コライドンは地下を駆け上り、外に出てもまだ速度を保ったまま疾走していた。
アーマーガア、リキキリン、ウルガモス。あるゆるポケモンが、コライドンを物珍しげに見ているうちに、それはあっという間に消えてゆく。
彼は自分の使命を分かっているらしく、彼女らが何も言わずとも、エリアゼロを囲う絶壁に飛び乗り、爪を突き立てて木登りの要領で登っていく。
シディアとブリトールは、真っ逆さまに落ちないように必死にしがみついていた。
壁を登りきり岩肌が晒された急斜面を滑り落ちていくと、パルデア地方の中心部であるテーブルシティが見えてくる。
久々の外の景色に感動を覚えていると、コライドンは急に大きく飛び跳ねて、白い羽を翼状に変え、それで軌道を捉えて滑空した。
「……シディア。あの――」
「『すまない』でしょ」
「……あぁ」
後ろに座るブリトールが、消えかかった声で話しかけてきた。
「私は、未来から来た人間だ……そして、奴が言っていたように、この時代の生物全てを掌握することが、タイムマシンでやってきて、二度と帰ることができなくなった我々の野望だった」
パラドックスポケモンと同じように、自らも未来から来た存在であることを明かした。隠さずとも、バレバレであったが。
「コライドン、この辺りでいいよ」
「ギャァス?」
シディアの一声で、コライドンは急降下を始める。
降り立ったのは、何の変哲もない、のどかな野原。ポケモンを殺す凶暴なポケモンもいなければ、人を襲う野蛮な人間もいない。
コライドンから降りると、久々の地上に何だか足が慣れずによろけてしまう。転けそうになったところを彼に抱きとめられて、目があった。
割れた仮面から覗く、黒い瞳。穏やかで、優しそうな目。初めて見たときの、あの人間らしくない瞳は、作り物だったらしい。今の目は、とっても綺麗で、その深みに吸い込まれてしまいそうだった。
「その野望を掲げたのは私だ。私が奴らを従え、全ての生物を掌握しようとした。パラドックスポケモンを使って、外からあらゆる人間をあの穴の中に入れた……君も、その一人だったんだ」
「じゃあどうして、私を助けてくれたの」
シディアは少し笑いながら聞いた。からかうように、小悪魔的な笑みを浮かべながら。
「……言いたくない」
「じゃあ、その仮面の下、見せてよ」
苦虫を噛み締めるように声を濁らせるブリトールは、長い間の後、その仮面に手を掛けて彼女に素顔を晒した。
少しやつれ気味な、それでも清廉な顔立ち。長めの黒髪が風に乗って靡き、真っ白な額が見え隠れしている。
「……あれ……?」
シディアはその顔に違和感を覚えた。何度も、何度も見たことがあるかのような、親近感が湧いてくる顔。
「母さん。私は、君の息子だ」
空いた口が塞がらず、乾いた空気が喉元まで入り込んできて、喉に張り付く水分を飛ばした。
「……いや……母さんなんて呼ばないで……」
「……隠し通せると思っていた。あの仮面さえあれば……なのに……」
黒い瞳に涙が宿る。決壊したようにポロポロと零れ落ちてきて、のどかな野原に大きな染みを幾つも作り出した。
「私とあなたは、親子だ」
「やめて……言わないで」
彼の腕の中で身を縮めたシディアと、動けずにいるブリトール。とても、親子とは言えぬ構図だった。
シディアが突然身体を起き上がらせて、ブリトールの後頭部に手を回す。
「だめだ、母さ――」
抱き寄せられたブリトールは、言い出そうとした言葉を呑み込む。
優しく、温かくて柔らかい身体に包み込まれたブリトールは強張り、やがては彼女にその身を委ねた。
「……こんな早く息子を抱く日が来るなんて……私、まだ男の人とお付き合いしたことだってないのよ」
「父さんは……いい人だったと、未来のあなたが言っていた」
「変な会話」
とん、とん。小さな掌が、大きな背中を叩いた。
「じゃあ、私を助けたのは、自分が未来で産まれるようにするため?」
「……それは、言えない」
「想像にお任せ、か……」
彼をより強く抱き締める。自分より遥かに大きくて、逞しくて、熱を孕んだその身体は、とても息子を抱いているとは思えなかった。それでも、彼は自分の息子らしい。
