ける。
中からは幾分かゆったりとした服を纏った栗毛のウマ娘が弾んだ声で出迎えた。
『どうしたんだ、そんな嬉しそうにして。──まさか、お腹の子が!?』
男が靴を投げ出しながら駆け寄ると、女は嬉しそうに笑った。
『あなた、女の子よ! ウマ娘よ!』
『何っ!? ほ、ほんとか!?』
ひどくびっくりした様子の男に、女から思わずくすくすと声が溢れる。だが、それすらも男は気が付かない様だった。
『ええ。 ほら! ここ、写真貰ったのよ。耳と尻尾が見えるでしょう?』
『あ、あぁ……俺の、……俺たちの娘だ……』
男は微かに震えるようにして、膝をついた。
そうして女の、すこし膨らんだお腹を壊れものを扱うように触れた。
『えっ、ちょ、もー。泣かないでよー』
『だ、だが……。っそうだ! 名前! 名前はどうする!?』
『ふふ、焦りすぎ。……でもね、不思議と二つ名前が浮かんでくるのよ』
『まあ、ウマ娘だからな。でも、二つ?』
『えぇ。でもこっちにしようと思うの』
『なんて名前なんだ?』
『この子は──』
◆
日本ウマ娘トレーニングセンター学園。
言うまでもなく、国内最高峰のレースに関する教育機関であり、同時に年若いウマ娘達の青春の場でもある。
輝かしい成績を残せたもの、そうでなかった者。
様々なウマ娘が居るが、トレセン学園で得た仲間や絆は一生の宝と言う者も少なくない。
時は入学式からひと月が経とうとしている頃。
春に入学した新入生も段々と生活に慣れ、強張った緊張も解れてきていた。そうして、自然と笑顔や会話も多くなり、多くのウマ娘がこれから始まる新生活に胸を躍らせていた。
その中でシロツメホマレは。
「中々やるわね」
何をしていたかと言うと。
「そっちこそ」
オセロをやっていた。
日当たりの悪い校舎裏に、駒の音が響く。
「これならどうかしら」
唯一設置されていた古びたベンチにオセロ板を置き、その横に座るように彼女はオセロをプレイしていた。
彼女のいる校舎裏は太陽が校舎で遮られて、ひどく薄暗い。
「お返しよ」
遠くからは、楽しそうなウマ娘の喧騒が聞こえてくる。
対照的に、静かな日陰にはパチパチという駒の音がひどく反響していた。
ちなみに、この場にいるのはシロツメホマレ一人だけである。
彼女は一人で二役をしながらオセロをしていたのだ。
「やるわね」
時刻はお昼を回ったころ。
かつて病院から輝かしく送り出された彼女は──入学早々一人飯に興じていた。
2、シロツメホマレ登場! 始
◆
「学園いる時間はやめてっつったっしょ! せめてメールにして!」
口調荒くそう言ったウマ娘は、携帯をタップしそのままポケットに入れる。
柳眉はハの字を描き、耳は不機嫌そうにうしろに垂れていた。
「はぁ……。もうすぐ最初の選抜レースもあるのに……」
そのウマ娘の名前はゴールドシチー。
尾花栗毛のウマ娘であり、トレセン学園生ながらモデルとしても活躍する今春入学した少女である。
「どーすっかな……」
ファンの生徒、マネージャーからの電話。
それらがタイミング悪くお昼の時間と重なった結果が、今の彼女の状態であった。
そのため、手には袋パンとおにぎりが握られている。
別段、お昼の時間はまだ残っている。だから今からでも食堂に戻ればいいのだが、なんとなく戻ろうとは思わなかった。
人気のないところに行きたい。そんな気分になっていた。
「どっかにベンチとか……」
てくてく、と周りを気にしながら歩を進める。
