ボーダレス ホルダー   作:紅野生成

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36 もう一度 笑って

「いったいどうしたのさ?」

 

 紅を泉に放して戻ってきた和平が、床で背を丸め蹲るヤタカと、唇を引き結んだイリスの状況が掴めずに目をぱちくりさせた。

 

「ゲン太、元気になったんだろ?」

 

 遠慮がちな和平の問いかけに、ヤタカは閉じた瞼にシワを寄せる。

 

「いつもより濃い墨が浮かんで、大人の達筆な筆字が浮かんだ。歯を嵌めて、戻ってきたのはゲン太じゃなかった」

 

「そんな馬鹿な……」

 

 ヤタカが投げつけて床に散らばった下駄に、恐る恐るといった様子で近付いた和平は、上から横からと患者を診るように眺め回していたが、突いても返答のない下駄にひとつ頷くと、ひょいと鼻緒を指に引っかけ床に並べて下駄を置いた。

 下駄を見下ろして腕組みした和平は、う~ん、と何度も唸りながら顎を捻り、首を傾げを繰り返す。

 

「ゲン太の代わりに出てきたのは誰だったの?」

 

「寺にいた慈庭」

 

 ヤタカの答えに、和平は不思議そうに目を大きく見開いた。

 

「ずいぶんな大物の名がでてきたもんだ。ゲン太も押さえ込まれて出てこられないってことかな? どんな大物だって、死は肉体を奪う。あ……ごめんね、ヤタカの兄ちゃん」

 

「気にすんな」

 

 こくりと頷いて、和平は天気でも占うかのように履いていた下駄をひょいひょいと脱ぎ捨てる。

 

「隅っこで小さくなっているゲン太が、表に出てこられたらいいんだろ? 怖じ気づいているのか力が足りないのかわかんないけれど、どんな奴だって、一瞬だけなら爆発的な力をだせる。火事場の馬鹿力ってやつさ」

 

 和平が膝を曲げ、目一杯に右足を持ち上げた。

 

「さぁ、戻って来いよゲン太! とっておきの気付け薬を嗅がせてやっからよ!」

 

 何をする気かと耳を澄ますイリスと、力の入らない視線を向けるヤタカの前で、和平の右足がどすん、と音を立ててゲン太の鼻緒に押し込まれた。

 

「ぼーっとしてると、大事な木肌の奥にまで臭いが染みついちゃうぞ?」

 

 和平がにやりと笑う視線の先で、並べて置かれた片下駄が、カタカタと横に小さく震えだす。ころりころりと三回転した片下駄は、震える鼻緒をぴんと立てたかと思うと、下駄に足を突っ込む和平の脛目掛けて投石の勢いで飛んで行った。

 

「痛いっての!」

 

 避け損ねた和平が脛を押さえながら、片足で小屋の中を跳ね回る。

 和平を蹴り飛ばした片下駄が片割れの側に戻っていく様は、まるで子供がケンケンをしているようだった。

 

――くさい

 

 木肌に渦巻いた薄墨が文字を成す。

 綺麗だが、どこか幼さが残る筆使いにヤタカが四つん這いのまま駆け寄った。

 

「ゲン太? ゲン太なのか?」

 

――しぬる

 

「よし、間違いなくゲン太だ!」

 

 脛をおさえたまま、満足そうに和平が笑う。目元を隠したイリスも、ほっとしたように引き絞っていた唇を緩め白い歯を覗かせた。

 息を吐いたヤタカは、失望と安堵を織り交ぜた表情を浮かべ、それでもゲン太の鼻緒を指先で弾いてどかりと床に座り直した。

 

――わへい きらい

 

「どうしてだよ?」

 

――くさった においする

 

「せっかく助けてやったのになんだよ! 恩知らずのへなちょこ下駄!」

 

――ともだちに おんうる

 

「だから? なんだよ~?」

 

――さいてい

 

「このやろ~!」

 

 履こうとする臭い足と、履かれまいと逃げる下駄が狭い小屋の中を駆け回る。いつもなら雷を落として止めるヤタカも、少し疲れた笑みを浮かべるだけで、二人の追いかけっこを止めることはしなかった。

 

「紅のことも兄ちゃんのことも聞かないってことは、ずっと見ていたんだろ? 下駄の奥底で意識だけはあったんだろ?」

 

