「あの……ホントに良かったんでしょうか」
鹿毛のウマ娘は不安そうに言う。
脇にはこれから始まるレースを決して見逃すまいとしている子供たちがいた。
その視線の先には、レースを見にきた人で溢れる観客席がある。
「うん、だって、ホマレちゃんが
トレーナーバッジを付けた若い女は、しっかりとした声で答えた。
彼女の担当を、レース控え室に送り出す前に一通りの確認はしたが、問題は無く、一言声をかけただけだった。
「だから、見ていよう」
「……そうですね! 応援しなくちゃ!」
シロツメホマレはダービーの為に走っている。
ダービーのトロフィーの為だけに走っている。
少なくとも本人はそう言っていた。
だが、それだけじゃ無いはずだ。
走る理由が、そんな寂しい物だけではないはずだ。
愛川はコースを見た。
だって彼女は──
【エキシビションレース】
トレセン学園のコースを、一周する1800メートルのレース。
観客席からスタートし、四つのコーナーを回って再び観客席側に戻ってくる。
──1800メートル。
デビュー戦と、その次。両方とも1600メートルであったシロツメホマレには未知の距離でもある。
◆
『さあ! 今年もやってきました、秋のファン大感謝祭、エキシビションレース!』
マイクを通した音声が、コース中に鳴り響く。
その振動に、レースを見にきていた老若男女がザワザワとしだす。
『毎年様々な趣向を凝らしたウマ娘が出走し、素晴らしい勝負を見せてくれるこのレースで、今年はどんな展開になるのでしょうか!』
空は快晴。
芝は良好。
秋の空に威勢のいい声が響き渡った。
『それでは出走メンバー、全12名の紹介です!』
順々に番号と名前が呼ばれ、その度に歓声が上がる。
あるウマ娘は手作りの勝負服で、また、あるウマ娘は仮装をして。
めいめいが着飾って登場をしていった。
『そして12番──トレセンちゃん!』
いきなりコースに現れた着ぐるみに、騒がしくなる会場。
それを意に介さず、シロツメホマレ──トレセンちゃんは観客席の方へと向き直った。
『おおっと、まさかの格好に会場もざわついております。──ああ!? 勢いよく頭が取られた!?』
中から出てきたのは、淡い小麦色の髪をはためかせる小柄なウマ娘。
その異様な登場の仕方と、既に
ちなみに偶々レースを見にきていたタマモクロスは、意外すぎる人物の登場にひっくり返って驚いていた。
『それでは訂正しましょう。12番、シロツメホマレ!』
◆
ウマ娘がゲートに収まり、それが開くまでの、微妙な時間。
いくらお祭りレースとは言っても、勝負の前に漂う特有の緊張感に誰かが唾を呑んだ。
まだか。まだか。
そしてその時は、あっさりと、唐突に。
必然的にやって来る。
『スタートしました! スルッと抜け出したのは4番! ロングキャラバン!』
桃色の髪のウマ娘がロケットスタートを決める。
そのすぐ後ろからは、褐色のウマ娘が負けじと上がっていく。
スタート直後から始まった先頭争いを他所に、シロツメホマレは後ろを追走していった。
それは、あえて下がったものではなく、単純な実力差で差が開いている状態であった。
「あーっ、あんの小さい子さっそく置いてかれてるよ。かわいそうに」
「見た目だけ派手なんだなぁ」
「やっぱ体格?」
そんな観客の声が聞こえた。
だが、それもすぐに小さくなる。観客はたいてい最後尾では無く先頭を見るものだから。
ドベは注目されにくいものだから。
「ああっ!」
鹿毛のウマ娘は思わず声を漏らした。
──出すべきではなかった。
彼女はいまだジュニア級だという。
このレース、たった1人のジュニア級だ。
いくらエキシビションとは言っても、レースはレース。
そこに走るという行為が伴う以上、ウマ娘ならそれなり以上に全力で走るだろう。
ましてやそれが、天下のトレセン学園なら尚更。
止めるべきだった。
彼女の申し出を受けるべきではなかった。
心は思った以上に脆いから。
「あームリだよ、ほら。こんなレースでも差が付いちゃってる」
「何バ身あるんだろうね」
「何で
誰かが言う。
あまりに開いた差に、思わず誰かが言う。
鹿毛のウマ娘は思わず目を覆った。
◆
『いよいよ第三コーナーを抜けて、第4コーナーへ! 先頭は変わりまして7番ユグドラバレー!』
脚に振動が伝わる。
現在順位は12位。最下位である。
前を見れば、一つ前のウマ娘が遥か先に見えた。
「ハアッ……ハアッ……ッ!」
息が切れる。
心臓の音が耳から聞こえる。
スタミナが持たない。
周りのスピードについて行こうと、飛ばしすぎた。
シロツメホマレはそんな気付きに歯噛みした。
『ユグドラバレーが後続を引き連れて最終コーナーに入っていく──!』
「ゼヒュ……カッ……」
粘度の高い唾が喉を塞いだ。
そのせいで一瞬、呼吸が乱れる。
それでまた、差が開く。
『2番追い上げる! 差し切れるか!? しかし7番も先頭で粘っている! いよいよ最終直線になります!』
既に実況に名前は呼ばれない。
それほど差は開いた。
仕方がない。たった1人のジュニア級なのだから。
無謀と言っておかしくは無いのだから。
「ヒュッ……ハヒュッ……」
肺が空気を欲してる。
喉から手が伸びるほど新しい空気が欲しい。
口からは、無様な程ぜぇぜぇと息が溢れる。
もう、走る形を整えるので精一杯。
最後尾を、なんとかこれ以上遅れないように走るだけで全力。
──しんどいなぁ。
あとどれくらいだろう。
「──! ──!」
何か聞こえる。
だけど聞こえない。聞き取れない。
視界が歪んでくる。
「──! ────!」
酸素が頭に回らない。思考もブレてくる。
あれ? なんだっけ。
──なんの為に走ってるんだっけ?
