それはそれとして、バカテスといえばこれをやらないわけにはいかないと思ったので、やります。
【化学】
以下の文章の( )に入る正しい物質を答えなさい。
『ハーバー法と呼ばれる方法にてアンモニアを生成する場合、用いられる材料は塩化アンモニウムと( )である』
工藤愛子の答え
『水酸化カルシウム』
教師のコメント
正解です。
木下秀吉の答え
『ハーバー』
教師のコメント
ハーバーは人名です。
橋本和希の答え
『アンモニア製造機』
教師のコメント
それの中身を聞いています。
谷村誠二の答え
『アンモナイト』
教師のコメント
語感だけで書かずに少しは考えて答えなさい。
清涼祭二日目の朝。
教室は登校してきたクラスメイト達で賑わっていた。学園に迫る危機の存在なんてつゆ知らず、せっかくの清涼祭を楽しもうと盛り上がっている。俺も何も知らなければ余計な気を回す事もなかったのに、とも思うが、思ったところで仕方がない。運営委員になったのが運のつきだと思って諦めるとしよう。
どのみち、焦っていても学園の危機の行方は吉井達の召喚大会次第だから、俺に出来ることはないんだが。
「吉井君、気を遣い過ぎですよ?」
「アキ、ウチらの事は心配しなくても大丈夫よ」
「……そう? 二人とも、元気そうで良かった」
姫路さんと島田さんが、吉井達とともに教室にやってきた。彼女達に、慎重に言葉を選びながら吉井が声をかけている。昨日、あんな目にあったのだから吉井が心配するのも無理はないが、そんな吉井に二人は気丈な様子をアピールしてみせた。ひどいトラウマになっていないなら、ひとまずは良かったと思って良いのだろうか。
「今朝はなにもなかったぞい」
「……平安無事」
二人の後ろから、秀吉とムッツリーニもやってくる。姫路さん達の護衛として、二人の登校に付き添ってくれたのだ。どこから調達したのかスタンガンを持っていたから、なにかがあってもちらつかせるだけで逃げていっただろうとは思うが。
何はともあれ、なにもなかったのならそれに越したことはない。自分自身も攫われたはずの秀吉も、少なくとも俺の目にはいつもと変わりないように見えてとりあえず安心した。
「それにしても吉井君。やけに眠そうですね」
「ほとんど徹夜だからね……ふぁ」
「アキ、もしかして心配で眠れなかったの?」
「あー、心配はもちろんしてたんだけど、これはまた別件でさ」
「もう、またゲームで夜更かししてたんでしょ!」
「ははは! そんなところ……」
彼女達の追求に、ごまかすように吉井は笑った。
今朝、いてもたってもいられずに早い時間に学校へ来た俺は、吉井と坂本が朝早くからテストを受けていた事を知っている。だから多分、徹夜で勉強をして決勝で使う科目……確か日本史だったか、その点を稼いだんだろう。学園の未来がかかった大一番、バカなりに最善を尽くしたようだ。昨日、腕輪の暴走の条件について訊いていたし、日本史にはそこそこ自信があると見える。
あいつらもあいつらなりに頑張ってる。なら俺は、俺に与えられた仕事をこなさなければ。
そう思って、須川達とシフトと出店の相談をしていたのだが。
「え? 俺はいらない?」
「ああ。お前、昨日働きっぱなしだったろ。運営委員の仕事もあったし、あんまり校内見て回ってないだろ」
「まあ……そうだけど」
運営委員の巡回があるとはいえ、純粋に遊びで校内を回ってはいない。正直出店の手伝いをしなくていいならそっちの方が楽だが、こと今に至っては事情が事情だ。
「ありがたい提案だけど、俺は教室にいることにするよ。また営業妨害がくるかもしれないし」
「その心配はないだろ」
と、背後から降ってきたのは坂本の吉井と同じく眠そうな声。くぁとあくびをかみ殺してから、小声で俺に伝える。
「ウェイトレスの連れ去りまでやって失敗したんだ。これ以上教室にちょっかいなんか出してこないだろ。俺達にやり返されるのが目に見えてるのに、お化け喫茶の邪魔をするほど学習能力に欠けてるとも思えん」
「そういうもんかねえ……」
けれど確かに、四回戦前の空き教室での一件と言い、例の誘拐騒ぎと言い、これまでの営業妨害は坂本の腕っぷしで全て返り討ちにしている。誘拐騒ぎの方は吉井達も手伝ったようだが、どちらにせよ、坂本が喧嘩で無敵を誇る以上はその腕の届く限り何をしても痛い目を見るだけだ。
「それに、万が一何かが来ても俺達にはムッツリーニから受け取ったこれがある」
そう言って、須川や横溝はポケットからとりだした無骨な鉄の塊……例のスタンガンをバチバチと鳴らす。これが合法かどうかについては考えないでおこう。警察沙汰にするわけにいかないからな。
「だから教室の方はまかせて、色々見て来いよ」
「……んじゃ、お言葉に甘えようかな」
なんだかんだで、運営委員として身を粉にして働いていた俺をいたわってくれているのだろう。互いに刃を向けるときもあるが、良い友情関係なんじゃないかと勝手に思ったりする。
「まあでも、本格的に込み合う昼には流石に手伝いに戻るわ」
「ん、了解」
と、俺についての話はそんな落としどころでまとめて、残りのメンツのシフト調整に移った。
やがて、一般公開の時間になった。来場者が増えて混みだす前に出店を見て回らなきゃ。
さてさて、どこに遊びに行こうかと考えて、真っ先に思い浮かんだのは2-Aのメイド喫茶だった。
昨日外からちらりと覗いたがあまりちゃんと見れていないし、何よりあそこにはメイド姿の木下さんがいる。メイド姿の女の子がいるだけでも俺にとっては天国に等しいのに、そこに麗しの木下さんがいるとなれば向かわない手はない。
