「あんたたちは美しいけど、ただ咲いているだけなんだね。あんたたちのためには、死ぬ気になんかなれないよ。そりゃ、ぼくのバラの花も、なんでもなく、そばを通ってゆく人が見たら、あんたたちとおんなじ花だと思うかもしれない。だけど、あの一輪の花が、ぼくには、あんたたちみんなよりも、たいせつなんだ——
『星の王子様』(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著/内藤濯訳)より
ホワイト・グリントが沈んだ。コアを貫いたのだ、もし生きていたとしても、Gジェルが噴き出していたから、戦闘続行は不可能だろう。それをこの場にいる全てのものは理解していた。ミッションクリア。だがストレイドの中で青年だけはAMSに光を走らせ、緊張を解かなかった。
嫌な予感がする。とてつもなく嫌な予感が。その焦燥にも似た思いを通信機ごしに感じ取ったのか、セレンは常の調子で任務終了を告げようとした。
『ネクスト、ホワイト・グリントの撃破を……いや、待て』
だが、それを全て言い終えることはできなかった。レーダーに再び敵を示す光点が生じる。場所は、ホワイト・グリントが沈んだところ。それにもっとも近いストレイドとステイシスは即座に安全装置をかけていたファイリングロックを解除する。離れた位置から近づいていたフラジールもまた、レーダーに気づき、チェーンガンを展開する。
そして、三機に囲まれる状況の中、それは海中から姿を現した。半壊した装甲。折れた装飾。ギチギチと不干渉を起こすAA発振機構。Gジェルが抜け、剥き出しとなったコックピット。もはや満身創痍の体現であった。だがそれでも、蒼い複眼は再び光を宿し、ディスプレイに現れるデータ上では見る見る内に稼働率を上げていく。何よりも、僅かに搭乗者の位置/急所から外れたコアから覗く、リンクス用耐Gスーツからでもわかる痩せ細った男から、機体越しから圧迫感を感じる。普通ならばGジェルが抜けコックピットが露わになった状態でネクストの戦闘を行えばGで圧死をするのは当然であり怖れることはないはずなのに、それを感じさせぬ恐怖。
『……再起動だと! 有り得るのか、こんなネクストが……』
それを間近で感じぬ、データ上とリンクした視界からしか見えぬセレンには、ただ再び瀕死のネクストが再起動したということにしか目がいかないのだろうか。それよりももっと恐ろしいものを、ストレイドの青年は感じていた。
『ふん……どうやら死に損なったようだな』
『中々興味深いデータですね……テストの中のアクシデントとしては上々です』
それとも果たして、それを感じているのは自分だけなのか。ステイシスとフラジールの口調は驚きはしても変わらない。青年は、自分だけがそうだと少し不安に感じすぎているのだと思い、頭を振って、両腕の兵装を向けた。ステイシスも照準する。今度こそ、完全に息の根を止めるために。
だが、二機が引き金を引くよりも早く、復活した閃光は動いていた。
「なっ!?」
『ぬっ!』
それは先ほどまでとは桁違いサイド・クイックブーストの推進力だった。ダブルアクセルと呼ばれる、溜めを行うことで通常の二倍近い推力を引き出すクイックブーストのシステムがあるが、それはブースターの消耗率と扱いの難しさからリンクス戦争時代を最後に使うものの少なくなった稀有なものである。だからこそ、青年も、そしてセレンもそれがその稀少技能であるころに気づいた時、既にホワイト・グリントはそこに、フラジールの正面にいた。
フラジールは驚愕しながらも展開していたチェーンガンを向けることができたのは奇跡に近いだろう。だがその奇跡を上回る速度で、既にホワイト・グリントは詰みの手を打っていた。
ばちり、と常にはない不快な音を立てながらAA発振装置が唸る。ホワイト・グリントを守るプライマル・アーマーが攻性エネルギーへと反転する。反応の遅れるフラジールに、それを止める術も、避ける時間もない。
『AMSから、光が逆流する……!』
フラジールが直後に叫んだ絶叫は、アサルト・アーマーの光にかき消され、その機体はラインアークの巨大な支柱へと叩きつけられた後、上半身を溶かされながら海中へと沈んでいった。
一瞬にしてフラジールを沈めた手負いを前に、残された二人の戦闘意識が最大まで引き上げられる。ホワイト・グリントが二機に振り向く。装甲の表面に浮き出ていた発振装置はただでさえ半壊寸前だったのが今ので完全に止めを刺され、鈍い音と煙を吹かしてホワイト・グリントの中へと戻っていった。これでもう、アサルト・アーマーの脅威はなくなった。それでも、油断をしていいという道理はない。
『青い騎士にでもなったつもりか……まぁいい、何度やっても同じことだ』
ステイシスが先に動く。ストレイドもまたそれに続く。牽制のため、二機は同時にミサイルを放とうとし、次の瞬間、ハッチを開けたストレイドのスプレッドミサイルを、ホワイト・グリントのライフルが撃ち抜いていた。