 和平の問いかけに、ゲン太は三角に尖らせた鼻緒をしゅんと下げる。

 

――みてた

 

――はなせない 

 

――やくたたない

 

 ひとこと浮かばせるたび、ゲン太の文字が小さくなるのを見て、和平はあ~んと白目を剥いて腕を組む。

 

「ゲン太が悪いわけじゃないだろ? 人間でいうなら喉腫らして高熱出して寝込んでいたようなもんさ。そんな余計な反省すんなよな……ケンカしづらいっての」

 

――はんせい しない

 

「よし、その意気だ!」

 

――わへい さいてい

 

「やっぱり反省しろ……」

 

 へへへっ、と笑って床に和平が座り込むと、停戦だと言わんばかりにすたすたとゲン太はイリスの元へ向かおうと歩き出した。

 その鼻緒をひょいと摘みあげたのはヤタカ。

 じっと見つめるヤタカの視線に耐えかねたのか、ゲン太はむずむずと下駄の身を揺らしいる。

 

「ヤタカの兄ちゃん、ゲン太に訊きたいことがあるんでしょう? 席を外した方がいいなら、声がかかるまで泉で紅と遊んでくるよ?」

 

 立ち上がりかけた和平を、ヤタカは片手で押し留める。

 

「構わない。この騒動に巻き込まれたついでと思って同席してくれ。ここで耳にした話をどう使うかは、あえて問わない。小屋を出たら忘れてくれると、気が楽なんだがな」

 

「約束は出来ないよ。でも、無駄に話を広めたりしないから」

 

 声をたよりに近付いてきたイリスも、ヤタカの横にすとんと座る。慈庭の名が出てからイリスの口数が減っているのはヤタカも感じている。口にすべきではなかったかと後悔もしていた。イリスもヤタカも、慈庭という名には弱い。

 

「ゲン太の意識があったなら、あの時も下駄の内側から見ていたんだろ? 自分以外の意思が、大切な木肌に文字を浮かべているのを。俺は確信している。あの文字を浮かばせたのは慈庭だ。ゲン太は、どう思う?」

 

――あれは じてい

 

――じてい つまらない

 

「慈庭はつまらないというより、恐いぞ? まあいい、話してくれ」

 

 ゲン太が一度に浮かべられる文字は少ない。少ない言葉を重ねて、物語が綴られていく。

 ゲン太でさえ、少し前まで忘れていた物語り。遠い日に交わされた、少年と下駄の物語は、日が沈み月が顔を出すまで続いた。

 短い言葉を繋ぎあわせ、三人は辛抱強くゲン太の言葉に心を傾けた。

 

 

 

 

 

 遠い昔、ゲン太はただの下駄だった。ただの下駄にその頃の記憶があるわけもなく、木肌に滲みた記憶を掘り起こし思い出したのは、異物と呼ばれる存在になってから。

 木肌に滲みた思い出は、どれも温かいものだった。ゲン太はただの下駄で、一人の少年に履かれていた。少年の足は小さく、大人用の下駄など大き過ぎて重いというのに、なぜかその男の子はゲン太だけを履き続けた。

 ぼさぼさの黒髪でゲン太を履く少年の名はスエ吉。子沢山の夫婦の間に産まれ、ゲン太も兄のお下がりだった。

 

「こわれちゃった……」

 

 ある日の夕方、下駄の片歯が折れて外れたゲン太を胸に抱き、スエ吉はおいおいと泣きながら山道を歩いていた。月も高く昇ったというのに、泣きながら歩いたせいで村がある方向すら解らない。

 それでもスエ吉は、大切な下駄が壊れたことだけを悲しんでいた。深い闇の向こうで獣の遠吠えが聞こえても、茂みが踏まれて近くを何かが通る気配がしても、スエ吉はひたすらゲン太を胸に抱いて泣き続けた。

 

「なんだ? 光ってる」

 

 泣きはらした目を擦って、スエ吉は淡い光を放つ物へ近付いていく。

 それは手の平に持てるほど小さな丸太だった。

 薄緑の光を放っていたかと思うと、いつのまにか光は黄金色に変わり、目を見張っている間に薄紫の光を放つ。

 

「きれいだなぁ。天国の光かなぁ。泣いてたから、知らないまに獣にくい殺されてたんかなぁ。下駄、こわれちゃったし」

 