「さあ、いざゆかん。女神の住まう楽園へ!」
なんてことを叫びながら鼻歌を歌っているうちに(すれ違った女子大生に奇妙なものを見る目で見られたような気がするが気のせいだと思うことにした)、目的のメイド喫茶にたどり着いた。まだ開場して間もないというのに、結構な客が入っている。これは行列ができるのも時間の問題だろう。
早めに来てよかった、と思いながら教室の中に足を踏み入れる。
「うわあ、すげえ……」
教室、と表現するにはあまりにも広いその空間の中で、俺はあちらこちらへと移動して来場客に給仕する彼女たちに目を奪われていた。
メイド服はメイド服であるというだけで俺の心を打つものがある。その白と黒のコントラストの中で、肩や裾につけられたフリルが静かに、けれど美しくその姿を装飾している。
彼女たちの魅力を形作っているのはその見た目だけではない。歩く動作一つとってもシャンと背筋がまっすぐに伸び、気品の高さを裏付けている。来場客へかける言葉、声、そして料理の配膳まで、高級レストランと見まがうかのような上品さに包まれている。ただの学生がメイド服を着ただけではない。おそらく、よっぽどメイドに執着を持っているやつが熱心に指導をしたんだろう。あるいは、学年最上位クラスであるAクラスとしての誇りの表れなのかもしれない。
なんにせよ、俺は幸せの極地にいる。この世に天国があるとすれば、きっとここに違いない。
「……っ! お待たせしました! おかえりなさいませ、ご主人様!」
潤沢な予算を存分に使って豪華に装飾された教室内を見渡していると、メイド姿の女子が慌てたように駆けつけて出迎えてくれた。ボブカットの黒髪がモノクロのメイド姿に統一感を与えるだけでなく、白く主張するヘッドドレスの存在感を引き立てるのにも一役買っている。
そんな彼女の、丸メガネの向こうにたたえたにこやかな微笑みには見覚えがあった。Aクラスにいる、知り合い以外の女子というと……と考えて思い出す。Aクラスとの試召戦争で、吉井と物理で一騎打ちした女子だ。名前は……憶えていないな……交流もないし……。
それにしても、木下さん達のメイド姿を見ていたから知ってはいたが、こうして改めて見てみるとその完成度が段違いだ。彼女が身に着けていたのは木下さん達のメイド服とは異なるミニスカスタイルだったが、いずれも安い既製品ではないことは明白だった。おそらくは名のあるメイド服メーカーのものか、あるいはよほど技術のある誰かが手作りしたんだろう。Aクラスへの振り分けはあくまで勉強によってのみ行われているものだが、案外そういう連中にこそ多芸なヤツは少なくないものだ。
「お席にご案内いたします!」
端麗な微笑みとともにそう告げると、彼女がまだ誰も座っていない席へと俺を導いてくれる。その一挙手一投足も、他のメイドたちにたがわずエレガントなものだった。
「では、メニューをどうぞ! お決まりになりましたらわたくしたちをお呼びください!」
立派な装丁のメニュー表を俺に渡すと、彼女はそのまま他のお客への応対へ向かっていった。……随分忙しそうだ。
そのまま教室の中をぐるりと見渡してみたが、木下さんの姿は見えなかった。どうやらこの時間帯はシフト外のようだ。残念。……もっとも、もしも木下さんに接客してもらったら俺はそのまま天に召されていたかもしれないが。俺としてはそれでも良かったんだけどな……。
しかし、この場にいない木下さんの幻影を追いかけても仕方がない。せっかくのメイド喫茶を堪能せねば。
気を取り直してメニュー表に目を落とすと、かわいらしい名前でスイーツ類とドリンク類が並んでいた。純粋にメイド喫茶を楽しみたいが、運営委員としてクラスの出店に関わった身からするとこういうものを見ると運営側の視点になってしまう。その視点から見て、まずメニュー数は負けている。おそらくその質も相当なものだろう。単に喫茶店にするのではなく、テーマを付けてお化け喫茶としたのは正解だったようだ。
それはさておき、『メイド特製ふわとろオムライス』を注文することに決めて声を掛けられそうなメイドさんを探して教室内を見渡した。
「……どうする……役割の偏りが……」
「まだなんとかなってるけど……多分ギリギリ……」
そこで、厨房にほど近い壁際に立ち顔を突き合わせて話し込む二人を見つけた。Aクラスの運営委員、久保と愛子だ。会話の内容はほとんど聞き取れないが、何か問題が起きているようだった。
無視を決め込むのは簡単だが、困っているなら手を差し伸べるのが友情というものだろう。そう思って、席を立って彼らに声をかけにいった。
「二人とも、何かあったのか」
「む、谷村君。来てくれたのか」
「せっかくだからな。それで、何かトラブルでも?」
「まあ、ちょっとね~」
たはは、と何かをやらかしたように頭をかく愛子。彼女もまた、ミニスカートのメイド服を着ていた。彼女のメイド服はスカートの裾だけでなく袖も短く腕を出している。彼女の性格通り、快活な印象を与えるメイド服だった。
対して久保はギャルソンスタイル。ホールで接客に当たっているのは全員女子のメイド達なので、男子はあくまで裏方やサポートに徹している、というところか。
それにしても、本当にトラブルとは。昨日の迷惑な出来事が次々と思い出される。
「まさか営業妨害とか?」
「いや、そういう類ではない」
「ちょっとシフト調整をミスっちゃってね~……人手が足りなくなりそうなんだよね」
「ああ、なるほど……」