「母さん……巻き込んでしまって……ごめんなさい。そのせいで、大切なポケモンを何匹も失ってしまった……」
「……私ね、あそこでの経験が無かったら、きっとあなたを産んでないと思うな」
未だ熱を帯びる脇腹を擦りながら、シディアは囁いた。
「あなたが居なかったら、私は生きたいって思えなくなってた。あなたと会えたから、私は、まだ生きよう、って思えたもの」
師を失い、夢も希望も闇に葬られて、淡々と仕事を熟して生きるだけだった。もう生きたくない、と簡単に思っていた。けれど、あそこで経験した痛みが、恐怖が。未熟な自分に鞭を打ってくれた。死という現象が、いかに恐ろしくて、若い者にとって損となる事かを教えてくれた。多分、これは誰かに言われて易々理解できる物では無かっただろう。
「アギャス!?」
「……もちろん、あなたがいなかったら、私、あそこから出れなかったわ」
「ギャスギャス!」
横槍を挟んできたコライドンが、鳴きながらぴょんぴょんと飛び跳ねる。
ブリトールが彼女から離れた。以前、抜けない温もりが、シディアの胸には残る。愛しくなって、思わず手を伸ばしてしまった。
「どうするの、これから」
「私か……? 私は……もう元の時代には戻れない。人間がタイムマシンで転送されれば、帰るときには消滅してしまう」
「じゃあ――」
「でも、母さんとは暮らせない。僕はやがて産まれてくる。長い、長い時間が必要だけど、いずれ……」
シディアの淡い期待は、彼の言葉によって瞬く間に砕かれた。――未だに彼を息子として見ることができない自分が、この上なく憎かった。ただ、息子であれ何であれ、彼は彼女の恩人である事に変わりはない。例え、あんな事件に巻き込まれた原因が彼にあろうと、自分を良い方向へ歩ませてくれたのだから。
「君も、ここにいてはいけない。あそこへ共に帰ろう」
「アギャス?」
コライドンは間抜け面を晒しながら、首を傾げる。凶暴で残酷なパラドックスポケモンとは思えない。彼は彼女の知る、可愛くて愛らしいポケモンそのものであった。
彼がコライドンに跨り、その背を向ける。哀愁漂う雰囲気が、辺りを一瞬にして満たし、目の奥をじんじんと刺激してくる。
「じゃあね、母さん」
「駄目」
震えた声で、シディアは強気に言う。
「もう一回だけ。また、名前で呼んで」
瞳に抱え切れない程の雫を溜め、それを溢さないように無理矢理笑顔を作りながら、シディアは彼に言いかけた。
「さようなら、シディア」
ブリトールは、そう言って笑みを浮かべた。瞳が三日月の形になり、口元が微かに綻ぶ。それによって形成される笑顔は、とても優しくて、あたたかくて、辺りに漂う目を刺激する雰囲気を、さらに加速させた。
「……さようなら」
仮面を付けた彼は、コライドンに乗せられてパルデアの大穴へと駆けていく。もう、二度と振り返ることをせずに。
目に溜まっていた涙は自然と流れ出て、彼女の頬に一筋の光を差し込ませる。結晶のような粒が、砕けて、消えてしまう前に裾で拭き取り、それ以上流れないように笑顔を作る。
呆然と立ち尽くしていた彼女に、大きな影が被さった。可愛らしい鳥ポケモンの合唱が聞こえてきた。
「探しましたよ調査員さん!! 長らく帰ってこないものだから、心配して……」
空飛ぶタクシーの運転手は、踵を返した彼女の目を見て、出そうとしていた言葉全てを呑み込んだ。
「……さて、どこに行かれますか」
目に残る涙を拭き取り、彼女は答えた。
あとがき
『エリアゼロの調査録。途切れ途切れながらも、何とか完結まで辿り着けました。自分は本当に、作品を完結することができないクズですので、こうして一本、作品が仕上がることは滅多にないことです。
そんな人間ですから“最後”を書くのに慣れていません。この終わり方は、皆様にとって正しいのか。それは私には分かりませんが、シディアという主人公のこれからを想像できるようなエンドに仕上げております。
お気に入り登録、しおり登録、感想。それら諸々をしてくださった皆様、本当にありがとうございました』