ちらりと横目で見れば、二人のウマ娘が楽しそうに追いかけ合っていた。2階の窓を見上げれば、几帳面そうな先輩と同学年のウマ娘が話している。
「ねぇ、あれって……モデルの……!」
すると、少し離れた所からそんな声が聞こえてくる。
それに応えるように笑顔で手を振れば、声の主のウマ娘は小さく悲鳴をあげて駆けていった。
「はぁ……こっちの方、かな」
てくてく、と。
金の髪に陽光を反射しながら彼女は静かな所へ歩いていった。
──
やがて彼女がやってきたのは、人気のない校舎。
その裏側に回ろうと、建物の横を通れば既に緑に変わった桜が、日陰を作っていた。
辺りはなんの設備もなく、葉擦れの音がよく聞こえた。
そうして、彼女が人気のない室外機の横を曲がると、一気に土の香りが強くなる。
そこの日陰に、苔の生えたベンチを彼女は見つけ──
「誰かしら」
瞬間、まるでギロリと睨まれたような錯覚に襲われた。
◆
視線の先に居たのは、淡い小麦色の髪を肩まで伸ばしたウマ娘。
そのウマ娘は大量のおにぎりの包み紙を脇に纏め、こちらを見つめている。
「アンタ、確かウチのクラスの」
「えぇ」
その傷のある左目と、鋭い視線。変わらない表情。
いつも無骨な手袋をしている
それ故に入学してから誰も、彼女の周りには寄り付かない。
当然、声をかけた者は何人か居たが、やがて誰も声をかけなくなっていった。
噂では──眉唾ものだが──喧嘩では負けた事が無いとか、絡んできた大人を投げ飛ばしたとか、そんな少しアウトロー気味の雰囲気を纒う少女だった。
「……そこで何してんの?」
「オセロとご飯よ」
そんな彼女が、お昼の時間に何をしているかと思えば。
「誰と?」
「わたししか居ないじゃない」
ゴールドシチーは目だけで天を仰いだ。春晴れの空は、暗いこの場所からはやけに明るく映って見えた。
(なんか、柳の下の正体って感じだわ……)
◆
二人の邂逅から数分後。
日当たりの悪いベンチには、無言でパンを食べ進めるゴールドシチーと、相変わらず一人で二役のオセロをやるシロツメホマレが居た。
「……」
「…………」
辺りにはパンの包み紙の音と、駒を置く硬質な音色だけが響く。
「……ねぇ、何で食堂じゃなくてこんな所で食べてるワケ?」
沈黙に耐えきれなくなったのはゴールドシチーの方だった。
喋らない隣のウマ娘に代わり、会話を始めようとしたのだ。
「べつに良いじゃない」
会話は終わった。
シロツメホマレの手によって。
ゴールドシチーはまた天を仰ぐ。
なぜ、隣に座ってしまったのか。なぜ、時間が勿体無いとはいえここで食べようと思ってしまったのか。その疑問に答えるものは居なかった。
「えっと、楽しいの? ソレ」
「あんまりよ」
ゴールドシチーは横目でシロツメホマレを見る。右手で交互に白と黒を指している彼女の表情は教室で見るいつもの無表情だった。
すると、ぱちん、と駒の音が止まった。
ゴールドシチーが盤に目を向けてみれば、白と黒の勝負が付いたようだった。だが、数秒後、シロツメホマレは駒を片付け始める。もう一度新しく始めようとしているらしかった。
「……」
その時、シロツメホマレの耳がほんの少し、ほんの僅かに前に倒れるのを、偶然ゴールドシチーは見つけた。
彼女はため息を吐いた。
「アタシ白ね」
そうして駒の片方をひょいと手に取った。
◆
「負けたわ」
「めちゃくちゃ弱いじゃん」
「煽らないで」