例の連中の妨害がこっちに飛び火したのかと思ったが、そういうわけではないようだ。
「まったく足りないわけじゃないし一応このままでも回るは回るんだけど、多分相当大変でさ」
「余裕がほとんどなくてね。僕らも手伝いに加わるつもりだけど、ここからさらに客の入りが増えると考えると……何かハプニングが起きたときにパンクする可能性がある」
「ここからが本番だもんなあ」
思い返せば、俺がこの教室に入ってきた時もメイドさんが出迎えてくれるまでに時間がかかっていた。店内を見渡していたから気にならなかったが、理想を言えばすぐにメイドさんがやってくるべきなのだろう。現時点で人員が足りていないのは明白だ。
「十分な人数を配置していたはずだったんだが、人気を読み違えていてね。今日の集客数が想定よりも多く、朝の人員が不足してしまったんだ」
「そういう事か」
出店のシフトについては、坂本のアドバイスがあり、うちのクラスでも宣伝効果が発揮される二日目はその数を増やしている。Aクラスでもそういう対応はしていただろうが、そもそもうちとは規模が違う。Aクラスだからこそ読み違えることがありそうだ。
「もっと忙しくなる昼には連絡をつけて調整をしているが……少なくとも朝の一、二時間はホールの人数がギリギリだ。厨房は足りているんだけれどね」
「それに、その一番忙しい昼のための仕込みををしておかないといけないから、厨房から人は減らすわけにもいかなくて。それで悩んでたんだ」
と、彼らは事情を話してくれる。なるほど……メイド喫茶という性質上、ホール担当は女子に限られるからそもそもの人員が限られているはずだ。人員配置が困難を極めるのは想像に難くない。
そういう話なら、俺に手伝えることはなさそうだ。
「……規模が大きいと大変だな」
「まあ、Aクラスの責務と思うことにするよ。昨日身に着けたノウハウもあることだし、なんとかしてみせるさ」
「そうか、じゃあ、頑張ってくれ。口を挟んで悪かったな」
「いやなに、心配してくれてありがとう」
そんな会話を久保と交わして、邪魔にならないように俺は席に戻ろうとした。
「あっ!」
その足は、何かをひらめいたような愛子の声に止められる。振り向くと、ニンマリ顔の愛子が俺を見つめていた。
……嫌な予感がする。
「な、何だよ?」
「ねえねえ、谷村クン。そういえばキミって、ボクたちに借りがあったよね?」
「借り……ああ、そうだな。無理を言って勉強を教えてもらった」
「でさ、その代わりのヤクソクがあったでしょ?」
昨日は忘れてたが、本人たちにわざわざ言われたから覚えてる。
「『何でも一つお願いを聞く』ってやつか」
「そう! それを今使おうと思って。お店を手伝ってくれる人は一人でも多い方がいいし!」
「ああ、そういう事? それくらいならいいけど……俺、料理とかは人並みだから雑用くらいしか手伝えることなんかないぞ。皿洗いくらいならできるだろうけど」
「ううん、皿洗いも大事だけど、さっき言ったでしょ? 厨房は足りてるって」
「え?」
……嫌な予感がする!
「ねえ、谷村クン。女の子になってメイドとして働いてみない?」
「断る!」
何てこと言い出すんだ!
「なんで俺が女装しないといけないんだ!」
「え? でも、谷村クンはメイド服が好きって橋本ちゃんが」
「見る方に決まってるだろ! 自分で着たいわけがあるか!」
「何事も経験だよ、谷村クン」
「それっぽく言うな!」
っていうか何、俺の事は記事にしてないとか言ってたのにメイド服の事まで広まっているのか?
「僕からもお願いできるか」
「久保までそんなこと言い出すのか!?」
「女装云々はさておき……君の手を借りられればクラス運営が助かるのは事実だからな」
「……いや、俺も手伝うこと自体に文句があるわけじゃないんだけど」
「じゃあやってくれるね!」
「その手伝い方が問題だって言ってるんだ!」
くそっ、流石はAクラスだ。何を話しても俺が承諾するように誘導されている気がする。
どうにかこの話をなかったことにできないか、と反論の糸口を探していると、愛子があからさまにムッとした表情になった。
「ふ~ん。谷村クンは無理して手伝ってあげたボク達に恩を仇で返すんだ。ボク達だって清涼祭の準備で忙しかったのに」
「いや、そういうわけじゃ」
「いいよいいよ。谷村クンって、恩人との約束も守らない冷酷な人だったんだね!」
「……わざと悪ぶるならニヤついた目くらい隠せよ」
「バレた?」
俺が指摘したとたんに表情を緩めて舌を出す愛子。いやまあ、それがなくても愛子が本気でこんな嫌味ったらしい言い方をしないことくらい分かってるが。むしろこれは、彼女のいたずら心によるものだろう。
はあ~、と一つため息をついて、口を開く。
「真面目な話、俺が女装しても仕方ないだろ。見ろ、この可憐なメイド達の麗しい姿を。ここに俺が並んだって不審者にしかならない」
先日の試召戦争……そのBクラス戦後に行われた、女装した根本の撮影会を思い出す。アレはひどい有様だった。あんな醜態をさらすのは嫌だし、そんな存在がクラス内でメイドとしてふるまっているのはAクラスとしても嫌だろう。
「それは大丈夫だと思うよ? 谷村君、見た目は結構良……くはないけど悪くもないし、実は美少年……っていうと嘘になるけど、なんていうか、特別個性がある顔じゃないから女装映えする気がするし」
「滅茶苦茶ひどいこと言われてないか?」
「良い意味で」
「騙されるか!」
良い意味ってつければ何言っても許されるわけじゃないぞ!
