隻腕の狼、ダートに駆ける。【SEKIRO×ウマ娘】 作:hynobius
何を考えている。地に伏した弦一郎の頭を見下ろして、狼の心中には疑問が渦巻いていた。エマも同じだ。ただ困惑する二人の耳を、続く言葉が追い打つ。
「もう、貴様に命ずる謂れも、取引する種もない。故に、頼む」
弦一郎の言葉は、狼からしても真実だ。もはや弦一郎の言葉は命令にも、交渉にもなり得ない。ただの懇願だ。
「俺に叶うことならば何であれ力を尽くす。今一度、走ってくれ」
無理だ。エマは、そう思った。狼にとって弦一郎は前世における仇敵であるばかりか、今世においても九郎を質に取る敵でしかなかった。そんな相手の頼みを引き受ける人間が、どこにいるだろうか。そんなエマの推測とは裏腹に、狼はじっと弦一郎を見つめてから口を開いた。
「……顔を、上げろ」
狼の瞳が、床から上げられた弦一郎の瞳を真正面から覗き込む。真暗い瞳だ。深い絶望と、その上に決然たる意志を湛えたその色は、狼にひどく既視感を覚えさせた。あの時……薄野原で、己の首に不死斬りの刃を突き立てた時と、よく似た色。
言葉と態度のどこかに偽りがないかと探そうとして、止める。思えば昔から、詭計の類とは縁のない男だった。小策を弄することが全く無かったわけではないが、大忍びのような奸計にはほど遠い。彼の戦は、力を得ること、ただそれにのみ注がれていた。ある種の愚直さすらも感じられるその在り様は、或いは国主としては不適格であったのかもしれない。だが今この場においては、狼を動かす一要因足り得た。
「怨嗟は、どうする」
「……セキロ殿?」
「確かではないが、当てはある」
思わず遮ろうとしたエマの言葉に、被せるようにして弦一郎が答えた。狼の視線が、エマのほうへと移動する。
「エマ殿。真か」
「……はい。ですが、あまりに不確実に過ぎます。万一を思えば認められません」
「万一があれば、俺が止める」
あっさり言ってのけた弦一郎に一瞬唖然として、我に返ったエマは眦を吊り上げた。
「それがどういう意味か、解っているのですか。全力疾走するウマ娘の前に飛び出すなど、自殺に等しい。……猩々の件は、五体満足で戻った一心様のほうがおかしいのです。如何に武芸の心得があったとて、貴方は――」
「無論承知の上だ。『何であれ力を尽くす』と言った通り。命と引き換えてでも貴様を無事に帰す」
今度こそ絶句したエマを視野から外して。どうか、と問うてくる弦一郎の目に、狼の天秤が揺らぐ。
アグネスデジタルが、『共に走りたい』と言った。
弦一郎が、『走ってくれ』と乞うた。
望んで、望まれて。それでもなお、主の安寧のためと、押しとどめようとする心に。
『其処許は、もう少し
不死の生涯を越えた同輩の言葉が、最後の迷いを砕いた。
「……九郎様を、見つけ出して貰おう」
口に出すのは、弦一郎に向けての要求。己が走らされること、傷つくことを厭うたであろう主の心を、
主の望みをそのままに果たすことが、必ずしも行くべき道とは限らない。そんなことを、今更に思い出した。あの時、天守で盗み聞いた言葉。命と引き換えに不死断ちを為そうというそれを、そのまま聞き流すべきだったろうか。……無論、否だ。あの時はついに、常桜の花を手に入れることは叶わなかったが。届かなかった最も善き結末に、今ならば手を伸ばせるやもしれぬ。
「九郎様を連れ帰り、元の通りに暮らす。その後はレースを走ろうが走るまいが、結果がどうであれ、九郎様の満足行く暮らしを保証する。まず、ここまではやって貰う」
「ああ」
狼が求め、弦一郎が応える。主と従者を入れ替えた、奇妙な二人組が生まれて。――御子の忍びである狼は、この日死んだ。
「……何故、そこまでして、セキロ殿を走らせるのですか」
セキロが席を外し、弦一郎と二人きりとなったエマが口を開く。彼女にも、弦一郎がただ虚言を弄しているわけではない、ということは解った。この男は、本当に己の命など投げ打っても構わないと、そう考えている。
故に、エマは何故と問うた。
「割り切って、他の手立てを探すこともできたはずです。葦名のため、というのなら」
確かに、セキロの影響力は魅力的なものとなった。葦名レース場に人を呼び戻し、金を呼び込み、外の人間にも葦名の名を広めた。……だが、葦名レース場とウマ娘競走は、あくまでも振興策の一つに過ぎなかったはずだ。弦一郎がトレーナー業の傍ら、種々の膨大な業務を熟していることを、エマも知っている。それらを差し置いて、金も立場も、挙句には命すらも危うい、人任せの博打に打って出る。エマの眼には、決して分がいい賭けとは思えなかった。
そこまでして、何故セキロに拘泥するのか。そんな疑問は、弦一郎によって一言のもとに切り捨てられた。
「代わりなどあるものか。……俺が幾人いたところで為せぬことを、あれならば為せる」
『……俺は、結局、何も出来なかった』
あの夜に口をついて零れた言葉は、偽りなく弦一郎の本心だ。葦名のためと足掻いた弦一郎の努力は、全てが空回り、或いは己に牙を剝いた。新たな生を享けたとて、
己がどう足搔いたところで、葦名の滅びは止まらぬ。それが、弦一郎にとっての真理であり続けた。かつて敵として相対した、忍びの存在を見出すまでは。
あれは、弦一郎とは違う。
そうして手に入れてみれば、やはりよく走った。無敗のまま葦名の頂点まで駆け登り、中央のウマ娘まで退けてみせた。
――例え一度敗れるとも、命を賭し、必ず主を取り戻す。怨嗟の炎など、何程のものであろうか。己が仇敵は、その程度の存在ではないと、葦名弦一郎は固く信じている。
「――ほう。戻らぬと申すか」
「ああ」
狼は、義母を見上げて、揺るぐことなくそう答えた。微かに細められた目が、狼を上から下まで見回す。ややあって、梟は腕組みを解いた。
「ふむ。随分と、変わったようだな。レースに戻るか」
「ああ」
「ならば、まずは鍛えなおす所からか。……儂の用はもうない。精々、励め」
短い肯定を受けて、梟は踵を返す。果たして、何を言ってくるか。心中穏やかではなかった弦一郎は、表に見せぬようそっと胸を撫でおろした。