隻腕の狼、ダートに駆ける。【SEKIRO×ウマ娘】 作:hynobius
がしゃん。
聞き慣れた、ゲートの開く音。その音が、アグネスデジタルの意識を引き戻した。正気付いた視界の中には、既に開け放たれたゲート。それが意味するものとは、つまり。
『アグネスデジタル大きく出遅れた——!?』
(ヒョエーッ!?や、やらかしたー!)
慌てて走り出すが、前のウマ娘との差はたっぷり3バ身。たかだか1800mしかないこのレースでは、相当に大きな差になっていた。
(とにかく前に追いつかないと!あたしのおバカ!へっぽこ!今までだっていっぱいウマ娘ちゃんと一緒にレースしてきたのに、レース中にこんなこと……いくらてえてえの
必死に脚を回しながら、思考はあちらこちらを駆け巡る。視野が窄まり、息が苦しくなる。荒れたバ場に足を取られ躓きかけ、それでも脚を回して回して、ようやく前のウマ娘の後ろに辿り着いた時には既に正面スタンド前の直線も半ばだった。
目の前のウマ娘の、怪訝さと憐憫が等量に混ざり合ったような視線が、ほんの少し落ち着きを取り戻させる。状況は、明らかに不利だ。小回りで直線が短く、先行有利な葦名レース場。アグネスデジタルも彼女のトレーナーも、当然ながら先行策を取るつもりでいた。多少出足が遅れても、中団まではすんなりと付けるはずだった。翻って現状は、散々焦って脚を使った上での集団最後尾。場合によっては脚へのダメージを慮って、流して走るウマ娘だっているかもしれない。だが、それでも。
(ウマ娘ちゃんが大好きなのも、それでまあほんのちょっとだけ抑えられなくなっちゃうのも、全部あたしだから。あたしらしさのせいで負けたなんて、誰にも、自分自身にも言わせたくない!)
あの高貴な背中のように、これが自分らしさだと胸を張るのなら。
既にコーナーに差し掛かった先頭を見るに、ハナの争いは決着がついている。どうやら先頭の逃げウマ娘はペースを抑えようとしている様子だった。好都合。ハイペースの削りあいになれば、既にいくらか脚を使ってしまったデジタルに勝ち目はない。かといってこのままポジションを上げずに、直線一気で抜き去るほどの末脚は期待できない。まくっていけばどうか。悪くないが、外を回すとスタミナが厳しくなるうえに、それと気付けば先頭もペースアップする。そうなればハイペースの焼き直しだ。
つまり。要求されるのは、外を回らず、先頭に悟られずにポジションを上げること。
(前の娘は盛岡のオープンクラス、葦名はまだ一回しか走ってない。その隣も南関の子で葦名未経験、しかもこっちは普段もっと前につけてる。周りの飛び出しが良すぎたのかも。二人ともあたしの方を伺ってる。ペースが不安なんだ、きっと。だからあたしの仕掛けどころが気になってる)
見ている、ということは自分次第で動かせるということ。まずは内埒沿いの位置に入り込み、逸る気持ちを抑えて集団と同じペースに落とす。スパートの舞台にならない分、1、2コーナーから向正面にかけては内の荒れ具合がそこまでひどくはない。できるだけこの区間は内を使ってスタミナを節約したかった。
あまり慣れてはいないけれど、表情はあくまで自信ありげに。もう十分に落ち着いた、その上で自分の通りに走れば勝算はあると、そんな態度。まずは、この二人を騙す。
二人はアグネスデジタルを知らない。一般的な対戦相手の一人としてなら十分に知っているが、アグネスデジタルはそれ以上に相手を知っている。だから、
(こうして、ちょっと動いて見せるだけでいい)
ほんの少し、外を回したがっているような動き。後ろから外に回る予兆のような動きを見せただけで、二人は少し脚を早める。二人は、デジタルのまくりに乗っかるつもりで。実際は、自分たちのまくりにデジタルを便乗させる形で、ペースを早める。
(もう一人前は中央の娘。この娘は自分の末脚に自信があるから、あたしたちが上がる動きを見せてもペースを崩したがらない。でも重賞は今回2回目、しかも前回は不利を受けての惨敗。大舞台の経験が少ないぶん、ちょっとだけ図太さには欠けてる)
背後にぴったりと張り付いて、いつもより余計に足音を響かせる。振り向きもしないが、ほんの少し脚が早まる。前を抜きに掛かることはないが、前に空いているスペース分くらいは詰めておきたい。そんな心を煽る。
(もうひとつ前も、この娘を基準にペースを作ってる。この二人はもう4回も戦っててお互い2回ずつ先着のたまらんライバル関係!相手のペースメイクを信じてるから、こんなに詰められたら不安になるよね)
ここもほんの少しペースアップして、前にまだ残る3人の列まで距離を縮めていく。本当の仕掛けどころ、第三コーナーまであと少し。先頭の逃げ2人、セキロとオニカゲ、そこから3人いて後ろにぴったりと内2人、外2人の隊列。最後尾にアグネスデジタル。バ群は十分に圧縮され、先頭までの距離は小さくなった。
第三コーナー。なりふり構わず、全開で加速する。スピードを上げれば自然と外に振れるが、承知の上だ。ここからは荒れた内に止まっても体力を失うのは避けられない。それならば長い距離を走って、その分をしっかり加速に活かし切る。大外から、先頭の争いが見える。セキロとオニカゲの差し合い。間近で見たかった、などと思いながらも脚は全力で回す。直線の立ち上がり、集団とほぼ同じ位置取りながらも最高速に到達。目の前は遮るもののない、大外の綺麗なバ場。前には、もう2人しかいない。
振り向いたセキロの顔に、僅かに驚愕の陰が過ぎる。目を見開き、その姿に狙いを定める。もっと近くで見たい、感じたい。そんな我儘な気持ちが、アグネスデジタルの力の源だ。いつも、そうやって走ってきた。自分らしく失ったものは、自分らしく取り戻すのだ。
「萌えパワー、チャージっ……フルマックス!!」
脚が保つかもわからない、掛け値なしの全身全霊。己の限界以上の力を引きずり出して、アグネスデジタルが駆ける。3バ身。2バ身。1バ身。横たわる距離を踏み潰して迫る。あと、ほんの少し。そこまで辿り着いたアグネスデジタルは。
目の前の左腕から、どろりと溢れ出す炎を見た。
背後から迫る足音。見ずとも、着実に距離が潰されていくのがわかる。既に手札は出し切った。 もう、ただ全力で走ることしかできない。息が上がる。視界が白く染まる。敗北の二文字が、脳裏を染める。
正しく言えば、手札はあと一つだけあった。御霊降ろし。その絶技ならば、背後のそれを突き放せる。だが、使わぬと取り決めてある。使うわけにはいかない。
『何故』
ふと、声が響いた。それは狼の鼓膜を揺らした音ではない、まぼろしの如きもの。幾人もの声が、使え、勝て、と囁く。耳朶でなく狼の
――構えは、ウマ娘が自然に走る姿。
左腕から、身を焦がすような熱を感じる。
祈り。
念じ。
そこまでして。ふと、背中の気配が消えたことに気付く。足を緩める。飢えた肺腑が息を飲み込む。視界が、ようやく色を取り戻す。
『――とどまるところを知らぬ連勝、一着はセキロ、交流重賞も無敗初制覇!鬼脚で追い上げるもわずかに及ばず、アグネスデジタル僅差の二着!』
振り向けば、ゴール板は、既に通り過ぎていた。