隻腕の狼、ダートに駆ける。【SEKIRO×ウマ娘】 作:hynobius
スタート直後に存在する、およそ400mにも及ぶ長大なポケット。緩やかにカーブを描いて向こう正面に接続するその部位の存在は、このコースにおける枠順の有利不利をほぼ無いも同然のものにしている。大外枠に入れられた狼であったが、このレースに限ってはそれはマイナス要因とはなりえない。飛び出しよくスタートを切った狼は、後続を突き放して単騎大逃げの形を作ろうとしていた。
デビュー戦以降逃げ切りを決めたことも幾度かあれど、舞台が大きくなるにつれて、ペースを正しく測って好位につけるレースが多かったセキロである。スタンドの観衆のみならず、ビジョンに大きく映る後続のウマ娘たちの表情からも、多少なりとも動揺が窺えた。スタートから300m、後ろに4バ身半の差。
「先ずは上々か」
呟く弦一郎の意識は、およそ一週前の記憶へと遡っていく。
「策は、それしかありませんか」
「策と言えるほど上等なものではないがな。博打に近い」
狼と弦一郎、それに加えてエマ。三人で額を突き合わせて得られた結論は、「競り合わない」というひどく単純で、それでいて困難なものであった。
怨嗟の炎が見られたのは、先のセキロのレースに加えて、
「とはいえ、その状況はウマ娘のレースにおいて当然に起こりえるもののはず。ですが、貴女と彼女以外では、そのようなことなど聞いたこともない……寧ろ、そういった環境では何かに目覚めたような力を揮うウマ娘もいると聞きます。貴女と彼女にだけ、
「それを明かすまで、悠長に待つわけにもいかん。直近のレースをどう乗り切るかだ」
考え込むエマに対して、弦一郎の反応は冷淡だが現実的だ。目前の課題に対する答えとして出てきたのが、まともな競り合いを発生させない大逃げを打つことであった。
『博打』と評した弦一郎の言葉通り、問題は幾らでもある。1600mという距離を序盤から突き放して走り切ることなら、狼にはできる。だが、それを盛岡というアウェイの場で、完全に計算して出来るのか。葦名とは違い、坂のあるコースで潰れないのか。遠征の疲れが出たらどうなる。他のウマ娘の動きはどうなる。
だが、より良い方策が見つからない以上は、賭けであっても押し通すほかない。残る時間を費やして、弦一郎は浮かび上がった不安を一つ一つと潰していった。
スタミナ面は、とにかく練習しかない。絶対大丈夫などと言えるはずもないが、持久力寄りのトレーニングで出来る限りは補った。幸いにして、天気も良好。全体のペースが上がる重バ場よりは、狼が一方的に歩法の恩恵を受けられる良バ場の方が望ましい。遠征不安も、経験豊富な鬼庭の手を借りて万全に整え、実際に好調を維持したままレースまで持ち込めている。盛岡のコースでのペース感覚については、限界はあるが映像を元に通過時間の目安を叩き込む。どこぞの精密機械とまでは言わずとも、十分に優秀な狼の体内時計であれば、それなりの自信を持って走れるはずだ。
残る懸念は、他ウマ娘の動き。正直なところ、ここまでの勘定にはいくらかの楽観的な予測が含まれている。即ち、狼の大逃げが他ウマ娘のペースを破壊すること。他の強豪ウマ娘が己の走りを徹底できるのなら、無理を重ねたこの戦法ではきっと抗い得ない、それが現状の予想であった。
そして、それが達成できたとしても、今度は真逆の懸念が生まれてくる。弦一郎の視線の先、向こう正面に差し掛かって、その不安が現実のものとなろうとしていた。
セキロの後方4バ身には5枠5番のウマ娘。中央から岩手へ移籍してきたベテランで、ここ盛岡でも重賞を含め、多くのレースを逃げ勝ってきた。レース前から先頭でペースメイクすると予想されていたウマ娘でもあり、そのペースの正確性は信頼に値する。故に、これを大きく離して走るのがセキロにとっては必須条件であり、そしてここまでのところそれは無事に達成できていた。
アグネスデジタルの姿が、狼の脳裏を掠める。恐らくは前走のような真向の勝負を期待しているのであろう、あまりに真っすぐ見つめる目を、狼は見返すことができなかった。初めから真面に勝負する気はないなどと、どうして言えようか。浮かびかかる後悔を、頭を振って押しのける。
問題はもう一人。セキロの大逃げに食らいつこうとして後方1から1バ身半につける4番のウマ娘。中央所属の彼女は昨年のこのレースの覇者でもあるが、その時は好位からの差し切り勝ちだったはずだ。それが慣れぬ逃げを打ってまで、セキロに迫りつつある。スタートの出が良すぎたか、或いは相手関係等の要因で、セキロ同様の博打に打って出たのか。いずれかは分からないが、これ以上接近されれば紛れが起こりうる。
「……ここが使いどころか」
一度までなら良い。そう言い渡されていた切り札を切る。逃げ切り狙いである以上、最後に残しても意味はない。第3コーナーへ向けての上り坂、脚が緩みやすいタイミングで構えを取る。
豪脚。
坂を力任せにぐいと登り、リードを広げる。代償として微かに感じる脚の熱と、心中に響く喪失感を無視する。もう少しで第3コーナー。盛岡レース場はここが最高地点だ。そこさえ越えれば直線入り口までは下り坂、無理に力をかけずともある程度速度を維持できる。僅かの辛抱だ。気力が尽きたか、足音が突き放されて遠ざかる。
下り坂を抑え気味に駆け抜けて、第4コーナーへと向かう。事前に決めていた目標は3バ身。それ以上に突き放せていなければここは十分に加速して、ロスがあっても外に振る。インコースを狙ってくるはずの後続と、まともに身体を合わせて競り合わないための保険であった。
ちらり、と後ろを盗み見ようとして、狼の背筋に冷風が吹き抜けた。既知の感覚だ。これは、
「アグネスデジタルっ……!」
想定よりはるかに近く、斜め後方僅かに1バ身。出走前から変わらぬ瞳が、やはり狼を真っすぐに捕まえている。
誤算であった。ペースを壊す、それが効き過ぎたか。焦って早く仕掛けてくれればいい、そう思ってはいた。だが、あまりにも早く……そして、速い。並大抵の相手であれば狼を捉えることも出来ずに落ちていくのだろう。だが、下り坂を利用した、脚の負荷も無視するような迷いのない最速のスパートが、あっという間に狼へと肉薄する。
アグネスデジタルにとっても、無理なはずの仕掛けだ。後続が勝手に崩れるのでなければ、狼共々きっと直線の坂で捕まる。そのリスクを冒してでも、勝負しなければならない。そう信じたか。
切り札はもうない。直線はまだ長い。アグネスデジタルの体は3コーナーからの加速で外へと振られ、狼の更に外側。狼とバ体を合わせるような形であり、同時に狼の逃げる先を奪う一手でもあった。ルールに背くような妨害ではないが、狼にとっては反則行為などよりよほど悪い。
己のものでない呼び声が、脳髄に響く。
直線入り口。視界にゴール板が映りこんだ瞬間が、終わりであった。
視界が白く染まる。
声が響く。
炎が、溢れる。