「うわっ!」
直後に巻き起こった爆発にストレイドが傾き、稼働率が激減する。そして機体を焼かれた痛みは、僅かにリンクスにフィードバックされ、先ほどアサルト・アーマーの余波をもらった時以上の熱さが青年の左肩を襲った。その痛みに気取られた途端、再び銃弾がストレイドの機体を襲い、支柱へと軽く当てられた。
動きを止めたストレイドに構わず、ステイシスがミサイルを発射。まったく同時にホワイト・グリントも分裂ミサイルを射出する。互いにターゲットは、敵機。二機はこれまた同時に回避行動に移り、支柱を壁としてミサイルから逃れる。だが支柱の陰にいたのも一瞬、ミサイルの軌道が壁への直撃コースと決まった瞬間から、既に二機はそこから飛び出し、互いの銃器を構えていたということだ。
正面への位置取り、瞬間火力において、両腕の火器が残るステイシスが圧倒的有利。ホワイト・グリント、ミサイル発射。ステイシスは回避機動を取り、クイックブーストが爆発的な火が灯る。白い閃光、クイック・ダブルアクセル。
『読めているぞ!』
右翼から肉薄したホワイト・グリントに、オッツダルヴァは神速の情報入力によってステイシスに銃剣を振るわせた。だがその銃剣が捉えたのは、半死人のホワイト・グリントではなく、分裂弾頭ミサイルの頭部。その背後には、ミサイルを発射した体勢のままの伝説。複眼が、全てが止まって見えるという存在を、捕らえた。
『バカなっ……!』
至近距離からのミサイル発射。それは発射した機体そのものをも巻き込まれかねない位置、普通ならばありえない、致死すらありえるのだ。そこに何の躊躇もなく、自分の命を差し出してきた。その、革命家としての二面性を持ち、人の死を厭わぬはずのオッツダルヴァでさえ驚愕と恐怖の感情に顔を染め、右腕の銃を引っ込めるというプロセスを頭からはずしてしまった。その結果起こったのは、ミサイルの爆発に巻き込まれ、破壊されるアサルトライフル。そして吹き飛ばされるステイシス。それを追うホワイト・グリント。
オッツダルヴァは即座に、それがリンクス、それが伝説だ、と認識を改める。恐怖を強制的に取り除く。弾数が残り五発を切ったレーザーバズーカを向け、撃つのを思いとどまる。コックピットの剥き出しの今なら正面から撃てば死は確実だ。だが確実に避けられるという強い確信があった。ミサイルもダメだ、距離が足りない。ならばどうするか、とそこまで思考を向けたところで、ようやく支柱から抜け出し、右腕のライフルをホワイト・グリントに向けるストレイドの姿をカメラが捉えた。
『ストレイド、そのマシンガンを貸せ!』
「はぁっ!? 何言ってるんだよ!」
『ええい、さっさとしろ!』
オッツダルヴァの切迫した声に促されるように、青年はちらりと機体ダメージを見る。スプレッドミサイルのダメージが予想よりも大きかったのか、左腕の稼働率が他の部位よりも遙かに下回っている。もはやバランサーにしかならないだろう。低反動のマシンガンとはいえ、長時間撃ってはいられない。ちっ、と舌打ちをして、ライフルでホワイト・グリントを牽制しながら、マシンガンを放り投げる。
ステイシス、クイックブースト/ターン。右腕でキャッチ。左腕用として調節されたマシンガンが若干の不干渉を起こすが、オッツダルヴァはそれを一秒間の処理によって克服、システムを乗っ取り、銃口をホワイト・グリントへと向けた。連射ならばPAは遙かに通り易い、例え直撃しなくても、PAを削り切れる。それを見越して、マシンガンを借りたのだ。
ホワイト・グリントはストレイドのライフルを回避しながら、ステイシスを狙う。ステイシスもまた、それに応じてマシンガンのトリガーを引き続ける。業を煮やし、ストレイドもそのフレーム特性を最大限に生かした加速で持ってホワイト・グリントを追い、三機は夕焼けに呑まれるラインアークを目まぐるしく駆け巡る。その持続速度は優に時速800キロを超えている。
青年は思う。先ほどからだが、なぜホワイト・グリントのパイロットはこの加速の中で原型を留めていられるのかと。機体の装甲もGジェルもなくなった状態で、ほぼ間断なく音速を超え続ければ意識が消えるどころか、身体の柔らかい部分からGに押しつぶされていくというのに。
セレンからあくまでシミュレータで教わったことであり、自身はそうなったことはないが、そうなれば間違いなくAMSの制御などできるはずがない。そのはずであるのに、ホワイト・グリントの機動は鋭さを増していく。ストレイドはそれに着いていくだけで精いっぱいだ。果たして、何がホワイト・グリントを、その心臓たるリンクスを動かしているのだろうか。その想念が、一瞬、青年の思考を奪った。
『バカっ、避けろ!』
「えっ?」
