六角形の建物を後にし、シディアは先を急ぐことにした。
ずっと下へ下へ進んでいて、ふと気になって上を見てみた。
が、微かな希望を軽々と打ち砕いてくる絶壁が、遙か高くまで続いているだけであった。
人を乗せて壁をよじ登れるポケモンでもいればいいのだが、そんなパワーのあるポケモンは手持ちにいないし、聞いたことがない。
だが、こんな人工物があるということは、人がいる可能性が少なからずあるということ。
下に行けば、その人に会えるかもしれない。
それだけが、ほんの僅かな、一縷の光であった。
「もう……誰も失いたくない……」
そう呟いて彼女は、こんもりと膨らんだ地面に突き立てられる木の棒に目をやった。
下へ、下へ。
大穴に吸い込まれるように降りていく。
パルデアの大穴。
あの建物に置かれてあった記録は、事実なのだろうか。
テラスタルは此処から始まり、今も大陸全土に影響を及ぼしている。
それに、あの異様なポケモン。
あれが大陸へ出てきたら、きっと大変なことになる。
容赦なくポケモンを殺すようなポケモンだ。
生態系が乱れ、パルデアは混乱に陥ってしまうだろう。
色々と思いを巡らせながら歩いていると、視線の先に何かが動いたのが見えた。
「……人……?」
確かに人影であった。
ほんの一瞬だったが、この目ではっきりと捉えた。
人がいると分かった途端、疲弊し、歩くことすらままならなかった脚に活力が湧き上がってくる。
人影が見えた方へと駆け出していき、岩陰を通り越して左折する。
人がいる。
これでようやく、何かが変わる。
しかし、曲がった先には滝が上から垂れ流れる、上と変わらぬ空間が広がるだけであった。
遂に可笑しくなったか――と、自分を半ば嘲笑いながら、くるいと方向転換したその時であった。
「ウオオオオオオッ!!」
突如として身体の自由が封じられ、襲いかかる重圧により、地面に勢いよく押し倒された。
後頭部を激しく強打し、視界がギラついた。
荒い鼻息が聞え、目を凝らせば、こちらにのしかかっているのはポケモンではなく、“人”だった。
ほぼ全裸に近い、原住民のような格好。
荒々しく化粧を施したその顔は、人とは思えない程、野生に満ち溢れている。
「ウオオオオオオ!!」
シディアの首筋を掴み、力を込めてくる。
「あが……がっ……」
喉を襲う圧迫感に、枯れた声が漏れた。
脚をバタつかせ藻掻くも、ただのわるあがきにしかならない。
死にものぐるいで手にしたモンスターボールを放り投げ、ポケモンを繰り出す。
「ミガルゥゥサァァァ!!」
天高くで繰り出されたミガルーサは、けたたましい鳴き声を上げながら、鋭利に研ぎ澄まされたヒレを刃のようにし、回転しつつ落下する。
男の背中を切り裂くと、首から手は離されてシディアは拘束から解放される。
真紅を滴らせながら後ろへ後ろへ下がる男は、狂気の形相でこちらを睨みつけている。
「フーッ……フーッ!!」
歯を食い縛り、その隙間から呼吸するその様はまさに、追い詰められたポケモンそのものであった。
「ウオオオ!! ウオオオ!!」
男が叫ぶと、崖上から二体のポケモンが降ってくる。
一体は、この前上で対峙した地を這う蟲。
もう一体は、レアコイルに酷似した、二本の細い脚で立っているポケモンらしき生物。
「従えている……こいつのポケモンなの……?」
二体の生物は咆哮を上げ、完全にこちらを敵として認識している。
ミガルーサは水上では輝けるが、地上では跳ねて移動するしかなくなり、自慢の機動力が皆無になる。
されど、一度繰り出したからには、軽々と引くのはかえって危険だ。
(こっちも二体……! いや、もう……失いたくない……!)