「そこまで言ってねーし」
数分後、そこには殆ど真っ白に染まった盤面があった。
シロツメホマレはそれを見て、少し唇を噛んだが、すぐにやめた。
「そもそも、アンタ四つ角取られる時無抵抗じゃん」
「お父さんがなるべく多くひっくり返せるところを教えてくれたのよ」
「ソレ騙されてるって。お父さんに騙されてるって」
抗議しなよ、とゴールドシチーは続けた。
「そうね。会ったときに抗議するわ」
シロツメホマレは無愛想にそう返した。
ひゅるり、と昼下がりの風が吹く。
ぽこん、と気の抜けた音がした。ゴールドシチーが音の発生源に目を向けると、ボロボロの三角コーンと、やけにすり減った地面が目に入った。
「ていうかアンタ、いっつもここでトレーニングしてんの? 教官のトコでも見ないと思ったら……」
返事はない。
シロツメホマレは相も変わらず、すこし睨むような目つきで盤面を見ていた。
「さっき、あなた『なぜこんな所で食べているか』と聞いたわね」
そうして数秒の後、ぽつりと切り出す。
質問に質問で返ってきたことにゴールドシチーは怪訝な顔をした。
「怖がらせてしまったのよ」
シロツメホマレはそれだけ答える。
これはゴールドシチーがあずかり知らぬ所だが、彼女──シロツメホマレには対人経験が幼少の頃よりほとんど培われなかった。
そしてこれこそが彼女の悪癖。
いちど離れた相手には二度と関わろうとせず、それで良しとしてしまう事。
もともと彼女は人との付き合い方がよく分かっていない。そうしてそこから無意識に逃げる癖があった。
だから、いつまでも人との関わり方がわからない。彼女
「思えば、わたし、“友達“は一人もできたためしがないわね」
遠くで誰かが笑う声がする。
二人しか居ないこの空間は、心なしかゆっくりとした時間が流れているように感じられた。
だからだろうか。
「アンタさ、極端すぎ」
ゴールドシチーがそんな風に言ったのは。
「ちゃんと話してみたら?」
彼女もまた、騒がしさから離れたこの空間に落ち着きを取り戻していた。
「思い込みかもしんねーじゃん」
ゴールドシチーがそう言い切ると、シロツメホマレは目を瞬かせる。
「あなた、すごいのね」
そうして感心したような声を出した。
「そういうの、得意そうね。あなた、特に金ピカで目立つから。モデルとか女優さんとか出来そうだわ」
シロツメホマレはゴールドシチーの顔をジッ、と見つめながらそう言う。
「……えっと、アタシの事知らない?」
「オセロが強い」
◆
「もうお昼も終わりね」
その声に反応して、ゴールドシチーはポケットから携帯を取り出した。画面を見てみると、あと数分で予鈴が鳴るかという時間だった。
横を見てみれば、シロツメホマレは白ばかりの盤面を、相変わらず若干眉を寄せながら睨みつけている。
「さっさと行きなさいよ、
「アンタさ、オセロ根に持ってるっしょ」
「……そんなことないわ」
ゴールドシチーは、彼女が人付き合いが苦手な理由を垣間見た気がした。
◆
選抜レース。
それはウマ娘がデビューをかけて走る、年に4回開催されるトレセン学園の一大行事である。
「大丈夫……トレーニングはちゃんとやった。絶対に勝てる。勝ってやる。アタシの、この脚で……」
日付は、シロツメホマレと出会った不思議な昼食から2日後の午後。
ゴールドシチーは呟きながら拳を固めた。
まだトレーナーが付いていないウマ娘のみが参加できるこのレースは、彼女にとって絶対に失敗出来ないものであった。
