隻腕の狼、ダートに駆ける。【SEKIRO×ウマ娘】 作:hynobius
正月という行事は、ほとんどの日本人が共有する祝祭である。狼や弦一郎の生きた戦国の世においてもそれは変わりない。とはいえ、かつての狼は忍びであり、実際ともに浮かれるようなことは無かったのだが。今の世にあって、特に昨年などは九郎のたっての希望もあり、年越しに初詣、正月遊びと連れまわされたものであった。
この年、九郎不在のまま迎えた正月。狼は元々意欲が低かったものの、エマと、意外にも家人が強く主張したことにより、この年も正月がらみのあれやこれやはしっかりと執り行われることとなった。狼も、やるというなら特に逆らう理由もない。最後まで面倒がっていたのは弦一郎であったが、ワーカホリックの気のある弦一郎とて、相手がいなければやれる仕事などたかが知れている。官公庁が概ね停止する三が日の間は、正月に付き合うしかないようであった。
さて。初詣だの何だのと、まだやることのあった元日に比べ、残り二日、狼は暇である。そんな第三日目。年賀状の山を早々に捌き終えた弦一郎が投げつけてきた言葉に、狼は困惑するばかりであった。
「じきに客が来る。用意しておけ」
ここ最近の弦一郎の狼に対する態度は、一言でいえば放置である。狼に対する干渉を諦めているようでありながら、脚の具合は気にかけている様子であり、自分の邸宅で養い続けてもいた。狼からすれば些か不気味である。
その弦一郎が、急に言い出した『客』の存在。取材の類であればそう明言するであろうし、狼が付き合う義理もない。というのに、弦一郎の表情は狼が取り合わない、という可能性を全く考えていない様子である。何かある、と考えるのは自然であった。
「何のつもりだ」
「さあな。会えば解ろう」
どうやら、説明を加えるつもりは一切ないらしい。二人の耳に、インターホンの音が響いた。さっさと席を立って玄関口に向かう弦一郎に、狼は追及を諦めてその背中を追う。ごめんください、と扉越しに少女の声がした。さて、どこで聞いたものだったか。記憶を探り当てる前に、弦一郎が戸を開け放った。
「あっおはようございますぅ……」
ちょうどセキロと同じ視線の高さに、空色の瞳が瞬いていた。いつかダートの上で見た姿とよく似た、幼げな雰囲気を醸し出す服と容姿。彼女は表情を変えぬまま固まったセキロとたっぷり数秒間見つめあった後、小さく頬を搔きながら口を開いた。
「えへへ、来ちゃいました……なんちゃって」
一応は見舞い、という名目であるらしい。高級過ぎない消え物という無難そのものの手土産を渡し終えたアグネスデジタルは、わざわざ弦一郎が出してきた茶を前に戸惑っていた。
「脚の具合は、どうですか」
「もう、ほぼ治った」
遡ること二週間、狼の脚はついに完治との診断を受けている。全力のトレーニングのみは暫く控えるようにと言われていたが、その制限も数日のうちに外れるだろう。後遺症の類もない。そう告げれば、デジタルの顔には解りやすく安堵の色が浮かんだ。事故を間近で見ていた分、心配は強かったのだろう。そして次にデジタルの口に上ったのは、狼が最も訊いてほしくないそれだった。
「じゃあ、またレースで会えますよね!復帰戦はいつごろに?」
「……その予定はない」
どこか上ずったような声で訊ねるデジタルの視線に耐えかねて、狼は顔を逸らしながらそう答えた。
「えっと、まだ目途がついてないだけ、ですよね……?」
「いや。もうレースには出ない。引退だ」
「理由を、お聞きしても……?」
「……元々わけあってレースに出ていたが、必要なくなった。それだけだ」
狼の語調に含まれる明確な拒絶の意を受け取って、アグネスデジタルはそれ以上の理由の追求を諦めた。
実のところ、デジタルはセキロの去就について、おおよそのことは聞いていた。今聞いたような体で話を進めようとして、下手な演技を晒す羽目になってしまったが。見舞いというのも、セキロの容体を特に気にかけていたのも、嘘では無論ない。ないが、わざわざ葦名に足を運んだのは、様子をトレーナー経由で訊ねた際に、弦一郎側からの言葉があったためである。
曰く。脚は順調に治っているが、怪我以降塞ぎ込んでしまい走る気を無くしている。元気づけてやれないか。とのことであった。
嘘である、とは瞬時に直感した。元々、弦一郎を葦名で見かけたときから、違和感はあったのだ。ウマ娘も、トレーナーも、ファンたちもみな
そんな弦一郎の言葉だ。セキロを走らせたいのは事実としても、塞ぎ込んでいるなどという理由ではないだろう。だが、嘘であれ好都合だった。セキロにまた走ってもらいたいのは、デジタルとて同じだ。レースの予定もなく、時間を捻出するのは難しくない。自分如きの言葉が、何かになるのなら。そう思って、ここまで来た。
「やめた後、なにかしたいお仕事があったり?」
「いや。考えていない」
短く切り捨てるような返答。本当に、何もないのだろう。他に目標や夢があってやめるのではない。必要だったから走っていて、必要なくなったから走らない。レースに何かを乗せることをしない、そんな態度。それは、実際走っているときのセキロとは、どこか食い違っているようにも見えて。
アグネスデジタルは、それをとても、『もったいない』と思った。
……それは、一オタクの分を越えた願いだ。布教は押し付けがましくしない。自分の願いより推しの幸せ。『触らない、ねだらない、邪魔しない』を掲げるデジタルが、望むべきではないものだ。
そう、己を戒めながらも。デジタルの口は、ついに言葉を紡いだ。
「あたしは、セキロちゃんと走りたいです」
ああ、言ってしまった。そう思いながらも、後悔は不思議となかった。見ているだけのオタクでいいなら、レースなど走らなかった。この我儘を止められないから、アグネスデジタルは走るのだ。不思議そうな色を浮かべたセキロの瞳を真向から見返して、デジタルは言葉を重ねた。
「あたしじゃ、走る理由にはなりませんか」
まだ、アグネスデジタルは、目の前の少女の全てを見ていない。一度目は、自分のミスで見逃した。二度目は、相手のトラブルで掴み損ねた。もう一度戦いたい。セキロは、そうは思ってくれないのだろうか。その口元は、一文字に引き結ばれたままだ。
「セキロちゃん。あたしはあれから、二回レースで走りました。ビデオとか、見てくれましたか?」
「……いや。見ておらぬ」
テイエムオペラオーと、メイショウドトウ。最強最大の推しに挑み、破った秋の天皇賞。さらに遠く、広くを目指して、勢いそのままに駆け抜けた香港カップ。どちらもずっと、デジタルの夢だった。そして、最高の戦いだった。ウマ娘のレース、その根源的な魅力にきっと満ち溢れていた。
自分が誰かの推しになるなんて、ずっと考えてもみなかったけれど。不屈の
「だったら。見てください、あたしの走りを」
セキロが、何かを受け取ってくれると信じて。