「それに、メイクには伝手があるから、きっと可愛くできると思うよ。それでも、ダメ?」
何度も叫んだせいで肩で息をする俺に、なおも愛子(と久保)は説得を続ける。
…………何を反論しても折れてくれない。覚悟を決めるしかないのかなあ……。
「……はあ。分かったよ。勉強のお礼をしたいのは本当だし、手伝うよ」
「本当!?」
「ただし! 条件がある!」
「条件?」
あの約束を守るためにもAクラスを手伝うのは良いが、それはそれ。俺にも譲れないラインがある。
「絶対に正体が俺だってバレないようにしてくれ。女装って言っても色々やりようがあるだろ」
ただでさえ俺に関して色んな噂が飛び交ってるんだ。メイドとして働いたことが知れたらどんな噂が流れるかわかったもんじゃない。
「正体が……うん、オッケー。頼んでおくよ!」
「あと、どうせやるならちゃんとかわいくしてくれ。根本みたいなことになるのは嫌だ」
「根本クンの……ああ……」
一瞬愛子達の目が濁る。根本はあの姿でAクラスに使者として派遣された。当然彼女達もその姿を見ているはずだ。
「ダイジョブだよ、任せて!」
そして彼女は目を戻し、そうはっきりと告げた。そう言い切ってくれるなら、任せてみるか。変な姿にされたら走って逃げ出そう。
話が決まったのなら時間が惜しい、と、俺は着替えとメイクのためにAクラスが確保している空き教室へと移動することになった。その間、愛子達は先に教室で働くそうだ。
教室を出る直前、どうしても気になっていたことを愛子に尋ねた。
「ところで、実際のところ、どれくらい本気で俺に手伝ってほしかったんだ? 俺が手伝わなくてもなんとかなるんだろ?」
「本当に困ってるのが1割で、残りの9割は面白そうだからカナ!」
「……おい!」
愛子から指定された空き教室では、秀吉が待ち構えていた。愛子が言っていたメイクの伝手というのは秀吉の事だった。
「秀吉、お前愛子と交流あったのか?」
「たまたまのう。ほら、あやつは手当たり次第友達になるタイプじゃろ」
「確かに……」
愛子とまともに言葉を交わした運営委員の最初の会議の時も、彼女はグイグイ来ていたっけ。
それはさておき、秀吉の話だ。本人が時折女装をしているのは知っていたが、そのメイク技術については知らなかった。秀吉の女装がかわいいのは、素のポテンシャルが高すぎるのが理由だと思っていたからだ。
しかし、秀吉に身を任せてみると、あれよあれよという間に自分の姿がまるきり変わっていく。あまり時間は割けない中、信じられないぐらい短時間でそのメイクは終わった。
「これが……俺……!?」
「どうじゃ、良い出来栄えじゃろ」
秀吉の持つ手鏡の中。そこに、赤みがかった髪を携えた正体不明の美少女が映っていた。
大きな黒ぶち眼鏡とウィッグで増えた長い前髪で本来の顔の印象は隠れている。こしらえられたアイシャドウとつけまつげで、その奥に女の子らしい大きな瞳が演出されている。
どうしても男らしい雰囲気の残る顎のラインは、これまたウィッグの内巻きの横髪で隠されている。こうなると口元はリップで彩られた女子らしい雰囲気の方が勝つ。
鎖骨ほどまで伸びて、毛先がくるりと跳ねるウィッグの効果も相まって、その姿は誰が見ても女子と思えるはずだ。当然、自分自身だなんてさっぱり思えない。
「谷村は顔にこれといった特徴が無いからのう。存在しない女生徒に作り替えることも容易じゃったな」
「……え、何、愛子だけじゃなくて秀吉までそんなこと言うの?」
いや、そりゃ自分がイケメンだとまでは思ってなかったし、多少平凡な見た目かなくらいは思ってたが、そんなに特徴のない顔だとは……。
「これはこれで才能じゃぞ。メイクと服装次第で全く違う人間に変装できるのじゃからな」
「嬉しくないなあ……」
これは明らかに秀吉の才能のおかげだろうに。
それはさておき、鏡の中に向けていた目線を顔から体の方へと移す。俺の体格は男子として中肉中背といったところだが、すなわち女子としては高身長になる。
そういう意味でも女装は難しいのではと思っていたが、鏡の中にいたのはスレンダー系の女の子。身に着けているメイド服は、下半身の骨格を隠すためのロングスカート。手元を隠すための手袋も忘れない。この辺の衣装は愛子から予備の制服を貸してもらった。
よくもまあ、こんな見事に女装させるものだ。恥じらいより先に、秀吉の技術への敬服の念が出る。
「とにかく、これでAクラスの女子達にも引けを取らない見た目になったじゃろ」
「ああ、ありがとな、秀吉」
「礼には及ばん。昨日明久にメイクをしたときは中途半端で消化不良だったからのう。リベンジが出来て良かったわい」
と、満足げな秀吉。昨日の吉井……ああ、あれか……。思い出したくもない。
「それで秀吉、この件の事は……」
「ああ、工藤から聞いておる。誰にも言わん」
「そうか、助かる」
こういう時、秀吉は他のクラスメイトより遥かに信頼できる。吉井や須川だと、こんな約束をしたところで面白半分に話を広めて回るだろう。俺の名誉を貶めるために。
「じゃあ、Aクラスに行ってくるから。お化け喫茶の方は任せた」
「うむ、こっちはわしらに任せて、せいぜい頑張ってくるのじゃ」
少しだけ秀吉から女装のための演技指導を受けてから、俺達は空き教室を離れた。早く戻ってAクラスを手伝わないと。
Aクラス教室に戻ると、ちょうど満席になって行列ができ始めているところだった。
教室の中を覗く。メイドに扮したAクラスの女子達が、愛子も含めて右へ左へせわしなく動いている。息つく暇もない、といった様子だ。これで何時間も過ごすのは相当しんどいだろう。ここはできる限り力にならねば。
「失礼いたします……おほほほ」
と小さな裏声でつぶやきながら、お客さんの間を割って入って教室の中に入る。さて、どうしようか。
『メイドさん、注文いいかな?』
手伝いの必要そうなところを探してきょろきょろしていると、そんな声が聞こえた。声がした方を向けば、文月学園の制服を着たカップル……昨日、召喚大会の一回戦で戦った平賀と三上さんだった。呼ばれたのはメイドさん……あっ、俺か。
メイド服と一緒にもらった伝票のメモを取り出して彼らの元へ向かう。歩き方は女の子らしく、大股にならないように内股に……あと、メイドさんらしく瀟洒にふるまわなくては。メイドの気高さを俺が汚すわけにはいかない。
そして声をかける前に、喉に手を当てて声の調子を整える。裏声で、しかも秀吉に教わった女子っぽく聞こえるコツを思い出しながら、とはいえ付け焼き刃だから声を張るとバレるので、声が大きくならないように気を付ける。
……考えることが多い! 頭がパンクする! メイドさんってすごい!
