隻腕の狼、ダートに駆ける。【SEKIRO×ウマ娘】   作:hynobius

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 不穏の種は、確かにあった。狼にはひどく長く感じられたこの二週間、九郎は一度も顔を見せることが無かったのだから。さらに、レース前から様子はおかしかった。目先のトレーニングや治療にかまけて目を逸らしていた現実を、狼はこの日最悪の形で見据えることとなった。

 

 休日の昼間。九郎は家にいるか、でなければ書置きなり言伝なりを残して遊びに出ているはずだ。しかしその様子は欠片もなく、なにより、居間や玄関にあったはずの私物がそっくりと消え失せている。私室を訪ねてみれば、こちらももぬけの殻だ。大きな家具を除いて何も無くなった空虚な部屋を前に、狼はただ茫然とするしかなかった。

「……九郎様は、どこに」

「あれはもうおらん。お祖父様の手引きのようだ。帰る気は無いらしい」

 弦一郎からは吐き捨てるような答えとともに、小さな便箋が投げ渡された。折りたたまれた表には、九郎らしい几帳面な字で狼の名が書かれている。開いた中には、ことのあらましがごく簡単に記されていた。他所に身を寄せる、信頼のできる相手であるから心配はいらない。探すようなことはするな。一番最後には、一行を空けて、『世話をかけた。すまない』との一言があった。

 立ち尽くす狼に、弦一郎は何も声をかけなかった。もとより、九郎の存在をもって縛り付けていただけの関係だ。それが消え失せた以上、弦一郎からの言葉は何の意味も持たない。

 

 

 エマが訪れたのは、その翌日である。この日もリハビリの序でに怨嗟について話すべく訪れた彼女は、口数は少ないながらも精力的に励んでいた狼の変わりように、戸惑いを禁じ得なかった。

「――何があったのですか」

 そう問うても、狼はただ茫として俯くばかりであった。挙句に、今日の業務――当然、競走能力回復のために必要な工程だ――を済ませようとしたエマに返ってきた答えがこれである。

「要らぬ」

「何故ですか」

「もう、レースには出ぬ」

 エマの頬がぴくりと動いた。一見して穏やかなままに見えるその顔には、静かな怒りが湛えられている。それきり口をつぐんだままの狼に何を訊いても無駄と悟って、彼女は向かう。事情を恐らく知っているだろう唯一の人物のもとへ。

 

 弦一郎は、二人がいた客間からは離れた居間で、一人PCに向き合っていた。ちらりとだけ上がった顔が、また興味なさげに画面へと戻る。その様子は、エマの神経を更に逆撫でるには十分なものであった。

「弦一郎殿。何が、あったのですか」

「見ての通りだ。あれはもう走らんと言っている」

 苦々しい口ぶりだ。弦一郎の意志ではない、となれば。エマの脳内で、聞き知った事物が一つの像を結んだ。

「九郎殿ですか」 

「ほう。何をどこまで聞いた」

 驚いたように、弦一郎は眉を跳ね上げた。狼と九郎との関係。前世など知らぬ常人であれば、些か理解の難しい関係である。狼が敢えて口にしなかったことであったが、話に現れる幼い主と邸宅に住まう少年の存在とを結び付ければ推察は容易であった。

「人質、というわけですか。時代錯誤な」

「は、どうでもよかろう。過ぎたことだ」

 それより、と弦一郎は語気を強める。

「貴様も説得に手を貸せ。昨日からずっとあれだ、あのままでは()()()()()

「お忘れのようですが。私はもともと、彼女がレースに出ることには反対しております」

 鋭い舌打ちとともに、弦一郎は顔を歪める。ことこの件において、エマは別段弦一郎の味方ではない、という事実を今更思い出したのである。そんなことも思慮のうちから外れているというのが、弦一郎の焦燥を如実に物語っていた。

「ですが。レースに出ようが出まいが、リハビリはやってもらいます」

 競走能力が必要とされなくとも、正しいフォームで歩く、走ることができるというのは重要だ。老人などは、歩行が困難になった途端に気力も喪失し、その他の疾患を発して衰弱することが少なくない。狼が何と言おうと、その職責においてエマが手を抜くことなど、彼女自身が許すはずもなかった。

 

「いつまで、そうしているのですか」

 再び狼の目の前に現れたエマの表情に、既に怒りはない。己が責務を果たさんとする決然たる意志のみが、瞳に宿っていた。

「……不要と言った」

「レースの有無は関係ありません。後遺症が残った脚で、世を呪って過ごすようなことを、九郎殿が望んでいるのですか」

 その名前が、狼の顔を僅かに上向かせた。もう、主に出来ることはない。だが、せめて望まれたように生きるべきではないか。澱んだままの瞳に、差し出された掌が映った。そういえば。いつか、井戸底で蹲っていた己の目の前に落ちてきた折文。あれは、彼女が落としたものだったか。狼は、黙ってその手を取った。

 

 

 

 

 

 更に一週間の時が過ぎたこの日、狼と弦一郎は経過確認のために病院へと足を運んでいた。種々の検査を受け終えて、医師から現状を伝えられる。狼の心中とは裏腹に、回復は想定以上に順調らしい。恐らくは、物理療法から栄養管理に至るまでをウマ娘の故障に最適化した、エマの尽力によるものであろう。この様子であれば、完治までの期間は一月弱縮みうる、とのことであった。

 

 さて。一通りの用事を終えて帰路に就こうとした二人を呼び止める声があった。

「奇遇だな、セキロ。それに、弦一郎殿」

 女性にしてはやや低い、そして狼にとっては耳馴染みのある声。振り返ってみれば、そこには灰色の髪を豊かに蓄えた、壮齢のウマ娘の姿がある。彼女は狼の瞳を覗き込んで、僅かに顔を顰めた。

「……また、つまらん目をするようになった」

義母(はは)上。何故ここに」

「野暮用よ。何、もう済んだ」

 

 何が奇遇なものか、と内心弦一郎は毒づいた。この性質の悪い老人――今はウマ娘だが――が実に面倒な相手であることを、弦一郎はよく知っている。今日とて、その野暮用など存在しないに違いない。ここで出くわすために、わざわざ赴いてきたのだ。狼から聞き出したか、或いは使用人あたりと付き合いを作っていても不思議はない。ここに現れた用件というのも、察しはついていた。

 

「時に、セキロ。……戻るつもりはないか」

 これだ。南部杯以来、幾度もこちらを訪れようとしていた梟を、弦一郎は何かと理由をつけて断り続けてきた。理由は単純。狼を手元に連れ戻そうとしているのが明らかだからである。親莫迦め、と心中罵りながら、弦一郎は思考を巡らせる。

 狼にしてみれば、梟にそう言われて断る理由などないだろう。だがそれでは困る。九郎という札こそなくなったが、どうにか心変わりを起こさせられないか。手元から離してしまえば、その機会も喪われる。そうして弦一郎がなんとか先延ばしにし続けていた対面を、梟は偶然を装って成立させたのだ。

 

「梟」

 答を返そうとした狼に被せるように、弦一郎は声を発する。

「今はまだ治療中だ。貴様の家は通院には些か遠い。完治までは待て」

「そうするか。ならばまた……そうじゃな、二月先にでも話すとしよう」

 僅かに時間は稼いだが、明確な期限が作られてしまった。恐らくは最初からこのつもりだったのだろう、梟はあっさりと引き下がってみせる。小さく舌を打つ弦一郎の隣で、狼はただ茫と梟の背中を見つめていた。

 

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