「今日はここまでかな。お疲れ様」
「それじゃあもう一本だけいいかしら?クールダウンも兼ねて低いペースで走るだけだから問題無いはずよ」
「了解、無理しちゃダメだからね」
ゆっくり走りだすアイちゃんを見送りながらナナと後片づけをする。これを毎日やると思うと中々重労働なんだなと痛感する。しかもこれをチームで回している沖野さんと東条さん、他チームの先輩方はもっと大変なんだろうな。
「お疲れ様です。やっぱ見てもらうんは違いますねぇ」
「そう?そう言ってもらえると嬉しいなぁ。けど何というか、このまま続けてもオルフェさんに認めてもらうのは難しいかも。ララちゃんさえ良ければもう少し一緒に探させて欲しいな」
「嬉しいお誘いありがとうございます。ほなもう少し、お付き合いお願いします」
横を見ると何やら担当契約を結んでしまいそうな親友がいた。成程、あんな感じに自然に引き延ばせばいいのか。…出来ないよ?
「終わったわ!早速ミーティングしましょ!」
「アイちゃん、気が早い。シャワー浴びてトレーナー室行ってからにしようよ」
ぐいぐいとシャワー室に押しやりトレーニングの所感を書き連ねていく。小さな、3歩歩いただけでも忘れてしまいそうな所感でもこの先の事を考えると大事になってくると思う。あれ、まずかったかな。びっちょびちょかも知れないけどアイちゃん引きずり出してミーティング始めようかな。
「トレちゃん、トレーナー室行ってミーティングの準備始めるよ。思い付きでアイちゃん引きずり出そうなんて思わない事」
「はーい」
思考の一切を読まれていたらしく襟首を掴まれてズルズルと引きずられながらトレーナー室へ向かった。
「はい、さっぱりしたところでミーティング始めようか。取り敢えず私からいいかな」
「そうね、何か改善点はあったかしら」
「はっきり言って…特にない」
ノートを見ながら第一印象から話していく。アイちゃんの走りには致命的なクセや重大なミスなどは見られない。
「特にないって…何かはあるはずよ?」
「あるっちゃあるんだけどね。細かい事まで突っ込んでいけば言いたいことはあるってだけで…」
「なら教えて欲しいわ。そんなもやもやを抱えたまま走っていてもいい結果は生まれないもの」
それはもっともだ。けれど、担当でもないのにそこまで踏み込んでしまってもいいものなのか。
「…そこまで行ったら、長くなるよ?水をこぼさなくなるようになるまでは見ているつもりだったけど、フォームの改善とかもやり始めたら全部できるまで終われなくなる。中途半端は嫌だからさ。それでもいい?」
「ええ、そのつもりよ。そうでないと、勝ち続ける事なんてできない。…そうでしょ?」
「うん、分かった。それじゃ、少しだけ小言に付き合ってね」
「…これ位かな。いろいろ言ったけどフォームがきれいになるだけでスタミナを無駄にせずに走れるようになるはずだから、紙コップと並行してやっていった方が良いかな。まぁ、フォームの重要性はアイちゃんはよく分かってると思うけど」
「先は長そうね。けれどものにしてみせるわ。でもトレノさん、この内容じゃ今までのフォームとの差はあまりないように見えるけれど」
「改善っていうのは地味な作業だよ。けれど効果は一番でかい。取り敢えず一カ月、頑張ってみよう」
「望むところよ!…それで、わたしからなのだけど。トレーニングの時間、もう少し増やしてくれないかしら。今のペースじゃ水をこぼさないようになるのが何時になるか分からないもの」
意外な提案をされた。担当でもない私にトレーニングを任せてくれることも意外だけど、更に増やしてほしいと言ってくれた。アイちゃんからの期待もあってプレッシャーが重くのしかかるけど、まぁ、何とかしよう。
「了解、時間合わせられるように空けておくよ。メニューもそれ前提で考えておくから心配しないでね」
「ありがとう、助かるわ。それともう一つお願いして良いかしら。貴方の早朝トレーニング、わたしも一緒にやりたいのだけどいいかしら」
「いいけど、結構早いよ?それに今はあまり大したことはしてないからあまり面白くないよ?」
「構わないわ。普段のトレーニングにプラスアルファ、新しい事を取り入れてみたいと思っていたの」
「分かった。アイちゃんは美浦だっけ?寮長のドゥラメンテさんには話を通しておくから抜け出しても問題無いはずだよ」
ドゥラメンテさんにLANEを打ちながら集合時間を考える。…少し遅くしようかな。いや、多分遅くしたらアイちゃん色々言うだろうなぁ。
「それじゃアイちゃん、2時半正門前集合ね」
「…え?」
こっそりと、こっそりと…
時刻は2時20分。今の時間に行けば集合時間には間に合う。けれどブラストが起きないように慎重に行かないと。
「むぅ~~アイぃ、どこに行くんだぁ?」
「ごめんなさい、起こすつもりはなかったの。少し早い早朝トレーニングに行くだけよ」
「ブーは眠いからお散歩はまた今度だぞぉ…zzzzz…」
「フフ、おやすみなさいブラスト」
再び眠ったブラストの寝顔を確認してから静かに部屋を出る。下駄箱でトレーニングシューズに履き替え、正門前に行くとトレノさんがストレッチをしながら待っていた。
「こんばんわ…いやおはようかな?どっちでもいいか。よく起きれたね」
「言い出した初日に遅刻なんかしないわよ。早速始めましょう。何からやるのかしら?」
「とりあえず、私のいつも通りで行こうかな。2キロをハイペース、3キロスローペース、3キロハイペース。最初は私に合わせてくれればいいと思う。何回か走って道を覚えたら抜いてってくれていいからね」