「あの……」
「……っ!? あっ、ゴメン。何かあったら選抜レースの後にしてくれない?」
ファンのウマ娘がその様子に心配そうに声をかけるが、軽くあしらわれてしまう。そのくらいゴールドシチーは目の前のレースにかかり切りになってしまっていた。
「大丈夫、アタシなら……」
ぶつぶつ、と。
自分を激励するように。信じるように。何度もなんども繰り返す。
「…………」
そんなゴールドシチーを、同じく出走予定であったシロツメホマレが静かに見ていた。
◆
そして始まった選抜レースも、いくつかのレースが終わり、やがて中盤へと差し掛かった。
1着のウマ娘に声をかけるトレーナー、喜ぶウマ娘。声をかけられなかったウマ娘、他のトレーナーに、前もって目を付けていたウマ娘を取られたトレーナー。グラウンドには悲喜交々な光景が広がっていた。
そんな中、出走を3レース後に控えたゴールドシチーは準備運動をしていた。そして時計を確認するとゼッケンを受け取りにグランドへと出て行く。
「うわぁ、キレイ……! 見ろよ、あの子……! あれが噂の!?」
彼女の髪が陽光に晒されると、あたりは俄に騒がしくなった。
ゴールドシチーはそれらに耳だけを動かし、反応をせずに委員からゼッケンを受け取る。そしてそのまま、出走までストレッチをしようと端に寄った。
「あのっ、あ、あなた、もしかして……!」
膝を曲げ、ふくらはぎを伸ばし。
そんな最中に、タイミングを見計らったかのように声をかけてきたのは若い女性であった。
顔立ちや格好からも分かるように、どうやら新人のトレーナーのようである。
「……はい、アタシですか?」
さすがに無視も出来ず、ゴールドシチーがその声に体ごと振り返ると、若いトレーナーは顔を輝かせた。
「やっぱり! モデルのシチーちゃんよね? 雑誌で見たことあったけど、ホンッッットにキレイなのね〜……!」
「あー……ども、ありがとうございます」
ゴールドシチーは若干、地面に目線を落としながら頬をかいた。
若いトレーナーは嬉しそうに続ける。
「いやあ、見た目にここまで華があるとレースも楽しみになっちゃうな〜。頑張ってね、シチーちゃん!」
「……はい、走りで魅せられるように、頑張ります」
ゴールドシチーはなんとか笑顔を浮かべた。
ちゃんと笑えているかどうかは、分からなかった。
「ちょっと、そこは邪魔よ。どきなさい」
「誰って……っヒッ!?」
若いトレーナーの悲鳴で、ゴールドシチーは顔を上げる。
そこに居たのは、体操服姿でゼッケンを付けたシロツメホマレだった。
「ドキドキの顔ね」
「アンタは……」
ひょい、と覗き込むようにシロツメホマレが顔を傾ける。
浅緑の瞳は、柔らかな光を湛えていた。
するとシロツメホマレは直ぐに視線をゴールドシチーから外し、辺りを見渡した。
ゴールドシチーに注目していた、いくつもの視線がある事が彼女にも分かった。
そうしてまたゴールドシチーに視線を戻す。
シロツメホマレは一つ頷いた。
「
そんな風にシロツメホマレは言う。
何を言っているのかと、ゴールドシチーは下げていた頭を上げた。
「良い? ゴールドシチー。気負う必要はないのよ」
シロツメホマレは右手で、左肩を弄っている。
ゴールドシチーは、そこで初めて彼女が左手に手袋をしていない事に気がついた。
「周りではなく、未来でもなく。走るターフを見なさい」