 スエ吉の目から、再び涙がポロポロと流れ出た。泣きながら丸太を手にすると、小さな丸太は手の中でぶるりと身悶え、七色の光に包まれた。

 

「わぁ……」

 

 ぱちくりさせた瞳から落ちた涙が、七色の光を潜って小さな丸太の木肌に滲みていく。 七色の光が丸太に滲みた涙に引き寄せられるように萎んでいく。

 丸太の表面に七色の膜を張る光が、スエ吉の目前で爆ぜた。

 

「うわ!!」

 

 驚いてでんぐり返ったスエ吉は、それでもゲン太の鼻緒を掴んで放さなかった。そして自分の右手の中で、うっすらと青白い光を放つものにじっと見入った。

 

「丸太が削れて……板になっちまった」

 

 小さな手の中にあったのは、熟練の職人が切り出したように正確な形を保つ小さな板。不思議そうにしげしげと見ていたスエ吉は、あっと声を上げてゲン太を目の高さに持ち上げた。満月が真上から、木々の隙間を縫って少年を照らし出す。

 真剣な目つきで唇を引き締め、ゲン太の歯が取れた凹みに、不思議な板を押し当てる。

 

「やった! はまった!」

 

 本来なら木槌でも使わぬ限り嵌るはずがないというのに、スエ吉は素手で嵌めた歯が引っ張ってもぴくりとも動かないことに何の疑問も感じなかった。大切な下駄が直ったことが、ただただ嬉しかった。

 

「なんだろう……疲れちゃった」

 

 木の根元でことりと横になったスエ吉は、ゲン太を胸に抱いたまま静かな寝息を立てた。

 眠りながら右耳を何度も指先で掻いていた。

 山の四方八方から、無数の遠吠えが響く。遠吠えは山肌に木霊して、夜の空気を振るわせた。獣はまるでスエ吉を避けるように遠巻きに様子を覗い、けっして近付いて来ようとはしなかった。

 

「へっくしょん!」

 

 山の朝は冷える。ずずっと鼻水をすすり上げて目を覚ましたスエ吉は、ゲン太を見て昨夜のことを思い出し、満面の笑みを浮かべて裸足に着いた泥を手で払った。

 どういうわけか不思議と腹は減っていなかった。昨夜はしくしく痛んだ足の裏の小さな傷も、薬を塗ったように痛みが無い。

 

「仏様が助けてくれたんだ、きっとそうだ」

 

 信心深い両親に育てられたスエ吉は、朝日に手を会わせてそっと小さな頭を垂れる。下駄の鼻緒に指を入れようとした瞳が驚きに見開かれた。

 

「下駄が……しゃべった」

 

 ずっとはき続けてきた下駄の木肌に、もくもくと薄墨が渦巻いたかと思うと、短い文字が浮かび上がった。

 

――あし きれいする

 

 まだ名も持たぬゲン太が、初めて文字を浮かべた瞬間だった。

 

「うん、汚い足で履かれるのが嫌なんだね?」

 

 スエ吉は継ぎ接ぎだらけの着物の袖でごしごしと足の裏の汚れを落とす。

 

「ねぇ、どうして急に話せるようになったの? きみは誰?」

 

――しらない

 

「へんなやつ。それじゃ名前を決めような。う~ん……下駄だから……ゲンちゃん!」

 

――いやだ

 

「じゃあ、どんな名前がいいのさ?」

 

――げんのしん

 

「なに古くさい名前いってんの? それって偉い人が昔使った名前だろ?」

 

――げたのじょう

 

「ないない。はい、ゲンちゃんで決定!」

 

 こうしてまだ名を持たないゲン太はゲンちゃんと名付けられ、このことは二人だけの秘密となった。

 

 忙しい畑の手伝いの合間を縫って、スエ吉はゲン太と遊んだ。誰にも見られない山の中で、色んなことを語り合った。スエ吉は不思議に思っていた。山で迷子になったあの日も、ゲンちゃんを履くとどうしてか迷うことなく村に帰れた。今もそう。どんなに山奥に入っても、ゲンちゃんを履けば、迷うことなく村に辿り着くことができる。

 

 スエ吉はいたずらっ子だった。畑で集めたミミズを人の懐に投げ入れたり、人様の草履を紐で結んで、履いた途端にすっ転ぶのを見て喜ぶいたずら小僧。

 腹の虫は鳴いても、毎日が楽しかった。

 