「了解よ。いつでも始めて頂戴!」
「それじゃ行くよ!」
トレノさんが走り始めたと同時に私も走り出す。町の中を右へ左へと曲がっていくが曲がるたびにトレノさんとの距離が少しだけ離れていく。離されないように食らいついて行くけれど、トレノさんは容赦なく曲がっていく。
「焦らないで、離れていったとしてもペースを乱さないように。じゃないと持たないよ」
その言葉を受け、上げかけたペースを戻す。今のペースは全力の7割といった所。直線区間で付いて行くのには苦労しない。けれど角を曲がると少しだけ、だけれど確実に離される。これがトレノさんとわたしの差なのだろう。
「はい、2キロ終わり。ペース落としてくよ」
徐々にスピードを落としていきジョギング程度の速さになった所でトレノさんが質問する。
「アイちゃんってさ、何で走るの?」
「決まっているでしょ。勝ちたいからよ!」
「わぁおシンプル。その心は?」
「わたしは勝つことが好きなの。勝つともっと勝ちたいって気持ちが強くなっていくの。だから勝つの!」
「すっごい。昔の私に聞かせてあげたいなぁ」
トレノさんが目を瞑り昔を懐かしむように斜め上を向く。その顔はスローペースながら走っているとは思えない穏やかなものだった
「けれど、貴方も同じじゃないかしら。そうじゃなければ、このトレーニングを続けていないはずでしょ?」
「それが違うんだよねぇ。これだって昔からの日課をそのままトレーニングにしてるだけだし」
「日課?何をやっていたの?」
「新聞配達。地元にいる時にやってたんだ。今からだと…8…9年前くらいかな」
9年前…やっぱり積み重なたものが今のトレノさんを作っているのね。…9年前のトレノさんって多分小学生よね。
「問題無かったのかしら」
「大ありだよ?だって法律ガン無視だもん。家が貧乏だったから私も何も言わなかったし」
「その経験もあって、今日のトレノさんがあるのね」
「…そうだね、走りに関してはね。けれど精神面はそうじゃないんだよ」
頭にはてなを浮かべていると、トレノさんが続ける。
「めんどくさかったんだ」
「え?」
突然出てきた言葉に思考が止まる。めんどくさかった?G1を勝ち抜いてきた豪傑が、めんどくさかった?
「走るのが嫌で嫌でしょうがなかった。お父さんには叩き起こされるし、雨の日も雪の日も休刊が無い限り毎日走らされて…ナナに『レースしてみない』って言われた時はヤダって即答したっけ」
「そんなトレノさんがどうやって」
そんな速さをと言おうとしたところでトレノさんが話しを被せてくる。
「ごめん、続きは後で。3キロハイペースで行くよ」
ペースを上げ始めて8割付近で維持される。そこから20秒ほど経った時に気付いた。ペースが落ちていない。このペースのまま約2.5キロを走ると思うと恐ろしくなる。
無尽蔵のスタミナと言われたトレノさんの片鱗を今味わっている。…面白いじゃない。スタミナ勝負だってわたしは逃げない。絶対に貴方よりも長く走ってみせるわ!
その後も何とか食らいついて3キロを走り終える。休憩地点がちょうど自動販売機の目の前でトレノさんが水を買って渡してくれた。
「お疲れ様。どうだった?何か収穫はあったかな?」
「そうね。ペースを維持してさえいれば存外長く走れるのね。途中のジョギングも、限られたスタミナをどう使っていくのか、配分をどうするのかを考えないとすぐにばててしまいそうね」
「初めてで付いて来られたんだから慣れてくればもう少しペース上げても問題ないかも知れないね。…そういえば、さっきの続きだけど、何か聞こうとしてたけど、何かな?」
さっきの続き…走るのがめんどくさかったと言ってたことね。
「トレノさんはどうやってその速さを身に付けたのかしら。あの技術がトレセンに入ってから身に付けたとも思えないの」
「単純だよ。早く帰りたかっただけ。だって眠かったんだもん。雨の時は濡れて気持ち悪いし。…けど、トレセンに入ってからは違った。上手くは言えないけど、誰にも負けたくなかったんだと思う」
「誰にも?」
「そ。多分最初からそうだったのかも知れないけど気付いたのはトレセンに来てからなんだ。だからアイちゃんやララちゃん、グランちゃんや他の皆が凄いなぁって」
話しを聞いてわたしは吹き出してしまった。トレノさんは目を少し見開きわたしを見る。
「わたしと貴方は、やっぱり同じよ。負けず嫌いで、勝つことが好きで。…だからこそよ。トレノさん、わたしのトレーナーになってくれない?」
「ブフォオ!!?」
トレノさんが呑んた水を盛大に吹き出した。咳込みながら口元を拭き、ある程度落ち着いた所で話し始める。
「いいの?私新人だし実績も何にもないよ。もっとちゃんと考えた方が」
「貴方がいいの。貴方ならわたしのレース人生を預けられる。だって、同じ負けず嫌いじゃない」
その言葉にトレノさんが観念したようにため息をつく。そして立ち上がり、わたしの前に手を差し出す。
「それじゃ、足りない所ばっかりで頼りないトレーナーだけどこれからよろしくね」
「ええ、今日のトレーニングからビシバシ来て頂戴!」
「よし、休憩もこれ位にしてそろそろ帰ろうか。帰りは1キロハイ、3キロスロー、4キロハイでいこうか」
「4キロ?」
…危なかった。アイちゃんがトレーナーになってほしいって言ってくれた時に吹き出してしまった。別にそれだけならよかったんだけど…多分、“混じってた”。アイちゃんは気付いて無さそうだからよかったけど…。
これからもアイちゃんの行動に驚かされることが増えるかもしれない。気を付けないと。