セレンの声で正気へと戻った瞬間、視界一杯にホワイト・グリントがあった。接近されていた、思考が電流となってAMSを駆け巡る時、条件反射の領域で右腕が持ち上がり、コアに添えられて銃口を外した。、複眼と複眼が睨みあう。それは数瞬、直後に、ストレイドの機体は正面から蹴り飛ばされ、再び支柱へと叩きつけられようとしていた。そこに追い打ちとばかりに分裂ミサイルが放たれる。腹部にフィードバックされた痛みに情報処理を鈍らせながら、それに気づくことができ、吹き飛ばされながらも、右背中のグレネードキャノンをパージ、ロックボルトが爆薬で吹き飛び、ふっと浮かんだ瞬間には、ストレイドはその後方まで飛び、プライマル・アーマーを追撃のライフル弾で減少させられながら、支柱へ再び叩き込まれた。そこに来るミサイルは、しかし進行方向に置かれたグレネードキャノンそのものによって遮られ、ストレイドの最大火力を犠牲に妨げられた。
榴弾への誘爆によって通常よりも遙かに巨大な爆炎に遮られたストレイドを無視し、ホワイト・グリントは背後になったステイシスに再び向き直る。その時には、ステイシスはミサイルを発射していた。ホワイト・グリント、OB展開。逃すか、とオッツダルヴァもそれに続き、アクセス。
両者はコンマの差でOBを爆発させ、ラインアークの外苑へと飛翔する。乱立するビル群の隙間をくぐり抜け、ステイシスが僅かに前を行くホワイト・グリントに追いすがり、両腕の火器をここぞとばかりに振るう。それは前時代的なドッグファイトだ。超音速戦闘において、後方をとった方が勝つ。前を行くものは、後ろを攻撃する術がない。だがそれ故に、強引に後方の位置へと陣取る方法を幾つも戦術として編み出しているのだ。
レーザーバズーカ、弾数1。これで最後か、と裂帛の想いをこめて、オッツダルヴァはホワイト・グリントのコアの背を、今までの以上の精度を、それこそライールフレームの限界を超えた精度で持って放った。
だがその直後、ホワイト・グリントは停止した。
『なっ』
相対的にホワイト・グリントの前に躍り出るステイシス。レーザーバズーカはホワイト・グリントの最後のミサイルポッドのジョイントを破壊しただけだ。背後を見れば、まったく変わらぬ速度でステイシスから圧倒的優位を勝ち取ったホワイト・グリントの姿がある。
『この私にオーバーシュートをかけたというのか!?』
音速を超えるオーバードブーストの状態でバックへとクイックブーストをかければ一瞬とはいえ、機体にエアブレーキ以上の急制動がかかる。だがそれは通常のクイックブーストよりもフレーム・パイロットともに遙かに負荷が高く、ましてやコックピットが見えた状態で行う代物ではない。
しかし、伝説はそれをやってのけた。この異常現象・天災ともいうべき現象を前に、一瞬にして混乱に叩き込まれるオッツダルヴァ。その隙を、ホワイト・グリントは見逃さない。五発、ライフルが撃ち込まれた。それはステイシスの
腕部間接部を、オーバードブースターを、メインブースターを違わず貫き、破壊した。ガクリ、と爆炎を背から吐きだしてステイシスが海へと墜ちていく。
『メインブースターがイカれただと!? 狙ったか、ホワイト・グリント!』
叫び、着水。サイド・バックブースターも、間接部をやれらた拍子に、今回の苛烈な戦闘での無理無茶が一気に現れたのか思う様に作動しない。結果それは、ステイシスの海上での無防備、そして無常を示した。
『よりによって海上で……クッ、ダメだ、飛べん! 浸水だと……馬鹿な、これが私の最後と言うかっ! 認めん、認められるか、こんなこと……!』
沈む。いや飲みこまれていく。海という大いなる怪物に、人の生み出した怪物に乗り、その王者となった男が、たった一度、飛ぶ術をなくしただけで丸飲みにされていく。それは小鳥を食らうヘビのようでもあり、弱肉強食の体現でもあった。王者は叫び、必死に足掻くが、それでも翼は動かない。もがいて、飲まれる。翼を傷つけられた鳥のように。そして最後に、突きあげられた右腕が何かを掴もうと開閉し、その姿は完全に消えてなくなった。
『水没!? 馬鹿な、あの程度で……』
セレンが叫ぶ。だが青年は、あの程度で、とは到底思えなかった。遠目から見ても、あの五発の弾丸は正確に推進器を破壊していた。故に、飛べなくなるのは必然だった。問題はむしろ、これからだ。
『単機でやれというのか……』
セレンの呟きに心中同意しながら、唾を飲み込む。はたと気づけば、喉がからからだった。レーダーに感、オッツダルヴァを倒して、残る最後の得物を狩るために戻ってきた白い死神だ。その武器はもはやライフル一丁だけだ。それはこちらも同じだが、稼働率は若干ではあろうが、こちらに分があるだろう。左腕は死んでいるが、右腕にはまだ万が一のための格納兵装がある。
だが、それでも、勝てる気がしない。理屈ではないのだ、人間が捨てようとしたはずの、動物的本能が叫ぶのだ、捕食されるのは自分であると。
『……退いてください』
不意に、ホワイト・グリントを介した通信。最初の警告以降一切口を開こうとしなかったホワイト・グリントのオペレーター、フィオナ・イェルネフェルト。一瞬、彼女の言っていることが、青年には理解できなかった。