シロツメホマレはそう言うと、敢えて観衆の前で、義手を抜き取った。
右手には、先ほどまで左腕だった義手が握られている。
「走るわたしを見ていなさい」
驚愕に目を見開くゴールドシチーを他所に、彼女はなんとも無いように告げた。
「えっ、なっ。う、腕が……!?」
突然の行動に、若いトレーナーは取り繕うことも出来ず狼狽える。
シロツメホマレの左袖はゆらゆらと揺れていた。
彼女は左腕を近くの学園職員に渡すと、そのままゲートまで歩いていった。
彼女が一歩、ゲートに近づく度にざわめきは大きくなる。
デリケートな話題であると理解している者が大半であるため、あからさまには騒ぎ立てられないが、確実に視線を集めている。
先ほどのゴールドシチー以上に、奇異の目で見られている。
だが、それを彼女は柳に風とばかりに受け流していた。それは彼女が──シロツメホマレが何度も浴びてきた視線であったから。故に、彼女が気にすることは無かった。
シロツメホマレはある程度まで歩みを進めると、足を止めた。そうしていまだ衝撃から戻って来ないゴールドシチーの方へと向き直り──
「お昼のお礼よ」
それだけ告げて、出走体勢に入った。
◆
ざわめき収まらぬ中、時間は流れる。
既にシロツメホマレの他、全ウマ娘がスターティングゲートに入っていた。
そうして、静かな緊張感が辺りに満ちる。
このレースに懸ける誰もが、ゲートの開く瞬間を待っていた。
『スタートしました! おおっ、と。一人出遅れ。これは……シロツメホマレです! シロツメホマレ出遅れました!』
観客たちは片手だけで走るウマ娘を未だかつて見たことがない。
それでも、さも両腕があるように綺麗にフォームを整えて最後尾を走っている姿はある種、サマになって見えた。
『さあ、最初のコーナーを曲がって先頭は──』
先頭は──この時期のウマ娘にしては──ハイペースでレースを引っ張る。シロツメホマレはその最後尾を走り続けた。
◆
『もう、脚は意識するな。腕や。 ──その残った腕を使う』
『腕を?』
『せや。ええか、ホマレ』
『おまえは普通の走りは出来ん』
『出来ても、普通以下にしかならん』
『そらアカンやろ』
『それで、どうすれば良いの?』
『それはな──』
◆
これなら、いける。
シンガリの、一つ手前。そこを走るウマ娘はそう確信した。
レースはもうすぐ終盤。荒い呼吸の音が内側から響いて聞こえた。
チラリと横目で後ろを確認すると、そこには片手で走るウマ娘。その姿に最初は面食らったが、やることはいつもと変わらない。
(後ろは大丈夫。見るべきは……前!)
視線を前に戻すと、そこには一人分が通れる隙間が開きかけていた。
彼女の作戦は差し。故にその隙間を狙うことにした。
(先頭はもうすぐ最後のコーナーに入る。このペースなら息を入れざるを得ない!)
彼女はそう確信した。
それを信じるしか、方法は無かった。
通常、ウマ娘は息を入れると、一瞬速度が緩む。その遅くなったタイミングでスピードを上げ、差すことが出来れば先頭でゴール板を駆け抜ける事が出来る。1着になれる。
(後ろの子は4バ身くらい離れてるし、ここから加速始めても間に合わないでしょ!)
ぜいぜい、と息が荒くなる。
体力の限界がだんだんと見えてきた証拠だ。下を向いてしまいたい。
だが、それでも活路は前にしか無い。
(だから、前だけ見て! 最終コーナーを曲がり切った瞬間、直線に向く手前が勝負なんだから!)
