夜。寝静まったS議員の邸宅の中で、私はそっとベッドから抜け出した。下働きとしてこの屋敷で働き始めてはや数ヶ月。屋敷の内部は目を瞑っていても歩ける程度まで熟知し、主からペットの犬に至るまで、その行動パターンも把握済み。失敗の許されないミッションだけに、随分と時間がかかってしまったが、それも今日で終わりだ。
S議員が持つ、巨大な金庫。その攻略が、私の任務だった。その中身は他の議員のスキャンダルであるとも、或いは自身の不祥事の証拠であるとも言われているが、定かではない。少なくとも、S議員が議会でも有力な派閥を形成できている理由はその金庫にある、というのが、おおよそ全ての人の間で一致している見解だ。そして私の仕事は、それを奪い、依頼主へと届けることだった。
つい最近宛がわれた部屋の扉を静かに開き、音もなく廊下に滑り出る。邸内を勝手気ままに歩き回る猫は今日は定期的な夜の散歩だ。私を見咎めるものは誰もいない。全ては順調だった。
影に隠れながら、一歩ずつ階段を上がっていく。もう慣れたもので、年代物の床を一切軋ませることなく進むことなど造作もない。警備の者も、僅か数分前に通り過ぎている。
その金庫は、二階にある長い廊下の一番奥に鎮座していた。数あるセンサーの隙間を抜け、じっと目を光らせる監視カメラの極僅かな死角を渡り歩く。ここはどれだけ時間をかけても問題はない。警備が次にここを通るのは十五分は先で、誰かしらがうっかり目を覚ます時間帯に至っては二時間は後だ。
金庫の前に立ち、その二メートルはあろう扉を軽く見上げる。解錠の手順は多いが、どれも難しいものではない。暗証番号も当然割り出し済みだ。
最後の鍵が開き、ガチャリという決して大きくはないが確かな音が鳴る。ここまで来ればもはや成功したも同然だ。この仕事が終わったら休暇を申請しよう。報酬は一ヶ月は楽に過ごせる金額だ。しばらく外国に行くのもいいかもしれない。いずれにせよ、この屋敷での仕事とは今日でおさらばだ。
思いの外軽い扉をほんの少しだけ開き、私は身体を滑り込ませた。警備の者は実直だが、何も起こらないことに慣れ金庫のチェックはいい加減だ。これでもう私を邪魔するものは完全にいなくなった。後はじっくり目当てのものを探すだけでいい。
金庫の中は想定していたものとはかなり違っていた。金庫というよりは、一つの部屋のようだ。手始めに、近くに置かれていた一枚の紙を手に取り、吟味する。そこには、こう書かれていた。
『親愛なるスパイ諸君へ
ようこそ私の金庫の中へ。君のお陰で今回もいい情報が手に入るよ。例えば君の依頼主とかね。それでは扉が開かれる時まで、ゆっくりここで過ごしたまえ。
P.S. 金庫の扉の内側はただの壁になっている。無論オートロックだ。諦めて酒でも飲んでいるといい。数十年もののとびきり上等なやつをね。』
私の後ろで、ガチャリという決して大きくはないが確かな音が鳴った。