『既に結果は見えています』
見下した言葉、見下した口調。だが声音だけは、震えていた。それは泣き出しそうな子供が、無理やり大人のふりをして、我慢しているようなもの。見たこともない女性を、青年はなぜか、幼い顔をしているのかもしれないと、まったく関係ないこと考えてしまった。
『……どうする。こんな状況だ、機体の損傷もある、撤退をしても構わん』
珍しく青年の師は、彼に作戦放棄の提案をしてきた。つまりはその例外を作らなければならないほどの状況だということだろう。正直に言えば、青年もまたそれに首肯したかった。逃げ出したいのだ。先ほどまでの戦闘もそうだが、自分のできたことと言えばあの高速戦闘についていくことだけだった、まともに撃ち合える気がしない。ついていけるかも分からない。今更ながら、手も震えてきた。アームズフォートを落とした時に感じた震えとはまた違うもの、絶対的な死への恐怖。それが刻一刻と迫りくる。決断しなければいけないのだ、今。
セレンの問いもまた、その戦力差と、青年の心中を察してのものだろう。
『……答えが出ませんか?』
フィオナの声。青年は顔をあげた。セレンもまた、むっ、と明らかな敵愾心を抱いて聞き耳を立てる。それほどまでにその声音は、敵に向けるものではなく、この場にそぐわなかったからだ。
『もし、答えがないのなら、考えてください。貴方が戦う理由を、どうして戦うのかを』
『何だ貴様は……こちらに退けというかと思えば、今度は戦闘意欲を煽るのか? 何がしたいのだ?』
『……私にも、わかりません』
『話にならんっ』
セレンが声を荒げて、フィオナを切り捨てる。だがそれとは別に、青年はフィオナの言った言葉に思考を奪われ、埋没していた。戦う理由、果たしてそう呼ばれるものが自分にはあったであろうか。リンクスになったのは、自分を拾い上げ、こうあれ、と育て上げたセレンのおかげだ。そして彼女は、答えを見つけることが最後の条件だ、といってリンクスとしての最後の訓練項目を終わらせた。
その答えとは、即ち戦う理由だろうか。それとも答えを求めることが戦う理由だろうか。果たして答えはそのどちらかか、しかしどちらでもあってどちらでもないような気がした。詰まる所、疑えば疑うほど、答え/戦う理由から遠ざかっていった。思考に体が支配されていく。リンクスにはあり得てはいけない、余所見のようなものだ。考えれば考えるほどに、道に迷う。ストレイド/迷い子、それはネクストの名称ではなく、自分自身を指していた。
その想像の海を破壊するかのように、アラームが鳴る。
『呆けるなバカがっ!』
セレンの叫び。顔をあげれば、既にホワイト・グリントは距離を詰め、銃口の狙いをストレイドに定めていた。先ほどのようにいきなり画面全体が埋まっているようなことはないが、BFF製特有の射撃精度であれば充分な距離だ。戦闘意識に戻るのと、ストレイドに回避機動が伝わるのは同時だった。ライトサイド・クイック、刹那の前までストレイドが棒立ちしていた場所を専用撤甲弾が貫く。
反撃にまったく同じ弾頭を見舞う。当然の如く避けられ、更に接近される。迂闊に撃ってこないところを見るに、もはや向こうの残弾数は少ないと推測。一方ストレイドの051ANNRは支援射撃がメインだけだったおかげか、辛うじてネクスト一機相手取る分には残っている。それでも無駄弾は撃てない。格上が相手ではそれも怪しい。仮に散発的に充てられたとしても、プライマル・アーマーの存在で互いにジリ貧だ。
それならば、と思い出すのは、ステイシスがホワイト・グリントに仕掛けていた近接戦闘。AAを搭載していないストレイドでは、その間合いでしかもはや勝利の可能性はない。恐らくはホワイト・グリントも同じ考えだからこそ、近づいてきている。
やってやる。疑問・疑念を心の奥底に、AMSの光の中にかき消し、Gジェルの中を拡大された脳波が煌くほどに深化をする。ストレイドはリンクスであり、リンクスはストレイド。右腕の握るライフルに重みが増す。それを感じるとともに、前方へブースト。ホワイト・グリント、クイック。その構え、短槍を引き絞るよう。
「ぃいやあああああ!!」
古式の、今は亡き武人と呼ばれる人種が放つ気迫とまった同じ叫びが自然と青年の口から洩れ、ライフルを突き出した。ただ突き出したのではない、右腕のクイックブーストを使った、加速した槍。ホワイト・グリントもまた、矢の如き槍を繰り出す。
ガゴッ、という音が響いた。互いの得物が衝突し、反動で弾かれた音だ。二機はそれぞれの獲物に必要以上の負荷が与えられぬよう、くるりとその場で回転する。その向きは反対、しかし速度は互角。銃を水平に構え、互いの頭部が来るだろう位置に銃口を据える。
