暗い部屋で天上を見上げていた。今は朝だろうか? 多分そうだ。夜の静けさとは違う静寂がある。身じろぎをした拍子に、ソファがぎしっと鳴った。
起き上がる気分になれない。とにかく体に力が入らなくて、このまま一日中こうしていたい。カーテンくらいは開けた方がいい、と思ってもそれすらやる気が起きない。
首を回し、近くのテーブルに置いてある手紙を見た。昨日の夕方、初対面の男性が持ってきた手紙。人を信用していなさそうな、赤の他人に興味がなさそうな感じの男の人は、彼からの頼まれ物だと言った。しばらく彼から音沙汰がなくて、少し心配になっていた私はその場で中身を検めた。
内容は、確かに彼が言いそうなことだった。言いそうなことだったけど、私はただひたすらに困惑した。
彼が死んだ? もういない? どういうこと? どうして?
質の悪い冗談のようで、でも完全に否定できない自分がいた。彼の纏っていた雰囲気から態度から、薄々は感じ取っていたのかもしれない。だけど、こんなに唐突にそのときが来るなんて思いもしなかった。
ショックを受け止められない様子の私へ、手紙を持ってきた男性は話したいことがあると言った。
そして知った。彼を取り巻いていた状況、その本当の形を。
彼、エヴァン・ハンフリーズは事故のせいで脳に障害が発生していて、記憶が突然欠落してしまうことがある。本人からはそう聞いていた。だから思い出の写真ではなく、見たことも行ったこともない場所の写真を眺めるのだと。
手紙を持ってきた男性はルークと名乗り、彼の治療に携わっていた軍医だと言っていた。
ルークは語った。
エヴァンが軍の特殊部隊に所属していたことや、私に嘘をついていることを密かに悩んでいたことや、世界を守るためにテロリストと戦い続けたこと。……そして彼がどのようにして死んだのか。
エヴァンは自分が軍人だということは話してくれていたけれど、最前線で戦っているなんて一言も言っていなかった。後方支援が自分の主な仕事だと。
私は楽観し過ぎていたのだろうか? 危険は少ないと聞き、周囲にありふれて存在する身近な人間の死というものを想像していなかった。前線にいないからといって、銃弾が飛んでこない保証などどこにもないというのに。
エヴァンは時々、不安を口にしていた。不意に私のことをすっかり忘れてしまって、戻ってこられなくなるんじゃないかと怖くなる。そう零していた。
私はその度に「私は君を覚えているから、君が私のことを忘れても、絶対に私が会いに行くよ」と言ってきた。だから大丈夫と。でも、私は予想できていただろうか? 彼が決して会えないところに行ってしまうことを。一緒に歩んでいた道が突然断たれてしまうことを。
もっとたくさん話しをしておけば良かった。もっと色々な場所に一緒に行っていれば良かった。もっと一緒に写真を撮っておけば良かった。もっと彼との思い出をたくさん作っておけば良かった。後悔が絶え間なく浮かんでは私の心をかき乱す。なぜ私は、もっと……。
お店の開店時間が迫る。開店の準備をして、お客さんを迎え入れて、笑顔で接客をする。いつも通りにいつも通りのことをしていれば少しは気分も紛れるだろうか。
分からない。どちらかといえば出来る気はあまりしないけど。
「……」
のっそりとソファから立ち上がる。気怠かった。目前にあるテーブルに目を落とす。エヴァンからの手紙が置いてある。動き始める前にもう一度、読みたくなって手紙を手に取った。と、何かがひらりと床に滑り落ちる。なんだろうと思って拾い上げてみると、それはルークに手紙と一緒に渡された名刺だった。そういえば、何かあったら連絡してと言って彼から渡された気がする。すっかり忘れていた。
一瞥してテーブルに放ろうとして、ちらりと気になるものが目に入る。名刺の右下隅に書かれた『気持ちが沈んで戻らないときは裏面を』という文言。
なんだろう。名刺を裏返してみる。裏面には手書きと思われる走り書きがあった。
『エヴァン、彼が手紙にどんなことを書いたかは僕は知らない。でも彼には少し言葉足らずな部分があるから、ちょっとだけ余計なお節介をしようと思う。今、君はとてつもない悲しみと後悔に襲われているだろう。あまり親密とは言えない間柄だった僕でさえそうなのだから、君のショックは僕とは比べようもないほど大きい筈だ。でもどうか、自分を責めるのだけはやめてほしい。彼は必死に戦って、世界を守った。それはどうしてか、よく思い出してほしいんだ。そして、彼のためにも自分の幸せを追い求めてほしい。僕も出来るだけ協力するから』
真摯に言葉を選び、したためただろう文章。なにか、頭に引っかかった部分がある。なぜ彼が必死に戦って、世界を守ったのか……? そう、確か手紙には。
―あなたの周りごと守ってやらなきゃいけないと思ったんだ―
私にとっての世界、それは決して広くない。家族と大事なお店、そしてお店で寛ぎ、笑顔で日々を過ごしていくお客さんたち。
彼が守りたかったものは私と、私の幸せを構成する世界……? そのために、恐怖と苦痛に耐えて必死に――
それなら、私がこれからやるべきことは。
右手の小指に嵌めていた指輪をギュッと握りしめる。エヴァンの名前が刻まれた銀色のリング。彼を忘れないという証。
胸の奥に温かく切ない熱が灯る。目を閉じてそれを意識すると、自然と涙が頬を流れ落ちていく。はっきりとした決意が体の重みを嘘のように消していった。
彼に語りかけるように、私は想いを吐露する。
「私、幸せになるよ。あなたが好きだったお店をずっと続けていく。色んな人と出会って、思い出を沢山作って、最高の人生を生きてみせるから」
あなたが守ったこの世界で。
あなたが続けさせてくれる私の幸せを精一杯噛み締めて。
いつか天国であなたに会えた時、数え切れないくらいのありがとうを伝えるために。
さあ、始めよう。幸福のための第一歩を。
とりあえず、そう。コーヒーを一杯飲もうか。
これにて完結でございます。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。