「お、おまたせしました。ご注文をどうぞ」
どうだろうか。見た目はさっきチェックしたから問題ないとして、声で疑われてはいないだろうか。ここで女装がバレたら俺の華やかな学園生活は本当に終わってしまう。
心臓をバクバク鳴らしながら、お客さん……ご主人様達の注文を待つ。
「『ふわふわシフォンケーキ』2つで」
「あ、私はアールグレイも付けてくれる?」
しかし、要らぬ心配だったようで、二人とも何も言わず注文してくれた。
「ご注文を繰り返します。『ふわふわシフォンケーキ』が2つ、『アールグレイ』が1つ。以上でよろしいでしょうか?」
内心ほっとして、注文を確認する。が、返答がない。
伝票から目を離して彼らの方を見ると、平賀がじっと俺の顔を見つめていた。
「ご主人様……私の顔に何か……」
「いや、見覚えがない顔だと思って……君みたいな子、Aクラスにいたっけ?」
そのまま平賀は三上さんに尋ねる。三上さんも横に首を振って、二人そろって首をかしげていた。細かいところに気が付く奴だな……!
「ええ、ええ、もちろんいましたわ。けれど影が薄いもので、他のクラスの方はご存じないかもしれませんわね。おほほほほ!」
「そうだったかな……」
「ねえメイドさん、名前は何ていうの?」
「え、な、名前ですか?」
なんとか笑い声でごまかそうとしている俺に、三上さんがそう尋ねてきた。
まずいぞ。バカ正直に「谷村誠二です」なんて言えるわけもない。何か、偽名を言わないと……。
そう思って、脳内で女子らしい名前を大急ぎで検索する。そして出てきた名前は、
「ま、マコト、です!」
俺にとって一番近しい異性……姉貴の名前だった。
「マコト……Aクラスにいたかしら……」
「それで! 注文の方は先程のものでよろしかったでしょうか!」
「え? あ、ああ」
未だ納得しない彼らから追及を避けるため、無理矢理話を切り上げてその場を去った。俺の正体こそバレていないが、いきなり現れた謎の少女は相当に怪しいらしい。
伝票を切り取って厨房に入ると、ニヤニヤを隠そうともしない愛子が厨房に並んだ料理をお盆に載せながらこっちを見つめていた。
「似合ってるね~、マコトちゃん!」
こいつ、聞いてやがったな。
正体不明のメイドの正体を愛子と久保だけは知っている。『面白そうだから』が9割と言い切っただけの事はあり、随分と楽しそうだった。く、屈辱だ……!