一回転、やはり同時に、二機はそれぞれの頭部に銃口をぴたりと当てた。そこで動きが止まった。公演場所を間違えた演武のような珍妙さ。ブースターの余波で生まれた風が海にさざ波を起こし、地平線に足をつけた太陽が、最後の輝きとばかりに赤く輝く。さながら絵画のように、最後の最後に残された沈黙であった。
「なぁ、アンタ……アンタは答えを持ってるのか?」
だからか、青年の口から自然と、今まで疑問を持たなかったことが不思議なほどのものがすとんと零れ落ちた。ホワイト・グリント、白き閃光、企業崩しの伝説。これだけの戦いを繰り広げて尚、再起動をして尚、剣を持って火の粉を振り払った。その理由とは、このラインアークであろうか。それとも二人の絆だろうか。プライドだろうか。感傷だろうか。言葉にできるありとあらゆるものが青年の心と体をAMSを通じてストレイドにも通じる。
白きリヴァイアサンはその輝く複眼は、見定めるようにストレイドを目一つ一つに反射する。通信機から、何をしている、というセレンの叫び、それだけを今は切る。聞こえなくなっただけで、こちらの音声は聞こえるようにはしてある。そして待つ。このまま再び戦闘が行われるというのならそれもいいだろう。だが青年には、こうして相手が止まっている以上、何かしらの反応があることを信じていた。
『……かえ』
長い沈黙の後、ようやく返答があった。誰かが息を呑む音。通信機の向こうの誰かか、それとも自分か。
『戦え……今はそれが、道になる』
戦え。その言葉は、祈れ、とも言っているようだった。だが同時に返答としては十分なもの。
「それが、答えに通じている」
自分のものにも。ホワイト・グリントのものにも。言外に込められた言葉は、互いの意志の確認のようでもあった。青年はただ、眼前のネクストのコアの中でコードに繋がる男が、理由/信念/答えという存在を持っていたことをわかっただけで、今は充分だったのだ。無論、何なのかは知りたい。
その知りたいという欲動を満たすためには、戦うしかないのだ。
「なら……」
夕焼けが、もう半分、海へとその身を沈めた。
「いくぞ」
その時に煌く、一際赤い陽光が、マズルフラッシュにかき消された。
ライフルの銃口は、同時に光った。紙一重で二機は頭部を逸らし、次の一手を狙う。蹴りの届く距離ではない、使えるのは、文字通り獲物一つ。運動性能がわずかに優れたアリーヤの腕部が唸り、ホワイト・グリントの頭部を追う。白い閃光の銃がそれをくんと持ち上げ、ストレイドのコアにロックする。ストレイド、AMSリンクレベル上昇、僅かな手首の動きで銃が下に円を描いて閃き、ホワイト・グリントの銃身を持ち上げ返す。半瞬、マズルフラッシュ。掠る弾丸はストレイドのコア上層の表面を撫でる。
直後に互いの得物が、あの奇妙な音を鳴らして再び打ち付け合い、吹き飛ぶ。握りしめ、保持。銃口は前を向いたまま、否、敵機を見据えたまま。二人のリンクスがAMSを介し、ネクストが異能の身体能力を持つ戦士へと変えていく。水上のグラディエーター、コロシアムと化すラインアーク。狙うは、銃口と弾丸、二つで一つの刃が突き刺すべき急所。その奪いあい。もしたった一手遅れた瞬間、読み違えた瞬間、決着がつくだろう、AMSの光の彼方を目指すような、異常な闘争。それ故に、干渉して散りゆくプライマル・アーマーのコジマ粒子は、ネクストが吹き出し血のように、二機の周囲を鮮やかに彩る。
二機のネクスト/巨人の戦士が鳴らす音は、これまでのものより遙かに小さく、しかし地平の果ての大輪の華までも響き渡った。
『貴方達は、昔の私たちに似ている、いえ同じ気がしたんです……』
通信機から聞こえるホワイト・グリントのオペレーターの言葉に、セレンは何も言わず、その眼にラインアークで既存のネクスト戦術には到底ありえぬ荒唐無稽な戦闘を繰り広げる二機を収めながら、聞いていた。オペレーター兼マネージャーであるセレンはカラードに所属するリンクスと専属のオペレーターに関しては調べられるだけ調べている。上位にいけばいくほど企業によってそのプロフィールや履歴は不明瞭なもの、プロテクトが高いものになっていくが、しかし企業に属さぬホワイト・グリントのパイロットとフィオナ・イェルネフェルトに関しては一部のものを除き、比較的簡単に判明した。
二人それぞれの過去は関係ない。今直面している問題の場合は、二人が共にいてからの過去からだ。即ち、かつてのネクスト研究施設としてもっとも有名であり、リンクス戦争終結直後にその姿を地図から消したアナトリア・コロニー時代。そしてそこから、今こうしてラインアークに身を寄せるまで。
「お前たちのように、最後の最後までせせこましく身を寄せ合っている、と? バカバカしい、そんなことをするなら、私は……」
『違います。迷っているということです』
虚を突かれ、セレンの口が動きを止める。そして見えぬ女の顔を、代わりに通信機を額に皺を寄せ睨みつける。
「迷う? 私が? 残念だがそれはあいつであって、私ではない」
『ならなぜ、貴女はネクストを降りたのですか、霞スミカさん?』