だから、そこまで。この位置をキープするのだ。
ひたすらに耐えるのだ。
それこそが勝つための方法。前との距離を微調整して、ただ時を待つ。
そして──
『さあ、先頭は最終コーナーへ! 後続も続々と入っていきます!』
意識を向けて居なかった背後で、ヴォン! と異様な音がした。
◆
『腕は振った分だけ加速力になる。引いた分だけ力は溜まって、前に出した分、推進力に変わる』
『せやから、スパートをかける時、腕を思い切り後ろに引け。限界まで後ろに引け。そこまで引き切ったと思ったら更に引け。そこまでいったら、その反動で思いっきり腕を前に出せ』
『次の瞬間には、前から後ろに戻す反動でまた後ろに腕を引け。引いたら撃鉄を起こすように前に出せ』
『これを繰り返すんや。おまえはその
◆
『先頭は依然変わらず最後の直線へ! このまま逃げ切るのか!? それとも──っと誰か来た! 大外から誰かが回って来ました!』
その光景を見ていた者はみな目を見開いた。
ある者は唾を飲み、ある者は無意識に拳を固める。それほどに、そのレースに釘付けになった。
何故ならば──
『先頭はシロツメホマレ! シロツメホマレです! 大外から全員を抜き去って、今ッ、ゴォォォール!!』
淡い小麦の髪が。最後尾から、気がついたら先頭に居たから。
『信じられません! いつの間に上がって来ていたのでしょうか!? いつの間に加速をしたのでしょうか!? 紛れもなく、期待のウマ娘です!』
その実況が終わったあと。
呆然としていたのは観客だけではなかった。レースに出ていたウマ娘もまた、信じられないような目でシロツメホマレを見ていた。
そして、その視線を一身に受ける少女は、空気を貪るような、荒い呼吸を繰り返している。
シャープな顎からは汗の雫がとめどなく滴っていた。それほど体力を消耗した証だった。
だが、それでも背筋を伸ばし、毅然と立っている。
段々と傾いてきた西日を浴びて立っている。
堂々たるその姿は、紛れもなく勝者のものであった。
グラウンドは更にオレンジに染まる。
西日に照らされて、緑の瞳が輝く。
風が吹いて、彼女の柔らかい髪を巻き上げた。汗に濡れたその髪は、それでも風に靡いていた。
だが、その中であっても、緑の瞳だけが動かなかった。
「ひっ……!」
その姿を見たウマ娘が引き攣る様なうめき声を上げる。
このレースで2着のウマ娘であった。
「なっ、なんで!? 一番後ろだったじゃない!」
それに対して、シロツメホマレは一度視線を向けると、そのまま何も言わずに歩き出した。
あたりは異様な雰囲気だった。
それこそ、重賞レースが大波乱で終わった時のような。
初めはその特異な姿に目を向けていたトレーナー達やウマ娘は、今や彼女の走りに目を奪われている。
彼女は走りだけで。それだけで周囲の視線の質を一変させてしまったのだった。
シロツメホマレには──彼女には恵まれた体格はない。人より劣る体格は軽く、バ群の中に入っては簡単に弾き飛ばされてしまう。
彼女には優れたコーナリング技術はない。バランスが偏ってしまった体では安定して曲がる事が難しく、ヨレやすくなってしまう。
『だから、腕を使うんや』
だが、彼女はそれら全ての欠点を加速に費やした。
人より軽い体重は腕の力により容易に引っ張られ、バランスの偏った体が重心移動の際に高い効果を生む。
彼女は腕を振り始めてから──これは驚異的な事だが──わずか1歩目でほぼトップスピードに乗る事が出来る。そして、そのまま僅かに加速を続けながら走り続けることが出来る。
──否、出来るように
これこそが彼女の武器。
走り方を一度全て失った彼女が得た唯一の走り方。パワーもスピードも人よりも劣ってしまった彼女が作った、超短期の加速という唯一の走り方。
──シロツメホマレの走り方である。
彼女は歩みを進める。
「金ピカ……いえ、ゴールドシチー」
「……何?」
そうして、目を驚きに開いていた金色の少女の前で止まった。
その鋭い目線に貫かれた彼女はちいさく息を呑んだ。
「あなた──
──モデルだったんじゃない」
「…………今さら?」
「おしえてよ」
先ほどまで鬼気迫る迫力をまとっていた彼女の口から飛び出したのは、そんな気の抜けた言葉だった。
ゴールドシチーは思わずため息を吐いてしまった。
◆
『この子は──ホマレ。シロツメホマレよ』
『シロツメホマレ……良い名前だ……』
『そうでしょう? きっと優しい子に育つわ。いいえ、育ててみせる』
『そうだな、うん。──……ところで、せっかくだしもう一つ浮かんだって言う名前を聞かせて欲しいんだが……』
『え? 聞きたいの? ……うーん。そうね。せっかく思いついた候補だものね。私の中に留めておくのは勿体ない気がするわ。ウン』
「教えてあげる。この子のもう一つの名前は──サクRS5ー#ー」
『元気に産まれてきてね。ホマレちゃん』