しかし、愛子達に恩返しをしたいのも事実としてなくもない。もうここまできたんだ。割り切ってメイドをやり切らないと。
「お、おかげさまで……あ、これ、3番テーブルの注文……」
伝票はどこに出せばいいのか、と切り取った伝票を差し出して愛子に訊こうとした途端、横から現れた厨房担当と思しき男子に伝票をかっぱらわれた。
「ぼーっと突っ立ってないで早く運んでくれ! これ! 7番テーブル、シフォンケーキとオムライス!」
そして目の前にドンと置かれる料理。厨房は足りてるという話だったが、けして余裕があるわけじゃないらしい。
「はーい!」
と、裏声で返事をする。そして、依然イジワルな笑みを浮かべたままの愛子とともに、料理をもってホールへと舞い戻った。
メイドとして働き始めて一時間。Aクラスのシステムにも慣れてきて、メイドさんとしての動きにも多少余裕が出てきた。単純にAクラスの教室が大きいせいでFクラスでウェイターをするよりも大変だったが、どうせ俺は短時間しか手伝わないからと気合を入れて頑張った。
「おかえりなさいませ、ご主人様!」
という女声での挨拶も自然とできるようになってきた。時々シルバーのお盆でウィッグや胸の詰め物がずれていないかを確認しているから見た目の心配もない。俺はどこからどう見ても立派なメイドさんだ。
けれど、懸念事項がある……。
『なあ、あれ誰だ? ウチのクラスにあんな子いたか?』
『さあ……でもこうやってメイドとして働いてるんだからウチの女子の誰かだろ』
厨房から漏れ聞こえてくる声。頑張ってメイドとして一流を目指しているうちに、自然と教室の中で俺の存在が目立ち始めていた。他のクラスならいざ知らず、Aクラスの生徒たちは俺の存在を謎に思って当然だ。一クラス50人もいるとはいえ、一か月以上同じ教室で過ごした仲間なのだから、自分のクラスメイトくらい把握しているはずだ。
そのあたり、何か久保や愛子がフォローしてくれているのかな、と思ったが、久保は厨房の指揮を執るのに必死でそれどころでなく、愛子はフォローする気がさらさらないようだった。なんでだよ。
『マコトって……うちのクラスに同じ名前のヤツいたよな。なんか似てねぇ?』
『ああ、谷村のこと?』
そして聞こえる三年生の会話……多分姉貴と同じクラスの先輩達の声だ。状況は最悪と言っていい。
……よし。約束の時間まで働いたら、余計なことを聞かれる前に即刻ダッシュで逃げよう。俺ならできる。
そんな決意とともに、空いた皿の片付いたテーブルを掃除する。布巾できれいに磨き上げたところで、入り口に新たなご主人様がやってきた。
「おかえりなさいませ、ご主人……」
口慣れた言葉を止め、そこに立つ人物を見てゲッ、と内心で叫ぶ。目の前に立っていたのは、男子制服を着た背の低い生徒……橋本だった。
「おお! もしやあなたが謎の美少女メイド、マコトちゃんですね! Aクラスにはマコトなんて名前の女生徒は存在しないはずですし、そもそもあなたの顔を見た覚えがないんですよね」
そう告げながら、パシャと写真を撮る橋本。ま、まずい!
「しゃ、写真はやめてください! 私、影が薄いから見覚えがなくても当然ですよ!」
「まあそう言わずに! それに、僕は全校生徒を覚えてる……とまで行かなくても顔くらいは一通りさらってますから!」
「くっ……」
そうだ、こいつ新聞部に本気なんだった。ゴシップ好きなら余計に全校生徒を知ろうとするだろう。その姿勢は尊敬できるが、今はとにかく鬱陶しい!
というか、どうもコイツの言葉を聞く限り俺の存在が校内で噂になっているらしい。目立っている、この上なく!
「……? あなたの顔、誰かに似てるような……」
「お席にご案内しますね!」
「あ、ちょっと!」
余計なことに気づきかけた橋本の手を取って空席まで案内する。無理矢理席に座らせて、テーブルにバンとメニューを叩きつけた。メイドとしてあるまじき騒々しさだが、正体を隠すためにはやむを得ん。
「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」
「『あなたの正体』をひとつ」
「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください!」
そう叫んで俺はさっさとテーブルから離れる。橋本の相手は別の誰かに任せることにした。
時間よ、早く過ぎてくれ! もう限界だ!
そして、更に働くこと数十分。愛子達と決めた約束の時間になった。
その瞬間、俺は愛子を見る。愛子も視線と俺の意図に気づいたようで、「お疲れ様」と口を動かしてひらひらと手を振った。
約束は果たした。もうここにいる必要はない。存在感を消して教室の外へ向かう。
『おい、マコトちゃんがどっか行くぞ』
『えー、私マコトちゃんに会いに来たのに!』
……存在感は消せてないな。まあいい、目指すは行列の出来ているメインの出入り口ではなく、もう一方の扉。店員係用のドアだ。もはや無意識にこなせるようになったメイドとしての瀟洒な動きでドアを開け、そして廊下に出た。
『お、メイドさんが歩いてるぞ』
『こういうの見ると文化祭って感じがするな』
廊下は、相変わらず人でごった返している。清涼祭二日目も昼に差し掛かって、いよいよ人出も最高潮だ。誰も彼も派手な格好をしているおかげで、メイド服を着ていても人混みに紛れることが出来る。しかし、完全に隠れきれるわけではない。ぽつぽつと、『マコトちゃん』についての噂も聞こえてきた。
『あれマコトちゃんじゃない?』
『マコトちゃんって、Aクラスに突如現れたメイドの?』
『昨日はいなかったよな? というか、あんな子ウチの学園にいたっけ?』
『いいから拝んどけ! 一目見たら願いが叶うって噂だぞ! ありがたやありがたや……』
そうなの!? 何、俺が一生懸命働いている間にどんな噂になってるの!? まだ二時間も経ってないはずだぞ!
『メイドの国からやってきたメイド神の使いらしいぜ』
メイド神って何?
しかし、問いただしたいがそうも言っていられない。早く元の姿に戻らないと。
そう思って、俺は着替えのある空き教室を目指して駆け出す。まっすぐ向かえばバレてしまう気がするので、人気のないところを通って逃げよう!
『あっ! マコトちゃんが逃げるぞ!』
「お、追いかけてこないでくださいませ~、おほほ~……」
『そんなこと言わないで! ……マコトちゃん足早いな!』
廊下の人混みの中を縫って駆けだすマコトちゃん(俺)と、それを追いかける群衆。しかし、日々の騒動で鍛えられたマコトちゃん(俺)の脚力と逃走力にかなうものなどない。嫉妬に狂った連中ならともかく、追いかけるのに慣れていない一般生徒が相手だったから、メイド姿と言えどなんとか逃げ切ることができた。
「疲れた……そんなにこの姿ってかわいいのか……」
よほど秀吉の腕が良かったのだろうと思いながら、周囲に誰もいないことを確認して空き教室の中に入る。Aクラスが確保しているというこの空き教室は、愛子達曰く日中は誰も来る用事がないとのことで、俺が着替えるのにはうってつけだった。
締め切った空き教室は蒸し暑く、中に入るだけで息苦しくなる。せめて少しでも涼しくなろうと、もう不要になったウィッグを外した。
掃除用具ロッカーの中から、紙袋に詰めて隠しておいた着替えと化粧道具を取り出す。服に付いても困るから、まずはメイクを落としてしまうか。えっと、確かメイクを落とすにはクレンジングシート……これかな?