封じていた名があっさりと鼓膜を震わす。小娘が、内心舌打ちし、セレン・ヘイズ、いや霞スミカは剥がされた仮面を半分に割って身に付け直し、対話を再開する。
「ほう、よく私の名がわかったな? どこから調べた」
『以前にラインアークに攻めてきた時がありますよね。その時に調べた貴女の名前から推測し……今、カマをかけました』
「……はっ! まんまとしてやられたわけか!」
確かに自分の名が思いつくものであればすぐに見当がつくものであるという安直さだと自覚はしていたが、まさか証拠も何もない憶測だけであてられると、セレンはまったく想定をしていなかった。思わず、笑い転げたくなる。あんな作戦中にすすり泣く様なオペレーターとして未熟なものに正体がバレるなど、滑稽以外の何物でもない。
だがしかし、通信先の相手は、それを許してはくれない。
『名前を変えたのは、リンクス戦争で自分が死んだと思いたかったから、ですか?』
「……勝手な思い込みをするな、単純に私の身体がAMS負荷に耐えられないようになってきたから引退しただけだ。私自身の答えなど、当の昔に……」
『あるのなら、今の貴女がそうなのですか? もしそうなら、どうして貴女はパートナーのネクストにあんな名前をつけたのですか』
うるさい、と思ってしまった。まるで親に叱られた子供、教師に横やりを入れられた生徒のように、不愉快さで腹が煮えくり返る。だがその感情を練磨された理性で持って俯瞰し、セレン・ヘイズ/霞スミカが認めてしまった瞬間、もう一つの仮面が、ぽろりと顔から落ちた。
それは記憶だ。いつかの記憶、リンクス戦争末期。レオーネ社のネクスト格納庫。そこで若き霞スミカが自らのネクストの胸部を我武者羅に殴りつけていた。整備員が止めようとする。それでも駄々っ子のように薄い桜色の装甲を殴り、蹴る。その顔は泣き叫ぶという言葉がこれ以上ないほど似合っていた。赤ん坊の泣き顔がもしかしたら近いかもしれない、それほどまでに、それは霞スミカという女の醜さを表層に全て浮かび上がらせた、酷い顔だった。
記憶のフラッシュバックは、同時に異常な動悸という身体の不和をも呼び起こした。呼吸が一瞬、難しくなる。
『霞……?』
「……うるさいっ」
通信機を強引に切る。これでもうあの女の声を聞くことはないだろう。後はただ、あの戦いの結末を待つだけだ。この戦いが答えに通じるというのなら、ストレイドは、彼はその切符を手に入れるはずだ。それは勝てば、という条件がつくが、しかしセレンは彼我の本来の実力差を頭の隅で考えながらも、初めて、彼の勝利を祈った。だが何物にも祈るべき相手がいないそれは、祈りではない、願いだ。
それほどまでに、セレン・ヘイズというリンクスの残滓は。
「私は、セレン・ヘイズだ……っ」
なくした存在を、取り戻したかったのだ。
果たして今は何合目だろうか。もはや途方もない数の打ちあいをしているようだ。射角を塞ぎ、射線を妨げ、銃口を逸らし、致死となる一撃を最小の動きで回避する。それを相手にも強い、その隙に出来た瞬間に決めるべき一撃の引き金を引く。ひたすらにそれの繰り返し。腕部フレームが軋みを上げている。いや、その悲鳴は自分の腕からもだ。AMSから流れる情報は時間を追うごとにその推測値を増やし、機体/ライフルのダメージが拡大していることを表し、処理をするために改造された脳が奇声をあげるが如く情報を捌いていく。悲鳴にかわりに鼻血が出た。
身体はいずれ持たなくなるだろう。だがそれは向こうも同じ。再起動という不可能をやってのけたはずなのだから、その負荷はこちらの比ではないはず。そのはずであるのに、ライフルを振るう速度は徐々に速くなっていく。負けず、こちらも加速。耳元を弾丸が通り過ぎる、これで五度目。機体全体の累計は、今は数える余裕がない。その思考の時間を、更なる加速で補う。
加速はAMSの光を通じて行われる。それはAMSとの同化を深めることと同意義であり、流れ込む情報をより速く処理することでもある。現在の状態でももはや限界/壁に近づいていたというのに、更なる加速はその限界への到達により近づける。そこで怖じ気ずいていけないのだ、と己に言い聞かせる。
答えがこの先にあるというのだ。ならば、己の意思全てをAMSの光に変えてでも、限界を超えた向こう側へと到達してみせる。答えを得て見せる。
その意志に応じるように、ストレイドの複眼が輝き、AMS負荷が高まる。ホワイト・グリントのそれもまた、より強く煌く。瞬きのような光、蜻蛉。一撃一撃を通して、それに近づいていく。足を動かすように、手を伸ばすように、光はこちらに近づいてくる。戦いの中途から見え始めたそれは、徐々に近づいてきている。いや、むしろ、後僅か。声すらも圧迫された殺陣の中で、真実/答えへと到達する。
そう、あと、少し。