『───れ! ───んばれ!』
ひときわ、幼い声が聞こえた。
何かを必死に叫んでる声が聞こえた。
その発生源に無意識に目を向ける。
そこには、さっきまで一緒にいた子供たち。前のめりになりながら両手を振り上げて叫んでいる。観客席の一番前で、こちらに向かって叫んでいる。
『がんばれー!!』『まけないでー!』
顔を真っ赤にして、喉を酷使して。
必死に声を上げて叫んでいる。
「────」
頭にパチン、と火花が散った。
何か、見えない何かが優しく
やったじゃねえか! ホマレ!
ふっ、と息を絞った。
どん、と脚を振り下ろした。
──え? 何でそんなに喜んでるのかって?
そりゃ、ホマレが走ってる姿が好きだからさ。本当だよ。
──どうして『約束』したんだっけ?
──信じられないって? あー、そうだな。
いつか分かる時が来るさ。いつか、な。
ぶん、と腕を振り上げた。
限界まで振り上げて、それでも更に上に振り上げた。
可動域限界に肩の関節が、ぎちぎちと軋む音がする。
だから、頑張れよ。──ホマレ。
だけど、まだ足りない。
振り子の糸よ、千切れよ、とばかりに振り上げた。
「──シッ!」
──良し。
よし。
そこまで来たら──『振り下ろせ!』
ブォン、と空気を裂く異音がした。
『7番粘る粘る! このまま────おおっと! ここで猛烈な勢いで追い込んで来たのは──!』
びゅう、と風が吹くように。
ゼロからトップギアへ。
走れ。
走れ!
『シロツメホマレが追い込んで来ましたッ!!』
観客席の歓声が、一層大きく変わった。
◆
『──以上で着順は確定します。そして、この素晴らしいレースを見せてくれた選手の皆さんに、もう一度拍手を!』
パチパチパチ、と音が弾ける。
それに応える余裕もなく、ぜぇ、ぜぇ、とホコリを被った笛のような音を出す。
──シロツメホマレ、12着。
無様な呼吸は止まらない。汗がぽたぽたと垂れる。
最終直線で、それまで付いていた大差は埋められたが、ハナ差でシンガリ負けとなった。
流石に“上“で戦っているウマ娘は強かった。
「君、スッゴイね! ワタシ思わず興奮しちゃった!」
かけられた声に、顔を上げればこのレースで1着だったウマ娘が立っていた。彼女は太陽を背負うように胸を張る。
クラスの出し物のメイド服なのか、クラシカルな衣装を身に纏って落ち葉色の少女は笑った。
「年下で、ジュニア級でしょー? いつか、また勝負しようね! ワタシの名前はメジ──」
「そこのメイド! 早く戻って来ーい! 午後の部始まる!」
「ああっ!? ゴメンナサーイ!」
騒がしく去っていった歳上のウマ娘を見ながら、シロツメホマレは空を見た。
何もない、青色だけがある。
すると、背後からドンと衝撃を感じた。
何かと首だけ回して見てみれば、短髪の女の子が腰に抱きついてきていた。
「おねぇちゃん、すごーい!」
「汗、つくわよ」
窘めるようにシロツメホマレが言うが、女の子はキラキラとした眼差しを向けるだけだった。
「すごいすごい、スゴイ!」
「汗が、つくわ」
ぐいぐい、と押しのけようとするが、女の子のホールドする力は思ったよりも強い。加減がわからず怪我をさせてはたまらないのでシロツメホマレはひとつ息を吐いた。そしてなされるがままになった。
「着ぐるみのひとー!」
ふと目を観客席側にやると、1人2人と走り寄ってくる子供たち。
別段、もうレースは終わっているし、公式のものでもないので関係者であればコースに入ってもそこまで問題ではない。だが鹿毛のウマ娘は焦ったように子供たちを追いかけてくる。
結局シロツメホマレの周りには7人の子供たちと、鹿毛のウマ娘、そして慌てた愛川が集まることとなった。
「アレなにー?」
「ビューンってやつ!」
「どうして片手なの?」
