隻腕の狼、ダートに駆ける。【SEKIRO×ウマ娘】   作:hynobius

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 午前6時。定刻通りのアラームに先んじて目を覚ました狼は、床を抜け出そうとして違和感に目を瞬かせた。わずかに緩んでいた意識が急速に覚醒する。身を起こしてみれば、それはベッドの上。違和感の故は、ベッドスプリングの反発感であった。普段から布団で起き伏している狼としては、あまり慣れない感触だ。床に足を下ろして一瞬、その冷たさに顔を顰める。

 ジャージに袖を通し、顔を濯ぎ、身だしなみを整えていく。狼に化粧(けわい)の類を教えたのは、意外なことに梟である。やはりウマ娘として、現役時代にはそれなりに手をかける必要があったらいい。狼のそれはこの年代の女子としては相当に簡素なものだが、それでも一通りを済ませるのにそれなりの時間を要した。髪は軽く梳いて結わえるだけに留めておく。しっかりと整えるのは、本番前でいいだろう。

 携帯端末が鳴る。画面を見れば、弦一郎からの通話であった。そういえば、起床時に連絡を入れるように告げられていた。準備より先にメッセージの一つでも送ればよかったか。そう考えながら画面を叩く。

「起きているな」

「ああ」

「発熱、頭痛は。喉もやられていまいな」

「ない」

「ならば良い。……些か気にしすぎたか」

 弦一郎の声には明らかな安堵が含まれている。無理もない。狼にとっては、ひいては弦一郎というトレーナーにとっても、これが初めての遠征ということになる。葦名から本数の少ない特急を乗り継ぎ、新幹線に乗り換えて盛岡まで。更に暫く車に揺られて、ようやくここに辿り着く。慣れない環境で起居することもあって、些細なことで調子を崩すことも多いウマ娘にとって、遠征は大いにその資質を問われることとなる。幸いにして狼は十分に太い神経を持ち合わせていたようで、特別体調を崩すようなこともなかった。もとより、寝ると決めればどこでも寝られる程度の技能は備えている。さもなくば、忍びなど務まるはずもない。

「朝食はこれから準備させる。早めに来い」

 それを最後に、通話は打ち切られる。黙り込んだ携帯端末をポケットに押し込んで、狼は部屋を出た。

 遠征者向けの宿舎の扉を開けると、見慣れぬ風景が出迎える。同じレース場ではあるが、葦名のものと比べれば随分と大きい。地方競馬場唯一の芝・ダート両コースを備え、1周1600mに及ぶ大型のレース場。盛岡レース場が、狼の眼前に広がっていた。

 

 広い食堂は、中々の賑わいを見せていた。やはり大きいだけあって、トレセンに所属するウマ娘たちだけでも相当な数がいる。遠征に来たウマ娘やその帯同人員も加えれば、処理能力の限界近い人数がこの施設内に屯していた。

「こっちだぞ、セキロ!」

 人ごみを越えて、大きな声が耳朶を打つ。目を向ければ、強面の大男……鬼庭が大きく手を振っていた。対面には弦一郎の姿も見える。どうやらその一角が、今日出走予定の遠征者向けに確保されているようだった。

「……来たか」

「済まぬ。待たせた」

「気にするな。うむ、顔色もよいな。一安心だ」

 鬼庭はそう言って破顔する。彼がここにいるのは、初の遠征となる教え子たちを案じてのことである。折よくオニカゲは休養期間に当たったため、こと体調面では万全を期したい弦一郎も、正式に帯同を依頼したのだ。

 その弦一郎はと言えば、セキロの様子を一瞥してすぐに席を離れていた。準備させていた朝食を取りに行ってきたらしく、すぐに帰ってくる。内容は一般のトレセン生向けに示されているものとは若干の違いがある。レースに出走するウマ娘、特に遠征で訪れるウマ娘については各自守りたいメニュー等もあるため、手続きを踏めばある程度融通を利かせることができるようになっていた。狼が黙々と食事を進める傍ら、トレーナー二人はこの日の予定について確認していく。