その途端、光が、わずかに離れた。目を見張るよりも先に、右腕の感覚から伝わる、ホワイト・グリントの動き。それが更にこちらを引き離すように加速したのだ。追いすがる、限界の壁が近づく。閃光はその名の如く、更なる加速を行う。限界がまた一歩近づいてくる。その時、ふと、思い至った。
ホワイト・グリントは、とっくの昔に限界を超えていたのではないか。
その疑問はAMSを通して、機体の動きに迷いという、致命的なミスを起こしてしまった。銃を捌く鋭さが、一瞬、衰えた。ホワイト・グリントは、未熟者のそれを見逃さない。白い腕の銃が閃く。ストレイドの黒い腕が己の迷いから生じた、致命的ミスを読み、強引に白い腕のそれへと割り込む。
最頂点から振り下ろされ、ぶつかる銃と銃。弾かれたのは、ストレイドの方のみ。保持はしている。だが体勢を戻すための時間が、残された生への時間と直結していた。その死への時間を感じた瞬間、青年は無重力へと投げ出される錯覚を覚えた。白い宇宙、星のない場所。音も意志も何もない、ただ自分が何か見えないものに座っていて、眼前にいる巨人の中の男が、こちらに、銃口を向けることだけが、スローモーションとなって映し出される。
平素な服だけを着た痩せこけた男の胸には、白い光があった。いや違う、よく見ればそれは黄色だ、遠目故に白く見えるだけだ。その光に視界が吸い込まれる。光は青年の浮かぶ無重力空間の白色を消し飛ばし、暗黒へと変えた。そして光は瞬きの中で肥大化し、より一層輝く。光が変貌を始める。輪郭を持ち、咲き始める。
それは花。青年もまた映像資料でしか見たことのない、かつてはどこかの平原で一面に咲き誇っていただろう、黄色の花。太陽まで伸びるかのような、太陽の姿を真似た花。その眩しさに思わず目を細めながら、青年は手を伸ばす。だがその手は、違う誰かの手によって遮られた。男だ、痩せこけた男。男が持つ銃を向けられながら青年は叫んだ、一人占めする気か。男は首を横に振って、きみだって持っているだろう、と言った。
青年ははたと気づいて、己の胸元を見下ろした。その胸には光が宿っていた。まだ小さな光だ。青年はそれを掌の中に移し、すいと掲げた。闇の中で輝く、瞬きの光。それを見下ろす花は、不意に、花粉のような、白い光の粉を振り撒き始めた。粉は青年の光へと降り注ぎ、やがて青年の光もまた、道のような光の粒子を花へと送り始めた。
青年と男は、ただじっとそれを見続ける。やがて、男が、若干疲れたような、しかしはにかみを込めて、こう言った。
「きみは嫌になるくらい、私に似ているな」
鏡でも見ている気分だよ、と彼は言う。青年こそ、同じ気分だった。遥か未来の自分が、花を携えてこちらを向いている気分。決していいものではない。だがこの空間では、その感情すら些細になる。
「けど、だからこそ、俺とあんたの答えは違う」
「そう、その通りだ。私たちは、リンクスは、どいつもこいつも似たようなやつばかりだ。だから、答えが違う。そうやって足掻いたり、溺れたり、戦ったり、迷ったりしている……きみはどうだ?」
「俺は……」
互いの光が強くなる。自然それは両者にある光の道の光度が強まるのを意味し、空間が様々な色に彩られていく。その中で青年はいつの間にか立ち上がり、上を向いて、ふと、そこに輝く無数の星を覗き込んだ。そして、目を閉じ、ゆっくりと男に向きなおってから、開く。
「今は、戦います」
「そうか」
男はまた、はにかんだ。その顔は鍛え上げられた、屈強な若い男のそれへと変貌していた。
「なら、この一瞬が、オレがきみに教えられる全てだ。見事、越えてみろ」
光が、弾けて、空間から追い出された。
時間が一瞬にして現実のものへと巻き戻る。青年はその巻き戻る瞬間には、AMSの光の彼方に情報を入力する。動きの鈍かったストレイドの左腕が、最後の足掻きとばかりに動いた。肉食獣のような鋭さのそれは、ホワイト・グリントの銃口を塞ぎ、そのまま発射された弾丸に撃ち抜かれた。だがその結果、手という障害物に遮られた銃弾は威力をなくし、ストレイドのコアを貫くことなく、装甲に押しとどめられた。
右腕が雷撃の如く閃く。アッパーのような勢いで、白い腕に握られた銃を、振り上げられながらの発射によって手首ごと彼方へと吹き飛ばす。そのままストレイドは、青年は、銃口をホワイト・グリントのコアへと照準した。その瞬間、空けたコアから見えた男の手が動いているのに気づいてしまった。
男の手は、ゆるゆると、男の頭に当てられ、こんこんと叩いた。胸元には、あの光が。
「……わかり、ました」
青年は、ゆっくりと、ストレイドの銃口を、ホワイト・グリントの頭部へと合わせた。
そして銃声が、最後に、一つ、響いた。
ラインアークの下層よりの中層。そこにある小さな花壇。そこに今、一組の男女がいる。事情を知らぬものが見ればそれは年の若干離れたカップルか、姉弟に見えるだろう。だが知る者がいれば、その二人が先日、企業崩しの伝説を誇ったホワイト・グリントを倒したリンクスと、そのパートナーであることがわかる。本来なら専属のネクストがやられたとあって決しては入れられぬだろうラインアークに、特別処置によって入港を認められた二人は、一般人と同じようなファッションでこの中に溶け込み、この場所まで来ていた。案内したのは、今、花壇の傍で坐りこみ、その花の一つ一つにじょうろで水をやっている女性だ。
