隻腕の狼、ダートに駆ける。【SEKIRO×ウマ娘】 作:hynobius
スタンドを埋めた、そう言って差支えないほどには詰めかけた群衆にどよめきが走る。なにせ、アグネスデジタルは中央の重賞ウマ娘。力関係としては未知数のセキロがいるとはいえ、現時点での下馬評としては最も勝利に近いウマ娘である。それが、盛大に出遅れた。最初から追込み一気を狙うようなウマ娘ならともかく、過去のダート戦におけるアグネスデジタルの主戦法は先行抜け出しから好位差しだ。加えてバ場は雨で締まっているとはいえ、スピードには乗りにくい荒れた状態。レースを知る人から見れば、致命的な出遅れである。
「あれはもう、勝負になるまい」
「で、あろうな。少々、当てが外れたわ」
弦一郎は淡白に呟き、鬼庭は些か苦い声を漏らす。互いに警戒しあうセキロとアグネスデジタルが先行争いで脚を削りあってくれる方が、オニカゲには利する展開であった。しかし皮算用は外れ、オニカゲは自らセキロと競り合うか、大人しく先を譲るしかない。鬼庭が太い指を祈るように組む横で、弦一郎は椅子の座りを僅かに深くした。
一人、落ちた。狼はそう認識する。先行争いの相手と目していた隣のアグネスデジタルは後方、当面狼のレースに関わってくることはないだろう。警戒すべきは二つ隣のオニカゲだ。これもわずかに後ろ。葦名一心の教えの通り、ゲートの瞬間、ただ一歩をひたすらに強く踏み込んだ狼の身体は12人の中でもひとつ前方に位置している。
すかさず内へと距離を詰める。すぐやってくるコーナーまでに、前目のポジションを確保しなければならない。斜行による進路妨害を取られぬよう注意を払いながら、オニカゲの斜め前、視野に映り込み意識せざるを得ない場所へと身体を移す。
最内から二人、中央と地方のオープンクラスのウマ娘がそれぞれ飛び出してきた。中央の方は元から逃げを多用するウマ娘だが、地方の方はどちらかといえば差し勝負が多かったはず。己が地力で劣るとみて一か八かの消耗戦を狙ったか。逃げる内枠相手に無理に競っても消耗するのみで益は少ない、そう見たオニカゲとセキロはこれをすんなり前へ行かせる。
残りは差し狙いで前を譲るか、行き足が付かずにオニカゲに頭を押さえられる形で後ろへ着いた。その頭を更に押さえる形でセキロが入り、3、4コーナー中間付近で集団の形は概ね定まる。3コーナー入口のギリギリまで続いたハナの争いは、一旦中央のウマ娘が制している。幾度も逃げを打ってきた彼女のエスコートに従って、全体の流れはやや抑えたペースになろうとしていた。
「これは旨くない」
「だろうな。だが、動けまい」
鬼庭が溢した言葉の通り、オニカゲにとっては良くない状況だ。前の逃げウマ娘は速度を落として詰まった距離で走っている。スローペースが続けば、距離のアドバンテージがある分、前方のウマ娘に利がある。最大のライバルに先行を許している現状で、脚を溜めさせたくはない。
ならば仕掛けるか、というとそれも難しい。セキロは敢えて、少しだけ内側を広くするコースを取る。内を突いてもすぐ逃げウマ娘に進路を塞がれ、荒れた足元で消耗させられる。かといって外を回すには、外寄りのセキロよりさらに大きく回らねばならず、あまりにロスが大きい。絶妙なライン取りだ。
「成程、良く仕込んだではないか。あまり
「いや……あれは本人の資質だ。俺は精々例を見せたに過ぎん。あれは、動きをよく見ている」
関心の声を漏らす鬼庭の言葉を、しかし弦一郎は否定する。元々レースのセオリーなど大して知らなかった狼は、いざそれに触れれば信じがたい速度でそれを飲み込んでいった。学び、喰らい、己が糧とする。実戦の中で、敵を見定め、動きを読む。前世から幾度も繰り返したその行為は、紛れもなく狼を助ける才覚となっていた。
こうなると、オニカゲは腹を括って脚を溜めるほかない。己の末脚が、距離の差を覆し得ると信じるのだ。動きのないまま迎えた向こう正面を、関係者席の二人は見つめた。
「だが、このままでは些か溜めすぎであろう。どうする」
「無論、時が来れば動くとも」
その言葉に呼応するように、先頭集団で一人、動きを見せる影があった。
動いたのはセキロでもオニカゲでもなく、二番手に位置した逃げウマ娘。向こう正面の後半、コーナーに差し掛かる前に先頭へと競りかけるように動く。その背後にはぴたりと追随するセキロの姿。正しく言うならば、彼女はセキロによって
『さあまもなく勝負の4コーナー、注目セキロは3番手』
ちらりと振り返った狼とオニカゲの視線が交錯する。場内実況の言葉通り、勝負を決めるとしたらこの第4コーナーだ。そう、どちらも悟っていた。急角度のコーナーで、狼の前を走るウマ娘が大きく外へと膨れる。スパイラルカーブで速度を上げすぎた代償だ。逃げの経験が少なく、コーナー通過のペースを読み誤ったのだろう。空いた前へ、狼はするりと抜け出した。内にいる逃げウマ娘とも並んでここが先頭。ほぼ横並びの3人に、僅かに遅れたオニカゲが続く。
「ゆくぞッ!」
泥に汚れた顔に獰猛な笑みを浮かべて、オニカゲが吼える。オーバーペースでコーナーに突入し、強烈に踏み込んだ軸足で鋭角に切り返す。外へと膨れそうな身体を、強引にセキロの隣へとねじ込んだ。前走でも見せた、オニカゲの十八番だ。直線の立ち上がり、ここで完全に並んだ。後は末脚勝負のみ。そう信じたオニカゲが、ちらりとセキロの顔を見た。
「何故目を、閉じて――」
一瞬の瞑目。次の瞬間、狼の左脚がダートを捉え、抉り抜く。葦名一文字。そのただ一歩で、狼の身体が飛び出す。茫然とするオニカゲの頬に、泥が一かけら張り付いた。
『さあ4コーナーから直線に向いて先頭セキロ半バ身のリード、オニカゲはやや伸びが苦しいか!』
場内実況の言葉は正確ではない。オニカゲは確かに伸びている。後ろに置き去った逃げウマ娘との差は一歩ごとに開いている。それ以上に、セキロが突き抜けただけのこと。覆しがたい半バ身差が、二人の間に横たわっている。
オニカゲから感じていた圧力が、急速に萎む。完全に突き放した。脚は十分に残り、バ場も良いところを選んで走れている。残り150m、余力を保ってゴールできる。
勝負は決まった。そう、微かな安堵が狼の胸を掠めた次の瞬間。
危。
背筋の粟立つような感覚が、狼を襲う。そうするべきではないと理性では知りながら、狼は僅かに首を傾けて後方を垣間見た。大外から、小さなウマ娘が一人飛んでくる。欄欄と輝く双眸が、セキロただ一人を見据えていた。
そのウマ娘の名は。
『――大外一人突っ込んできた、アグネスデジタル!』
「……いつの間に」
決して届かぬと思われた距離を覆して、勇者が舞台に現れた。