「ゲンちゃんが話してくれると、ほんとに楽しいや。大人になってもずっと一緒居ような、ずっとずっと」

 

 あの日以来、変化が起きたのは下駄だけではなかった。スエ吉にも異変は起き、だれに気づかれることもないまま体と感覚を侵食していた。

 まるでスエ吉に引き寄せられるかの様に、この世に散らばる異物がちらちらと姿を見せる。

 親の寝静まった夜中に森へ入って遊ぶことの多くなったスエ吉は、異物を見つけても不思議そうにするだけで驚くこともなく、持って帰って大人にみせるような真似もしない。

 異物が近寄ると黙り込むゲン太が、スエ吉にあれらは異物と呼ばれる者だと教えた。

 あの日にスエ吉が手にした光る丸太もまた異物。異物がただの下駄にはめ込まれ、自我が生まれたのがゲン太だった。

 何者かと問われても、この時のゲン太に自分と呼べる過去など少ない。存在している意味さえ、わからないままだった。

 あの日、丸太から姿を変えて下駄の一部となった異物は、光を爆ぜさせたときスエ吉にも易々と入り込んでいた。右の耳たぶは、触ると硬い。それは下駄にはめ込まれた異物と同じ木の欠片。

 

「森で見える奴らも、ゲンちゃんみたいに何か話してくれたらいいのに」

 

 スエ吉は一人呟く。

 最初は面白い物が見えると喜んでいたが、人に言ってはならないモノなのだと気づくのも早かった。

 スエ吉は天真爛漫で、腹を空かせながらも希望を失わず、村の誰よりも利口だった。

 異物のことを唯一話せる下駄は、スエ吉にとって大切な友だった。人のかたちをしていないことなど何の問題があるだろう。悪戯しすぎて一緒に木に括られ、ケンカしてもみくちゃになり、夜の森で一緒に笑った。

 だからこそスエ吉は、ゲン太を手放そうと思った。

 ゲン太を逃がしてやろうと思った。

 

 

 夜の森で出くわした見知らぬ僧侶が、ある日突然村にやってきた。

 森で倒木の腐った穴で光る異物に手を伸ばそうとしたところを、うっかり見られてしまった。音もなく気配もなく初老の僧侶は近づいてきて、少年が顔を上げた時には横に立っていた。

 

「そこに何かあるのかい、坊や」

 

 僧侶は嗄れた声でそういった。次の日に家に突然姿を現した僧侶が変わらず嗄れた声で両親と話すのを見て、スエ吉は森に駆け込んだ。

 緊張しているのか鼻緒を固くする下駄に、スエ吉は優しく声をかける。

 

「ゲンちゃん、あの坊さんは、きっとおらを連れていく。おらは、森で出会った異物達を守りたい。あいつら、こっそり森の奥で生きているだけだろ? あの坊さんは、懐に異物を入れていた。仲良しじゃないよ? だって異物は、懐の中で震えていたもの」

 

 僧侶は不思議そうに目を細め、スエ吉の足元を眺めていた。

 仲良しの存在は、もうばれている。そう思った。

 

「ゲンちゃん、森の向こうのずっと遠くまで逃げるんだ。おらは、あの坊さんに育てられて、いつか考えの違う人間になっちゃうかもしれない。逃げたくなるかもしれない。逃げ出して、親に迷惑をかけるのは嫌なんだ」

 

 ゲン太はじっと耳を傾ける。

 

「ゲンちゃんと仲良しのおらは、今日でさよならだ。でも、おらのこと忘れないでくれよ?

おらも、ゲンちゃんのことは忘れない。代わりに、自分の望む世界を捨てるんだ。全てをゲンちゃんに託して……ね」

 

 スエ吉がにこりと笑う。ゲン太はただ、細かく身を震わせていた。

 スエ吉の指先が、右耳の硬い部分をぐい、と摘む。無理矢理に捻られた耳たぶから血が流れ、小豆ほどの木片が取り出された。

 

「ゲンちゃんにはめ込んだ異物と同じ異物。きっとこれのおかげで、読めない文字がよめたんだろうね? ずっと体に宿しておきたかったな……。兄弟の印みたいで、かっこよかったのにさ」

 