紙袋からそれらしきシートを取り出して顔をぬぐう。おお、みるみる落ちていく。すごいなこれ……。
ハンカチで髪の毛に染みた汗をぬぐいながら、ロッカーの中にある鏡をのぞき込む。その向こうには、ようやく元に戻った俺の顔が映っていた。
「まあ、まだメイド服だけど……早く着替えちゃわないと」
と、俺が白いエプロンのリボンに手をかけた、その時だった。
――ガラガラ……
ガラガラ?
何か、ドアの開くような音が聞こえたような気がして、首だけを動かしてその音の方を見た。
「……谷村さん?」
そこには、きょとんとした顔の橋本が立っていた。
「……橋本? どうしてここに?」
「えーーーーっと…………」
目をきょろきょろと動かして俺の恰好を確認した橋本は、何かに気づいたようにうなずいた。
「いやあ、実は学校中に仕掛けた盗聴機(パシャ!)……いや、新聞のネタをここらへんでまとめておこうと思いまして、新聞部の部室はここからだと遠かったので(パシャ!)適当に人目に付かないところがないかな~と思ってましたところ、ここの空き教室の鍵が開いてることに(パシャ!)気づきまして、Aクラス担当の空き教室だったような気がしたんですけど開いてるなら(パシャ!)ちょっと(パシャ!)使わせて(パシャ!)もらおうかなと思ったんですけど、いやあ、マコトちゃ……谷村さんが使ってたんですね!(パシャ!)(パシャ!) 僕はおとなしく新聞部の部室まで行く事にします! お邪魔しました!」
――ガラガラぴしゃん!
橋本は一息でそう言い終えると、構えたカメラを鞄にしまってドアを閉めて廊下に消えてしまった。
「…………」
今目の前で起きたことを反芻する。そして、携帯を取り出して、橋本に電話を掛けた。
『はいもしもし』
「橋本ぉ! お前今何しやがった!」
『いやあ何も。何でもないですって』
「お前俺の写真散々撮ってただろ! 新聞の記事にする気だな!」
橋本は一度『マコトちゃん』と会っている。俺の今の服装を見れば、その正体が俺だということも一発で気づくだろう。
『マコトちゃん』の噂は今や学園中に広まっているといってもいい。校内新聞の恰好のネタだ!
「あんなものが世に流れたら俺は終わりだ!」
『ああ、まあそりゃそうですよね』
「分かってんなら俺の事を記事にするのはやめろ! そりゃ、お前の校内新聞のことはすごいと思ってるけど、それとこれとは話が別だ! お前、音楽をあだ名で奏でる気かよ!」
『『恩を
どっちでもいい!
『いやまあ確かに正直なところ、『清涼祭に突如あらわれた正体不明のメイド、マコトちゃんの真相に迫る!』という記事は今日中に仕上げて号外として配ろうとは思ってたんですけど』
「やめろ!」
『分かってますって、召喚大会の件は本当に感謝してるんですから。『マコトちゃん』について触れないのは不自然すぎるのでちょっとは記事にしますけど、正体がバレるようにはしませんよ』
「嘘つけ! じゃなきゃあんなに写真撮る必要ないだろ!」
『いやあ、あれは趣味というか……つい撮りたくなっちゃって……』
「はあ!?」
言われて思い返せば、確かにさっき橋本が構えていたカメラはかつて橋本が『趣味用』と告げていた方だった。
「……いや、信用できるか! じゃあその趣味って何なんだよ!」
『ええと、それはちょっと……』
「なんで口ごもるんだよ!」
『……あ! 先生が来ちゃったので切りますね!』
「あっ! おい!」
ブツッ! と通話が切れる。あいつ、明らかにごまかしやがった。
なんだかんだで、アイツも俺に恩は感じてるっぽいから俺の正体をばらすとは思えないが……しかし、このまま野放しというのも恐ろしい。直接話をしておかないと。
そう思って、俺は携帯をポケットにしまって慌ててメイド服を脱ぐ。元のただの男子学生スタイルになって、メイド服を急いでたたんで紙袋に突っ込んだ。そしてダッシュで空き教室を飛び出して、Aクラス教室へと舞い戻った。
「あ、谷村君! さっきはどうもね~」
「愛子! これ返す! じゃあな!」
ちょうど入り口付近に愛子が来ていたので、例の紙袋を突き付ける。そして反転して教室を飛び出そうとして愛子に呼び止められた。
「ちょ、ちょっと! そんなに急がなくてもいいじゃん」
「いや! 俺には橋本をとっ捕まえるという使命があるんだ!」
「へ?」
気の抜けた声を出した愛子を背に、今度こそ俺は教室を飛び出した。
その後、十分ほど校内を駆けずり回ったが、結局橋本を見つけることはできなかった。教室の手伝いをすると言った手前、これ以上無駄足を踏んでいる時間はない。泣く泣く俺は橋本の捕獲を諦め、我らがFクラス教室……お化け喫茶へと戻ることにした。
「……思い返してみればアイツは新聞部の部室に戻ると言ってた……クソっ……場所を知らないから思いつかなかった……見つけられなかったならアイツは本当に部室に向かって、そのまま号外作りをしているのか……? アイツの言葉を信じるならあの事までは記事にしないはず……いや、万一あれが表に出たらヤバイな……やっぱり、俺の事を秘密にしてくれるように直接言質を取りたい……」
