隻腕の狼、ダートに駆ける。【SEKIRO×ウマ娘】 作:hynobius
ことり、と音を立てて、ウマ娘を象った小さな白い駒が駆ける。黒と白の市松模様めいた盤の上で、小さな白い手がしばらく彷徨った後、今度は城を象った黒い駒が動かされた。わずかな間を挟んで、また白い駒。盤を挟んで対峙した九郎と狼は、無言のままに駒を動かしていく。
あのレース以後、九郎の態度には常に微妙なぎこちなさが付きまとっていた。常であれば何がなくとも話の尽きぬ九郎が、わざわざチェス盤を引っ張り出してきたのもその影響であろう。元々
九郎の指が、少しばかり歪な
不意に、静かな室内にバイブレーションの音が響く。時計を見れば、思っていた以上に時間が進んでいた。先程の振動は、携帯端末に設定していた予定時刻の通知だ。九郎に短く断りを入れて、盤を離れる。この日の用事は、家の中で完結するものだ。間もなく開催されるJpnⅠレース、南部杯マイルチャンピオンシップ。それに出走するために必須となる、『勝負服』の確認であった。
客間に向かうため玄関を通り抜けようとしたちょうどその時、折よく玄関の引き戸が開かれる。弦一郎が、一人の女性を伴って立っていた。勝負服の仕立てを専門とする職人だ。彼女はセキロに軽く頭を下げるや否や、家主を差し置いて土間から上がるとセキロに駆け寄る。彼女とは仮縫いの時に一度顔を合わせているが、これほど狭い種類の仕事を専門で請け負うだけあって、並々ならぬ情熱の持ち主であったと記憶している。よほど、早く着て欲しいようであった。
客間の座卓を隅に動かし、弦一郎もいるため手際よく衝立が設置される。仕立て屋が携えていた箱を開くと、丁寧に畳まれた服が現れた。
「これが」
「ええ。さ、早く合わせてみてくださいな」
手に取る。確かに重みを持って存在するそれを目の前にして、狼の意識は数週前、この服の案を定めた日に遡っていた。
「うむ。……地味だな!」
「そう、でしょうか」
「ああ。それは俺も否めん」
弦一郎と九郎、二人からの端的かつ否定的な感想。それが狼の出した、最初の素案に対するものであった。葦名グランプリまでの期間、ここの結果がどうであれ南部杯の出走はほぼ確定している。レース後では到底完成に間に合わせられないため、早めにデザインだけでも決定しておくべきだろうというのが、この日の会合の趣旨であった。
一番最初はウマ娘当人の意向が優先されるべきだろう、という一般的な認識に基づき、基盤となるデザインが狼に一任された。前世で身に纏っていた忍び装束をベースとして、参考資料だといって渡された他ウマ娘の勝負服を眺めつつようよう作り上げた案は、どうやら地味に過ぎたらしい。無理もないことだ。狼は身なりについてはまるで頓着しない性質であったし、それがいきなり考えろと言われて早々考えつくものでもない。一応見られる組み合わせが作れているだけでも上等ではあっただろう。ただ、それでは満足いかなかったらしい幼い主は、嬉々としてデザインの手直しに取り掛かった。
「うん。先ずは配色が暗すぎるな。いくらなんでも紺が多すぎる」
「ならば袴は削るか。
「上着の柿色ももっと明るいほうがいいのではないか?」
「色味は材次第でかなり差が出る。本職の意見を聞いてからがいいだろう」
「むう……それもそうだな、弦一郎殿。そうだ、あとは薄茶もよくない。落ち着きは出るだろうが、晴れ着なのだぞ?ここはいっそ――」
「アクセントの色が足りんな。紐を使って赤あたりを入れたい。それに裾飾りも――」
当人である狼を置き去りにして、次々と手が加えられていく。結局いつの間にそこまで調べたのか、服飾がらみの書物にも手を出していたらしい九郎と、ウマ娘を
紺色のインナーに袖を通す。肩から指先までしっかりと覆われる作りの左腕は狼の意向だ。どうしても義手は目立つ。周りに無駄に気を遣わせるのは本意ではなかった。その上から、着物の衿を模した飾り付きのシャツ。色鮮やかな帯をその上から巻いて、一番外には柿色の上衣。記憶にある物よりも色鮮やかで、そして滑らかだ。裾にはひらりと翻る白いフリル。ところどころに施された女性らしい意匠に、如何にも落ち着かない気分になる。
鏡に姿を映す。勝負服としては比較的簡素ながら、最初に己で考えた案と比べれば雲泥の差だ。心なしか綻んだ狼の表情を見て、仕立て職人の女性は満足げに拳を握った。
さて。セキロの勝負服姿を見た弦一郎の反応は淡白なものであった。ざっと上から下までを眺めて確かめると、特に感想を言うでもなく開口一番、「問題ないようだな。行くぞ」とあまりに端的に告げる。
「行くぞ」
「どこへだ」
「レース場へ向かう。取材だ。勝負服の正式なお披露目は当然南部杯になるが、ある程度期待を煽っておくほうが効果が出る」
「一応、夕刻からはトレーニングの予定だったが」
「だからだ、ここ数日は根を詰めすぎている」
これは弦一郎の言葉が正しい。前走では、著しい不利を受けていたはずのアグネスデジタルにあとわずかまで迫られた。アグネスデジタルは次走にもしっかり出走表明をしている。次を考えれば、あまり悠長に構えていられない、その焦りが表に現れていた。
「次は一度ほどならば切札も切れる。例の件の対策も固まった。必要以上に憂うな」
確かに数日前、弦一郎とエマを交えた会合において、怨嗟の炎に纏わる問題は一応の結論を見ていた。焦るな、というのも理解はできる。だが、本当にそれは十分と言えるのか。そこで検討を打ち切ることとした弦一郎のほうにこそ、狼には焦り……というよりは、どこか浮ついたような空気を感じずにいられなかった。微かな軋みを抱えたまま、二人はレースへ向けて歩んでいく。
全ての答えが出る南部杯まで、あとわずか。