隻腕の狼、ダートに駆ける。【SEKIRO×ウマ娘】 作:hynobius
2月17日。やや肌寒い風の吹く曇天の空の下、東京レース場には満員の人が犇めいていた。GⅠ、フェブラリーステークス。ダート戦の頂点の一つにして、中央GⅠ戦線の嚆矢たる一戦を待ち侘びて、場内には独特の熱気が渦を巻いている。
時に芝レースの人気の前に霞みがちなダート戦線であるが、ことこの日に限ってはそうではなかった。芝のレースが盛り上がっていない、というわけでは無論ない。今まで絶対的であった世紀末覇王がついに敗れ、ジャパンカップ、有馬記念とクラシック世代の娘が栄冠を勝ち取った。次なる世代の最強は、果たして誰か。その熱い注目をともすれば上回りかねないほどに、『葦名の怪物』の巻き起こした旋風が、人々の耳目を惹き付けているのだ。……その熱気の幾分かは、意図して導かれたものでもあったが。
怪物。セキロにその名が奉られたのは、ただその強さだけではないのだろう。遡ること三年前、岩手から来て地方初の中央GⅠウマ娘となった『怪物の再来』は、人々の記憶に新しい。果たして今年も、その再現が見られるのか。期待に満ちた人々の視線の先に、ついにこの日の主役が現れた。
『――さあ待ち兼ねた今日の一番人気、故障明けでも圧巻の強さを見せつけました、実質無敗の葦名の王者セキロ!』
騒めきの中、立派な地下バ道を通ってバ場へと出る。光とともに歓声が一気にセキロの耳へと流れ込んだ。人、人、人。広大なコースの向こうにいる大観衆が、まるで一つの巨大な生き物のように唸り声を上げている。その中に九郎の姿を探そうとして、狼は途中でそれを止めた。
案ずることはない。来ているはずだ。『情報屋』とやらが更に幾人かの人間の口を挟んで、九郎の身を寄せる先を突き止めた時。狼はただ、レースを見に来てほしいとだけ言付けた。ただ言葉で説くのでは、きっと足りぬだろう。自分が、今度こそ望んで走っていることを。九郎と憂いなく共に在れるのだと、その目で確かめてもらうのだ。
足裏で、乾いた砂の感触を確かめる。摺り足のようにして脚を広げ、ゆっくりと走りだせば、その一挙一動毎に歓声が上がった。
――不思議な感覚であった。かつて、狼にとっての戦は孤独であった。己が戦いを望む者など、九郎やエマなど、目的を同じくする僅かな人のみ。翻って今はどうか。弦一郎に請われた。変若の御子からは、弟妹とともに応援するとのメッセージを受け取った。オニカゲと鬼庭も、街で出会った名も知らぬ人々も。そして何より、競う敵すらも、狼が走ることを願っている。
『本日は二番人気となりました、芝ダート海外、戦場不問のアグネスデジタル!ダートの冠をもまた一つ、戴く事が出来るのか!』
アグネスデジタル。セキロが再び走る契機となった
東京レース場のダート1600mは、向正面の芝から始まる。踏みなれない、良く整えられ引き締まった芝の感触を確かめながら、スターティングゲートへ入る。短いような、待ちきれないような。そんな時間が過ぎて。
『全ウマ娘ゲートイン完了。体勢整って、フェブラリーステークス――今スタートしました!』
二つの身体が、勢いよくゲートから飛び出した。
『ならば……隻狼。お主を、そう呼ぼう』
あの老人と初めて出会ったのは、大手門の出丸でのことだった。今や己の本名となった、セキロという名を与えられたのも。城に潜む鼠狩りを対価に教えを受け、身に着けた技は幾度となく狼を助けた。新たな生を受けてからも、レースにおける使い方を教えられて後、強敵と相対する度にこの技を頼った。剣聖、葦名一心。生涯をかけて剣を磨き続けた男の、始まりの技。
葦名一文字。普段のダートと較べて格段に固く、
『いいスタートを切ったのは5番セキロ、他はやや出遅れたか!?さあ先行争い、外からの主張もあっさり突き放してこれは単騎駆けか!』
内寄りの枠番は、ことこのレースに限ってはやや不利であるとされている。理由は単純、外側のほうが芝の上を走る距離が長く、ダートを走るより速度を付けやすいためだ。だが、セキロにとってそれは大きな不利足り得ない。一瞬でトップスピードにまで加速し、短い芝部分からダートへと踏み込む。
『邪魔立てするか、御子の忍びよ』
葦名弦一郎。仇敵と初めて相対したのは、抜け道の先の薄野原でのことだった。そして、最後に相対したのも。主と御子を奪われ、復讐を定めた。幾度も己を殺してみせた彼の技は、狼の知らぬ女武芸者のもの。巴流と呼ばれる異端の技だった。
浮舟渡り。文字通り、空を踏み渡ることすら可能とする異端の歩法が、乾いた深いダートの上においてもセキロの走りを支える。向正面の長い直線、セキロはリードを保ったまま走り抜けた。二番手には根岸ステークスで下したウマ娘、アグネスデジタルの姿は中団にあるのか見えない。だが、セキロは直感していた。彼女は来る。遠くから背中に突き刺さる重圧をどこか心地よく感じながら、セキロは第三コーナーへと差し掛かる。
『……ただ、拾ったのよ。屍かどうかも分らぬものを、野良犬に食わせてやることもあるまい』
荒れ寺で目覚めて初めて会った男は、不愛想な口ぶりに反して何かと面倒見がよかった。腕を失った狼に忍び義手を与え、仕掛けを仕込み、技を伝えた。そのうちの一つと、レースで競い合ったオニカゲの技から着想を得た走りがある。重い忍び義手を回転の軸として、コーナーの最内、最短を高速で走り抜ける。葦名では使いようがないが、左回りであるこの東京レース場であれば。最終直線の立ち上がり、セキロは未だ先頭を維持している。
だが。当然、これで終わるはずがない。背後で膨れ上がる気配。中団のウマ娘たち、その隙間をするりと抜けて、脚を溜めに溜めた勇者が襲い掛かる。――最前列は、譲らない。その気迫が、セキロの背を射竦めた。ゴール前直線の前半部は、高低差2mに及ぶ坂。それに差し掛かって苦しげな表情を浮かべた二番手のウマ娘をいとも容易く躱して、アグネスデジタルとセキロは身体を並べ、競り合った。
『――狼よ。我が血と共に、生きてくれ』
忍びにとっての主とは、己の意思とは関わりなく選ばれるものだった。主従の掟に縛られ、血の呪いによって縛られ。だが、どちらも失くした新しい生にあってなお、狼は九郎の忍びであろうとし、九郎は狼の主であろうとした。右掌に鍔を握りこむ。幼い主が楔丸の謂れにあやかり、守ろうとした証。噴き出した炎を纏って、セキロは駆ける。
その熱を至近に感じながら、アグネスデジタルの視線は揺らがない。見る必要はないのだ。今、セキロのことならば、全身に感じているのだから。それを
ゴール前、それでもなお、ほんのわずかにアグネスデジタルが先んじた。