ここは、あれからしばらくの時間が過ぎたFクラスの教室。俺は橋本の件を気にしながらも、真面目にウェイターとして働いていた。
「ねえ、美波。さっきから谷村君の様子おかしくない?」
「そうね。何かぶつぶつうるさいし」
「働きすぎておかしくなっちゃったのかなあ……」
「聞こえてるぞお前ら」
失礼な奴らだ。
「おい、明久。そろそろ行くぞ」
「え? あ、もう決勝戦の時間か」
そんな吉井に坂本が声をかける。いよいよ、運命の時が来た。決勝戦へ向かう彼らに、姫路さんや秀吉たちが声をかけていく。
そして教室を出る直前、最後に俺が二人に声をかけた。
「……勝ってこいよ」
「ああ、言われるまでもない」
「任せてよ!」
二人とも、決意に満ちた目だ。二人が勝てるかどうか、俺には分からない。あとはあいつら次第だ。
「後で、みんなで応援に行きませんか」
「いいわね。決勝戦の間はお客さんも少し減るでしょうし」
会場に向かう吉井達の背中を見送っていると、姫路さん達のそんな声が聞こえた。確かにそうだな。教室に残っている必要が無いなら、せっかくなら俺も決勝戦の顛末を見届けたい。
「なあ須川。俺も抜けても大丈夫か?」
「ん? ああ、まあいいぞ。決勝戦が終わったら戻ってくるんだろ?」
「ああ。そのつもりだ」
「そんならいい。姫路さん達がいないなら余計に客足も減るだろうしな」
須川が認めてくれたので、助かると返事をしてウェイターの制服である白装束を脱いだ。
「そうだ。決勝の前に橋本にもう一度電話をして、例の件の確認を……」
と、ポケットに突っ込んだその手は、何を掴むこともなく空ぶった。
「へ?」
ポケットの中に、携帯がない。
もう反対のポケット。ない。
尻ポケット。ない。
胸ポケット、もちろんない。
どこからも、俺の携帯が見つからなかった。
「は? ウソだろ、なくした?」
そうとしか考えられない。最後に使ったのはいつだ? 確か……Fクラスに戻ってくる前に橋本と電話をして……その後、携帯はポケットに……。
「あ」
ポケット。
メイド服の、ポケット!
「やっばい!」
「あ? どうした、急に叫んで」
「とんでもない急用ができた!」
白装束を投げ捨てて、Fクラスを飛び出した。やばいやばいやばい! 愛子に返したメイド服の中に俺の携帯電話がある! それが見つかったら間違いなく面倒なことになる! 誰が見つけるか次第で『マコトちゃん』の正体がバレる可能性すらある!
校舎の中央通路を挟んだ反対側にあるAクラスのメイド喫茶。相変わらず行列ができているが、その先頭に割って入って中に飛び込んだ。
「愛子! 話がある!」
いきなり教室に入ってきた俺に注目があつまる。が、その中に愛子の顔はない。
「えっと……」
「愛子は!? 久保でもいいです!」
「二人とも召喚大会の決勝を見に行ったけど……」
名も知らぬ女子が困惑しながら教えてくれる。召喚大会か!
「何の用? 戻ってきたら伝えておくけど……」
「いや、大丈夫です! ありがとうございます!」
『返したメイド服の中に俺の携帯電話が入ってるから返してくれ』なんて伝言を伝えられるわけがない。お礼の言葉を彼女に告げて、翻って廊下に飛び出る。割り込まれた行列の人々ににらまれたが緊急事態だ。許してほしい。
何はともあれ、まずは携帯電話を取り返さないと。……いや、どうせ橋本も決勝戦を見に行ってるに決まってる。召喚大会の会場だ! そこに行けば全て解決する!
「待ってろ、俺の携帯電話!」
そう叫んで、中央階段を駆け下り……くそっ、人が多い! 走り抜けられない! そりゃそうだ、皆決勝戦を見に行こうとしてるんだから!
「そうだ、旧校舎の階段!」
そっちなら少なくとも来場客はいない。そっちを駆け下りる方が圧倒的に早い!
「急げ急げ急げ……!」
タッタッタと階段を一段飛ばしで駆け下りる。決勝戦が始まれば人探しも話もしづらくなる。吉井達もさっき教室を出たばかりだ。決勝が始まるにはもう少しかかるはず!
跳躍して、ダン、と一階に両足で着地する。生徒玄関を目指して旋回する――
その瞬間、視界に何かがうつる。
回した体を、首だけ戻して二度見する。
固く閉じられていたはずの図書室の扉。それが、わずかにずれて図書室の中へ続く隙間を作っていた。
「え?」
何が起きているのか、理解が遅れた。それは、俺がFクラスでなくてもきっと同じだっただろう。
混乱と動悸で高鳴る心臓を押さえつける。図書室の扉は、その隙間から図書室の床をのぞかせていた。集中的につけられた傷跡を見れば、カギを壊してこじ開けられたのは明白だった。
『まもなく、召喚大会の決勝戦が始まります。皆様、ぜひお集まりください』
窓の向こうの遠くから、アナウンサーの軽快な声が聞こえてくる。
「どうしてカギが……まさか、昨日の……」
そうつぶやきながら、扉に手をかけて静まり返った図書室の中を覗き込む。
その床に、見覚えのある水色のヘアピンが落ちていた。
一応確認しましたが、見落としてただけでマコトがAクラスにいたらすみません。