「この時間でマシンルームを借りている。朝のうちに軽く動かして調子を確かめておく」

「そこまでは儂も同行しよう。問題なく終われば、それから九郎を迎えに行かねばな」

 鬼庭の言葉通り、今日は九郎も盛岡を訪れている。どうしても、と希望した九郎に、特に断る理由もない弦一郎が応じた形だ。とはいえ関係者という枠にも入らないため別に宿を取り、手が空いてから鬼庭が引率することにしている。弦一郎と狼は立場上レース場外への出入りが自由でないため、レースが終わるまでは顔を合わせる機会がない。

「あとは短時間のインタビューがある程度だ。場外に出られん以上時間が余るが、適当に潰せ。部屋はパドック召集前まで使っていいことになっている」

 一瞥を寄越した弦一郎の言葉に、狼は最後の一口を飲み込んでから答える。

「……承知した」

 

 

 

 勝負服に袖を通すのは、この日で二度目である。家で着たときはさほどでもなかったが、こうしてコースを目の前にすると、成程、常以上の力が漲るような感触が理解できた。パドックのお披露目前。狼同様に各々の勝負服を身に纏ったウマ娘たちが、控室に集まっている。その中には当然、アグネスデジタルの姿もあった。

 どこか幼い印象の服に身を包んだ彼女は、しかし前回の浮足立った様子とは打って変わって落ち着いて見えた。セキロの姿を最初に見た瞬間こそ、おかしな目つきで即座に指でフレームを作り周囲をぐるぐる回るという奇行に出たものの、それ以降は奇声を漏らすようなこともない。ただ、目ばかりは爛爛と輝いて、セキロだけでなく全てのウマ娘を捉えている。葦名のゴール前、最終直線で見せたあの瞳だ。鑑賞(しゅみ)解析(じつえき)が完全に合一した、全てを見透かすような恐ろしさを孕んだ目。返しウマの動きを見るまでもない。これが、絶好調と称するべき精神状態なのだろう。狼だけではなく、他のウマ娘たちもその異様を感じ取ってか、控室にはただレース前というだけではない静寂が張り詰めていた。

 アグネスデジタルの名が呼ばれる。お披露目のステージに向かう間際、彼女はセキロに歩み寄って、一言だけ告げた。

「勝負です。今日は、最初から最後まで、ちゃんと走りますから」

 狼は応えなかった。この後のレースのことを思って、ただ、静かに視線を逸らした。

 

 盛岡レース場のダート1600mコースは、第2コーナー出口から大きく伸びるポケットからスタートする、かなり独特の形状を取っている。その特性上スタンドからはスタート地点は遠く離れてしまう。狼の視力であっても、そこにいるはずの弦一郎、そして九郎の姿は探し当てられなかった。

 大外、10番枠のゲートに身体を収める。盛岡のレースは通常14人までで施行されるが、この日は折悪しく回避するウマ娘が多く、GⅠ級競走としては珍しくわずか10人立てでの実施となっていた。偶数枠の一番外であるため、ゲート入りはセキロが一番最後だ。全身の力を抜き、目を閉じて耳を澄ませる。ゲートの開く音に合わせて、全力で蹴り抜く。

『今、スタートしました!』

 若干出遅れた一名を除いて揃ったスタート。中でも勢いよく飛び出したのはやはりセキロであった。

『さあ先行争いは大外10番セキロ、おっとこれは押して押して突き放す!』

 遠くのポケットから、向こう正面へと近づいてくるウマ娘たち。大型ビジョンに映し出されるカメラ映像は、いささか近くから撮っていることもあって距離感がつかみづらい。自然、スタンドの観衆の視線は、よく見える位置へと近づいてきた実物に注がれる。ざわめきが広がった。

 

『――後ろは3バ身、4バ身と離してこれは独走、セキロまさかの大逃げ態勢だ!』

 

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