 血にまみれた木片を摘んだ指先が、震えるゲン太の歯に押し当てられた。

 まるで帰る家に戻っていくように、血の染みた小さな木片は下駄の木肌に吸い込まれていく。

 

――スエきち

 

 ゲン太の木肌に文字が浮かぶ。

 ゲン太を見下ろすスエ吉の瞳から、子供らしい光が消えていく。

 

――スエきち

 

 ゲン太は鼻緒をしょんぼりと縮ませた。

 

――いかないで

 

 スエ吉は口元だけでうっすらと微笑み、踵を返し村へと向かう。

 

「さよなら、ゲンちゃん」

 

 追いかけようとしたが、ゲン太は動けなかった。吸い込んだスエ吉の血がそうさせているのか、蜘蛛の巣にかかった虫のように一歩も前に進めなかった。

 ゲン太は涙を流せない。

 木肌の内で、心だけが濡れていく。

 その夜は一晩中、森の獣が遠吠えを響かせた。心の一部を失った少年を懐かしむように、止められなかったゲン太を責めるかのように。

 

 月が傾ぐ頃、動けるようになったゲン太は森を駆け抜けた。村へは向かわなかった。スエ吉はもう居ない。遠くへ旅立ってしまったのだと、木肌に取り込んだ血が感じていた。

 ゲン太は時間を追う事に、己の中の記憶がどんどん失われつつあるのを感じていた。おそらく、スエ吉がそう望み、その念は血と共にゲン太の身に宿ってしまった。

 今になってゲン太は実感していた。本当に恐ろしいほどの力を持った子供だったのだと。記憶を失わせてまで自分との関わりを経ち、スエ吉はゲン太を守ろうとしてくれた。

 そんな想いが愛おしく、悔しくて堪らない。

 

 ある日ぼんやり歩いていた山道で、足を滑らせ崖を落ちた。

 誰も居ない街道に転がったゲン太は、全ての記憶を失っていた。自分が誰なのか、何の為に存在しているのか、解らなくて戸惑ったが、何だかどうでもよかった。

 ただ何か、大切なモノを失ったような喪失感だけが、夜霧と共にじっとりとゲン太の木肌を濡らしていた。

 

 虚無感さえいつしか忘れ、ゲン太は名もないまま各地を渡り歩いて過ごした。

 全てを思い出したのは、何十年も経ってからのこと。

 鬼瓦のような厳つい僧侶に出会うまで、何も思い出さなかった。ゲン太と出会った厳つい僧侶は、指先を僅かに切ると流れた血をゲン太に押しつけた。

 ゲン太の中で乾き切った幼い少年の血が、記憶と共に瑞々しく蘇った。

 

――スエきち?

 

「捨てた名だな……。久しぶりだ。ゲンちゃん……とまだ呼ぶことを許してくれるか? わたしの名は、慈庭」

 

――じてい おとななった

 

「そうだな……。もう一度だけ、わたしの頼み事を聞き入れては貰えないだろうか。友として、頼める者をわたしは他に持たぬのだよ」

 

 厳つい顔で目尻を僅かに下げた慈庭は、少しだけ寂しそうだとゲン太は思った。

 

「もし受け入れて貰えたなら、その時が来るまで記憶はなくなるだろう。何を頼まれたか覚えていない。それは、おまえの身を守る為だから、我慢してほしい」

 

 慈庭が口にした願いを、今のゲン太は思い出せない。

 ただひとつだけ、今なら鮮明に思い出せることがあった。

 願いを引き受けると決めたゲン太は、慈庭にこういった。

 

――おねがい きく

 

「ありがとう」

 

――だから いちどだけ

 

「なにかな?」

 

――わらって

 

「わたしが……か?」

 

――スエきちと おなじえがおで

 

「………」

 

――わらって

 

 戸惑いを隠せない慈庭が顔を伏せる。

 ゲン太は昔そうしたように、思い切り慈庭の脛を蹴り上げた。

 

「痛いな! 乱暴だぞ!」

 

 拳を振り上げ、慈庭が笑った。

 白い歯を見せて、厳つい顔の皺を優しく目尻に寄せて、子供のように笑っていた。

 

 今のゲン太に残る慈庭の記憶はこれだけだった。

 語りながら、ゲン太は寂しくなった。

 もう会えない友が、遠くで手を振り去って行くような寂しさに、木肌に浮かぶ文字が滲んでいく。

 

 

 

 

 




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