フィオナ・イェルネフェルト、その髪は果たしてこの数日の内に何があったのか、一房丸ごと真っ白に脱色していた。
「……彼はわかっていたのかもしれません、この戦いが最後になると」
フィオナは顔を二人に向けず、ただ淡々と言葉を続ける。二人も、いやストレイドの青年も黙ってそれを聞き続けている。
「この花にアナトリアの、あのどうしようもく飢えて、戦って、けど幸せだった日々の残滓を見たのかもしれません……最後の最後だから、そう感じとれたのだと、今では思います」
じょうろの水がなくなった。フィオナはゆっくりと立ち上がり、二人を振り返った。その目にはまるで瞳を隠すような大型のサングラスがかけられている。
「貴方が最後に彼と何があったのか、それは問いません。ですが覚えていてください……誰かの願いが叶う時には、きっと誰かが泣いてしまうのだと」
「ああ、わかってる……俺達はきっと、これからもそれを受け止めながら、戦うんだから」
それだけ言い終えて、ストレイドの青年は踵を返した。付き人のように静かだったセレンもまた、それに従う。フィオナはその二人の背中を何も言わず見送ろうとした。しかしその直後、まったくの第三者から声がかけられた。
「あ、あの時の怖いお姉ちゃん」
フィオナが、声の方を向く。青年たちもまた何事かと足を止め、そちらを向いた。そこにいたのは小さな少女だ。浮浪児の、小汚い少女。セレンの顔が歪む。その顔には気づかず、少女はフィオナの足元まで近づくと、辺りを見渡した。
「今日はおじさんいないの?」
少女の友達に会えなかったような寂しげな言葉が、フィオナの身内を抉った。その痛みは身体の自由を奪い、フィオナに彼女を抱きしめさせるという行動を起こさせた。自然と、フィオナの体が震える。少女は、しばらく茫然としていたが、しかし不意にフィオナの背中に両腕を回し、ぽんぽんとその背中を叩いた。
青年とセレンはそれを見ていることが、何かどうしようもなく悪いことであるような気がし、何も言わず去るべく、再び彼女に背中を向けた。だがそれを止めたのは、先ほどと同じ、少女の声。
「待って、そこのおにいちゃん」
少女の呼び声は魔法のように青年を止めた。振り向けば、少女はフィオナから一度身体を離し、その後ろポケットに手を突っ込んでいる。そして何か当たりを探り当てたのか、あった、と歓声を上げて、汚れた小さな手を引き抜いた。そのまま青年の前まで小走りに近づき、はい、とその手を差し出して開く。
少女の手のひらにあったのは、それに見合う小さな缶バッチだった。その柄は、大きな星が一つ輝くだけのシンプルなもの。
「これを、俺に?」
「うん、本当は花柄をあげたかったんだけど、もうないの。だからこれで我慢してね、ね?」
少女の謝罪となっていない謝罪を聞きながら、青年はゆっくりとそれを手にとって、天に掲げた。太陽の光を反射し輝くそれは、夜空であってもその光を見失わないと言いたげに、強く煌き青年の顔を見下ろしている。青年はそれを手の中にしまった。まるでそれが身体の中に入り込んでしまったように、馴染んだ。
「いや、ありがとう……これが、一番だ」
「ならよかった……隣りの怖いおばちゃんには、何もないよーだ」
「ほう、貴様……」
「ちょ、セレンさん、相手は子供、子供っ!」
少女のあからさまな挑発にセレンの妙に小さな怒りの沸点が一瞬で煮え立ったのを、どうどうと抑える青年。少女はひゃぁ逃げろ、とそのまま背を向けて走り出してしまった。その様子にフィオナは、なぜか少女に無理やり元気づけられてしまったような気がして、笑いたくなった。
「まったく、なぜ貴様はこう一々若い女ばかりをフォローするのだ、そもそも……」
「あーそれは後で聞くから! それじゃフィオナさん、またいつか!」
セレンの愚痴のような小言を聞きながら、青年たちもまた、ラインアークを後にするため、ここから立ち去っていく。彼らはまた、己の願いを叶える為に、誰かを不幸にするだろう。だがそれを責めるものはいない。それは誰もがやっていることだからだ。だが同時に、知っていなければ、意識していなければならないことだ。
残されたのは、フィオナただ一人。彼女はサングラスをはずすと、一息吐いて、花壇の傍に改めて腰を下ろした。そうして、花壇に咲く、黄色いを花を見下ろし、そっと撫でた。
花はゆらゆらと揺れている。例えここが偽りの世界であろうと、花にとってはそこが、己の世界であると胸を張るように、大きく咲いていた。
タイヨウノハナ・了
ご愛読ありがとうございました。
レイヴン、リンクス、ミグラントのみなさま、今度はルビコン3でお会いしましょう。