メブキジカの死に際が頭に浮かぶ。
下手にポケモンを繰り出し、自分の指示不足であのような有様になることを、執拗に恐れているのだ。
葛藤し、立ち止まっていると、左に異様な気配を察知した。
視線だけ寄せると、そこに立っていたのは人――のようなロボット。
華奢な体躯。だがそれ以前に、全身は黒紫色の機械で構成されており、顔は仮面で覆われており、瞳は白目である部分が黒く、瞳孔は真紫であった。
「っ……!」
「案ズルナ。私ハソナタノ味方ダ」
そのロボットは言葉を発した。
「味方……?」
とても信じられないが、今はそれより、あの野生の男に対する恐怖のほうが勝っていた。
ロボットは見たことのない、“M”が書かれたボールを投げてポケモンを繰り出す。
繰り出されたのは、ウルガモスを模した機械。もはや、ポケモンかすら怪しい。
「ドクガ、ウェーブ」
ドクガと呼ばれたそのポケモンは、六つの無機質な翼を羽ばたかせて、己の足元を中心にヘドロの波を作り出す。
波は地を這う蟲を飲み込み、その羽を、毛を、容赦なく紫で侵食した。
「ウオオオ! ウオオオ!」
男がオコリザルのように胸を叩くと、地を這う蟲はドクガに向かって飛び掛かった。
「ドクガ、オーバー」
刹那、空気が揺れ、草木が震え上がる。
ドクガの身体を構成する装甲が盛り上がり、真っ赤なエネルギーが漏れ出す。
そのエネルギーはやがて、二対の角へ収縮していき、紅蓮の劫火を解き放つ。
地を這う蟲は、あっ、と言う間に灰となり、空気中に溶けていった。
「ミガルーサ、アクアカッター!」
地上という不利な場でも、ぴちぴちと跳ねながら移動してみせ、目にも止まらぬ動きでレアコイルモドキの頭上へ跳ね上がる。
尻尾をぐん、と捻り、水の刃で奴を攻撃する。
効果は抜群のようで、奴の表皮が水を浴びた砂のように溶け、ぼとり、ぼとりと地面に落ちていく。
「ウッー!! ウゥゥ……! ウアァァァァ!!」
ミガルーサを両腕でがっちりキャッチした男は、信じられない行動に出る。
彼の身体に齧り付き、ブチブチブチ、と汚らしい音を掻き鳴らしながら、鱗諸共、身を引き千切ったのだ。
「っ……ぁ……」
声を失った。
血がドバドバ垂れ、ミガルーサが悶えている。
彼には再生能力が備わっている。自身でみをけずることだってしばしばある。
今恐怖しているのは、彼が食い千切られたからではない。
「ドクガ、ウェーブ」
再びヘドロウェーブを放つドクガ。
砂のコイルには今一つな効果のようだが、反応を見るに、毒で侵す事には成功したらしい。
「ウガ……ウガウガ……!」
男の方に目をやると、抱きかかえていたミガルーサは、もう何処にも見えなかった。
「ミガルーサ……? どこにいったの?」
――まさか、とは思ったが。
男の口周りに付着する大量の血を見て、それを認めざるを得なかった。
「ドクガ、サザメケ」
ドクガの両目が煌めいて、口らしき部位が可動し、音を立てながら大きく開く。
そこから放たれる黄緑のエネルギーは、渦を成し、砂のコイルを穿つ。
貫かれた砂のコイルは、文字通り砂になって緑の大地にこんもりと山を作り出した。
「ウゥ?! ウゥゥゥゥ!!」
「ドクガ、サザメケ」
むしのさざめきを指示した仮面の男。
緑のエネルギーが野生に満ちた狂人を貫いて、あっという間に亡き者へと変えてしまった。
男が倒れ、仮面はこちらを向いた。
『言語レベルノ最適化実行中……』
機械的にそう言った後、首だけ俯かせて、しばらく動かなくなる。
甲高い金属音の後、仮面は顔を上げた。
「怪我はないか」
「へぇっ……?! あ、はい」
「私はブリトール。君の名は?」
「し、シディア……」
ブリトールと名乗った仮面の男は、手を差し出してくる。
「え……」
「握手」
「あ、はい……」
頭がごちゃごちゃしていた。
彼と握手を交わし、シディアはようやく現実を受け入れる。
「ミガルーサ……!」
ぽろぽろ、涙が零れ落ちてくる。
また自分が不甲斐ないばかりに、自分を信じて戦ってくれたポケモンを殺してしまったのだ。
「あれは、君のポケモン?」
シディアは頷く。涙を拭きながら、何度も嗚咽を繰り返しながら。
「あのポケモンは、誇らしそうだった。最後まで、食い尽くされる直前まで」
亡骸すら無い。
もう、あの冷たい身体を抱き締めてやることはできないのだ。
「泣くな、シディア」
ブリトールは、瞳を細めてそう言った。
『頭がぐちゃぐちゃになって、文字を書くことですら体力を使う。また、私のポケモンが殺された。どこから来たのかも、人すらかも疑うような男に食い殺された。
ブリトールという、協力者になってくれそうな人物にも出会えたが、正直、喜ぶ気になれない』