やんや、やんや、と囃し立てられるシロツメホマレ。それを見ながら鹿毛のウマ娘は何を言って良いのか悩んだ。
結果だけみれば、最下位の12着。しかも本来彼女は出走しなくて良い格上のレースでこれだ。
言葉が喉につっかかって出てこなかった。
言え。何か言うのだ。
「お、お疲れ様! ありがとう!」
結局、絞り出せた言葉はそんなありきたりなもの。
それに対してシロツメホマレはその浅緑の瞳を向けた。
そして瞬き、ふぅと息を吐くとほんの僅かに。注視して見ないと分からないくらい小さく、口角を上げ──
「ええ」
と答えた。
その表情に、鹿毛の少女は固まってしまう。
その間も子供たちはシロツメホマレに声をかける。
それに対しては一切答えることなく、無言で一人ひとりの頭をわしゃわしゃと撫でていった。
子供たちは嬉しそうな“きゃー“という声を上げる。
「ホマレちゃん」
そこに凛とした声が差し込まれた。
声の主は愛川だった。
「次走を、決めよう」
何かを決めたのか、そんな人特有の鋭い眼光を瞳に宿し、揺るぎない声色で告げる。
「そうね」
そんな愛川に、シロツメホマレはいつも通り、気負うことなく頷いた。
まだ数ヶ月と短い付き合いだが、愛川ならば、悪いようにはしないと信じて。
「それはいいのだけど──ナツノ」
「何? ホマレちゃん」
「手、ぶるぶるしてるわよ」
「れ、レースに緊張しちゃって……」
『一着は──。2着に──。3着は──』
「わはは! あの子やるなぁ! ビリッケツだけどすげぇよ!」
「でも、あんなに頑張ってシンガリだろ? ちょっと悲しいな」
ざわざわと。
レースの興奮冷めやらぬといった観客席。そこで1人の若い男が柵を掴んでコースを見ていた。
隈のある瞳を、目一杯に見開いて見ていた。
周りの人が、次の場所に移動をし始めても、気にせず、ただじっとターフから目を離さない。
「あの子知ってる?」
「まえネットで少しだけ見たことあるよ」
隣を若い男女が通り過ぎていく。
それでも男は動かない。
さっきまでレースが行われていた場所を、残り火を見るように視線を動かさなかった。
「は、はは……」
ポカンと空いていた口から音が漏れる。
いつのまにか手は柵を離して、拳の形を作っていた。
「はははっ」
あんなレースを見たのは初めてだ。
思わず笑ってしまうような──だが、決して嘲りなんかじゃない。心の底から愉快だと声が漏れてしまうような。
「はははははっ!」
この気持ちは何だ。
この沸き立つものは何だ。
男は訳もわからず、内側から込み上げてくるものに従った。
──ああ。
──そうか、俺。
──俺、彼女のレースに感動したのか。
言葉に表せば、なんとチープなことか。
だが、それしか見つからない。
日々の生活の中で、『申し訳ありません』と口に出すたびに、死んでいった時間が。
ため息を吐かれるたびに、削れていった心が、心臓が。
ドクドクと熱く脈打つ感覚がある。
まるでレースの熱が、自分にも伝わって、そこから新陳代謝で生まれ変わったような。日々の鬱々としたものが、流れ出ていくような。
気がつけば、目元に熱い何かが溜まっていた。
「はは! ほんと、ホント何だアレ!」
たかが、レースじゃないか。しかもあの子は最下位だ。
たかが、関わりのないヤツが、走ってるだけじゃないか。
名前も初めて聞いたし、声も知らない。
なのに、それなのに。こんなにも。
こんなにも──込み上げてくるのか。
「ははッ……! はははは!」
男は笑った。
その声は喧騒に紛れて消えて、誰も男など気にしない。
そんな見向きもされない男は、愉快そうに、笑った。
「次はいつ走るんだろう!?」
その呟きは、小さかったが、確実に
まだまだ小さい、だが、確かに熱を持った“うねり“が始まった。
吉か凶かは、置いておいて。